20 / 30
第20話 聖塔の地下、止まらない装置
しおりを挟む
聖塔の鐘の低い音は、石の回廊を伝って腹の底まで沈んだ。広場の白布が風にふくらみ、銀の紐がしゃらりと鳴る。灯りはまだ落ちていないのに、都の息づかいが一拍遅れている気がした。
胸の奥で、昨夜見た夢の白い光がまだ揺れていた。手を離した瞬間の冷たさが、指の関節に残っている気がする。
ヴァランはそれを押し込めるように唇を噛み、鐘の余韻の中で言葉を選んだ。怖いからこそ、順番を間違えない。
アデムは封筒を抱えたまま、聖塔の側面にある細い扉へヴァランを導いた。普段は整備局の記録係しか通らない搬入口だ。彼は鍵束を鳴らさないように持ち、最後の一本を選んで差し込む。
「この先、手すりが欠けています。足元だけ」
言い切る前に、シェルヴィが半歩前へ出て、扉の隙間を覗いた。目だけ動かし、うなずく。いつもの無駄のない確認だった。
扉の向こうは、白い大理石ではなかった。湿った石壁が月明かりを吸い、冷たい匂いが喉の奥を刺す。階段は螺旋で、下へ下へと続いている。壁に等間隔で灯る小さな灯籠の色が、薄い青に揺れていた。
ヴァランは帳面を開き、無意識に段数を数え始める。
「一、二、三……」
シェルヴィが、すぐ後ろで低く言った。
「今は数えなくていい」
「地図がない場所は、数えて——」
「転ぶ」
短い。けれど、否定ではなく守り方だった。ヴァランは口を閉じ、代わりに手すりの冷たさを確かめて、指先で欠けをなぞった。欠けは、思ったより深い。数えながら歩けば、足が取られる。
下の方から、機械が息をしている音がした。水が流れるような、金属が擦れるような、規則のある唸り。都の上では聞こえない音が、ここでは鼓動のように近い。
階段を降り切ると、広い空間が開けた。天井は低く、梁が何本も渡されている。中央に、巨大な円盤状の装置があった。円盤の縁に溝が掘られ、そこへ淡い光の液が巡っている。光はムーンジェイドの粉を溶かした色で、青と白の間をゆっくり行き来していた。
ヴァランは思わず、息を呑んだ。
「……都の灯りは、これで」
アデムが頷く。
「地下の循環装置です。上層街の街灯も、工房街の炉の補助灯も。月の鉱脈から流す力を、ここで均して配っています」
説明は知っていた。帳簿の上では。けれど、実物を前にすると、数字が薄くなる。装置は古い。けれど手入れが行き届き、油の匂いの奥に、石を磨いたときの甘い粉の匂いが混じっている。誰かが、ここを「生き物」として扱ってきた。
シェルヴィは装置の周囲を一周し、床に落ちた細い金属片を拾い上げた。指先で捻り、ヴァランへ見せる。ねじの頭が、無理に潰されている。
ヴァランは封筒の中の搬送記録を取り出し、装置の側面に刻まれた番号と照らし合わせた。刻印の列が、妙に新しい。削り直した跡がある。
「……最近、開けた痕跡」
その瞬間、円盤の唸りが一段高くなった。灯籠の光が一斉に揺れ、壁の湿り気が、冷たい汗みたいに肌へ貼りつく。
「暴走の兆しがある」と、記録には一行だけ書いてあった。だから、頭では分かっていた。けれど、目の前で装置が急に息を荒くするのは、想像と違う怖さだった。
ヴァランはいつものように、怖さを数字へ押し込めようとした。
「回転数が……標準より、二割……」
言葉が途中で途切れた。視界の端で、光の液が一瞬、朱に染まったからだ。赤ではない。血の色ではなく、朱い印章の色。あの欠片が見せる、警告の色。
胸の奥が、きゅっと縮む。音が遠のき、代わりに誰かの声が近づく。
――やめろ。今、止めるな。
女の声。自分の声だ。けれど、今の自分より少し低くて、疲れている。
次に聞こえたのは、男の声だった。
――待て。置いていくな。
名前が、口の中に浮かぶ。言葉になりかけて、喉に引っかかる。呼んだら戻れなくなる気がして、ヴァランは歯を噛みしめた。
足元がわずかに揺れた。現実へ引き戻される。装置の円盤の一部が、異様に速く回っている。溝を巡る光が泡立ち、跳ねた雫が床に落ちて、すぐ消えた。
「ヴァラン」
シェルヴィの声は低く、短い。名前だけで、背筋が立つ。
ヴァランは頷こうとして、首が上手く動かない。自分の声が震えているのが分かるのに、止められない。
「……理解、しました」
誰に、何を。自分でも曖昧な返事だった。
シェルヴィは近づいてきて、装置とヴァランの間に立った。彼の外套の裾が、光を受けて薄い銀になる。言葉はないのに、視界の中心が落ち着く。逃げるな、と装置が言う前に、彼の背が「ここにいろ」と言った。
ヴァランは深呼吸し、装置の側面の蓋へ手を伸ばした。潰れたねじのところだ。アデムが工具袋を差し出す。彼の手が、わずかに震えている。
「監査官、これ以上回ると、上の街灯が——」
「落ちる前に、原因を抜きます」
ヴァランはそう言い切ってから、ふと気づいた。自分の言い方が、いつもより硬くない。強がりで固めた声ではなく、必要な順番をただ告げる声だった。
ねじを外すと、蓋の内側から熱い風が吹き出した。湿った地下の冷気とぶつかり、白い靄になる。そこに、ムーンジェイドの欠片をはめ込む座があった。けれど中央の受け皿は空で、金属の縁だけが黒く焦げている。
「親玉は……ここに座るはず」
ヴァランが呟くと、アデムが顔をしかめた。
「では、持ち出された?」
シェルヴィが指先で黒い焦げを擦り、匂いを確かめるようにわずかに鼻を動かした。次の瞬間、彼はヴァランを見た。
「……樹脂」
「樹脂?」
「仮面の内側と、同じ」
第17話で拾った黒い仮面。鍵穴の周囲に残っていた、あの粘つく匂い。ここにも同じものがある。つまり、装置に触れたのは「整備局の者」だけではない。
円盤がまた唸った。壁の灯籠が一つ、ぷつりと消えた。暗闇が増えるのに、装置の中心だけが眩しい。都の灯りが、どこかで吸い上げられている。
ヴァランは帳面を閉じ、蓋の内側に刻まれた小さな文字列を読み取った。古い整備記録の符号だ。前世の自分が書いたように、指が勝手に追ってしまう。
「……停止弁、第三。分流弁、第二。均し輪、固定」
口に出すと、装置の構造が頭の中で立ち上がる。初めて見るのに、知っている。知っているのが怖いのに、同時にそれが頼もしい。
シェルヴィが、指示された弁へ向かった。手を掛けて、止まった。
「どっちに回す」
ヴァランは一瞬だけ言葉に詰まった。帳簿の中では右回りだった。けれど、今の装置は改修されている。刻印が削り直されていた。ここで間違えれば、都の灯りが一気に落ちる。
ヴァランの喉が乾く。前世の声がまた、耳の奥で囁いた。
――右だ。だが、最後まで回すな。
「……右。半回転で止めて」
シェルヴィは頷き、黙って回した。金属が軋み、指の力だけで回り切らないところで、彼は体重を乗せた。肩の筋が動き、外套の布が張る。半回転で止めた瞬間、円盤の唸りが一息落ちた。
灯籠が一つ、戻るように灯った。弱いが、消えなかった。
ヴァランは胸の奥で、ようやく息を吐いた。自分の判断が、都の夜を繋いだ。その事実が怖いのに、少しだけ誇らしい。
しかし、装置の中心はまだ速い。空の受け皿が、まるで心臓の穴みたいに、熱を吐いている。
ヴァランは手を伸ばし、受け皿の縁に触れた。熱い。火傷するほどではないが、長く触れれば痛い熱だ。
その瞬間、指先に、別の温度が重なった。
シェルヴィの手だった。彼は言葉を発さず、ヴァランの手首をそっと引いて、熱から遠ざける。包帯の下の皮膚が、布越しにわずかに硬い。
ヴァランは視線を落とし、喉の奥が苦くなるのを感じた。彼が傷を隠していることを、知っている。それでも、今は自分を先に引き戻した。
「前に……ここで、誰かを置いて……」
声が勝手に漏れた。言うつもりではなかった。けれど、口が止まらない。
ヴァランは拳を握り、爪を掌に食い込ませる。痛みで現実へ繋ぎ止めようとした。
「それでも、止めた。都を守るために。……だから、今も……」
最後の言葉が崩れ、息だけが震えた。
シェルヴィは、返事をしない。代わりに、ヴァランの肩へ掌を置いた。押さえつけるでも、抱きしめるでもない。逃げようとしたら止められる距離で、立っているだけ。けれど、その重みが、胸の穴を塞ぐ。
ヴァランは初めて、自分が泣きそうだと気づいた。涙をこぼしたら、今まで積み上げた段取りが崩れる気がして、必死に堪える。堪えた分だけ、声が震える。
「……私は、間違えたくない」
「うん」
シェルヴィの返事は、それだけだった。肯定でも否定でもないのに、続けていいと言われた気がした。
アデムが、装置の外側に貼られた新しい札を見つけた。薄い金属板に、整備局の刻印と別の印が重ねられている。
「監査官。これ……地下の装置に、誰かが臨時の許可札を」
ヴァランは札を受け取り、指で擦った。表面は滑らかで、角が新しい。印の片方は整備局、もう片方は聖塔の儀礼部のものだ。
「儀礼部が、ここに触れた?」
アデムは眉を寄せる。
「許可を出すなら、通常は上で……」
ヴァランは札の裏を見て、小さな手書きの文字に気づいた。
『修繕師へ。口外するな。——上層街の客』
字は整っているのに、筆圧が軽い。深く刻まない癖。どこかで見た。
ヴァランは顔を上げ、上層街の笑顔が脳裏を横切った。
そのとき、装置が大きく鳴り、地下全体が震えた。灯籠が三つ消え、闇が広がる。上の都で、誰かが悲鳴を上げた気がした。もちろん、ここまで届くはずがないのに。
円盤の中心から、朱い光が噴き上がった。ムーンジェイドの粉が焼ける匂いが濃くなる。
ヴァランは札を握りしめ、言った。
「親玉を、戻す。——その前に、これを使った人を捕まえる」
言葉が終わる前に、足が前へ出ていた。逃げない。置いていかない。前世でできなかった形で、今度は進む。
シェルヴィが、黙って彼女の隣へ並ぶ。肩の掌は離れたのに、温度だけは残っている。
ヴァランの喉が震えた。怖い。けれど、震えを見せても、ここから崩れないと決めた。
「……上へ戻ります。走れますか」
「走れる」
短い返事のまま、彼はヴァランの手から札が落ちないように指先で支えた。たったそれだけで、胸の奥の穴が少しだけ静まった。
地下の装置は、まだ止まらない。けれど、止め方は見えた。置き去りにした理由も、少しずつ形になっていく。
ヴァランは一度だけ振り返り、朱く脈打つ円盤を見た。都の灯りの命綱が、いまここで暴れている。
「二度目は、ない」
小さく言って、階段へ向かった。
胸の奥で、昨夜見た夢の白い光がまだ揺れていた。手を離した瞬間の冷たさが、指の関節に残っている気がする。
ヴァランはそれを押し込めるように唇を噛み、鐘の余韻の中で言葉を選んだ。怖いからこそ、順番を間違えない。
アデムは封筒を抱えたまま、聖塔の側面にある細い扉へヴァランを導いた。普段は整備局の記録係しか通らない搬入口だ。彼は鍵束を鳴らさないように持ち、最後の一本を選んで差し込む。
「この先、手すりが欠けています。足元だけ」
言い切る前に、シェルヴィが半歩前へ出て、扉の隙間を覗いた。目だけ動かし、うなずく。いつもの無駄のない確認だった。
扉の向こうは、白い大理石ではなかった。湿った石壁が月明かりを吸い、冷たい匂いが喉の奥を刺す。階段は螺旋で、下へ下へと続いている。壁に等間隔で灯る小さな灯籠の色が、薄い青に揺れていた。
ヴァランは帳面を開き、無意識に段数を数え始める。
「一、二、三……」
シェルヴィが、すぐ後ろで低く言った。
「今は数えなくていい」
「地図がない場所は、数えて——」
「転ぶ」
短い。けれど、否定ではなく守り方だった。ヴァランは口を閉じ、代わりに手すりの冷たさを確かめて、指先で欠けをなぞった。欠けは、思ったより深い。数えながら歩けば、足が取られる。
下の方から、機械が息をしている音がした。水が流れるような、金属が擦れるような、規則のある唸り。都の上では聞こえない音が、ここでは鼓動のように近い。
階段を降り切ると、広い空間が開けた。天井は低く、梁が何本も渡されている。中央に、巨大な円盤状の装置があった。円盤の縁に溝が掘られ、そこへ淡い光の液が巡っている。光はムーンジェイドの粉を溶かした色で、青と白の間をゆっくり行き来していた。
ヴァランは思わず、息を呑んだ。
「……都の灯りは、これで」
アデムが頷く。
「地下の循環装置です。上層街の街灯も、工房街の炉の補助灯も。月の鉱脈から流す力を、ここで均して配っています」
説明は知っていた。帳簿の上では。けれど、実物を前にすると、数字が薄くなる。装置は古い。けれど手入れが行き届き、油の匂いの奥に、石を磨いたときの甘い粉の匂いが混じっている。誰かが、ここを「生き物」として扱ってきた。
シェルヴィは装置の周囲を一周し、床に落ちた細い金属片を拾い上げた。指先で捻り、ヴァランへ見せる。ねじの頭が、無理に潰されている。
ヴァランは封筒の中の搬送記録を取り出し、装置の側面に刻まれた番号と照らし合わせた。刻印の列が、妙に新しい。削り直した跡がある。
「……最近、開けた痕跡」
その瞬間、円盤の唸りが一段高くなった。灯籠の光が一斉に揺れ、壁の湿り気が、冷たい汗みたいに肌へ貼りつく。
「暴走の兆しがある」と、記録には一行だけ書いてあった。だから、頭では分かっていた。けれど、目の前で装置が急に息を荒くするのは、想像と違う怖さだった。
ヴァランはいつものように、怖さを数字へ押し込めようとした。
「回転数が……標準より、二割……」
言葉が途中で途切れた。視界の端で、光の液が一瞬、朱に染まったからだ。赤ではない。血の色ではなく、朱い印章の色。あの欠片が見せる、警告の色。
胸の奥が、きゅっと縮む。音が遠のき、代わりに誰かの声が近づく。
――やめろ。今、止めるな。
女の声。自分の声だ。けれど、今の自分より少し低くて、疲れている。
次に聞こえたのは、男の声だった。
――待て。置いていくな。
名前が、口の中に浮かぶ。言葉になりかけて、喉に引っかかる。呼んだら戻れなくなる気がして、ヴァランは歯を噛みしめた。
足元がわずかに揺れた。現実へ引き戻される。装置の円盤の一部が、異様に速く回っている。溝を巡る光が泡立ち、跳ねた雫が床に落ちて、すぐ消えた。
「ヴァラン」
シェルヴィの声は低く、短い。名前だけで、背筋が立つ。
ヴァランは頷こうとして、首が上手く動かない。自分の声が震えているのが分かるのに、止められない。
「……理解、しました」
誰に、何を。自分でも曖昧な返事だった。
シェルヴィは近づいてきて、装置とヴァランの間に立った。彼の外套の裾が、光を受けて薄い銀になる。言葉はないのに、視界の中心が落ち着く。逃げるな、と装置が言う前に、彼の背が「ここにいろ」と言った。
ヴァランは深呼吸し、装置の側面の蓋へ手を伸ばした。潰れたねじのところだ。アデムが工具袋を差し出す。彼の手が、わずかに震えている。
「監査官、これ以上回ると、上の街灯が——」
「落ちる前に、原因を抜きます」
ヴァランはそう言い切ってから、ふと気づいた。自分の言い方が、いつもより硬くない。強がりで固めた声ではなく、必要な順番をただ告げる声だった。
ねじを外すと、蓋の内側から熱い風が吹き出した。湿った地下の冷気とぶつかり、白い靄になる。そこに、ムーンジェイドの欠片をはめ込む座があった。けれど中央の受け皿は空で、金属の縁だけが黒く焦げている。
「親玉は……ここに座るはず」
ヴァランが呟くと、アデムが顔をしかめた。
「では、持ち出された?」
シェルヴィが指先で黒い焦げを擦り、匂いを確かめるようにわずかに鼻を動かした。次の瞬間、彼はヴァランを見た。
「……樹脂」
「樹脂?」
「仮面の内側と、同じ」
第17話で拾った黒い仮面。鍵穴の周囲に残っていた、あの粘つく匂い。ここにも同じものがある。つまり、装置に触れたのは「整備局の者」だけではない。
円盤がまた唸った。壁の灯籠が一つ、ぷつりと消えた。暗闇が増えるのに、装置の中心だけが眩しい。都の灯りが、どこかで吸い上げられている。
ヴァランは帳面を閉じ、蓋の内側に刻まれた小さな文字列を読み取った。古い整備記録の符号だ。前世の自分が書いたように、指が勝手に追ってしまう。
「……停止弁、第三。分流弁、第二。均し輪、固定」
口に出すと、装置の構造が頭の中で立ち上がる。初めて見るのに、知っている。知っているのが怖いのに、同時にそれが頼もしい。
シェルヴィが、指示された弁へ向かった。手を掛けて、止まった。
「どっちに回す」
ヴァランは一瞬だけ言葉に詰まった。帳簿の中では右回りだった。けれど、今の装置は改修されている。刻印が削り直されていた。ここで間違えれば、都の灯りが一気に落ちる。
ヴァランの喉が乾く。前世の声がまた、耳の奥で囁いた。
――右だ。だが、最後まで回すな。
「……右。半回転で止めて」
シェルヴィは頷き、黙って回した。金属が軋み、指の力だけで回り切らないところで、彼は体重を乗せた。肩の筋が動き、外套の布が張る。半回転で止めた瞬間、円盤の唸りが一息落ちた。
灯籠が一つ、戻るように灯った。弱いが、消えなかった。
ヴァランは胸の奥で、ようやく息を吐いた。自分の判断が、都の夜を繋いだ。その事実が怖いのに、少しだけ誇らしい。
しかし、装置の中心はまだ速い。空の受け皿が、まるで心臓の穴みたいに、熱を吐いている。
ヴァランは手を伸ばし、受け皿の縁に触れた。熱い。火傷するほどではないが、長く触れれば痛い熱だ。
その瞬間、指先に、別の温度が重なった。
シェルヴィの手だった。彼は言葉を発さず、ヴァランの手首をそっと引いて、熱から遠ざける。包帯の下の皮膚が、布越しにわずかに硬い。
ヴァランは視線を落とし、喉の奥が苦くなるのを感じた。彼が傷を隠していることを、知っている。それでも、今は自分を先に引き戻した。
「前に……ここで、誰かを置いて……」
声が勝手に漏れた。言うつもりではなかった。けれど、口が止まらない。
ヴァランは拳を握り、爪を掌に食い込ませる。痛みで現実へ繋ぎ止めようとした。
「それでも、止めた。都を守るために。……だから、今も……」
最後の言葉が崩れ、息だけが震えた。
シェルヴィは、返事をしない。代わりに、ヴァランの肩へ掌を置いた。押さえつけるでも、抱きしめるでもない。逃げようとしたら止められる距離で、立っているだけ。けれど、その重みが、胸の穴を塞ぐ。
ヴァランは初めて、自分が泣きそうだと気づいた。涙をこぼしたら、今まで積み上げた段取りが崩れる気がして、必死に堪える。堪えた分だけ、声が震える。
「……私は、間違えたくない」
「うん」
シェルヴィの返事は、それだけだった。肯定でも否定でもないのに、続けていいと言われた気がした。
アデムが、装置の外側に貼られた新しい札を見つけた。薄い金属板に、整備局の刻印と別の印が重ねられている。
「監査官。これ……地下の装置に、誰かが臨時の許可札を」
ヴァランは札を受け取り、指で擦った。表面は滑らかで、角が新しい。印の片方は整備局、もう片方は聖塔の儀礼部のものだ。
「儀礼部が、ここに触れた?」
アデムは眉を寄せる。
「許可を出すなら、通常は上で……」
ヴァランは札の裏を見て、小さな手書きの文字に気づいた。
『修繕師へ。口外するな。——上層街の客』
字は整っているのに、筆圧が軽い。深く刻まない癖。どこかで見た。
ヴァランは顔を上げ、上層街の笑顔が脳裏を横切った。
そのとき、装置が大きく鳴り、地下全体が震えた。灯籠が三つ消え、闇が広がる。上の都で、誰かが悲鳴を上げた気がした。もちろん、ここまで届くはずがないのに。
円盤の中心から、朱い光が噴き上がった。ムーンジェイドの粉が焼ける匂いが濃くなる。
ヴァランは札を握りしめ、言った。
「親玉を、戻す。——その前に、これを使った人を捕まえる」
言葉が終わる前に、足が前へ出ていた。逃げない。置いていかない。前世でできなかった形で、今度は進む。
シェルヴィが、黙って彼女の隣へ並ぶ。肩の掌は離れたのに、温度だけは残っている。
ヴァランの喉が震えた。怖い。けれど、震えを見せても、ここから崩れないと決めた。
「……上へ戻ります。走れますか」
「走れる」
短い返事のまま、彼はヴァランの手から札が落ちないように指先で支えた。たったそれだけで、胸の奥の穴が少しだけ静まった。
地下の装置は、まだ止まらない。けれど、止め方は見えた。置き去りにした理由も、少しずつ形になっていく。
ヴァランは一度だけ振り返り、朱く脈打つ円盤を見た。都の灯りの命綱が、いまここで暴れている。
「二度目は、ない」
小さく言って、階段へ向かった。
0
あなたにおすすめの小説
目覚めたら公爵夫人でしたが夫に冷遇されているようです
MIRICO
恋愛
フィオナは没落寸前のブルイエ家の長女。体調が悪く早めに眠ったら、目が覚めた時、夫のいる公爵夫人セレスティーヌになっていた。
しかし、夫のクラウディオは、妻に冷たく視線を合わせようともしない。
フィオナはセレスティーヌの体を乗っ取ったことをクラウディオに気付かれまいと会う回数を減らし、セレスティーヌの体に入ってしまった原因を探そうとするが、原因が分からぬままセレスティーヌの姉の子がやってきて世話をすることに。
クラウディオはいつもと違う様子のセレスティーヌが気になり始めて……。
ざまあ系ではありません。恋愛中心でもないです。事件中心軽く恋愛くらいです。
番外編は暗い話がありますので、苦手な方はお気を付けください。
ご感想ありがとうございます!!
誤字脱字等もお知らせくださりありがとうございます。順次修正させていただきます。
小説家になろう様に掲載済みです。
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。
有賀冬馬
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。
選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。
涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。
彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。
やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。
6年前の私へ~その6年は無駄になる~
夏見颯一
恋愛
モルディス侯爵家に嫁いだウィニアは帰ってこない夫・フォレートを待っていた。6年も経ってからようやく帰ってきたフォレートは、妻と子供を連れていた。
テンプレものです。テンプレから脱却はしておりません。
夫の妹に財産を勝手に使われているらしいので、第三王子に全財産を寄付してみた
今川幸乃
恋愛
ローザン公爵家の跡継ぎオリバーの元に嫁いだレイラは若くして父が死んだため、実家の財産をすでにある程度相続していた。
レイラとオリバーは穏やかな新婚生活を送っていたが、なぜかオリバーは妹のエミリーが欲しがるものを何でも買ってあげている。
不審に思ったレイラが調べてみると、何とオリバーはレイラの財産を勝手に売り払ってそのお金でエミリーの欲しいものを買っていた。
レイラは実家を継いだ兄に相談し、自分に敵対する者には容赦しない”冷血王子”と恐れられるクルス第三王子に全財産を寄付することにする。
それでもオリバーはレイラの財産でエミリーに物を買い与え続けたが、自分に寄付された財産を勝手に売り払われたクルスは激怒し……
※短め
元恋人が届けた、断りたい縁談
待鳥園子
恋愛
シュトルム辺境伯の末娘ソフィに隣国の帝国第二皇子から届けられた『縁談』の使者は、なんと元恋人のジョサイアだった。
手紙ひとつで別れることになったソフィは、素直になれずジョサイアから逃げ回る。
「私に届けなければ、彼は帝国に帰ることが出来ない」
そう思いようやく書状を受け取ろうと決意したソフィに、ジョサイアは何かを言い掛けて!?
十八歳で必ず死ぬ令嬢ですが、今日もまた目を覚ましました【完結】
藤原遊
恋愛
十八歳で、私はいつも死ぬ。
そしてなぜか、また目を覚ましてしまう。
記憶を抱えたまま、幼い頃に――。
どれほど愛されても、どれほど誰かを愛しても、
結末は変わらない。
何度生きても、十八歳のその日が、私の最後になる。
それでも私は今日も微笑む。
過去を知るのは、私だけ。
もう一度、大切な人たちと過ごすために。
もう一度、恋をするために。
「どうせ死ぬのなら、あなたにまた、恋をしたいの」
十一度目の人生。
これは、記憶を繰り返す令嬢が紡ぐ、優しくて、少しだけ残酷な物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる