月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第20話 聖塔の地下、止まらない装置

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 聖塔の鐘の低い音は、石の回廊を伝って腹の底まで沈んだ。広場の白布が風にふくらみ、銀の紐がしゃらりと鳴る。灯りはまだ落ちていないのに、都の息づかいが一拍遅れている気がした。

  胸の奥で、昨夜見た夢の白い光がまだ揺れていた。手を離した瞬間の冷たさが、指の関節に残っている気がする。

  ヴァランはそれを押し込めるように唇を噛み、鐘の余韻の中で言葉を選んだ。怖いからこそ、順番を間違えない。

  アデムは封筒を抱えたまま、聖塔の側面にある細い扉へヴァランを導いた。普段は整備局の記録係しか通らない搬入口だ。彼は鍵束を鳴らさないように持ち、最後の一本を選んで差し込む。
  「この先、手すりが欠けています。足元だけ」
  言い切る前に、シェルヴィが半歩前へ出て、扉の隙間を覗いた。目だけ動かし、うなずく。いつもの無駄のない確認だった。

  扉の向こうは、白い大理石ではなかった。湿った石壁が月明かりを吸い、冷たい匂いが喉の奥を刺す。階段は螺旋で、下へ下へと続いている。壁に等間隔で灯る小さな灯籠の色が、薄い青に揺れていた。
  ヴァランは帳面を開き、無意識に段数を数え始める。
  「一、二、三……」
  シェルヴィが、すぐ後ろで低く言った。
  「今は数えなくていい」
  「地図がない場所は、数えて——」
  「転ぶ」
  短い。けれど、否定ではなく守り方だった。ヴァランは口を閉じ、代わりに手すりの冷たさを確かめて、指先で欠けをなぞった。欠けは、思ったより深い。数えながら歩けば、足が取られる。

  下の方から、機械が息をしている音がした。水が流れるような、金属が擦れるような、規則のある唸り。都の上では聞こえない音が、ここでは鼓動のように近い。
  階段を降り切ると、広い空間が開けた。天井は低く、梁が何本も渡されている。中央に、巨大な円盤状の装置があった。円盤の縁に溝が掘られ、そこへ淡い光の液が巡っている。光はムーンジェイドの粉を溶かした色で、青と白の間をゆっくり行き来していた。

  ヴァランは思わず、息を呑んだ。
  「……都の灯りは、これで」
  アデムが頷く。
  「地下の循環装置です。上層街の街灯も、工房街の炉の補助灯も。月の鉱脈から流す力を、ここで均して配っています」
  説明は知っていた。帳簿の上では。けれど、実物を前にすると、数字が薄くなる。装置は古い。けれど手入れが行き届き、油の匂いの奥に、石を磨いたときの甘い粉の匂いが混じっている。誰かが、ここを「生き物」として扱ってきた。

  シェルヴィは装置の周囲を一周し、床に落ちた細い金属片を拾い上げた。指先で捻り、ヴァランへ見せる。ねじの頭が、無理に潰されている。
  ヴァランは封筒の中の搬送記録を取り出し、装置の側面に刻まれた番号と照らし合わせた。刻印の列が、妙に新しい。削り直した跡がある。
  「……最近、開けた痕跡」
  その瞬間、円盤の唸りが一段高くなった。灯籠の光が一斉に揺れ、壁の湿り気が、冷たい汗みたいに肌へ貼りつく。

  「暴走の兆しがある」と、記録には一行だけ書いてあった。だから、頭では分かっていた。けれど、目の前で装置が急に息を荒くするのは、想像と違う怖さだった。
  ヴァランはいつものように、怖さを数字へ押し込めようとした。
  「回転数が……標準より、二割……」
  言葉が途中で途切れた。視界の端で、光の液が一瞬、朱に染まったからだ。赤ではない。血の色ではなく、朱い印章の色。あの欠片が見せる、警告の色。

  胸の奥が、きゅっと縮む。音が遠のき、代わりに誰かの声が近づく。
  ――やめろ。今、止めるな。
  女の声。自分の声だ。けれど、今の自分より少し低くて、疲れている。
  次に聞こえたのは、男の声だった。
  ――待て。置いていくな。
  名前が、口の中に浮かぶ。言葉になりかけて、喉に引っかかる。呼んだら戻れなくなる気がして、ヴァランは歯を噛みしめた。

  足元がわずかに揺れた。現実へ引き戻される。装置の円盤の一部が、異様に速く回っている。溝を巡る光が泡立ち、跳ねた雫が床に落ちて、すぐ消えた。
  「ヴァラン」
  シェルヴィの声は低く、短い。名前だけで、背筋が立つ。
  ヴァランは頷こうとして、首が上手く動かない。自分の声が震えているのが分かるのに、止められない。
  「……理解、しました」
  誰に、何を。自分でも曖昧な返事だった。

  シェルヴィは近づいてきて、装置とヴァランの間に立った。彼の外套の裾が、光を受けて薄い銀になる。言葉はないのに、視界の中心が落ち着く。逃げるな、と装置が言う前に、彼の背が「ここにいろ」と言った。

  ヴァランは深呼吸し、装置の側面の蓋へ手を伸ばした。潰れたねじのところだ。アデムが工具袋を差し出す。彼の手が、わずかに震えている。
  「監査官、これ以上回ると、上の街灯が——」
  「落ちる前に、原因を抜きます」
  ヴァランはそう言い切ってから、ふと気づいた。自分の言い方が、いつもより硬くない。強がりで固めた声ではなく、必要な順番をただ告げる声だった。

  ねじを外すと、蓋の内側から熱い風が吹き出した。湿った地下の冷気とぶつかり、白い靄になる。そこに、ムーンジェイドの欠片をはめ込む座があった。けれど中央の受け皿は空で、金属の縁だけが黒く焦げている。
  「親玉は……ここに座るはず」
  ヴァランが呟くと、アデムが顔をしかめた。
  「では、持ち出された?」
  シェルヴィが指先で黒い焦げを擦り、匂いを確かめるようにわずかに鼻を動かした。次の瞬間、彼はヴァランを見た。
  「……樹脂」
  「樹脂?」
  「仮面の内側と、同じ」
  第17話で拾った黒い仮面。鍵穴の周囲に残っていた、あの粘つく匂い。ここにも同じものがある。つまり、装置に触れたのは「整備局の者」だけではない。

  円盤がまた唸った。壁の灯籠が一つ、ぷつりと消えた。暗闇が増えるのに、装置の中心だけが眩しい。都の灯りが、どこかで吸い上げられている。
  ヴァランは帳面を閉じ、蓋の内側に刻まれた小さな文字列を読み取った。古い整備記録の符号だ。前世の自分が書いたように、指が勝手に追ってしまう。
  「……停止弁、第三。分流弁、第二。均し輪、固定」
  口に出すと、装置の構造が頭の中で立ち上がる。初めて見るのに、知っている。知っているのが怖いのに、同時にそれが頼もしい。

  シェルヴィが、指示された弁へ向かった。手を掛けて、止まった。
  「どっちに回す」
  ヴァランは一瞬だけ言葉に詰まった。帳簿の中では右回りだった。けれど、今の装置は改修されている。刻印が削り直されていた。ここで間違えれば、都の灯りが一気に落ちる。
  ヴァランの喉が乾く。前世の声がまた、耳の奥で囁いた。
  ――右だ。だが、最後まで回すな。
  「……右。半回転で止めて」
  シェルヴィは頷き、黙って回した。金属が軋み、指の力だけで回り切らないところで、彼は体重を乗せた。肩の筋が動き、外套の布が張る。半回転で止めた瞬間、円盤の唸りが一息落ちた。

  灯籠が一つ、戻るように灯った。弱いが、消えなかった。
  ヴァランは胸の奥で、ようやく息を吐いた。自分の判断が、都の夜を繋いだ。その事実が怖いのに、少しだけ誇らしい。

  しかし、装置の中心はまだ速い。空の受け皿が、まるで心臓の穴みたいに、熱を吐いている。
  ヴァランは手を伸ばし、受け皿の縁に触れた。熱い。火傷するほどではないが、長く触れれば痛い熱だ。
  その瞬間、指先に、別の温度が重なった。
  シェルヴィの手だった。彼は言葉を発さず、ヴァランの手首をそっと引いて、熱から遠ざける。包帯の下の皮膚が、布越しにわずかに硬い。
  ヴァランは視線を落とし、喉の奥が苦くなるのを感じた。彼が傷を隠していることを、知っている。それでも、今は自分を先に引き戻した。

  「前に……ここで、誰かを置いて……」
  声が勝手に漏れた。言うつもりではなかった。けれど、口が止まらない。
  ヴァランは拳を握り、爪を掌に食い込ませる。痛みで現実へ繋ぎ止めようとした。
  「それでも、止めた。都を守るために。……だから、今も……」
  最後の言葉が崩れ、息だけが震えた。

  シェルヴィは、返事をしない。代わりに、ヴァランの肩へ掌を置いた。押さえつけるでも、抱きしめるでもない。逃げようとしたら止められる距離で、立っているだけ。けれど、その重みが、胸の穴を塞ぐ。
  ヴァランは初めて、自分が泣きそうだと気づいた。涙をこぼしたら、今まで積み上げた段取りが崩れる気がして、必死に堪える。堪えた分だけ、声が震える。
  「……私は、間違えたくない」
  「うん」
  シェルヴィの返事は、それだけだった。肯定でも否定でもないのに、続けていいと言われた気がした。

  アデムが、装置の外側に貼られた新しい札を見つけた。薄い金属板に、整備局の刻印と別の印が重ねられている。
  「監査官。これ……地下の装置に、誰かが臨時の許可札を」
  ヴァランは札を受け取り、指で擦った。表面は滑らかで、角が新しい。印の片方は整備局、もう片方は聖塔の儀礼部のものだ。
  「儀礼部が、ここに触れた?」
  アデムは眉を寄せる。
  「許可を出すなら、通常は上で……」
  ヴァランは札の裏を見て、小さな手書きの文字に気づいた。
  『修繕師へ。口外するな。——上層街の客』
  字は整っているのに、筆圧が軽い。深く刻まない癖。どこかで見た。
  ヴァランは顔を上げ、上層街の笑顔が脳裏を横切った。

  そのとき、装置が大きく鳴り、地下全体が震えた。灯籠が三つ消え、闇が広がる。上の都で、誰かが悲鳴を上げた気がした。もちろん、ここまで届くはずがないのに。
  円盤の中心から、朱い光が噴き上がった。ムーンジェイドの粉が焼ける匂いが濃くなる。
  ヴァランは札を握りしめ、言った。
  「親玉を、戻す。——その前に、これを使った人を捕まえる」
  言葉が終わる前に、足が前へ出ていた。逃げない。置いていかない。前世でできなかった形で、今度は進む。

  シェルヴィが、黙って彼女の隣へ並ぶ。肩の掌は離れたのに、温度だけは残っている。
  ヴァランの喉が震えた。怖い。けれど、震えを見せても、ここから崩れないと決めた。
  「……上へ戻ります。走れますか」
  「走れる」
  短い返事のまま、彼はヴァランの手から札が落ちないように指先で支えた。たったそれだけで、胸の奥の穴が少しだけ静まった。

  地下の装置は、まだ止まらない。けれど、止め方は見えた。置き去りにした理由も、少しずつ形になっていく。
  ヴァランは一度だけ振り返り、朱く脈打つ円盤を見た。都の灯りの命綱が、いまここで暴れている。
  「二度目は、ない」
  小さく言って、階段へ向かった。

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