小指の先に恋願う

ミヅハ

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番外編

七瀬にとって初めての②

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 それから何故かあの日以来、近江とよく会うようになった。
 学校帰り、買い物途中、バイトから帰っている時、たまたま休日に出掛けた時。まるで見ていたかのように現れる近江に、七瀬は次第に不信感を募らせていた。
 しかもそんな時に限って凌河の残業が重なり、相談したくても出来ない状況が続いている。結局、連絡先の事も言えていない。

「天宮くん」
「あ、近江さん。いらっしゃいませ」
「ちょうど良かった、今度の日曜日空いてるかな?」
「え?」

 七瀬は週に3回シフトを入れて貰っていて、その全てに近江は来店し本や雑誌を買って行くのだが、今日は真っ直ぐに品出し中の七瀬のところへ来て唐突にそう問い掛けてきた。
 まるでお誘いとも取れる言葉に七瀬は困惑する。

「植物園のチケットを貰ったんだけど、良かったら一緒に行かない?」
「あの……そういうのは、お断りしたはずですが…」
断られたね。でもこれはまだ誘った事ないから…どうかな?」

 初めてこの人を怖いと思ったかもしれない。何度誘われても食事を断るという事は、それ以上の関わりを持つつもりはないと言っているようなものなのに、何故分かってくれないのか。

「俺は、近江さんと食事もお出掛けも出来ません」
「……どうして?」
「お付き合いしている人がいるからです」

 凌河と同じ目の色の宝石が埋め込まれた指輪は、学校にいる時以外は身に付けている。今だって左手の薬指に着いていて、近江が気付かないはずはないのだ。

「天宮くんは、『近江』という名に聞き覚えはないかい?」
「?」

 突然投げ掛けられた質問の意図が分からず首を傾げる。

「割と大きな会社なんだけど……近江製薬会社。俺、そこの社長なんだ」
「そ、そうなんですか」

『近江製薬会社』。名前は聞いたことがある。だが社会的に言えば圧倒的に久堂の家の方が大きく、七瀬は戸惑いながらも頷いた。
 だが、社長だから何だというのだろう。

「天宮くんになら、俺が持つ権限全てを使って贅沢をさせてあげてもいいよ。君のように身も心も美しい人は、俺にこそ相応しい」
「……!」

 ここに来てようやく七瀬は理解した。何故この人がこんなにも自分に声をかけるのか、近付いて来るのか。
 近江はずっと七瀬を口説いていたのだ。
 ただ距離の近い社交的な人だと思っていた七瀬はその事実に驚愕する。

「こんな安物の指輪を送るような男なんて辞めて、俺にするといい。大切にするよ」
「や、辞めて下さい…!」

 近江の手が七瀬の左手に触れようとし、慌てて後ろに下がる。
 この指輪の値段など知らないし知る必要もないが、七瀬にとっての価値は値段ではない。凌河が七瀬の為だけに用意した、七瀬の為だけに存在する指輪だ。他人が勝手に触れていいものではない。
 しかし近江はいつもと変わらない笑顔で距離を縮めてくる。
 残念な事に、店長は今所用で外へ出ている。店内に他の客はおらず、七瀬一人だ。普段なら何とも思わないのに、何故こんな時に限ってと毒突かずにはいられなかった。

「どうして、俺の恋人が男だって……」

 そう、確かに近江は言った。こんな安物の指輪を送るような〝男〟なんて、と。七瀬は一度も話した事ないのに、何故分かったのか。

「天宮くんは無防備だからね。君が屈んだ時に鎖骨が見えた事があったんだよ。随分愛されているようで……初めて嫉妬した。女性はあんな風には付けないからね」
「……っ…」

 七瀬は思わず襟元を掴み俯いた。凌河は七瀬を抱くたびに新しく痕を残すため、薄くなる事はあっても一つとしてなくなる事はない。まさかそれを見られていたとは。
 怯える七瀬の耳に、不意に小さくベルの音が聞こえた気がした。

「俺なら君をもっと気持ち良くしてあげられるよ」
「…っ…や…」

 今この瞬間でさえ怖気が走っているのにどうやって気持ち良くなれるというのだ。七瀬の背が突き当たりにぶつかり、近江の手が肩に触れ──ようとして引き離された。

「七瀬を気持ち良く出来るのは俺だけなんだけど?」

 聞き慣れた声と、ふわりと香るムスクの匂いに七瀬は泣きそうになった。
 近江よりも高い位置から見下ろす青い瞳には怒りが満ちており、近江の手首を掴んだ凌河の手に力が込もる。

「……っ…あ、あんたは…久堂家の……」
「近江製薬会社、近江貴匡社長。お世話になっております。まさか貴殿が、このようなところで私の恋人を口説いているとは思いませんでした」
「く、久堂、さん…の…恋人…?」
「ええ。私が愛してやまない大切な可愛い恋人です」
「…………」

 久堂グループと近江製薬会社は、どうやら面識があるらしい。大企業ともなればレセプションパーティーなどで関わる事もあるだろう。
 さすがの近江も、久堂という巨大企業相手には歯向かえないらしい。唇を噛んで腕を振り解くと、硬い足音を立てて足早に店を出て行った。
 呆然とする七瀬に凌河が近付く。

「大丈夫? 七瀬」
「……凌河さん、どうして…お仕事は…?」
「最近残業続きだったから、七瀬が足りなくて気が狂いそうって父さんに泣きついて来た」

 なんて事を父親に言っているんだ。そしてそれを聞く父親も甘すぎるだろう。七瀬は、今度は違う意味で泣きたくなった。

「棗が教えてくれた。近江って奴が明らかに七瀬を狙ってるって。まさかあの〝近江〟だとは思わなかったけど」
「棗さんが?」
「うん。それに、今日は定時よりも早く上がらせて貰ったから、七瀬が終わる時間まで家にいて迎えに来たんだけど……本当に良かった」
「え? じゃあ俺、今日はお迎え出来なかったって事?」
「七瀬のおかえりがないと、帰ったって気がしないね。ずっと違和感しかなかった」

 さっきの事よりも、七瀬にとっては帰宅した凌河を出迎えられなかったことの方がショックだ。凌河も凌河で、七瀬の気配がしないシンとした部屋に帰宅するのは思った以上に寂しくて。二人は顔を見合わせて微笑んだ。
 凌河の手が七瀬の頬に触れる。誰よりも安心出来る手に頬擦りした時、出入口のベルが鳴った。

「あら? 天宮くんどうしたの?」
「い、いえ。おかえりなさい…!」

 外出していた店長が帰って来るなり、真っ赤な顔をして通路に立つ七瀬を見付けて首を傾げる。その後ろでは背の高い美形が苦笑しているし、明らかに何かあったようにしか見えないのだが。

「遅くなってごめんなさいね。もう上がりでしょ? 交代するわ」
「あ、これだけ並べたら上がります」
「そう? ありがとう」

 そう言って店長は一度奥へと消える。七瀬は止めていた品出しの手を動かし、数分かけて並べ終えるとその様子を眺めていた凌河を振り返った。

「着替えて来るから、外で待っててくれる?」
「分かった。急がなくていいから、慌てて怪我したりしないようにね」
「う、うん」

 前科のある七瀬としては素直に頷く他ないが、凌河は満足気に七瀬の髪を撫で外へと出て行った。
 それにしても、今日はドッと疲れてしまった。自分の鈍さに感謝すべきか、それとも嘆くべきか、七瀬は困ってしまう。
 スタッフルームでタイムカードを押し、エプロンを外して上着を羽織る。荷物を手にカウンターにいる店長へ挨拶しベルを鳴らしながら扉をくぐると気付いた凌河が軽く腕を広げてくれた。
 一瞬だけ周りの目を気にした七瀬は、しかしその腕の中の心地良さを知っているだけに誘惑に負けて飛び込む。包み込まれるように抱き締められ、思ったよりも近江の事が怖かったのだと実感した。
 凌河の腕は七瀬の不安な気持ち全てを吹き飛ばしてくれる。

「七瀬、お疲れ様」
「凌河さんも、おかえりなさい」
「ただいま」

 人々が行き交う中、凌河の顔が近付き七瀬は素直に目を閉じた。触れるだけの口付けだけれど今はこれだけで十分だ。

「せっかくだし、何か食べて帰ろうか」
「牛丼屋さんに行きたい」
「…そっか、まだ行った事なかったか。うん、じゃあ行こう」

 背中に回っていた腕が外され代わりに手を握られる。七瀬の手をすっぽりと覆ってしまうくらい大きな手にこの上ない温かさを感じながら、七瀬は初めての牛丼屋へと足を進めた。



「ああそうだ。あいつの連絡先、俺が捨てといたから」
「え? いつの間にか見なくなったと思ったら…」
「あんなものはすぐゴミ箱に捨てていいからね」
「う、うん」

 凌河の前では近江の個人情報など、埃や塵と同じ掃いて捨てるべき物なのだった。
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