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プロローグ
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忘れられない人がいる。
雨の日の路地裏で、身動き出来ないまま蹲る俺に傘を差し出し治療してくれた少年。
『大丈夫ですか…?』
不安と心配が入り交じった柔らかい声。
お世辞にも善良な一般市民とは言えない俺の見た目にも、殴られて腫れ上がった顔や傷にも物怖じせず、膝が濡れるのも構わず地面について様子を伺う優しい少年。
『応急処置なので、後で絶対病院に行って下さいね』
わざわざ薬局にまで走って、消毒液だの包帯だのガーゼだのを買ってきた少年は慣れた手付きで傷の手当てをしそう言った。
僅かに頷けば安心したのか、にこりと笑う。
その顔が、花が綻ぶような綺麗な笑顔で、俺は思わず見惚れてしまった。
そのまろみを帯びた頬に思わず手を伸ばす。だが、手が届く前に少年は掻き消えた。
温かな陽だまりだけを残して。
――――――――――――――
不規則な音と鼓膜を震わせる振動に無理矢理意識を浮上させられた久堂 凌河は、痛む頭を押さえて睡眠妨害の正体であるスマホを確認する。発信者名を見て溜め息をつくと通話ボタンを押しスピーカーをオンにした。
『あ、凌河さん! おはようございます!』
耳に当ててもいないのに、キーンと頭の中で反響する程の声量に思わず顔を顰める。悪いやつではないのだが、如何せん元気が良すぎるのだ。
「棗、うるさい」
『すんませーん! っつってももう昼過ぎてますよ? 今日は店来ます?』
「夜行くつもり」
『了解です! あ、誰か呼びますか?』
欠伸を噛み殺しながらベッドから降りた凌河は、脱ぎ捨てていたシャツを手に寝室を出ると、洗面所へ向かい洗濯機へとそれを放り投げる。だがそのスイッチを入れる事もなくキッチンへ行けば、一人暮らしにしては大きめな冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。
「…んー、いや、今日はいいや。飯だけよろしく」
『分かりました! ではまた夜に!』
「はいはい」
短く返し通話を終えたスマホをやや乱暴にキッチンカウンターに置き、ペットボトルのキャップを開けて流し込む。一つ息を吐いて天井を見上げた。
思い出すのは、無遠慮に起こされるまで見ていた夢。
(もう三年か…)
父の再婚で家庭環境がおかしくなり、義母との不和も相俟って中学生にして家を飛び出した凌河はすぐに不良グループの仲間入りをした。元々上背もありガタイも良かったためすぐに馴染めたが、おかげで中学を卒業する頃には一目置かれるようになっていた。
毎日喧嘩に明け暮れ、人を脅し金品を巻き上げ盗みを働く。凌河自身は盗みにまで手を染める事はなかったが、それでも充分悪い事はして来た。だからバチが当たったのだろう。
仲間が喧嘩を売った相手が悪かった。運悪く、その筋の人達だったのだ。
殺される寸前まで痛めつけられ路地裏に放置された挙句に雨が降り始め、それが次第に土砂降りに変わり、凌河はこのまま死ぬのだと思った。
痛みと寒さで意識が朦朧とし始めた時、自分に降りしきっていた雨が止んだ事に気付く。あの少年が傘を差してくれていた。
声を掛け覗き込む華奢な肩、凌河の傷を手際良く消毒しガーゼを当て包帯を巻く小さな手。年の頃は中学生くらいか、幼いながらにその顔立ちは整っていた。
傘と温かい飲み物を置いて走り去って行った少年の名前も、住んでいる場所も、何も聞けないまま背中を見送り後悔した。この近辺に住んでいるのだろうと安易に考えて引き留めもせず、しかしいくら捜しても見付ける事が出来なかったから。
あの笑顔がずっと頭から離れなくて、忘れられなくて、凌河は三年経った今でもあの少年を捜しているのだ。
ぼんやりと物思いに耽っていた凌河だったが、今だに何の手掛かりさえも見つけられていない事に内心苛立っていた。せめてあの時名前だけでも聞いていれば。
「……まぁ、今更なんだけどさ…。学校行くかな」
昼は過ぎてしまったがこのまま家にいてもやる事はない。これ以上単位を落としてまた留年にでもなったら、今度こそ幼馴染みが切れるだろう。ただでさえ出席日数もギリギリで危ういのだ。
「めんどくさ……」
リビングのソファに放ってある制服に袖を通すと、ポケットから何かが落ちてきた。訝しんで拾い上げた物はシンプルなシルバーのリング。
「…………」
凌河は何の感情も篭らない目でそれをゴミ箱に捨て、スマホと財布を乱雑にポケットに突っ込んでから家を出た。
少し温めの風が凌河の襟足を靡かせる。
(アイツはもういらねぇな)
恐らくは昨日の行為中、制服のポケットにわざと忍ばせたであろうリングの持ち主は分かっていた。
スマホを取り出しさっきまで通話していた電話番号をリダイヤルすると、僅か三コールで出るあたりしっかり躾られている。
「……ああ、棗。もうアイツいらないから、進にでもやって」
通話口の向こうから、いつもと同じ言葉が返される。
面倒臭い事も、煩わしい事も嫌いな凌河は、こうして自分は特別だと思い込みアピールしてくる奴が一番気に食わない。たかが続けて抱いてやっただけで、何故そう思えるのか心底不思議だ。
あのリングさえなければ、もう少し可愛がってやったのに。
「馬鹿なヤツ…」
学校に着く頃には昼休みも終わり、次を知らせるチャイムが鳴ったところだった。特段急ぐでもなく校舎に入れば、廊下を歩いていた教師がぎょっと目を剥く。
「く、久堂、今来たのか」
「……だったら何」
「い、いや、五限はもう始まって…」
「……ンな事言われなくても分かってるから」
いちいち絡んで来んなと睨めば小さく悲鳴を上げて逃げて行く。
情けない、それでも教師かよと鼻で笑い、教室ではなく屋上へ向かうのは向けられる視線が鬱陶しいからだ。
日本人離れした整い過ぎるほど整った顔、この学校ではずば抜けて高い身長は人目を引く。加えてしょっちゅう問題を起こす凌河はこの地域では有名だった。自分から喧嘩を売る事はないが、売られた喧嘩はもれなく買うし負けた事もないため、目が合えば殺されると恐れられる程だ。
一人の方が気楽な凌河としては有り難いが、優しい幼馴染みには心配されておりそれだけが申し訳ない気持ちになる。
気怠げに階段を上がっていると、遠くの方から声が聞こえてきた。
どうやら曲がった先の奥からこちらへ歩いて来ているようだが、興味本位から何となく踊り場で立ち止まり階下を見下ろす。
「…い、……ります」
「……くんは、昔…………でたん……ね」
話し声は二人。片方は声色から中年ぽいため教師だろう。もう一人は高めだが男のようだ。新しい教員か? と思っていると影が伸び姿が現れる。
「書類は今週中にお願いしますね。明日から頑張って下さい」
「はい、ありがとうございました」
壁に阻まれ教師の姿は見えなかったが、同じ制服を身に纏った青年が教師がいるであろう方に頭を下げる横顔が見えた。
華奢だな、と凌河は思った。耳にかかる程度に伸ばされた黒い髪、襟足は短めだがそこから伸びるうなじさえも細い。
バリバリに着崩した凌河の制服とは違い、第一ボタンまでしっかりと留めた姿に真面目さが伺える。
胸元にプリントやら厚めの封筒やらを抱えて階段前を通り過ぎようとするその横顔は凛として綺麗で、凌河は思わず凝視した。まさか、と思う。
あまりにも見ていたせいか、青年が不意にこちらを向きピタッと視線が合った。
凌河がいた事に一瞬驚いた青年は、しかし次の瞬間には花が綻ぶような笑顔を向けて頭を下げ、再び歩き出す。
「……!」
いつかの少年と重なり、凌河の胸がドクンと脈打った。
しばらく呆けていた凌河はハッと我に返り慌てて青年が歩いて行った方へと走るが、すでにその姿はなく、校舎を出てからはどちらへ行ったかさえ分からない。
だがもう居場所は分かった。顔も、背格好も記憶した。あのタイの色が一年生だという事も。
「やっと見つけた…」
あの笑顔は間違いない、彼はあの時の少年だ。
凌河は逸る気持ちを押さえ、三度目ともなる電話を棗へとかけるのだった。
雨の日の路地裏で、身動き出来ないまま蹲る俺に傘を差し出し治療してくれた少年。
『大丈夫ですか…?』
不安と心配が入り交じった柔らかい声。
お世辞にも善良な一般市民とは言えない俺の見た目にも、殴られて腫れ上がった顔や傷にも物怖じせず、膝が濡れるのも構わず地面について様子を伺う優しい少年。
『応急処置なので、後で絶対病院に行って下さいね』
わざわざ薬局にまで走って、消毒液だの包帯だのガーゼだのを買ってきた少年は慣れた手付きで傷の手当てをしそう言った。
僅かに頷けば安心したのか、にこりと笑う。
その顔が、花が綻ぶような綺麗な笑顔で、俺は思わず見惚れてしまった。
そのまろみを帯びた頬に思わず手を伸ばす。だが、手が届く前に少年は掻き消えた。
温かな陽だまりだけを残して。
――――――――――――――
不規則な音と鼓膜を震わせる振動に無理矢理意識を浮上させられた久堂 凌河は、痛む頭を押さえて睡眠妨害の正体であるスマホを確認する。発信者名を見て溜め息をつくと通話ボタンを押しスピーカーをオンにした。
『あ、凌河さん! おはようございます!』
耳に当ててもいないのに、キーンと頭の中で反響する程の声量に思わず顔を顰める。悪いやつではないのだが、如何せん元気が良すぎるのだ。
「棗、うるさい」
『すんませーん! っつってももう昼過ぎてますよ? 今日は店来ます?』
「夜行くつもり」
『了解です! あ、誰か呼びますか?』
欠伸を噛み殺しながらベッドから降りた凌河は、脱ぎ捨てていたシャツを手に寝室を出ると、洗面所へ向かい洗濯機へとそれを放り投げる。だがそのスイッチを入れる事もなくキッチンへ行けば、一人暮らしにしては大きめな冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。
「…んー、いや、今日はいいや。飯だけよろしく」
『分かりました! ではまた夜に!』
「はいはい」
短く返し通話を終えたスマホをやや乱暴にキッチンカウンターに置き、ペットボトルのキャップを開けて流し込む。一つ息を吐いて天井を見上げた。
思い出すのは、無遠慮に起こされるまで見ていた夢。
(もう三年か…)
父の再婚で家庭環境がおかしくなり、義母との不和も相俟って中学生にして家を飛び出した凌河はすぐに不良グループの仲間入りをした。元々上背もありガタイも良かったためすぐに馴染めたが、おかげで中学を卒業する頃には一目置かれるようになっていた。
毎日喧嘩に明け暮れ、人を脅し金品を巻き上げ盗みを働く。凌河自身は盗みにまで手を染める事はなかったが、それでも充分悪い事はして来た。だからバチが当たったのだろう。
仲間が喧嘩を売った相手が悪かった。運悪く、その筋の人達だったのだ。
殺される寸前まで痛めつけられ路地裏に放置された挙句に雨が降り始め、それが次第に土砂降りに変わり、凌河はこのまま死ぬのだと思った。
痛みと寒さで意識が朦朧とし始めた時、自分に降りしきっていた雨が止んだ事に気付く。あの少年が傘を差してくれていた。
声を掛け覗き込む華奢な肩、凌河の傷を手際良く消毒しガーゼを当て包帯を巻く小さな手。年の頃は中学生くらいか、幼いながらにその顔立ちは整っていた。
傘と温かい飲み物を置いて走り去って行った少年の名前も、住んでいる場所も、何も聞けないまま背中を見送り後悔した。この近辺に住んでいるのだろうと安易に考えて引き留めもせず、しかしいくら捜しても見付ける事が出来なかったから。
あの笑顔がずっと頭から離れなくて、忘れられなくて、凌河は三年経った今でもあの少年を捜しているのだ。
ぼんやりと物思いに耽っていた凌河だったが、今だに何の手掛かりさえも見つけられていない事に内心苛立っていた。せめてあの時名前だけでも聞いていれば。
「……まぁ、今更なんだけどさ…。学校行くかな」
昼は過ぎてしまったがこのまま家にいてもやる事はない。これ以上単位を落としてまた留年にでもなったら、今度こそ幼馴染みが切れるだろう。ただでさえ出席日数もギリギリで危ういのだ。
「めんどくさ……」
リビングのソファに放ってある制服に袖を通すと、ポケットから何かが落ちてきた。訝しんで拾い上げた物はシンプルなシルバーのリング。
「…………」
凌河は何の感情も篭らない目でそれをゴミ箱に捨て、スマホと財布を乱雑にポケットに突っ込んでから家を出た。
少し温めの風が凌河の襟足を靡かせる。
(アイツはもういらねぇな)
恐らくは昨日の行為中、制服のポケットにわざと忍ばせたであろうリングの持ち主は分かっていた。
スマホを取り出しさっきまで通話していた電話番号をリダイヤルすると、僅か三コールで出るあたりしっかり躾られている。
「……ああ、棗。もうアイツいらないから、進にでもやって」
通話口の向こうから、いつもと同じ言葉が返される。
面倒臭い事も、煩わしい事も嫌いな凌河は、こうして自分は特別だと思い込みアピールしてくる奴が一番気に食わない。たかが続けて抱いてやっただけで、何故そう思えるのか心底不思議だ。
あのリングさえなければ、もう少し可愛がってやったのに。
「馬鹿なヤツ…」
学校に着く頃には昼休みも終わり、次を知らせるチャイムが鳴ったところだった。特段急ぐでもなく校舎に入れば、廊下を歩いていた教師がぎょっと目を剥く。
「く、久堂、今来たのか」
「……だったら何」
「い、いや、五限はもう始まって…」
「……ンな事言われなくても分かってるから」
いちいち絡んで来んなと睨めば小さく悲鳴を上げて逃げて行く。
情けない、それでも教師かよと鼻で笑い、教室ではなく屋上へ向かうのは向けられる視線が鬱陶しいからだ。
日本人離れした整い過ぎるほど整った顔、この学校ではずば抜けて高い身長は人目を引く。加えてしょっちゅう問題を起こす凌河はこの地域では有名だった。自分から喧嘩を売る事はないが、売られた喧嘩はもれなく買うし負けた事もないため、目が合えば殺されると恐れられる程だ。
一人の方が気楽な凌河としては有り難いが、優しい幼馴染みには心配されておりそれだけが申し訳ない気持ちになる。
気怠げに階段を上がっていると、遠くの方から声が聞こえてきた。
どうやら曲がった先の奥からこちらへ歩いて来ているようだが、興味本位から何となく踊り場で立ち止まり階下を見下ろす。
「…い、……ります」
「……くんは、昔…………でたん……ね」
話し声は二人。片方は声色から中年ぽいため教師だろう。もう一人は高めだが男のようだ。新しい教員か? と思っていると影が伸び姿が現れる。
「書類は今週中にお願いしますね。明日から頑張って下さい」
「はい、ありがとうございました」
壁に阻まれ教師の姿は見えなかったが、同じ制服を身に纏った青年が教師がいるであろう方に頭を下げる横顔が見えた。
華奢だな、と凌河は思った。耳にかかる程度に伸ばされた黒い髪、襟足は短めだがそこから伸びるうなじさえも細い。
バリバリに着崩した凌河の制服とは違い、第一ボタンまでしっかりと留めた姿に真面目さが伺える。
胸元にプリントやら厚めの封筒やらを抱えて階段前を通り過ぎようとするその横顔は凛として綺麗で、凌河は思わず凝視した。まさか、と思う。
あまりにも見ていたせいか、青年が不意にこちらを向きピタッと視線が合った。
凌河がいた事に一瞬驚いた青年は、しかし次の瞬間には花が綻ぶような笑顔を向けて頭を下げ、再び歩き出す。
「……!」
いつかの少年と重なり、凌河の胸がドクンと脈打った。
しばらく呆けていた凌河はハッと我に返り慌てて青年が歩いて行った方へと走るが、すでにその姿はなく、校舎を出てからはどちらへ行ったかさえ分からない。
だがもう居場所は分かった。顔も、背格好も記憶した。あのタイの色が一年生だという事も。
「やっと見つけた…」
あの笑顔は間違いない、彼はあの時の少年だ。
凌河は逸る気持ちを押さえ、三度目ともなる電話を棗へとかけるのだった。
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