月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第7話 偽の手紙と、真面目すぎる返事

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 翌朝、整備局の窓は結露で白く曇っていた。ヴァランは机の角に布を当て、曇りを拭き取る。昨日の巡回で外套に残った月灯りの冷たさが、まだ指先に残っている気がした。

  机の上には、貸出記録の写し、上層街の通路図、歌劇場の裏口で受け取った鍵――並べた紙の端が一枚でもずれていると、胸の奥が小さくざらつく。ヴァランはそれを押し込めるように、紙束を一度持ち上げ、角を揃えてから置いた。

  扉が叩かれ、局の書記が顔を出した。
  「監査官、聖塔から通達が届いております」
  封蝋の赤が、朝の薄い光の中で妙に鮮やかだった。

  ヴァランは封を切り、文面を追った。巡回の報告ではない。親玉の捜索でもない。――ルナ・フェスタに合わせ、聖塔の回廊に「いつもお世話になっている人へメッセージ」を掲げる、とのことだった。市民が感謝を書き、塔の柱に吊るす。噴水のそばに投函箱も設ける。

  「……忙しい時に、余計な……」
  口を出た言葉を、ヴァランはすぐ飲み込んだ。通達の末尾に、監査官名があった。整備局が設営の検品を担当する、と。彼女の名前で。

  彼女は自分の署名を確かめ、胸元の徽章を押さえた。自分が段取りを受ける以上、曖昧に扱えない。紙の数、吊り具の強度、投函箱の鍵、掲示の位置――必要な項目が頭の中で並び、勝手に番号を振り始める。

  昼過ぎ、ヴァランは聖塔へ向かった。白い回廊は昼でも月灯りが残るように青く、柱の間を抜ける風が紙の端をひらりと持ち上げる。噴水のそばには、早くも木の箱が置かれ、側面に小さな札が掛かっていた。

  『メッセージ投函箱 鍵は司祭室にて管理』

  札の文字が曲がっている。ヴァランは即座にペンを取り出し、札を外して書き直した。縦の線。間隔。はね。自分でも面倒なこだわりだと分かるのに、手が勝手に動く。

  「そこまで真っ直ぐにすると、紙が泣きますわよ」
  背後から、甘い声が落ちた。

  振り向くと、淡い色の外套を揺らしながらコワリクが立っていた。手には、金粉が散った便箋束。指先で一枚ずつ撫で、光を確かめるように揺らしている。

  「監査官は、感謝の紙にも定規を当てるのね」
  「吊り具が外れれば、回廊の通行に支障が出ます」
  「そういう話ではなくて」
  コワリクは肩をすくめ、噴水の縁に腰掛けた。水面が彼女の指輪を映し、揺れて消える。

  「せっかくだから、あなたも書きなさい。『お世話になっている人へ』でしょう?」
  「私は監査です」
  「監査官も、人に支えられて生きているはず」
  コワリクは便箋束から一枚抜き、ヴァランの胸元へ押し当てるように差し出した。月灯りの模様が刷られた紙が、白い手袋に触れて震えた。

  ヴァランは受け取った。断ると面倒が長引く。そう判断したはずなのに、指先が紙を落とさないように妙に慎重になる。

  「……形式は?」
  「形式? 『好き』でも『ありがとう』でもいいのよ。切り貼りした花でも」
  「掲示に不適切な表現は禁止です」
  「真面目すぎる返事」

  コワリクの言葉のあと、足音が一つ近づいた。噴水の反対側の影から、シェルヴィが現れる。巡回のときと同じ外套。肩の留め具が、昼の光で鈍く光っていた。

  「護衛官、こちらの設営確認を――」
  ヴァランが言いかけると、シェルヴィは短く頷いた。視線は投函箱。次に吊り具。最後に、ヴァランの手元の便箋へ落ちる。

  見られた。胸が一度だけ早く鳴った。
  ヴァランは便箋を板の下へ隠すように挟み、咳払いをした。

  「書くんでしょう?」
  コワリクが楽しそうに言い、便箋と羽根ペンを置いた小机を指した。小机の脚は細く、揺らせばすぐ傾きそうだ。ヴァランは机の水平を確かめ、下に楔を差し込んで安定させた。

  「……必要なら書きます。規定があるなら、規定に沿って」
  ペン先を整え、インクの濃さを確かめる。紙の中央に、まず宛名を書く。宛名が決まらないと、文が決まらない。

  誰に?
  昨日、滑り止め布を差し出した手。抱き止めた腕。『君を、先に』という声。

  ヴァランは宛名の行に、極めて小さく書いた。
  『聖塔付き護衛官 シェルヴィ殿』

  書いた瞬間、背中に視線の温度が刺さった気がして、ヴァランはペンを止めた。顔を上げると、シェルヴィは回廊の柱の影に立ったまま、動かない。見ているのか、見ていないのか、分からない。分からないから、余計に手が重くなる。

  ヴァランは文を続けた。

  『平素より、聖塔の安全維持に尽力されていることに敬意を表します。本件捜索に際し、貴殿より適切な補助を受けたため――』

  「それ、監査報告書?」
  コワリクが噴水の縁で肩を揺らした。笑い声ではない。けれど口元が押し上がっている。
  「……違います」
  「『本件』って、感謝に本件って」
  「必要な情報です」
  「必要な情報は、ここに吊るして読ませるものではないわ」

  ヴァランは文を読み返した。確かに、読んだ人が腰を引きそうな言葉が並んでいる。彼女はペンを握り直し、語尾を柔らかくしようと試みた。

  『……貴殿の助力により、当職は転倒による負傷を回避できました。重ねて――』

  「転倒による負傷って、恋文に入れる言葉じゃない」
  コワリクは便箋束を揺らし、金粉を光らせた。
  「恋文?」
  ヴァランの声が裏返りかけ、急いで咳払いで誤魔化した。
  「これは、感謝の文です」

  その瞬間、シェルヴィが一歩だけ前へ出た。足音は小さい。けれど、彼が動いたと分かった。
  彼はヴァランの手元の便箋を見ず、投函箱の鍵穴へ視線を落とした。
  「……鍵、二つ」
  「司祭室で一本、監査用に一本。複製禁止」
  ヴァランはすぐ答え、また便箋へ視線を戻した。業務の声は出る。だが、紙の上の言葉が出ない。

  『ありがとう』と書けば済むのに。
  それだけで済むのに、指が止まる。昨日の熱が、紙に移るのが怖い。

  ヴァランは、用意していた表現へ逃げた。
  『以上、取り急ぎ御礼申し上げます。――整備局監査官 ヴァラン』

  署名を書き終えた瞬間、紙の中の自分が急に他人に見えた。丁寧で、正しくて、どこにも自分の息がない。これは感謝の形をした何かで、本当の言葉はその下で黙っている。

  ヴァランは便箋をぐしゃりと握り潰しそうになり、寸前で止めた。握れば紙が泣く、と言われた。泣かせたくない。代わりに、端を折り、丸め、投函箱へ――入れようとして、手が止まる。

  「捨てるの?」
  コワリクの声は軽い。
  ヴァランは丸めた紙を、投函箱の脇の籠へ落とした。籠には失敗作が入る、と司祭が言っていた。彼女は顔を上げず、代わりの便箋を探した。

  そのとき、籠の上に影が落ちた。
  シェルヴィが、黙って丸めた紙を拾い上げた。指先でそっと広げ、折れた部分を撫でる。破れた縁を指で揃え、もう一度丁寧に畳む。

  「……それは、捨てる分です」
  ヴァランは反射で言った。監査官として。正しい手順として。

  シェルヴィは畳んだ紙を、自分の外套の内側へ滑り込ませた。胸元の留め具の奥。しまい方が、武器の予備を入れるときと同じだ。

  「……捨てない」
  それだけ言って、彼は投函箱の周りを確かめる動きに戻った。

  ヴァランは言葉を失った。捨てると言ったのに捨てない。拾わないと言ったのに拾う。危ないと言うのに、自分が危ない場所へ踏み込む。

  「まあ」
  コワリクが小さく手を叩いた。
  「あなたの偽の手紙、本人に回収されたわね」
  「偽ではありません」
  「息をしていないって意味よ。あれは書面。あなたは、ここにいるのに、いないみたい」

  コワリクの言葉が、噴水の水音に混ざって胸へ落ちた。反論しようとして、ヴァランは口を開いたまま閉じた。否定できるほど、自分の中が整っていない。

  回廊の柱に、最初のメッセージが吊るされた。子どもの字で『パンを焼いてくれてありがとう』。別の紙には『夜に道を照らしてくれてありがとう』。短い。滲んでいる。けれど、その紙から人の匂いがする。

  ヴァランは自分の便箋を見下ろし、空白のまま握り締めた。息をしている言葉を、どこに置けばいいか分からない。

  「監査官」
  シェルヴィが呼んだ。声は小さいのに、耳の奥へ真っ直ぐ入る。
  「足元」
  ヴァランは視線を下げ、噴水の縁の濡れた石に気づいた。彼女は一歩退き、転ばない位置へ立ち直る。昨日と同じように、彼が先に危ない場所を示す。

  「……ありがとうございます」
  ヴァランは、便箋ではなく、口で言った。声は思ったより短く出た。

  シェルヴィは返事をしなかった。代わりに、外套の胸元へ指先を一瞬だけ当てた。そこに、彼女の紙が入っているのだと、言葉より先に伝わる。

  ヴァランは頬の内側を噛み、息を整えた。噴水の水面が月灯りを跳ね返し、回廊の天井に小さな光の粒を撒いた。その粒が、彼女の便箋の白に落ちて、文字になる前の場所だけを淡く照らした。

  光の粒のきらめきが、親玉ムーンジェイドの月虹にどこか似ているのが腹立たしかった。都の心臓が抜けたままなのに、光だけが真似をする。
  思い出そうとすると、白へ移る瞬間だけが掴めない。胸の奥がひやりと空いて、ヴァランは便箋の端を、指が痛むほど折り直した。

  ――偽じゃない手紙を、いつか書く。
  そう思っただけで、胸がうるさくなる。

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