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40話 夜海と月

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 潮風が銀二郎の先程打たれた頬を掠めた、腫れた頬が寒さで痛む。街灯の少ない辺りはすっかりと暗くなり、星空が美しく広がっていた。眩しすぎる都会では、星がこんなにも輝いていることに気が付けないだろう。大きな月の光が浜辺や海に反射している。

「美しいだろう、冬の海も。」

 隣にいる男は、満足げに目を細めた。
 確かに美しい、けれどこの景色に銀二郎の心は動かされなかった。
 冬の海の凍えそうな寒さと同じくらい、心が冷えている。
 波の音がうるさくすら聞こえた。

「私のお姫様には、お気に召さなかったかな。」

 冗談まじりに由鶴がそう言っても、銀二郎の反応はつまらなそうなものだった。ぼんやりと所在なさげに月を眺めるだけで、どこか憂鬱な表情。けれど、それがどことなく自分の情欲をそそるのだから、やはりこの目に狂いはなかったのだと由鶴は思う。

 自分から逃げ出すことなんて簡単なのに、彼はそれに気が付かないまま囚われる。
 支配欲が満たされていく。


 銀二郎は充電がなくなり起動しなくなったスマホを取り出した。ぶら下がるニつの飾りを月にかざすように眺める。ゆらゆらと揺れる黒兎は夜の中に消え入りそうで、銀二郎は慌てて握りしめた。

「なんだ、誰かに電話でも掛けるつもり?」

「︙︙いえ、写真撮ろうと思って。でも、充電がなかったです。」

 最近、なんだか嘘が上手くなったようなきがする。
 呼吸のように自然に嘘を吐けてしまう。
 自分は、こんな風に器用じゃなかったはずなのに。

 一度、心に蓋をしてしまえば、あとは簡単。

 簡単な、はず︙︙。

 そう思いながらも、銀二郎は蓮から貰った黒兎を手放せずにいる。無意識に何度も触れては、その存在を確かめた。もう、持っていても意味なんて無いのに。

「随分と大事にしているんだね。」

「か、返してっ!」

 ひょいと、スマホを取り上げられ思わず声を張った。自分の反応に本当はまだ未練タラタラであることを痛感させられる。

 やっぱり、想いまで蓋をするなんてのは無理みたいだ。

 由鶴よりも自分のほうが、遥かに体格が良い。本気で取り返そうと思えば、取り返せる︙。銀二郎は由鶴の肩を捕らえるように掴んだ。すると、由鶴は口端を持ち上げ、ニヤリと笑みを浮かべた。

 ブチッ︙︙

「あっ︙。」

 チェーンの切れる嫌な音が聞こえ、銀二郎は青ざめる。驚いて力が一瞬緩んだすきに由鶴は銀二郎の掴む手から逃れ、波の近くへ行ってしまう。そして、外した黒兎を銀二郎に見せつけると︙︙、海に投げた。


「他の男のことを考えるな、君は私のなのだから。」

 手を伸ばしても遅かった、小さな黒兎は夜の暗い波に攫われて、もう見えない。走りながら海の中に入ろうとする銀二郎の腕を由鶴が引き止めた。

 じわじわ目頭が熱くなり、ボタボタ涙が溢れ出す。

「なんで、なんでこんなことするんですか︙。」

 
 大切なものなのに、人生で初めてできた宝物なのに。
 もう、自分にはあれしか残っていない。
 残っていなかったのに。

 
 銀二郎は由鶴の手を振り払って、じゃばじゃばと音を立てながら波の中へ入っていく。冬の海は凍えるほど冷たい、けれどそんなことを気にしている余裕などなかった。海水に手を入れて探る、あまりの冷たさに焼けるような痛みが指先から腕を覆った。涙が溢れて海と混ざる、足先の感覚が次第に鈍くなった。広い海の中、ましてや月明かりしか無い夜では小さな飾りを見つけることなど不可能に近い。
 
 それでも必死に探している銀二郎を由鶴が不意に抱きしめた。由鶴の高そうな革靴が海水に浸かっている。凍える身体に人の温かさが必然的に与えられる。

「こんな冷たい海にずっといたら、危ないよ。泣かせるつもりじゃなかった︙、ただ君のためだったんだよ。さぁ、帰ろう。」

「僕の、ため︙? そんなの︙! 
んぅっ︙! やっ、︙︙んんっ。」

 頬の涙を拭っていた由鶴が突然唇を奪った。とてつもない嫌悪感に銀二郎は思いっきり由鶴を引き剥がした。それでも再度肩を掴まれパニックになり、そのまま海の方に駆け出す。慣れない浴衣と下駄にもつれて、ばしゃりと転んだ。全身が冷たい海水に濡れる、寒さでガタガタと身体が震える。突き飛ばされるように引き剥がされた由鶴は怒りを露にして、銀二郎を睨み付けた。
 
 また、打たれる︙!
 銀二郎は恐怖で逃げるように更に海の中へと進んで行く。

「銀二郎‼」

 突然、自分の名を呼ぶ声が聞こえてはっと我に返った。

 まさか、そんなワケがない。

 きっと幻聴だ。

 そう思って俯いた銀二郎の耳に再度、声が聞こえる、先程よりも近くで。
 俯けた顔を上げれば、何度も見てきた輝くような金髪が月明かりに照らされてキラキラと靡いている。夢じゃないか? もしや走馬灯か、幻覚か? 驚きのあまりぼーとしている銀二郎を先程とは違うぬくもりが覆う、甘くてやわららかな香りに包まれる。


「何やってんだよ! 馬鹿!」

「れ、蓮くん︙︙、なんでっ、」

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