12 / 26
忘却の彼方から
しおりを挟む
そして数年が経った。僕は職場で安良田な恋をし、妻を娶った。ミルカのことは考えないようにした。あれは夢だ、と自分に言い聞かせながら。その上あの妖子のことも心の扉に封印した。
平凡だが幸せな日々が続いた。気づけば10年の歳月が経っていた。妻の理世は控えめでおとなしい女だったが、子供には恵まれなかった。それでも僕は十分満足していた。
ところが、その年の年度末に辞令がおりた。なんとあの地の支社に配属になったのだ。僕はショックを受けた。あの忌まわしい夢を再び思い出した。拒否は出来ない。今まで頑張ってきたのに、すべて無駄になる。その上数年前に無理をしてマンションを買った。妻の理世も同じ会社の別部門で活躍している。従って単身赴任を余儀なくされた。
「まぁ二、三年もすれば帰れるさ」
上司はそう言った。僕が浮かない顔をしてたのだろう。その異動は栄転なのに。しかも理世まで喜んでくれた。
「出世コースよ」と。
こうなったら正面切って向かうしかない。わだかまりのあのアパートメントを訪ねてみるのだ。あれが、本当に夢だったと確認するのだ。
僕は自らを奮い立たせて東京を離れた。まもなく桜が咲くだろう時期だった。
新幹線を降りると僕はタクシーで母校へと向かった。学友が准教授として残っている。異動を伝え再会の約束をしていた。荷物はまだ送っていない。学友の自宅にしばらく厄介になり、賃貸物件を探すつもりだった。理世は
「京町家なんていいわねえ」
とか冗談を言っていた。時々こちらへ来るつもりらしい。
タクシーは懐かしい景色を走り抜け、やがて大学近くに差し掛かった。ふと僕は、あの月日荘が本当に存在したのか、激しく気になってきた。何かに呼ばれるかのように。
「運転手さん」
僕は行き先を変更した。もちろん、あの場所だ。月日荘、あのアパートメントのある場所だ。
「お客さん、よう知ってはりますなあ。あそこは垂れ桜の穴場でっせ」
運転手はそう言った。次第に僕は胸が締め付けられるような感覚に陥った。まるで懐かしい場所に帰ってきたような。そんな感覚がした。そうなのだ。待っているのだ、あのひとが。僕の中で何かが疼いていた。魅入られ、虜にされた獲物のように、その場所に引き寄せられる。あの白い肌と赤い唇、僕を呼ぶ微笑み。そう思い出しただけで、からだの中に快感が走り抜ける。その時だ。
駄目よ!来ちゃ!と、かすかに声がした。それはミルカの声だった。
平凡だが幸せな日々が続いた。気づけば10年の歳月が経っていた。妻の理世は控えめでおとなしい女だったが、子供には恵まれなかった。それでも僕は十分満足していた。
ところが、その年の年度末に辞令がおりた。なんとあの地の支社に配属になったのだ。僕はショックを受けた。あの忌まわしい夢を再び思い出した。拒否は出来ない。今まで頑張ってきたのに、すべて無駄になる。その上数年前に無理をしてマンションを買った。妻の理世も同じ会社の別部門で活躍している。従って単身赴任を余儀なくされた。
「まぁ二、三年もすれば帰れるさ」
上司はそう言った。僕が浮かない顔をしてたのだろう。その異動は栄転なのに。しかも理世まで喜んでくれた。
「出世コースよ」と。
こうなったら正面切って向かうしかない。わだかまりのあのアパートメントを訪ねてみるのだ。あれが、本当に夢だったと確認するのだ。
僕は自らを奮い立たせて東京を離れた。まもなく桜が咲くだろう時期だった。
新幹線を降りると僕はタクシーで母校へと向かった。学友が准教授として残っている。異動を伝え再会の約束をしていた。荷物はまだ送っていない。学友の自宅にしばらく厄介になり、賃貸物件を探すつもりだった。理世は
「京町家なんていいわねえ」
とか冗談を言っていた。時々こちらへ来るつもりらしい。
タクシーは懐かしい景色を走り抜け、やがて大学近くに差し掛かった。ふと僕は、あの月日荘が本当に存在したのか、激しく気になってきた。何かに呼ばれるかのように。
「運転手さん」
僕は行き先を変更した。もちろん、あの場所だ。月日荘、あのアパートメントのある場所だ。
「お客さん、よう知ってはりますなあ。あそこは垂れ桜の穴場でっせ」
運転手はそう言った。次第に僕は胸が締め付けられるような感覚に陥った。まるで懐かしい場所に帰ってきたような。そんな感覚がした。そうなのだ。待っているのだ、あのひとが。僕の中で何かが疼いていた。魅入られ、虜にされた獲物のように、その場所に引き寄せられる。あの白い肌と赤い唇、僕を呼ぶ微笑み。そう思い出しただけで、からだの中に快感が走り抜ける。その時だ。
駄目よ!来ちゃ!と、かすかに声がした。それはミルカの声だった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる