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最終章 鼎、倒れる時

第十九話 二六四年 皇帝の決断

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 危険、と言う事は無かったが、事を伝えた成都の混乱ぶりは陳寿の予想を遥かに超えていた。

 陳寿が成都へ到着するほんの数日前に、剣閣から姜維よりの必勝の策を持って董厥が戻っていたのである。

 すぐにでも剣閣へ援軍をと董厥は望んでいたが、鄧艾が隠平道から奇襲をかけて来た為に諸葛瞻が成都の守備軍を率いて出ていたので、その帰りを待っていた。

 綿竹から届く報告は勝利の報告ばかりで、初日には鄧艾軍の武将である師纂からの非礼極まる降伏勧告を撥ね退けただけでなく、その一軍を散々に打ち破ったと伝えられ、さらに翌日には鄧艾軍本隊との激突でも優勢であり、鄧艾さえも下がらせるほどであったと報告が入った。

 この時には、蜀の誰もが諸葛瞻の勝利を疑わなかった。

 そして、その次に来た者が陳寿である。

 鄧艾を打ち破ったと言う報告だと信じて疑わなかった分、事実を受け入れるのに時間がかかった。

 言うまでもなく、最初は誤報を疑われた。

 陳寿は下級とは言え正式な蜀の官吏であり、その人物が伝令としてやって来る事は珍しくはあってもありえないと言う事は無い。

 まして、陳寿は黄皓に意見した事もあり、諸葛瞻の下についていた事もある人物と言う事もあって、勝利の報告を持ってきた者として迎え入れられたがその口から出たのは諸葛瞻率いる蜀軍は全滅したと言う、真逆の報告。

 それを裏付ける様に、陳寿と数人の同行者が持って来た手土産である諸葛瞻や諸葛尚と言った蜀軍の武将達の首を見せられた時、誤報の疑いは勝利の希望と共に霧散した。

 そこからの混乱は、陳寿の目にも呆れるばかりであった。

 文字通り危急存亡の時と言うのに、飛び交う言葉は誰の責任かと言う責任逃れの言葉で、これからどうするべきかを考える者はいない有様である。

「陳寿よ、鄧艾将軍は戦を求めているのか?」

 そんな中、驚く程いつも通りの劉禅が陳寿に尋ねる。

「いえ、鄧艾将軍は無益な流血は望んでおりません。むしろ今すぐにでも戦をやめるべきであると考えておられます」

「左様か。であれば、朕は降伏しようと思う」

 劉禅のあまりにも軽い答えに、臣下達は一瞬言葉を失う。

「陛下! それはなりません!」

 真っ先に反対したのは、劉禅の五男に当たる劉諶りゅうじんだった。

 まだ若く実戦経験も無いが、血気盛んで勇壮な人物として周囲からも期待されている人物である。

「先帝より、いえ、漢王朝よりの正統であるこの蜀漢、決して魏などに降ってはなりません!」

「んー、そう言われても戦う兵がいないからなー」

 劉禅は小首を傾げて呟く。

 下級官吏の陳寿は皇族について詳しく無いのだが、まるで少年の様な劉禅は五男の劉諶と親子とは思えないほどに幼い。

 並ぶと兄弟の様に見えるだけでなく、下手すれば劉諶の方が兄に見えるくらいだった。

「成都に住む者達に槍を持たせ、女達に弓を引かせれば十分に戦えます! 剣閣には姜維大将軍の精鋭も健在! まだ戦えます!」

「お待ち下さい。皇子のおっしゃる事ももっともなれど、鄧艾はこの都を守るはずだった防衛軍七万を全滅させているのですぞ。この都を血と炎に染めるおつもりか? 誠に口惜しいとは言え、陛下のおっしゃる通り降伏しかありますまい」

 劉諶を諫め、劉禅に賛成したのは譙周だった。

「黙れ! 剣閣で戦う大将軍を見殺しにするか! 守る兵がいないと言うのであれば、剣閣を捨てこの成都を守る様に大将軍に伝令を出せ! 成都を守れば魏軍は大軍と言えど兵糧が持つまい! まだ我々は敗れてはいない!」

「……いえ、ここは陛下のおっしゃる通りに致しましょう」

 黄皓も劉禅に賛成する。

「宦官如きが口を挟むな! 貴様、何様のつもりだ!」

 事実上の丞相とも言うべき権力を持つ黄皓に対し、若き劉諶は一歩も引かずに言い放つ。

 黄皓は顔を引きつらせながらも、言葉を出す事が出来なかった。

「かつて秦が滅んだのも、貴様の如き宦官が出過ぎた事にある。この蜀を秦の二の舞にする事が目的か、黄皓!」

 劉諶は叩きつける様に黄皓に言葉をぶつける。

 その覇気は、豪傑と呼ぶに相応しいものだった。

「……皇子、鄧艾将軍の率いる兵は、蜀の民です。確かに姜維大将軍の精鋭が都に戻れば、まだ戦う事は出来ましょう。ですが、都を攻める兵は蜀の民。四面楚歌ならぬ四面蜀歌を味わう事になります。陛下の判断は賢明です」

 陳寿は怒りの収まらない劉諶に、諭す様に言う。

「何を馬鹿な! 蜀の民が蜀の都を包囲すると言うのか!」

「私は諸葛瞻将軍と戦う蜀の民をこの目で見ております。建国の礎であり、五虎大将軍張飛将軍の孫である張遵将軍を切り刻むところも、魏の将軍である鄧艾将軍が止めるまで蜀の兵を殺していた蜀の民を、確かにこの目で見てまいりました。この成都で同じ光景を見るのは、あまりにも偲びない」

 この場でもっとも身分の低い陳寿だが、この戦いの唯一の目撃者である。

 黄皓や譙周の言葉と違い、実際に現実を目の当たりにしたと言う重みがあった。

 ただ言葉のみであれば劉諶はまた言葉を叩きつけたかもしれないが、陳寿は実際に諸葛瞻の首を持って来ただけでなく、綿竹の戦いがいかにして行われて勝敗がついたのかを最初から最後まで見て来ていた。

 それこそ、先に勝利の報告を持って来た伝令以上に詳細な説明があり、あの諸葛亮の息子や孫と言った肩書きを持つ者達ですら制御出来なかったのが、今の鄧艾が率いる蜀の民である。

 いざ成都攻めが始まった場合、皇帝である劉禅ですら説得出来ない恐れは十分過ぎるほどに有り得た。

「皇子、事ここに至ってはやむを得ないのです。誰か、皇子を下がらせなさい」

 黄皓に言われ、劉諶は強引に退出させられる。

「父上! 先帝にどの様に顔向けするつもりなのですか!」

 退出させられる直前に、劉諶は劉禅に向かって叫ぶ。

「先帝は分かって下さる。諸葛丞相も。お二方は、朕以上に朕の事を分かっておるよ」

 劉禅は平然とした態度のままに答えると、劉諶は肩を落として去っていく。

 この後、劉諶は先帝の宗廟で自らの首を刎ねて自決。

 その妻子も劉諶の邸宅にて遺体で発見された。

 正史では劉諶の手によって殺害されたとされ、演義では劉諶と共に自決したとされているが、蜀の行く末を絶望しての事であるのは疑いようがない事だった。

「では、鄧艾将軍に降伏の意を伝えてもらおうか」





 陳寿から降伏の意を伝えられた鄧艾は、蜀の飢民である兵を率いて成都に向かう。

「そうか。陛下は受け入れてくれましたか」

 鄧艾としては安堵していたが、それでも僅かな不安は消えずに残っていた。

 皇帝が降ると言うのは、すなわち国が滅ぶと言う大事である。

 土壇場で思いが覆る事も有り得る。

 まして蜀にはまだ戦う事が出来る戦力があるのだ。

 剣閣に篭る姜維の一軍。

 あの一軍こそが蜀の最精鋭であり、もしあの一軍が剣閣を捨てて急襲して来た場合、この急造の鄧艾軍ではひとたまりも無い。

 鄧艾軍を打ち破った後に成都に入り、鍾会の軍を迎え撃つ。

 成功する確率は決して高く無いが、それでもこの現状を打ち破る一手である事に違いない。

 鄧艾はそれを恐れたが、結果としてそれは杞憂に終わった。

 鄧艾軍が成都に到着した時には城の門は開かれ、迎え入れる準備は整っていたのである。

「……降伏は間違い無いらしいですね」

 同じように警戒していた杜預も、この状況を見てようやく息をつく。

 門の向こうには自らを縛り上げた劉禅が、自身の為の柩を用意して成都に残っていた群臣と共に鄧艾を待っていた。

 これは降伏の作法であり、鄧艾は頷くと馬を降りる。

「降伏の意、確かにお受けいたします」

 鄧艾はそう言うと、剣を抜いて劉禅に近付いて行く。

 陳寿や丘本は慌ててそれを止めようとしたが、杜預が二人を押さえる。

 誰もが緊張して様子を見守る中、鄧艾は劉禅の前に立つ。

「宦官の黄皓と言うのはどこに?」

 鄧艾の質問に、周囲の目が一人の宦官に集まる。

「私が黄皓……」

 言い終わる前に、鄧艾の剣が一閃して黄皓の首を刎ねる。

「貴様の如きと交わす言葉などない」

 その死体には目もくれず、鄧艾は剣に付いた血を拭うと丁寧に細心の注意を払って、劉禅を縛る縄を切って戒めを解く。

「陛下、ご英断感謝いたします。この鄧艾、首都である成都を血に染める事は致さず、一切の略奪陵辱を行わない事を約束致します。また、配下の方々に対しても罪科に問う様な事はせず、今後も国の為に役職に就いて頂く様に上奏致します」

 鄧艾は膝をついて、劉禅に約束する。

 こうして略式ながら降伏の儀を行った後、鄧艾はすぐに行動に移った。

 まずは劉禅の帝位を廃位した後に王位につけ、姜維に宛てて戦が終結した事を知らせる書状を用意させ、準備が出来次第董厥に届けてもらう様に指示する。

 蜀の臣下達には今まで通りに近い役職を与え、成都に備蓄されている食料などで余剰分が無いかを調べさせ、余剰があった場合にはすぐに蜀の各地へ分配する様に指示を出した。

 さらに切り捨てた黄皓の財産を没収し、それもまた各地へ分配、戦死した兵や武将の家族などへ配る。

 鄧艾が何より重要視したのは、速さだった。

 蜀の臣下が冷静さを取り戻す前に、こちらから全てを整えてしまう。

「将軍、ちょっと独断が過ぎるのでは?」

 しばらくは寝る間も無いほどに多忙だったが、一息つけるようになるとさすがに心配になって、杜預が諌める。

「今は何より早さです。確かに独断が過ぎるかもしれませんが、お伺いを立てながらでは時間がかかり過ぎますし、今の混乱の中なら蜀では無く魏の官位を与えられた事に疑問を持てないでしょう。冷静さを取り戻す前に全てを整えなければなりません。国が滅んだという大事を実感させる間もなく、いつもの日常に戻すのです」

 鄧艾はそう言うと、丘本に蜀の飢民達を解散させる様に指示を出す。

「さて、それじゃ俺も将軍のお手伝いですね。本領発揮ですよ」

 あくまでも自称文官を貫く杜預だったが、鄧艾は首を振る。

「杜預には別にやってもらいたい事があります」

「と、言うと?」

「対呉戦線の武将への伝令です。姜維将軍には伝令を出した後に鍾会将軍と共に成都へ帰還する事になるでしょうが、呉の戦線は決して縮小してはいないのです。もしその武将が姜維と結託して都を攻める様な事になれば、その隙を突いて呉が攻め込んでくるでしょう。それは防がねばなりません」

「俺で大丈夫ですかね?」

 杜預は首を傾げる。

「これは蜀の旧臣だけには任せられませんので。貴方が適任だと思います」

「分かりました。忠、ちょっと来い」

 杜預はいつものように鄧忠を呼ぶが、今回はそれを鄧艾に止められる。

「あ、忠には隠平道の居残り組へ伝令をお願いしようと思っています。あと、師纂には鍾会将軍のところに出てもらおうと思っていますので、誰か蜀臣と一緒にお願いします」

「そうですね、じゃ、陳寿ですかね? 道案内込みで」

 杜預が陳寿を呼ぶ。

「対呉戦線の武将は羅憲らけん将軍と言って、私を取り立てて下さった恩人です。きっと分かって下さいますよ」

 こうして杜預と陳寿は成都を離れる事になった。





 この時の事を、杜預は一生後悔する事になったのである。

 蜀と言う国を滅ぼすと言う想像を絶する大功のせいで、それが呼ぶ悲劇は予想出来たはずだったのだが、この時の杜預はその事を微塵も想像していなかった。
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