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第6話 夜の回廊、初めての密会
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上層街の灯りが一段落ちる刻限になると、聖塔の白い回廊は、昼よりも音がよく通った。靴底が大理石を叩くたび、反射した月灯りが柱の縁を薄くなぞる。噴水の水音は遠く、かわりに――紙をめくる音が、やけに大きい。
「……よし」
ヴァランは回廊の角で立ち止まり、手元の板に固定した書面を見下ろした。上から順に、きっちり線が引かれ、丸印が付けられている。
「巡回の開始時刻、二十三時十分。確認項目――灯具の点灯数、扉の施錠、窓の留め具、床の欠け、柱の傷、香の残り……」
読み上げながら、丸印を増やしていく。灯具は数えてある。扉も触れた。窓も揺すった。床も見た。
にもかかわらず、背中の肩甲骨のあたりが、落ち着かない。
視線を上げると、柱の影の中にシェルヴィがいた。声はない。けれど、そこに立っているだけで、ヴァランの呼吸が勝手に整ってしまう。
「……あなた、足音が小さすぎます」
「……気になるなら、言う」
それだけ。
言う、とは、何を。訊ねる前に、シェルヴィは回廊の先へ視線を投げ、顎で「行く」と示した。ヴァランは書面を抱え、ついていく。彼の背中は、月灯りに輪郭だけを取られて、影と光のあいだに立っている。
今夜の巡回には理由がある。歌劇団の控室で受け取った鍵。カムーが言った「稽古場の裏の細い通路」。上層街の社交の喧噪から、聖塔へ繋がる抜け道。文化祭の親玉が消えたその日から、噂と数字は散らばっていたが、通路という一本の線が、ようやく見えた。
ヴァランはその線を、完璧に引きたい。
そのために、夜でも歩く。眠気が来ても歩く。胸の棘が疼いても歩く。
「監査官」
シェルヴィが、回廊の途中で足を止めた。窓際の月灯りが、彼の睫毛に薄い影を落とす。
「靴」
「……靴?」
ヴァランは自分の足元を見た。上層街の作法のために選んだ、控えめな踵の靴。昼なら問題ない。けれど、夜の大理石は露を含み、滑る。彼は言葉の代わりに、視線で床の薄い濡れを示した。
「大丈夫です。私は――」
言いかけて、足がほんの少し横に流れた。
「あっ」
体が傾く。手に持った板と灯具が同時に揺れる。ヴァランの頭の中で、丸印が散らばった。
次の瞬間、腰に腕が回った。
抱きとめられた。
あまりに当然の動きで、怒るための言葉が遅れる。ヴァランの頬に、硬い布の感触が触れた。シェルヴィの外套。胸板の熱が、布越しに伝わってくる。耳の近くで、彼の息がひとつ落ちた。
月灯りが、噴水の水面を通して揺らいだ。
それに合わせて、ヴァランの内側が――一瞬、裂けた。
白い回廊。もっと古い石の匂い。誰かの手が伸びてくる。振りほどく。置いていく。胸が痛いのに、足は止めない。どこかで装置が唸り、光が暴れ、誰かが短く言う。
「……待て」
その声が、今の耳元と重なった。
ヴァランは息を詰め、反射で身を引こうとした。だが、引く前に、シェルヴィが腕をほどいた。まるで最初から触れていなかったように、距離ができる。彼の手は、余計なところに残らない。
「……怪我は」
「ありません。……ありますけど」
「どっちだ」
「怪我は、ありません。ですが」
ヴァランは言葉を整えようとした。整えれば整えるほど、舌がもつれる。
「ですが、今のは……」
「滑る。言った」
言った。確かに言った。二語で。
ヴァランは言い返したかった。危険だと分かっていたなら、最初から腕を取って引けばいい。なぜ抱く形になる。いや、抱くという表現も適切ではない。護衛官としての――
そこまで考えたところで、回廊の反対側から、別の足音が近づいてきた。
「おや。夜更けに二人連れとは、珍しい」
聖塔の夜番の司祭が、灯具を掲げて現れた。笑みは軽い。だが視線が、ヴァランの頬と、シェルヴィの外套の裾を行き来した。
ヴァランは瞬時に背筋を伸ばし、胸元の徽章を司祭に向けた。
「監査の一環です。巡回記録を――」
「夜の散歩が監査とは。上層街も洒落てきたね」
「散歩ではありません」
否定の声が、思ったより大きく響いた。司祭は肩をすくめ、楽しそうに笑った。
「そうかそうか。なら、失礼。二人とも、足元に気をつけなさい。大理石は恋人よりもよく滑る」
「……その比喩は不要です」
ヴァランが硬く返すと、シェルヴィが小さく咳払いをした。たぶん笑いを飲み込んだ。
司祭が去ったあと、回廊に残るのは、噴水の音と、ヴァランの筆の走る音だけだった。彼女は板に震える線を引き、丸印を二つ書き足した。
「床の濡れ、司祭の比喩が不用意」
「後者は書くな」
「記録です」
「読まれる」
「……なら、私の控えにだけ残します」
そのやり取りが、自分でも少し可笑しかった。可笑しい、という感覚が、腹の底に温かく広がる。ヴァランは咳払いをして、真面目な顔に戻る努力をした。
巡回は続く。
窓の留め具を確かめ、柱の傷をなぞり、床の欠けを探す。途中、回廊の端にある小さな物置の扉が、わずかに浮いているのを見つけた。
ヴァランは鍵を差し込み、静かに回す。カムーの鍵は、ここにも合った。
扉が軋んで開く。中の空気は冷たい。乾いた布と油の匂い。灯具の光が、壁際の木箱を照らした。
木箱の蓋が、半分だけ開いている。
ヴァランは手袋越しに蓋を持ち上げた。中身は――空だ。だが、底に薄い粉が残っていた。銀色に見えるが、灯りを揺らすと、淡い青に変わる。
「ムーンジェイドの粉……?」
ヴァランが呟くと、シェルヴィは箱の内側に指を滑らせた。爪で、ほんの少し削り取る。指先に粉が付く。彼は鼻先へ寄せ、匂いを確かめた。
「油」
「加工油?」
「……工房の」
短い答え。だが、十分だ。イシャックの工房へ繋がる線が、さらに濃くなった。
ヴァランは板に新しい項目を書き足した。文字が、いつもより少しだけ丸い。
「物置に木箱。粉末。加工油の痕跡。巡回――成果あり」
書き終えたところで、ヴァランはふと、手元の持ち物表を見た。そこに、丸が付いていない項目がひとつだけ残っている。
「……滑り止め布」
ヴァランは呟き、口元を引き結んだ。持ってきたはずの袋が、ない。昼間の机の上に置いたままだ。
シェルヴィが、黙って自分の腰の袋から、畳んだ布を取り出した。濃い色の布。端が丁寧に縫ってある。
それを、ヴァランの靴底に近い位置へ差し出した。
「……あなたの持ち物ですか」
「余分」
「余分を持ち歩くのは、規定外です」
「滑る」
言い返す言葉が、また遅れた。ヴァランは布を受け取った。手袋越しでも、布が温かい。彼の体温が移っているせいか、あるいは――さっきの抱きとめられた熱が、まだ指先に残っているせいか。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ小さくなる。
シェルヴィは返事をしなかった。その代わり、外套を脱いで、ヴァランの肩に掛けた。布が重い。丈が長い。ヴァランの膝まで隠れる。
「待ってください。これは……」
「冷える」
「私は冷えていません」
「顔、赤い」
「……怒っているだけです」
自分で言って、自分で変だと思った。怒っているのに、暖かい。
シェルヴィは「そうか」とだけ言い、回廊の先へ歩き出した。ヴァランは外套の裾を持ち上げて追う。裾が床を掃き、司祭の比喩が頭をよぎって、また腹の底がむず痒くなる。
回廊の窓から見える都は、灯りが点々と残っていた。工房街の炉の赤、上層街の月灯りの白。聖塔の中心で、祀られたムーンジェイドが、今夜は淡い青に光っている――理性の色だと、誰かが言っていた。
ヴァランは息を吐いた。
「……私は、完璧に戻したい。親玉も、段取りも、全部」
言ってしまってから、胸の奥がざらつく。完璧。いつも自分を縛る言葉だ。
シェルヴィは窓辺で止まり、都を見下ろした。少しだけ間を置いて、低く言う。
「全部は、無理だ」
「……監査官に向かって失礼です」
「無理でも、守る」
「何を」
「……君を、先に」
ヴァランは返事ができなかった。喉が、さっきの前世の断片に引っかかっている。置いていく手。待てという声。今度は違う、という意味の短い言葉。
彼女は板を抱え直し、外套の襟を掴んだ。握りしめる指先が、少し震えるのを、シェルヴィに見られたくない。
「続けます。次は、通路の出口を確認します」
業務の声に戻す。
シェルヴィは「うん」と小さく答え、再び先に立った。
その背中を見ながら、ヴァランは外套の重さを確かめた。重いのに、嫌ではない。
月灯りが、窓の縁で一瞬だけ桃色に滲んだ気がした。たぶん、気のせいだ。たぶん――。
「……よし」
ヴァランは回廊の角で立ち止まり、手元の板に固定した書面を見下ろした。上から順に、きっちり線が引かれ、丸印が付けられている。
「巡回の開始時刻、二十三時十分。確認項目――灯具の点灯数、扉の施錠、窓の留め具、床の欠け、柱の傷、香の残り……」
読み上げながら、丸印を増やしていく。灯具は数えてある。扉も触れた。窓も揺すった。床も見た。
にもかかわらず、背中の肩甲骨のあたりが、落ち着かない。
視線を上げると、柱の影の中にシェルヴィがいた。声はない。けれど、そこに立っているだけで、ヴァランの呼吸が勝手に整ってしまう。
「……あなた、足音が小さすぎます」
「……気になるなら、言う」
それだけ。
言う、とは、何を。訊ねる前に、シェルヴィは回廊の先へ視線を投げ、顎で「行く」と示した。ヴァランは書面を抱え、ついていく。彼の背中は、月灯りに輪郭だけを取られて、影と光のあいだに立っている。
今夜の巡回には理由がある。歌劇団の控室で受け取った鍵。カムーが言った「稽古場の裏の細い通路」。上層街の社交の喧噪から、聖塔へ繋がる抜け道。文化祭の親玉が消えたその日から、噂と数字は散らばっていたが、通路という一本の線が、ようやく見えた。
ヴァランはその線を、完璧に引きたい。
そのために、夜でも歩く。眠気が来ても歩く。胸の棘が疼いても歩く。
「監査官」
シェルヴィが、回廊の途中で足を止めた。窓際の月灯りが、彼の睫毛に薄い影を落とす。
「靴」
「……靴?」
ヴァランは自分の足元を見た。上層街の作法のために選んだ、控えめな踵の靴。昼なら問題ない。けれど、夜の大理石は露を含み、滑る。彼は言葉の代わりに、視線で床の薄い濡れを示した。
「大丈夫です。私は――」
言いかけて、足がほんの少し横に流れた。
「あっ」
体が傾く。手に持った板と灯具が同時に揺れる。ヴァランの頭の中で、丸印が散らばった。
次の瞬間、腰に腕が回った。
抱きとめられた。
あまりに当然の動きで、怒るための言葉が遅れる。ヴァランの頬に、硬い布の感触が触れた。シェルヴィの外套。胸板の熱が、布越しに伝わってくる。耳の近くで、彼の息がひとつ落ちた。
月灯りが、噴水の水面を通して揺らいだ。
それに合わせて、ヴァランの内側が――一瞬、裂けた。
白い回廊。もっと古い石の匂い。誰かの手が伸びてくる。振りほどく。置いていく。胸が痛いのに、足は止めない。どこかで装置が唸り、光が暴れ、誰かが短く言う。
「……待て」
その声が、今の耳元と重なった。
ヴァランは息を詰め、反射で身を引こうとした。だが、引く前に、シェルヴィが腕をほどいた。まるで最初から触れていなかったように、距離ができる。彼の手は、余計なところに残らない。
「……怪我は」
「ありません。……ありますけど」
「どっちだ」
「怪我は、ありません。ですが」
ヴァランは言葉を整えようとした。整えれば整えるほど、舌がもつれる。
「ですが、今のは……」
「滑る。言った」
言った。確かに言った。二語で。
ヴァランは言い返したかった。危険だと分かっていたなら、最初から腕を取って引けばいい。なぜ抱く形になる。いや、抱くという表現も適切ではない。護衛官としての――
そこまで考えたところで、回廊の反対側から、別の足音が近づいてきた。
「おや。夜更けに二人連れとは、珍しい」
聖塔の夜番の司祭が、灯具を掲げて現れた。笑みは軽い。だが視線が、ヴァランの頬と、シェルヴィの外套の裾を行き来した。
ヴァランは瞬時に背筋を伸ばし、胸元の徽章を司祭に向けた。
「監査の一環です。巡回記録を――」
「夜の散歩が監査とは。上層街も洒落てきたね」
「散歩ではありません」
否定の声が、思ったより大きく響いた。司祭は肩をすくめ、楽しそうに笑った。
「そうかそうか。なら、失礼。二人とも、足元に気をつけなさい。大理石は恋人よりもよく滑る」
「……その比喩は不要です」
ヴァランが硬く返すと、シェルヴィが小さく咳払いをした。たぶん笑いを飲み込んだ。
司祭が去ったあと、回廊に残るのは、噴水の音と、ヴァランの筆の走る音だけだった。彼女は板に震える線を引き、丸印を二つ書き足した。
「床の濡れ、司祭の比喩が不用意」
「後者は書くな」
「記録です」
「読まれる」
「……なら、私の控えにだけ残します」
そのやり取りが、自分でも少し可笑しかった。可笑しい、という感覚が、腹の底に温かく広がる。ヴァランは咳払いをして、真面目な顔に戻る努力をした。
巡回は続く。
窓の留め具を確かめ、柱の傷をなぞり、床の欠けを探す。途中、回廊の端にある小さな物置の扉が、わずかに浮いているのを見つけた。
ヴァランは鍵を差し込み、静かに回す。カムーの鍵は、ここにも合った。
扉が軋んで開く。中の空気は冷たい。乾いた布と油の匂い。灯具の光が、壁際の木箱を照らした。
木箱の蓋が、半分だけ開いている。
ヴァランは手袋越しに蓋を持ち上げた。中身は――空だ。だが、底に薄い粉が残っていた。銀色に見えるが、灯りを揺らすと、淡い青に変わる。
「ムーンジェイドの粉……?」
ヴァランが呟くと、シェルヴィは箱の内側に指を滑らせた。爪で、ほんの少し削り取る。指先に粉が付く。彼は鼻先へ寄せ、匂いを確かめた。
「油」
「加工油?」
「……工房の」
短い答え。だが、十分だ。イシャックの工房へ繋がる線が、さらに濃くなった。
ヴァランは板に新しい項目を書き足した。文字が、いつもより少しだけ丸い。
「物置に木箱。粉末。加工油の痕跡。巡回――成果あり」
書き終えたところで、ヴァランはふと、手元の持ち物表を見た。そこに、丸が付いていない項目がひとつだけ残っている。
「……滑り止め布」
ヴァランは呟き、口元を引き結んだ。持ってきたはずの袋が、ない。昼間の机の上に置いたままだ。
シェルヴィが、黙って自分の腰の袋から、畳んだ布を取り出した。濃い色の布。端が丁寧に縫ってある。
それを、ヴァランの靴底に近い位置へ差し出した。
「……あなたの持ち物ですか」
「余分」
「余分を持ち歩くのは、規定外です」
「滑る」
言い返す言葉が、また遅れた。ヴァランは布を受け取った。手袋越しでも、布が温かい。彼の体温が移っているせいか、あるいは――さっきの抱きとめられた熱が、まだ指先に残っているせいか。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ小さくなる。
シェルヴィは返事をしなかった。その代わり、外套を脱いで、ヴァランの肩に掛けた。布が重い。丈が長い。ヴァランの膝まで隠れる。
「待ってください。これは……」
「冷える」
「私は冷えていません」
「顔、赤い」
「……怒っているだけです」
自分で言って、自分で変だと思った。怒っているのに、暖かい。
シェルヴィは「そうか」とだけ言い、回廊の先へ歩き出した。ヴァランは外套の裾を持ち上げて追う。裾が床を掃き、司祭の比喩が頭をよぎって、また腹の底がむず痒くなる。
回廊の窓から見える都は、灯りが点々と残っていた。工房街の炉の赤、上層街の月灯りの白。聖塔の中心で、祀られたムーンジェイドが、今夜は淡い青に光っている――理性の色だと、誰かが言っていた。
ヴァランは息を吐いた。
「……私は、完璧に戻したい。親玉も、段取りも、全部」
言ってしまってから、胸の奥がざらつく。完璧。いつも自分を縛る言葉だ。
シェルヴィは窓辺で止まり、都を見下ろした。少しだけ間を置いて、低く言う。
「全部は、無理だ」
「……監査官に向かって失礼です」
「無理でも、守る」
「何を」
「……君を、先に」
ヴァランは返事ができなかった。喉が、さっきの前世の断片に引っかかっている。置いていく手。待てという声。今度は違う、という意味の短い言葉。
彼女は板を抱え直し、外套の襟を掴んだ。握りしめる指先が、少し震えるのを、シェルヴィに見られたくない。
「続けます。次は、通路の出口を確認します」
業務の声に戻す。
シェルヴィは「うん」と小さく答え、再び先に立った。
その背中を見ながら、ヴァランは外套の重さを確かめた。重いのに、嫌ではない。
月灯りが、窓の縁で一瞬だけ桃色に滲んだ気がした。たぶん、気のせいだ。たぶん――。
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