月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第18話 ムーンジェイドの欠片、彼の傷

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 黒い仮面の侍女は、月灯りの回廊に立ったまま、言葉だけ丁寧に壁を作った。

  「監査官さま。ここより先は、整備局でも——」

  「整備局でも、帳簿の数字が消えたりはしない。けれど、あなたの口ぶりだと、通路そのものが消えているみたいね」

  ヴァランは扇を閉じた。指先が紙を叩く音は小さいのに、相手の背筋がほんの少し硬くなる。
  シェルヴィは彼女の半歩前で静かに立つ。肩の線だけで、「逃がさない」と言っている。

  侍女は視線を滑らせ、柱の影へ退いた。そこで初めて、足元の布が月灯りに淡く反射するのが見えた。上層街の者が好む、銀糸の縫い取り。
  ヴァランの胸の奥で、帳簿より先に、嫌な予感が織り上がる。

  「許可を出した人の名前を、ここで言いなさい」

  侍女は笑った。笑った、というより、口角だけが上がった。
  次の瞬間、彼女は踵を返し、回廊の奥へ駆けた。

  「待て!」

  ヴァランが声を張るより早く、シェルヴィが動く。石床を踏む靴音が、二つだけ増えた。
  回廊の白い柱が流れ、噴水の水音が遠ざかり、仮面舞踏会の楽器の余韻が薄くなる。夜の上層街は、華やかな匂いのまま、追跡だけを冷たく許した。

  侍女は、灯りの届かない横道へ滑り込んだ。上層街の裏側——宝飾工房へ降りる階段の、さらに脇へ。
  ヴァランは裾を持ち上げ、靴の尖りで段差を測りながら走る。完璧な歩幅ではない。帳面の中なら絶対にしない走り方だ。

  「監査官。左、石が濡れている」

  シェルヴィの短い声に、ヴァランは即座に足をずらした。濡れた石に気付いたのは、視線ではなく、彼の呼吸だった気がする。

  横道は狭く、壁は冷たい。仮面舞踏会の香水が消え、油と金属と、湿った石の匂いが鼻に刺さる。
  侍女の影が、路地の角で一瞬揺れた。その手が何かを握りしめているのが見えた。小さく、淡く光るもの。

  「ムーンジェイド……?」

  ヴァランが言い終える前に、侍女の肩が跳ねる。握っていたものが、指の間から落ちた。
  石畳を転がる、青でも桃でもない、白い欠片。月灯りを吸い込み、吐き出しながら、ひとつだけ止まる。

  侍女はそれを拾おうとして、逆に身を引いた。まるで触れたくないものを落としたみたいに。
  その隙に、シェルヴィが角へ詰める。彼は剣を抜かない。抜かなくても、背中の圧で相手が息を詰める。

  侍女は壁沿いに滑り、別の路地へ逃げた。追うべきか、欠片を拾うべきか——迷いを選ぶ暇もなく、ヴァランは欠片へ手を伸ばした。

  そして、指先が止まった。

  欠片の縁に、黒ではない赤が滲んでいる。乾ききっていない、血の色。
  月灯りの下で、それは妙に鮮やかで、現実味があった。

  「……血?」

  声が震えたのは寒さのせい、とヴァランは自分に言い聞かせる。だが、次の瞬間——シェルヴィの息が、ほんの少し乱れた。

  「シェルヴィ。あなた、どこか——」

  「大丈夫です」

  即答だった。返事が早すぎて、逆に疑いが濃くなる。
  ヴァランは欠片を布で包み、視線を彼の腕へ移す。護衛官の外套は濃紺で、血が滲んでも目立たない。けれど、袖口の内側だけが、わずかに濡れた重さを持っている。

  「大丈夫なら、見せられるでしょう」

  ヴァランは扇の先で、彼の手首を指した。命令ではない。確認の音だった。
  シェルヴィは一拍置き、袖を少し捲った。

  白い布が、赤に染まっている。
  その下、古い傷の上に、新しい裂け目。月形の痕が、また開いていた。

  ヴァランの胸が、きゅっと縮む。嫌な痛みが、身体の奥から押し上げてくる。
  ——前に、同じ形を見た。
  記憶が霧の向こうで揺れ、月の欠片みたいに刺さる。

  「いつから?」

  「さっき。石に、ぶつけた」

  嘘だ、と言い切るほどの派手さはない。けれど、逃げるために選ばれた言葉の並びだった。
  ヴァランは息を吸い、吐く。帳簿のページをめくるときみたいに、気持ちを整えようとする。整わない。

  「整備局の救護所に——」

  「今は、欠片を」

  シェルヴィが欠片の包みを見た。視線は静かで、責める色がない。だからこそ、ヴァランは腹が立つ。彼が自分を責めないことに。
  腹が立って、同時に、安心してしまうことに。

  「欠片も、あなたも、今ここにいる。順番を間違えないで」

  自分でも驚くほど、柔らかい声が出た。
  ヴァランはいつもの「完璧な持ち物チェック表」を思い出し、頭の中で項目を走らせる。
  包帯、消毒布、予備の手袋——。

  ——包帯は、今夜に限って、机の引き出しに置いたままだった。
  仮面舞踏会用の手袋と扇は持ったのに、包帯だけがない。紙の上で完璧に整えることはできても、現場で足りない。

  ヴァランは唇を噛み、次に外套の胸元から布を取り出した。刺繍入りの白いハンカチ。上層街の礼儀のための、飾りの布。
  それを裂いて、帯にする。

  「それは……」

  シェルヴィの声が、ほんの少しだけ揺れた。驚きの揺れ。
  ヴァランは手を止めない。

  「礼儀の布が、役に立つ夜もあるでしょう」

  裂いた布を巻きつけ、結ぶ。結び目は少し歪んだ。整備局の書式なら、差し戻される程度に歪んだ。
  それでも、血が止まりはじめる。

  シェルヴィは腕を引こうとしない。痛みに顔を歪めない。代わりに、彼はヴァランの手元を見た。
  その視線が、真面目すぎて——ヴァランは思わず笑いそうになった。笑える状況ではないのに。

  「……見ないで。今、結び目が恥ずかしい」

  「恥ずかしいほど、急いでいます」

  淡々とした返事。否定でも肯定でもないのに、ヴァランの頬が熱くなる。
  彼は、そういう言い方を選ぶ。言葉が少ない分、刺さる場所が正確だ。

  ヴァランは結び目をもう一度引き締め、最後に指で押さえた。布越しに感じる体温が、夜の石の冷たさと違いすぎて、胸がまた縮む。

  「古傷ね。誰に?」

  問いが、思ったよりも低く出た。怒っているのではない。怖いのだ。
  シェルヴィは少し目を伏せた。月灯りが睫毛の影を作る。

  「昔です。もう終わっています」

  終わっていない。こうして、また開いた。
  ヴァランは言い返したかった。けれど、喉の奥で別の言葉がつかえる。

  ——あのとき、門を閉めたのは、私だ。
  記憶が、霧の中で形を結びかける。誰かが叫び、月形の傷が走り、血が石を濡らす。
  そして、帳簿の上に書かれた「安全確保」の文字だけが、やけに鮮明だ。

  ヴァランは歯を噛みしめ、包んだ欠片を握った。布越しに、石の冷たさが手のひらへ移る。
  冷たさで、自分が今ここにいると分かる。

  「……謝るわ」

  それだけが、今の彼女に出せる言葉だった。

  シェルヴィは驚いたように瞬きをした。けれど、次に返ってきたのは、いつもの短い返事だった。

  「今、謝る理由はありません」

  「あるの。……でも、言葉の順番が整っていない」

  ヴァランが苦笑すると、シェルヴィはわずかに口元を緩めた。笑った、と言うには小さすぎる。けれど、ヴァランにはそれが、灯りより明るい。

  路地の奥で、誰かの足音が消える。侍女の逃げた気配。
  追うべきだ。追わなければ、欠片の出所が途切れる。頭の中の監査官が叫ぶ。
  けれど、目の前の血が、別の優先順位を押し上げる。

  「イシャックの工房へ行く。欠片も、あなたの傷も、あの人なら理由を切り分けられる」

  ヴァランは断定した。いつもなら、選択肢を並べ、比較し、最短手順を組む。今夜は違う。
  今夜は、切り分ける前に、守りたいものを手で掴む。

  シェルヴィは一度だけ頷いた。
  彼が頷いたから、ヴァランは自分の判断が間違っていない気がした。

  工房街へ降りる階段に差しかかると、空気が変わった。宝飾職人たちの夜の匂い——研磨粉と油、熱した金属の甘い煙。
  その中に、ムーンジェイドの欠片が淡く光る。包みの隙間から、白が一瞬だけ覗き、また隠れる。

  「血がついたムーンジェイドは、色が濁るって聞いたことがあるわ」

  ヴァランが呟くと、シェルヴィは視線を包みに落とした。

  「濁ったままなら、困りますか」

  「困る。都の誇りだから。……でも」

  ヴァランは言葉を止め、彼の腕の布を見た。刺繍入りのハンカチが、包帯になっている。礼儀が、いま、命のそばにいる。
  都の誇りより、目の前の体温が大事だと、口に出さずに思ってしまう。

  「でも、濁っても、見捨てない。石も、人も」

  それは、監査官の言葉ではない。
  だからこそ、シェルヴィは足を止めて、ヴァランを見た。

  「監査官。今の言葉は、帳簿に書きますか」

  「書かない。恥ずかしいから」

  即答すると、シェルヴィの口元がまた少し緩む。笑いが小さく落ちて、胸の中の硬いものが少しだけほどけた。

  イシャックの工房の扉が見えた。夜更けでも灯りが消えない場所。槌の音は止まっているが、火の匂いが残っている。
  ヴァランは扉の前で、包みを持ち直し、息を整えた。

  「欠片の血が、どこから来たのか。あなたの古傷が、なぜ今開いたのか。……全部、ここで切り分ける」

  言いながら、ヴァランはふと気づく。
  切り分けた先に、自分が見たくない答えがあるかもしれない。それでも、逃げないと決めたのは自分だ。

  ヴァランが扉を叩くと、内側から椅子が軋む音がした。
  そして、寝ぼけた声が返ってくる。

  「……こんな時間に、誰だ。道具は眠ってるぞ」

  「眠らせていいのは道具だけ。人は、いま起きて」

  ヴァランの声に、扉の向こうで一拍の沈黙。
  次の瞬間、錠が外れる音がして、工房の灯りが路地へこぼれた。

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