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エスケイプ・上原優一は姫の待つ湖へ行く
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優一は戦いを終えて、陸戦艇の格納庫でぼんやりと白磁のメガガイストを見上げていた。
クオバディスは機能を停止しており、四肢を形成するボルの流れが消えている。外殻の白い鎧だけがコンパクトにまとまっていた。
つい先程まで自分がこれを扱っていたという現実が曖昧なものに思えた。反乱軍のメガガイストと戦っている時、優一はクオバディスを操っているようだったし、クオバディスに操られているようだった。リードしつつ、されつつのダンスのような感覚。
「初めての出撃でパルトンを8機。優秀すぎる戦果だな、優一」
気がつくとデズワットが横に来ていた。二人の視線がクオバディスに注がれる。純白の装甲は激しい戦いがあったというのに汚れひとつ付着していない。潔癖ともいえる美しさだった。
「私は物見の報告しか聞かなかったが、随分と大立ち回りをしたようだな。是非この目で見たかった」
「俺は大したことはしていないさ。こいつが特別なんだろ? あの伸びる光の剣とか」
「ルーキス・エクステンドとミスティさまは呼んでいる。ボルを用いた武器は歴史上初めてだ。そのような特別なメガガイストを扱うメーンアストラルもまた特別な存在だ」
「おだてないでくれ」
「優一にはクオバディスを扱うだけのボルがある」
力だよ、とデズワットは断言するように加えた。
「それに優一、君は初め戦った後だというのに全く動揺が見られない。軍人に必要な力だ」
相手の力を素直に賞賛するのがデズワット・ロウという男だった。デズワットの奥に根付く理想がそうさせた。
「本音を言うとさ、あんまり実感がわかないんだ」
優一はクオバディスを見上げながら呟いた。デズワットは優一を一瞬だけ横目でみたが察したように顔をあげてボル・シーアから来た新たな友人の言葉を静かに待った。優一の口が開く。
「俺はメガガイストを倒したんだ。人は殺してない」
「だが人は死んだ」
「ああ……」
断末魔の叫びを聞くことも流れる血と飛び散る肉片も見なかった。人が凄惨に死ぬところを直接見ていない。それでも優一はメガガイストという巨大なロボットを介して人を殺した。
優一は拳を強く握り、人殺しの痛みに耐えた。
「反乱軍って何なんだ? 俺はまだこの世界の事情を全然知らない」
「シエル帝国はシエルヘキア統一を目指し、戦さをしかけていてが道はけして楽なものではなかった。しかし転機があったのは3年程前のことだ。ボル・シーアから旧き神が来たのだ」
「ミスティさんか?」
「そうだ。ミスティさまの深い知識により我が国のメガガイスト技術は大きく進歩し、覇道を歩んだ。反乱軍はその過程で帝国の支配をよしとしない国々だ」
「侵略しようとすれば反発するのは当たり前じゃないか」
「シエルヘキアは旧き神に与えられた文化が下地にあるものの未だに多くのことに問題がある。人種や貧困、国家、資源……だが優一、もしも世界の全てが同じ法と文化によって統一されれば世界はより円滑な発展と恒久的な平和が訪れるぞ」
「反論はしないさ。想像もつかないからな。でも、世界征服なんてお前たちが旧き神と崇める人の故郷――地球ですら誰も成し得たことがないぞ」
「私は小さな囲いの中で力無しと不等に貶められる者が己の持つべき力を正しく認められる世界を作りたいのだ」
理想を語るデズワットの目には明瞭な光が宿っていて、自分の行いを正義と信じていた。
優一は横にいる赤紫色の男に距離を感じると同時に尊敬の念を抱いた。
「デズワットは大人だな」
「君も私とそう変わらないはずだ」
「生き方がってことだよ、俺は自分の道すら決まっていない」
大学に入ったのは高卒で働きたくないから。地元なのは一人暮らしが面倒だから。教育学部を選んだのは大して勉強しなくても入れたから。
ゆるりゆるりとぬるま湯の生き方。典型的なモラトリアムだった。
「自分の道なのだ。行き先は自分で決めねばなるまい」
「俺の行き先……」
言葉にすると優一は自分に声を飛ばしてきた少女のことを思い出した。
『私は待っています。あなたのことを』
少女が転写してきた湖の情景は鮮明に思い出せるほど記憶に刻まれている。このテクタ領から南へ3キロ程離れた森の中にある白い光を放つ虫――あれは確かペルラ蝶だったよな――の踊る湖、と知識として理解していた。
少女が何者なのか優一は知りたかった。
「デズワット、反乱軍に紫色の髪をした綺麗な人がいるのを知らないか?」
「優一、どこでそれを」
途端にデズワットの顔が驚愕のものに変わる。
触れちゃいけないことなのか、と考えつつ優一は敵の陸戦艦の物見櫓にいたことを説明した。
「そうか。シオン、さまが……」
「誰だよ、そのシオンって。それに『さま』?」
「優一、反乱軍の多くは諸外国だ」
「そりゃそうだろ。侵略戦争なんだから」
「いや、反乱軍は内にもいたのだ。かつての帝国領が反乱軍と徒党を組み、離反してな。そしてシオン・『シエルヘキア』」
デズワットは紫の少女のフルネームを言うことに忌避していたが、あえて口にした。口にすることで憎悪を燃やす為に。憎悪を力に変える為に。優一は理想を語っていたデズワットの明るい瞳にドロリとした暗いものを感じた。
「あの御方こそシエル帝国の『元』第二皇女にして、反乱軍の象徴である帝国史上最悪の罪人だ」
☆
研究所で戦闘後の身体検査を受けた優一はミスティの部屋にいた。学者であろうミスティの部屋は優一には理解できない分野の本が棚に隙間なく収まっていた。
花のような甘い香りがふわりと優一を抱きしめる。部屋に染みついたミスティの匂いだった。
「結果がでたわ」
香りの元である赤毛の女が来た。ミスティは両手に水差しとグラスを、肘に優一が昨日着ていた服を入れた網袋をかけていた。
優一はこの部屋で唯一のイスを部屋の主に譲り、自分は床に座ろうとした。
そこに座りなさい。
ミスティはベッドを指差す。優一は従った。
「結論から言わしてもらうと特に問題はないわ。バイタル的にもメンタル的にも極めて正常よ」
ミスティは透明の水差しからグラスに水を注ぐ。水差しの中には穴の開いた筒が挿入されおり、その筒の中には黄色の実が沈んでいた。
優一はミスティからグラスを受け取ると飲んだ。強み酸味があるがスッキリとしていて飲みやすい。
「リアレの実の水出しよ。疲労回復に効くわ」
「赤い実を潰して溶かしたりもしましたよね。紅茶みたいな味がするやつ」
「500年くらい前かしら。紅茶好きの旧き神が飲みたいリーフのない異世界でどうにかして紅茶を飲むために色々と試した結果らしいわ。木の実を煎じて飲むという当時のシエルへキアの薬学からヒントを得たようね」
「へえ、シエルヘキア雑学だ」
「人間が環境に適応するには二つのパターンがあるわ。ひとつは環境を自分のいたところに近づけて齟齬を減らすこと」
「そうやって旧き神と呼ばれた地球人はシエルヘキアを自分たちの住みよい環境に整えようとしたんですね。もう一つは?」
「全てを受け入れること」
ミスティは優一の隣に腰かけた。二人分の重みを受けたベッドが沈み込む。
……ボルの色だ。
優一はミスティの黒い衣装の胸元から微かに覗く紫の刺繍を見逃さなかった。
「あなたはメーンアストラルとしてクオバディスのアストラルコアからの転写情報を受け入れた。簡単なことではないわ……自分が変わってしまうもの」
ミスティは優一の視線に気づきながら話を続けた。
操縦者であるメーンアストラルと巨大兵器メガガイストを繋げるインターフェースとしてアストラルコアは存在する。メーンアストラルの操縦をアストラルコアが読み取り、メガガイストのボルの流れを操作して動かすというのが基本的な構造だった。
転写とはメガガイストを操縦する際にメーンアストラルに与えられる情報のフィードバック現象だ。これによってメーンアストラルは仕様書などを読まずにメガガイストの詳細な機能を扱える。
実際、優一はクオバディスを自由に動かせたし、光の剣を扱ってみせた。
しかし、それは異常なことだった。
仕様書を読まなくても問題はないが、あくまで経験を積んでいるという前提があった。
初めてメガガイストに乗る場合、事前の教育による基礎知識やツインスティックによるメガガイストの操縦へのイメージを養い、転写によって変質する自分との齟齬を減らすことが必要となる。当然、齟齬を少しでも減らすために仕様書も読まされる。
もし怠ればアストラルコアからの転写される情報の量と変質する意識との乖離によって精神が崩壊してしまう。
優一は例外だった。
ミスティは優一のこれを現代人として情報社会で生活していたことに加えて、日本人の空気を読むという状況を察知し対応する力、そして優一とクオバディスのアストラルコアの相性から起因すると考えた。
「そんなにですか?」
優一にはミスティの説明がピンと来なかった。特に前ふたつ。
現代人として情報社会を生きているから転写される膨大な情報に対して許容量があって、空気が読めるから変質する自分を受け入れられると言われても困る。
情報の多い現代社会も空気を読むことも全く普通のことであって優一だけに特別当てはまることではなかった。
ごじつけだ。誰にでも当てはまることをさも俺だけのように言ってるだけだ。
感情が自分の思いを後押しする。
でもミスティさんは俺なんかよりもずっと色々なことを知っている。だとしたら屁理屈じみた理論だとしても。
理性が懐疑的になる自分の防波堤になる。
優一の中でアンビバレントな感情が渦巻く。ぐるぐると回る渦の中からポッとひとつの想いが浮かび上がった。
そもそも変質する自分ってなんだ。自分の知らないことをいつの間にか自分が知っている。それだけじゃないか。だからなんだって言うんだよ。
こういう図太さも転写による乖離を防いでいる一因だと優一は気づかない。
優一はグラスに口をつける。
「あの、ミスティさん……」
「どうしたの?」
「いえ……」
ミスティに微かな不信感を覚えた優一は言葉を切った。
『赤い魔女の唇に惑わされないで』
『ミスティ・パープル。魔女の唇は人を腐らす甘い囁きを奏でる』
紫の少女シオン・シエルヘキアの訴えが蘇る。あの様な意味深なことを言われてしまえば、自分が間違っている側にいるようになってしまうのは無理もなかった。
「なんでもありません」
「声をかけておいて自分で打ち切るのはどうかしらね。言いたいことがあるのでしょ」
ミスティの指先が優一の腹を、胸をゆっくりとなぞり顎に達した。
「構わないわ、言ってごらんなさい」
唇にミスティの親指が触れた。
「…………」
再び渦が捲く。
シオン・シエルへキアってどんな人ですか。俺って帰れるんですか。ああ無理ですよね。だってミスティさんがここにいますし。帝国で戦ったらどんな待遇をしてもらえますか。クオバディスって強いだけじゃなくて他に何かありますよね。俺にクオバディスの全部は転写されてない気がします。ああ、いい匂いだ。ここの時間の流れと地球の時間の流れって違うんですか。シエルヘキアでもパーカーはありますか。出来ればジッパーのついてる前開き。奈瑞菜さんのデートに着ていきたいな。デズワットあいつ良い奴のはずなんですけど少し怖かったです。ガドロー以外にも竜はいるんですかというか鞍の横についてた機械は何。明日はどうすればいいですか。
「私に聞かせて」
魔女は甘い声と金色の瞳で優一からじわりと言葉を引き出す。
「ミスティさんは――」
優一は自分の中にある核を吐き出そうとした。
「ミスティさんは……どうして、そう……露骨なんですか?」
要するにそこだった。
「あら、そんなこと?」
可愛いわね優一くん。
ミスティは小さく笑った。
「あなたが好みのタイプだからよ」
直後、顔を引き寄せられた優一はミスティに唇を重ねられた。冷たく赤い魔女の唇はお伽噺の毒林檎。たちまち少年を蝕む。
「でも、それだけじゃ納得しないでしょうね。あなたは」
優一は微かに残る理性でこくりと頷くことしかできなかった。
「理由をあげる。私にはあなたが必要なのよ。そして、あなたにもね」
艶のある赤い唇がもう一度。避けれはしない。
奈瑞菜さん。
唇を割って押し入ってくる温かい舌。溢れる甘い蜜が一瞬にして少年の想い人を溶かす。
ミスティは毒に侵された優一をベッドに横たわらせて衣服をはぎ取ると、自分も黒いベールを剥いて下にある刺繍の全部をみせた。
優一の反応を見たミスティは歓喜の表情を浮かべて、肉食獣が獲物を喰らうように覆いかぶさる。少年の首や胸を吸いながら魔女は踊る。上と下を変えて今度は少年の番。魔女と違って少しぎこちない。
「あなたの行く場所は私と同じ所よ」
優一の体はその言葉の意味を理解できないまま全身にめぐった毒を吐き出した。
☆
自分が正気であることを確かめると優一は静かにベッドを抜け出した。
網袋から洗濯の終わった服を着る。パーカーを羽織る。
準備はできた。
フードの位置を少し直して、部屋を出ようとすると後ろでミスティが動くのを感じた。
「行ってしまうのね」
つい先程まで激しく求めあった相手は何もかも知っているような口ぶりだった。
魔女は予言する。
「いいことを教えてあげるわ。あなたは絶対に私の所に戻ってくる」
優一は振り返らなかった。
外に出るとガドローが背を低くして眠っていた。ミスティの差金のような気もしたが考えるのは後にした。
「なあ、起きてくれ」
辺りに誰もいないことを確認しながら囁くとガドローの瞼が開いた。
「俺はもっと知らなくちゃいけないんだ。こっち側だけじゃなくて、向こう側もさ。だから頼むよ。付き合ってくれ」
ガドローは呻いた後にすくと立ち上がった。調教によって野生より多く学習を経験した陸の竜は知能が高い。
「ありがとうな」
優一は竜にまたがると素早く走らせた。
夜のボル・シーアはボルの色が非常に濃い。紫天海の満ち潮。黒に近い深紫の空には無数の切れ目があり、そこから明度の高い紫の光がオーロラのように降りている。
「流されるのではなく自分の意思で行くか。好ましい力だな、優一」
ボルの光に照らされてデズワットが森へ消えていく優一を見下ろしていた。その手には血で濡れた剣が握られていた。近くにドーツラグの物見が血だまりの中に沈んでいる。帝国にとって憎むべき裏切り者が見えていたはずのにわざと教えていなかった物見の兵は反乱軍の間者だった。
「だが、君が行こうとする道は帝国の益にはならん」
デズワットの後ろで巨大な人の形をしたボルの光が炎のように揺らめいた。
クオバディスは機能を停止しており、四肢を形成するボルの流れが消えている。外殻の白い鎧だけがコンパクトにまとまっていた。
つい先程まで自分がこれを扱っていたという現実が曖昧なものに思えた。反乱軍のメガガイストと戦っている時、優一はクオバディスを操っているようだったし、クオバディスに操られているようだった。リードしつつ、されつつのダンスのような感覚。
「初めての出撃でパルトンを8機。優秀すぎる戦果だな、優一」
気がつくとデズワットが横に来ていた。二人の視線がクオバディスに注がれる。純白の装甲は激しい戦いがあったというのに汚れひとつ付着していない。潔癖ともいえる美しさだった。
「私は物見の報告しか聞かなかったが、随分と大立ち回りをしたようだな。是非この目で見たかった」
「俺は大したことはしていないさ。こいつが特別なんだろ? あの伸びる光の剣とか」
「ルーキス・エクステンドとミスティさまは呼んでいる。ボルを用いた武器は歴史上初めてだ。そのような特別なメガガイストを扱うメーンアストラルもまた特別な存在だ」
「おだてないでくれ」
「優一にはクオバディスを扱うだけのボルがある」
力だよ、とデズワットは断言するように加えた。
「それに優一、君は初め戦った後だというのに全く動揺が見られない。軍人に必要な力だ」
相手の力を素直に賞賛するのがデズワット・ロウという男だった。デズワットの奥に根付く理想がそうさせた。
「本音を言うとさ、あんまり実感がわかないんだ」
優一はクオバディスを見上げながら呟いた。デズワットは優一を一瞬だけ横目でみたが察したように顔をあげてボル・シーアから来た新たな友人の言葉を静かに待った。優一の口が開く。
「俺はメガガイストを倒したんだ。人は殺してない」
「だが人は死んだ」
「ああ……」
断末魔の叫びを聞くことも流れる血と飛び散る肉片も見なかった。人が凄惨に死ぬところを直接見ていない。それでも優一はメガガイストという巨大なロボットを介して人を殺した。
優一は拳を強く握り、人殺しの痛みに耐えた。
「反乱軍って何なんだ? 俺はまだこの世界の事情を全然知らない」
「シエル帝国はシエルヘキア統一を目指し、戦さをしかけていてが道はけして楽なものではなかった。しかし転機があったのは3年程前のことだ。ボル・シーアから旧き神が来たのだ」
「ミスティさんか?」
「そうだ。ミスティさまの深い知識により我が国のメガガイスト技術は大きく進歩し、覇道を歩んだ。反乱軍はその過程で帝国の支配をよしとしない国々だ」
「侵略しようとすれば反発するのは当たり前じゃないか」
「シエルヘキアは旧き神に与えられた文化が下地にあるものの未だに多くのことに問題がある。人種や貧困、国家、資源……だが優一、もしも世界の全てが同じ法と文化によって統一されれば世界はより円滑な発展と恒久的な平和が訪れるぞ」
「反論はしないさ。想像もつかないからな。でも、世界征服なんてお前たちが旧き神と崇める人の故郷――地球ですら誰も成し得たことがないぞ」
「私は小さな囲いの中で力無しと不等に貶められる者が己の持つべき力を正しく認められる世界を作りたいのだ」
理想を語るデズワットの目には明瞭な光が宿っていて、自分の行いを正義と信じていた。
優一は横にいる赤紫色の男に距離を感じると同時に尊敬の念を抱いた。
「デズワットは大人だな」
「君も私とそう変わらないはずだ」
「生き方がってことだよ、俺は自分の道すら決まっていない」
大学に入ったのは高卒で働きたくないから。地元なのは一人暮らしが面倒だから。教育学部を選んだのは大して勉強しなくても入れたから。
ゆるりゆるりとぬるま湯の生き方。典型的なモラトリアムだった。
「自分の道なのだ。行き先は自分で決めねばなるまい」
「俺の行き先……」
言葉にすると優一は自分に声を飛ばしてきた少女のことを思い出した。
『私は待っています。あなたのことを』
少女が転写してきた湖の情景は鮮明に思い出せるほど記憶に刻まれている。このテクタ領から南へ3キロ程離れた森の中にある白い光を放つ虫――あれは確かペルラ蝶だったよな――の踊る湖、と知識として理解していた。
少女が何者なのか優一は知りたかった。
「デズワット、反乱軍に紫色の髪をした綺麗な人がいるのを知らないか?」
「優一、どこでそれを」
途端にデズワットの顔が驚愕のものに変わる。
触れちゃいけないことなのか、と考えつつ優一は敵の陸戦艦の物見櫓にいたことを説明した。
「そうか。シオン、さまが……」
「誰だよ、そのシオンって。それに『さま』?」
「優一、反乱軍の多くは諸外国だ」
「そりゃそうだろ。侵略戦争なんだから」
「いや、反乱軍は内にもいたのだ。かつての帝国領が反乱軍と徒党を組み、離反してな。そしてシオン・『シエルヘキア』」
デズワットは紫の少女のフルネームを言うことに忌避していたが、あえて口にした。口にすることで憎悪を燃やす為に。憎悪を力に変える為に。優一は理想を語っていたデズワットの明るい瞳にドロリとした暗いものを感じた。
「あの御方こそシエル帝国の『元』第二皇女にして、反乱軍の象徴である帝国史上最悪の罪人だ」
☆
研究所で戦闘後の身体検査を受けた優一はミスティの部屋にいた。学者であろうミスティの部屋は優一には理解できない分野の本が棚に隙間なく収まっていた。
花のような甘い香りがふわりと優一を抱きしめる。部屋に染みついたミスティの匂いだった。
「結果がでたわ」
香りの元である赤毛の女が来た。ミスティは両手に水差しとグラスを、肘に優一が昨日着ていた服を入れた網袋をかけていた。
優一はこの部屋で唯一のイスを部屋の主に譲り、自分は床に座ろうとした。
そこに座りなさい。
ミスティはベッドを指差す。優一は従った。
「結論から言わしてもらうと特に問題はないわ。バイタル的にもメンタル的にも極めて正常よ」
ミスティは透明の水差しからグラスに水を注ぐ。水差しの中には穴の開いた筒が挿入されおり、その筒の中には黄色の実が沈んでいた。
優一はミスティからグラスを受け取ると飲んだ。強み酸味があるがスッキリとしていて飲みやすい。
「リアレの実の水出しよ。疲労回復に効くわ」
「赤い実を潰して溶かしたりもしましたよね。紅茶みたいな味がするやつ」
「500年くらい前かしら。紅茶好きの旧き神が飲みたいリーフのない異世界でどうにかして紅茶を飲むために色々と試した結果らしいわ。木の実を煎じて飲むという当時のシエルへキアの薬学からヒントを得たようね」
「へえ、シエルヘキア雑学だ」
「人間が環境に適応するには二つのパターンがあるわ。ひとつは環境を自分のいたところに近づけて齟齬を減らすこと」
「そうやって旧き神と呼ばれた地球人はシエルヘキアを自分たちの住みよい環境に整えようとしたんですね。もう一つは?」
「全てを受け入れること」
ミスティは優一の隣に腰かけた。二人分の重みを受けたベッドが沈み込む。
……ボルの色だ。
優一はミスティの黒い衣装の胸元から微かに覗く紫の刺繍を見逃さなかった。
「あなたはメーンアストラルとしてクオバディスのアストラルコアからの転写情報を受け入れた。簡単なことではないわ……自分が変わってしまうもの」
ミスティは優一の視線に気づきながら話を続けた。
操縦者であるメーンアストラルと巨大兵器メガガイストを繋げるインターフェースとしてアストラルコアは存在する。メーンアストラルの操縦をアストラルコアが読み取り、メガガイストのボルの流れを操作して動かすというのが基本的な構造だった。
転写とはメガガイストを操縦する際にメーンアストラルに与えられる情報のフィードバック現象だ。これによってメーンアストラルは仕様書などを読まずにメガガイストの詳細な機能を扱える。
実際、優一はクオバディスを自由に動かせたし、光の剣を扱ってみせた。
しかし、それは異常なことだった。
仕様書を読まなくても問題はないが、あくまで経験を積んでいるという前提があった。
初めてメガガイストに乗る場合、事前の教育による基礎知識やツインスティックによるメガガイストの操縦へのイメージを養い、転写によって変質する自分との齟齬を減らすことが必要となる。当然、齟齬を少しでも減らすために仕様書も読まされる。
もし怠ればアストラルコアからの転写される情報の量と変質する意識との乖離によって精神が崩壊してしまう。
優一は例外だった。
ミスティは優一のこれを現代人として情報社会で生活していたことに加えて、日本人の空気を読むという状況を察知し対応する力、そして優一とクオバディスのアストラルコアの相性から起因すると考えた。
「そんなにですか?」
優一にはミスティの説明がピンと来なかった。特に前ふたつ。
現代人として情報社会を生きているから転写される膨大な情報に対して許容量があって、空気が読めるから変質する自分を受け入れられると言われても困る。
情報の多い現代社会も空気を読むことも全く普通のことであって優一だけに特別当てはまることではなかった。
ごじつけだ。誰にでも当てはまることをさも俺だけのように言ってるだけだ。
感情が自分の思いを後押しする。
でもミスティさんは俺なんかよりもずっと色々なことを知っている。だとしたら屁理屈じみた理論だとしても。
理性が懐疑的になる自分の防波堤になる。
優一の中でアンビバレントな感情が渦巻く。ぐるぐると回る渦の中からポッとひとつの想いが浮かび上がった。
そもそも変質する自分ってなんだ。自分の知らないことをいつの間にか自分が知っている。それだけじゃないか。だからなんだって言うんだよ。
こういう図太さも転写による乖離を防いでいる一因だと優一は気づかない。
優一はグラスに口をつける。
「あの、ミスティさん……」
「どうしたの?」
「いえ……」
ミスティに微かな不信感を覚えた優一は言葉を切った。
『赤い魔女の唇に惑わされないで』
『ミスティ・パープル。魔女の唇は人を腐らす甘い囁きを奏でる』
紫の少女シオン・シエルヘキアの訴えが蘇る。あの様な意味深なことを言われてしまえば、自分が間違っている側にいるようになってしまうのは無理もなかった。
「なんでもありません」
「声をかけておいて自分で打ち切るのはどうかしらね。言いたいことがあるのでしょ」
ミスティの指先が優一の腹を、胸をゆっくりとなぞり顎に達した。
「構わないわ、言ってごらんなさい」
唇にミスティの親指が触れた。
「…………」
再び渦が捲く。
シオン・シエルへキアってどんな人ですか。俺って帰れるんですか。ああ無理ですよね。だってミスティさんがここにいますし。帝国で戦ったらどんな待遇をしてもらえますか。クオバディスって強いだけじゃなくて他に何かありますよね。俺にクオバディスの全部は転写されてない気がします。ああ、いい匂いだ。ここの時間の流れと地球の時間の流れって違うんですか。シエルヘキアでもパーカーはありますか。出来ればジッパーのついてる前開き。奈瑞菜さんのデートに着ていきたいな。デズワットあいつ良い奴のはずなんですけど少し怖かったです。ガドロー以外にも竜はいるんですかというか鞍の横についてた機械は何。明日はどうすればいいですか。
「私に聞かせて」
魔女は甘い声と金色の瞳で優一からじわりと言葉を引き出す。
「ミスティさんは――」
優一は自分の中にある核を吐き出そうとした。
「ミスティさんは……どうして、そう……露骨なんですか?」
要するにそこだった。
「あら、そんなこと?」
可愛いわね優一くん。
ミスティは小さく笑った。
「あなたが好みのタイプだからよ」
直後、顔を引き寄せられた優一はミスティに唇を重ねられた。冷たく赤い魔女の唇はお伽噺の毒林檎。たちまち少年を蝕む。
「でも、それだけじゃ納得しないでしょうね。あなたは」
優一は微かに残る理性でこくりと頷くことしかできなかった。
「理由をあげる。私にはあなたが必要なのよ。そして、あなたにもね」
艶のある赤い唇がもう一度。避けれはしない。
奈瑞菜さん。
唇を割って押し入ってくる温かい舌。溢れる甘い蜜が一瞬にして少年の想い人を溶かす。
ミスティは毒に侵された優一をベッドに横たわらせて衣服をはぎ取ると、自分も黒いベールを剥いて下にある刺繍の全部をみせた。
優一の反応を見たミスティは歓喜の表情を浮かべて、肉食獣が獲物を喰らうように覆いかぶさる。少年の首や胸を吸いながら魔女は踊る。上と下を変えて今度は少年の番。魔女と違って少しぎこちない。
「あなたの行く場所は私と同じ所よ」
優一の体はその言葉の意味を理解できないまま全身にめぐった毒を吐き出した。
☆
自分が正気であることを確かめると優一は静かにベッドを抜け出した。
網袋から洗濯の終わった服を着る。パーカーを羽織る。
準備はできた。
フードの位置を少し直して、部屋を出ようとすると後ろでミスティが動くのを感じた。
「行ってしまうのね」
つい先程まで激しく求めあった相手は何もかも知っているような口ぶりだった。
魔女は予言する。
「いいことを教えてあげるわ。あなたは絶対に私の所に戻ってくる」
優一は振り返らなかった。
外に出るとガドローが背を低くして眠っていた。ミスティの差金のような気もしたが考えるのは後にした。
「なあ、起きてくれ」
辺りに誰もいないことを確認しながら囁くとガドローの瞼が開いた。
「俺はもっと知らなくちゃいけないんだ。こっち側だけじゃなくて、向こう側もさ。だから頼むよ。付き合ってくれ」
ガドローは呻いた後にすくと立ち上がった。調教によって野生より多く学習を経験した陸の竜は知能が高い。
「ありがとうな」
優一は竜にまたがると素早く走らせた。
夜のボル・シーアはボルの色が非常に濃い。紫天海の満ち潮。黒に近い深紫の空には無数の切れ目があり、そこから明度の高い紫の光がオーロラのように降りている。
「流されるのではなく自分の意思で行くか。好ましい力だな、優一」
ボルの光に照らされてデズワットが森へ消えていく優一を見下ろしていた。その手には血で濡れた剣が握られていた。近くにドーツラグの物見が血だまりの中に沈んでいる。帝国にとって憎むべき裏切り者が見えていたはずのにわざと教えていなかった物見の兵は反乱軍の間者だった。
「だが、君が行こうとする道は帝国の益にはならん」
デズワットの後ろで巨大な人の形をしたボルの光が炎のように揺らめいた。
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