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第19話 文化祭の準備、崩れた顔
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文化祭の前々日、聖塔前広場は朝から白い布と銀の紐で埋まっていた。噴水の水面は月灯りを待たずにきらめき、工房街から運び込まれた屋台の木箱が、石畳の上で小さく跳ねる。
ヴァランは整備局の腕章を留め直し、胸元の帳面を開いた。ページの端は何度も指でめくられて、薄く波打っている。夜の見回りから戻ってそのままここへ来たのに、眉の角度だけは崩さない。
「設営班、第三区画。屋台の通路幅、指示通りに。搬入は——はい、今すぐ」
手を動かしながら、口だけが滑らかに命令を運ぶ。笑顔を添える余裕まで作って、視線の先では職人たちが「はいはい」と返事を返す。その軽さが、今日は少しだけ羨ましかった。
背後で、布の擦れる音がした。シェルヴィが彼女の半歩後ろに立っている。外套の袖口は、昨日よりきちんと整えられていた。包帯を巻いたことを隠すように、手首だけがやけに固い。
ヴァランは見ないふりをした。見たら、また自分の判断が揺らぐ気がしたからだ。
歌劇団の馬車が到着すると、カムーが荷台から飛び降りた。銀の髪飾りが跳ね、彼女は指揮棒みたいに腕を振る。
「舞台の高さ、あと指一本! ほら、そこ、上げて! わたしが転ぶと、あなたたちが泣くわよ!」
泣くのは自分でしょ、と周囲の団員が口々に笑う。カムーは頬をふくらませながらも、次の瞬間にはきびきびと幕の位置を直し始めた。
イシャックは木箱を抱え、屋台の奥で道具を並べていた。金槌の置き方、鑢の向き、布の畳み方まで揃っているのに、彼は一人で抱え込まない。通りがかった見習いを呼び止め、手元を確かめながら「頼む」と言う。
その様子を見たヴァランの口角が、ほんの少しだけ上がった。——これが本当の段取りだ。帳簿の外で、人が互いを支えて回っている。
その「ほんの少し」の瞬間を、コワリクは逃さなかった。上層街の香水と同じくらい軽い足取りで現れ、扇の影から目だけを細める。
「まあ。監査官さまも笑えるのね。文化祭が近いと、石像にも血が通うのかしら」
「石像はあなたの方よ。どこからでも匂いだけ置いて消える」
言い返すと、コワリクは「やだ、刺さる」と芝居がかった声を出す。その仕草だけは相変わらず上手い。
「それより、休憩を。あなた、昨夜も寝ていない顔」
言ったのはアデムだった。整備局の書類箱を抱え、走ってきた息を整えながら、彼はヴァランの顔を一瞬で測った。
「問題ありません。帳簿が片づくまで——」
「帳簿は逃げません」
アデムが言い切る前に、低い声が割り込んだ。シェルヴィだ。声は穏やかなのに、言葉の端が譲らない。
「休め、と言っています」
「言われなくても、必要なら休みます」
反射で返す自分が、あまりにいつもの調子で、ヴァランは内心で舌打ちした。必要だと認めるのが、怖い。止まった瞬間、胸の奥から過去の冷たい景色が出てきそうだった。
午前が過ぎ、正午の鐘が鳴る頃、広場はさらに騒がしくなった。通行許可証の受け渡し、屋台の火元の検査、歌劇団の搬入確認。ヴァランの指は書類をめくり、印を押し、署名を返す——はずだった。
ところが、朱い印章が見当たらない。
「……ない」
気づいた瞬間、背筋が汗で冷えた。印章がないと、許可証は無効扱いになる。上層街の名家は一つの不備で顔を潰されたと騒ぐし、工房街は火を入れられずに苛立つ。文化祭の前に揉め事は増やしたくない。
ヴァランは笑顔を貼りつけたまま、机の下、帳面の間、箱の底を探った。指先は動くのに、額の内側だけが熱い。周りの視線が集まってくる。
「監査官さま、印は?」
「すぐ出します。少々——」
「少々、で済む話かしら。うちの屋台は上層街の通りに出すのよ?」
苛立ちを隠さない声が飛ぶ。コワリクが扇を揺らし、「まあまあ」と笑いながらも、口元の角度だけで周囲を煽っていた。
ヴァランの頬が引きつった。笑顔を作ろうとして、うまく作れない。口角が震え、眉が上がり、目の奥だけが乾く。
——崩れる。
完璧な顔が、崩れる音がした気がした。
「印章は、私が管理している。私が……」
言いかけて、喉が詰まる。上層街の視線、工房街の溜息、歌劇団のざわめき。全部が同時に押し寄せ、胸の奥の冷たい景色が、とうとう顔を出した。
白い回廊。止まらない歯車。泣きながら誰かの手を振りほどいた自分。
その瞬間——
「監査官さま」
シェルヴィが彼女の前に立った。影が落ち、視界が一度だけ暗くなる。次の瞬間、彼はヴァランの帳面を閉じてしまった。
「ここで止めます」
「……止めないで」
声が裏返った。自分でも驚くほど、子どものような響きだった。
「止めません。倒れる前に、動かす方向を変えます」
シェルヴィは彼女の手首を取らない。触れずに、しかし逃げられない距離で、背を向けて歩き出した。ヴァランは足だけが勝手に追った。人目から外れる柱の陰へ、導かれる。
回廊の裏手は静かで、噴水の音が薄い布を一枚挟んだみたいに遠かった。ヴァランは息を吐き、そこで初めて、笑顔の仮面が落ちたのを感じた。
「……あなた、何をしたの」
問い詰める声は低いが、最後だけ震えた。
シェルヴィは一拍置いて、外套の内側から小さな巾着を出した。そこに、朱い印章が入っている。
「返します」
「……あなたが、隠した?」
「一つだけ。あなたの道具を、あなたから取り上げました」
ヴァランは思わず、笑った。声が出た自分に驚く。怒るべきなのに、怒りの矛先が見つからない。あまりに幼稚で、あまりに真面目で、そして——自分のためだとわかってしまったから。
「護衛官が、そんな子どもみたいなことを」
「子どもでも、あなたを止められます」
「止められないわ。私は——」
「休めます」
短い断言。言葉は増えていないのに、胸の奥に届く。
ヴァランは印章を受け取ろうとして、彼の手首に触れた。布の下の包帯の硬さが、指先に当たる。
「……それ。昨日の血」
シェルヴィの肩が、ほんの少しだけ揺れた。隠しても意味がない、と悟ったように。
「大したことでは」
「大したことよ。私が巻いた。だから、私の責任」
ヴァランは口にしてから、自分でもおかしくなる。責任、責任、と。息を詰めてまで握りしめてきた言葉なのに、今はそれが彼を縛る鎖になってしまう。
「……私の顔、見た?」
問いは小さかった。崩れた顔を、誰にも見せたくなかったのに。
シェルヴィは視線を逸らさない。けれど、褒めるでも哀れむでもない。ただ、静かに言う。
「見ました。崩れていました」
「最悪ね」
「良かったです」
ヴァランの息が止まる。返事が短すぎて、意味が追いつかない。
「……どうして」
「あなたが生きている顔だった」
言葉が胸に落ちた瞬間、巾着の中でムーンジェイドの欠片が触れ合う音がした気がした。ヴァランの懐に忍ばせた欠片は、布越しに熱を持ち、色が桃に寄っていく。照れだ、と理解してしまって、さらに困る。
ヴァランは視線を伏せ、代わりに彼の包帯の端を整える。指先が器用に動くのは、逃げ道を作りたいからだ。
「……印章を返したら、また働く」
「返しました」
「なら——」
「その前に、水を飲みます」
シェルヴィは壁際の樽から木杯を取って、彼女へ渡した。命令口調ではないのに、受け取らざるを得ない差し出し方だった。
ヴァランは水を一口飲み、喉の渇きに気づく。今まで自分の身体の声を、丸ごと無視していた。
そのとき、回廊の入口から足音が近づいた。アデムが息を切らしている。彼の手には、薄い封筒。
「監査官、今すぐ——。親玉の搬送記録が、出ました。行き先が……聖塔の地下です」
言い終えるより早く、聖塔の鐘が、いつもより低く鳴った。
ヴァランの手の中で、木杯が小さく震える。ムーンジェイドの欠片が、今度は青へ戻り始めた。理性の色。逃げるな、と言われているみたいに。
ヴァランは杯を置き、朱い印章を握り直す。崩れた顔のままでも、歩くしかない。
シェルヴィが彼女の隣に立った。言葉はない。けれど、その一歩が「一人ではない」と告げていた。
ヴァランは整備局の腕章を留め直し、胸元の帳面を開いた。ページの端は何度も指でめくられて、薄く波打っている。夜の見回りから戻ってそのままここへ来たのに、眉の角度だけは崩さない。
「設営班、第三区画。屋台の通路幅、指示通りに。搬入は——はい、今すぐ」
手を動かしながら、口だけが滑らかに命令を運ぶ。笑顔を添える余裕まで作って、視線の先では職人たちが「はいはい」と返事を返す。その軽さが、今日は少しだけ羨ましかった。
背後で、布の擦れる音がした。シェルヴィが彼女の半歩後ろに立っている。外套の袖口は、昨日よりきちんと整えられていた。包帯を巻いたことを隠すように、手首だけがやけに固い。
ヴァランは見ないふりをした。見たら、また自分の判断が揺らぐ気がしたからだ。
歌劇団の馬車が到着すると、カムーが荷台から飛び降りた。銀の髪飾りが跳ね、彼女は指揮棒みたいに腕を振る。
「舞台の高さ、あと指一本! ほら、そこ、上げて! わたしが転ぶと、あなたたちが泣くわよ!」
泣くのは自分でしょ、と周囲の団員が口々に笑う。カムーは頬をふくらませながらも、次の瞬間にはきびきびと幕の位置を直し始めた。
イシャックは木箱を抱え、屋台の奥で道具を並べていた。金槌の置き方、鑢の向き、布の畳み方まで揃っているのに、彼は一人で抱え込まない。通りがかった見習いを呼び止め、手元を確かめながら「頼む」と言う。
その様子を見たヴァランの口角が、ほんの少しだけ上がった。——これが本当の段取りだ。帳簿の外で、人が互いを支えて回っている。
その「ほんの少し」の瞬間を、コワリクは逃さなかった。上層街の香水と同じくらい軽い足取りで現れ、扇の影から目だけを細める。
「まあ。監査官さまも笑えるのね。文化祭が近いと、石像にも血が通うのかしら」
「石像はあなたの方よ。どこからでも匂いだけ置いて消える」
言い返すと、コワリクは「やだ、刺さる」と芝居がかった声を出す。その仕草だけは相変わらず上手い。
「それより、休憩を。あなた、昨夜も寝ていない顔」
言ったのはアデムだった。整備局の書類箱を抱え、走ってきた息を整えながら、彼はヴァランの顔を一瞬で測った。
「問題ありません。帳簿が片づくまで——」
「帳簿は逃げません」
アデムが言い切る前に、低い声が割り込んだ。シェルヴィだ。声は穏やかなのに、言葉の端が譲らない。
「休め、と言っています」
「言われなくても、必要なら休みます」
反射で返す自分が、あまりにいつもの調子で、ヴァランは内心で舌打ちした。必要だと認めるのが、怖い。止まった瞬間、胸の奥から過去の冷たい景色が出てきそうだった。
午前が過ぎ、正午の鐘が鳴る頃、広場はさらに騒がしくなった。通行許可証の受け渡し、屋台の火元の検査、歌劇団の搬入確認。ヴァランの指は書類をめくり、印を押し、署名を返す——はずだった。
ところが、朱い印章が見当たらない。
「……ない」
気づいた瞬間、背筋が汗で冷えた。印章がないと、許可証は無効扱いになる。上層街の名家は一つの不備で顔を潰されたと騒ぐし、工房街は火を入れられずに苛立つ。文化祭の前に揉め事は増やしたくない。
ヴァランは笑顔を貼りつけたまま、机の下、帳面の間、箱の底を探った。指先は動くのに、額の内側だけが熱い。周りの視線が集まってくる。
「監査官さま、印は?」
「すぐ出します。少々——」
「少々、で済む話かしら。うちの屋台は上層街の通りに出すのよ?」
苛立ちを隠さない声が飛ぶ。コワリクが扇を揺らし、「まあまあ」と笑いながらも、口元の角度だけで周囲を煽っていた。
ヴァランの頬が引きつった。笑顔を作ろうとして、うまく作れない。口角が震え、眉が上がり、目の奥だけが乾く。
——崩れる。
完璧な顔が、崩れる音がした気がした。
「印章は、私が管理している。私が……」
言いかけて、喉が詰まる。上層街の視線、工房街の溜息、歌劇団のざわめき。全部が同時に押し寄せ、胸の奥の冷たい景色が、とうとう顔を出した。
白い回廊。止まらない歯車。泣きながら誰かの手を振りほどいた自分。
その瞬間——
「監査官さま」
シェルヴィが彼女の前に立った。影が落ち、視界が一度だけ暗くなる。次の瞬間、彼はヴァランの帳面を閉じてしまった。
「ここで止めます」
「……止めないで」
声が裏返った。自分でも驚くほど、子どものような響きだった。
「止めません。倒れる前に、動かす方向を変えます」
シェルヴィは彼女の手首を取らない。触れずに、しかし逃げられない距離で、背を向けて歩き出した。ヴァランは足だけが勝手に追った。人目から外れる柱の陰へ、導かれる。
回廊の裏手は静かで、噴水の音が薄い布を一枚挟んだみたいに遠かった。ヴァランは息を吐き、そこで初めて、笑顔の仮面が落ちたのを感じた。
「……あなた、何をしたの」
問い詰める声は低いが、最後だけ震えた。
シェルヴィは一拍置いて、外套の内側から小さな巾着を出した。そこに、朱い印章が入っている。
「返します」
「……あなたが、隠した?」
「一つだけ。あなたの道具を、あなたから取り上げました」
ヴァランは思わず、笑った。声が出た自分に驚く。怒るべきなのに、怒りの矛先が見つからない。あまりに幼稚で、あまりに真面目で、そして——自分のためだとわかってしまったから。
「護衛官が、そんな子どもみたいなことを」
「子どもでも、あなたを止められます」
「止められないわ。私は——」
「休めます」
短い断言。言葉は増えていないのに、胸の奥に届く。
ヴァランは印章を受け取ろうとして、彼の手首に触れた。布の下の包帯の硬さが、指先に当たる。
「……それ。昨日の血」
シェルヴィの肩が、ほんの少しだけ揺れた。隠しても意味がない、と悟ったように。
「大したことでは」
「大したことよ。私が巻いた。だから、私の責任」
ヴァランは口にしてから、自分でもおかしくなる。責任、責任、と。息を詰めてまで握りしめてきた言葉なのに、今はそれが彼を縛る鎖になってしまう。
「……私の顔、見た?」
問いは小さかった。崩れた顔を、誰にも見せたくなかったのに。
シェルヴィは視線を逸らさない。けれど、褒めるでも哀れむでもない。ただ、静かに言う。
「見ました。崩れていました」
「最悪ね」
「良かったです」
ヴァランの息が止まる。返事が短すぎて、意味が追いつかない。
「……どうして」
「あなたが生きている顔だった」
言葉が胸に落ちた瞬間、巾着の中でムーンジェイドの欠片が触れ合う音がした気がした。ヴァランの懐に忍ばせた欠片は、布越しに熱を持ち、色が桃に寄っていく。照れだ、と理解してしまって、さらに困る。
ヴァランは視線を伏せ、代わりに彼の包帯の端を整える。指先が器用に動くのは、逃げ道を作りたいからだ。
「……印章を返したら、また働く」
「返しました」
「なら——」
「その前に、水を飲みます」
シェルヴィは壁際の樽から木杯を取って、彼女へ渡した。命令口調ではないのに、受け取らざるを得ない差し出し方だった。
ヴァランは水を一口飲み、喉の渇きに気づく。今まで自分の身体の声を、丸ごと無視していた。
そのとき、回廊の入口から足音が近づいた。アデムが息を切らしている。彼の手には、薄い封筒。
「監査官、今すぐ——。親玉の搬送記録が、出ました。行き先が……聖塔の地下です」
言い終えるより早く、聖塔の鐘が、いつもより低く鳴った。
ヴァランの手の中で、木杯が小さく震える。ムーンジェイドの欠片が、今度は青へ戻り始めた。理性の色。逃げるな、と言われているみたいに。
ヴァランは杯を置き、朱い印章を握り直す。崩れた顔のままでも、歩くしかない。
シェルヴィが彼女の隣に立った。言葉はない。けれど、その一歩が「一人ではない」と告げていた。
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