月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第17話 上層街の喧嘩と、妙な仲直り

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 黒い仮面の侍女の踵が、白い石を打ち、月灯りの回廊へ吸い込まれていった。

  「待て!」

  ヴァランが声を張るより早く、シェルヴィが動く。彼の外套の裾が風を切り、柱の影を一つ、二つ、飛び越えるみたいに消していく。追うヴァランの靴音は、焦りの分だけ多い。自分の呼吸が、段取りを乱すのが悔しくて、唇を噛んだ。

  角を曲がった先で、回廊は二手に割れていた。噴水へ続く明るい道と、聖塔の裏手へ落ちる暗い石段。侍女の影は、もう見えない。代わりに、濡れた香油の匂いだけが残っている。

  アデムが柱の陰から現れ、指二本で合図した。早口で言い切る。
  「二人。……いや、二人以上。逃げ足が軽いのが一つ、重いのが一つ。足音が違う」

  ヴァランは帳面を開きかけ、手を止めた。今夜の自分が守るべきものは二つある。都の象徴と、作りかけの自分の冷静。

  「分かった。なら、噴水へ——」

  「違う」

  返ってきた声が低すぎて、ヴァランは一瞬、聞き違えたと思った。シェルヴィは暗い石段を見ている。肩の線だけで、体が先に答えを選んでいる。

  「根拠は?」
  ヴァランが噛みつきそうに言うと、彼は視線を外さずに言った。
  「匂いが、薄い。わざと残してる。……罠だ」

  罠。段取りの外にある言葉。
  ヴァランの胸が、きしんだ。彼女は苛立ちを帳面の罫線へ押しつけるみたいに、声を整えようとして、整わなかった。

  「罠でも、追わないと話が進まない。私は責任者なの」
  「責任は、命より上か」
  「命のために、段取りが要る! 無計画で走れば、誰かが——」

  そこで、声が鋭く跳ねた自分に気づいた。上層街の薄い笑いの中では、刃は見せない。知っているのに、今は刃が喉の奥に立っている。

  シェルヴィの目が、ほんの少しだけ細くなる。
  「お前が、誰かを——」

  言いかけて、彼は止めた。止めた言葉の余白が、ヴァランの胸を刺す。前世の夢で、誰かの手を振り払った感触。あれを、彼は知っているのか。

  言葉の次を探す前に、ぱちん、と乾いた音がした。

  「はいはい、そこまで。上層街の回廊で喉を鳴らすと、噂が花を咲かせるわよ」

  扇子の影から、コワリクが現れた。濡れた髪も乱れていないのに、靴の先だけが少し歪んでいる。追いかけた、と言わない。追いかけたふりも、しない。彼女は笑いの膜で、真実を包んだまま近づいてくる。

  「監査官殿。護衛官殿。二人で歩く姿、見られたくないでしょう?」
  「見られたくないのは、私の失敗よ」
  ヴァランが言い返すと、コワリクは肩をすくめた。
  「失敗なんて、上層街では香水みたいに薄くしたらいいの。ほら、馬車。逃げ場、あげる」

  いつの間にか、黒塗りの小さな馬車が回廊の端に停まっていた。御者が目を伏せ、扉だけが口を開けている。コワリクはヴァランの背を軽く押し、続けざまにシェルヴィの外套の端までつまんで、同じ扉へ放り込んだ。

  「ちょ——」
  抗議は扉の閉まる音に食われた。馬車が動き出し、狭い車内が揺れる。ヴァランの肩が、シェルヴィの外套に触れて、すぐ離れた。離れたはずなのに、揺れが二人をまた寄せる。

  「妙な段取りね」
  ヴァランが吐き捨てると、対面の席でコワリクが涼しい顔をした。
  「段取りじゃないわ。仲直りの準備。喧嘩した顔で捕まえた証言者に迫ると、口が固くなるもの」
  「喧嘩してない」
  「じゃあ、赤いのは誰の頬?」

  ヴァランは自分の頬に触れて、熱に腹が立った。熱は怒りの熱なのか、別の熱なのか、帳簿の欄には書けない。
  馬車は雨粒を跳ね上げて、上層街の坂を下りる。窓の外で灯りが滲み、金の看板が水面みたいに揺れる。その揺れと一緒に、車内の沈黙も揺れた。

  揺れる金の線が、ムーンジェイドの月虹の筋に似て見えた。見えた瞬間、鞄の底で証拠袋がかすかに鳴り、欠片が冷たいまま温度だけを変えた気がした。
  「近い」
  思わず口に出かけて、ヴァランは唇を閉じる。近いのは馬車の揺れだけではない。

  ヴァランは膝の上で指を組み直した。手袋の縫い目を数える。左、右、左右。数えても、さっきの「命より上か」が消えない。命より上の段取りなんて、あるはずがない。なのに、段取りが崩れると、自分が崩れる。

  「……さっきのは」
  言いかけて、喉が詰まった。謝罪の形は知っている。書式も、印も。けれど相手が彼になると、字が乱れる。
  シェルヴィは窓から目を離さず、短く言った。
  「追う」
  「そうじゃない」
  ヴァランが小さく息を吐くと、彼はようやくこちらを見た。視線がぶつかるだけで、胸の奥の罫線が曲がる。

  「一人で持つな」
  それだけだった。責める言葉ではない。命令の形をしているのに、支えの形だ。
  ヴァランは返事の代わりに、帳面の角を指で押さえた。押さえた角が、震えているのを、自分だけが知っている。
  視線を外すと、シェルヴィが窓の外だけを見ている。黙っているのに、車内の空気だけが少しずつ整っていく。

  コワリクは扇子を閉じ、膝の上の小袋を差し出した。
  「これ。黒い仮面の金具。文化祭の備品庫の扉に合う。……合うけど、合わないときもある」
  「合わない?」
  「鍵は、鍵らしい顔をしていないときがあるの。面倒でしょ」

  ヴァランが問い詰めようとした瞬間、シェルヴィが指先で、ヴァランの膝の上の帳面を軽く叩いた。音は出ない。けれど合図ははっきりしていた。ここでは刃を見せるな。

  馬車が止まる。扉が開き、雨の匂いが入り込んだ。聖塔の裏手。屋根の影で、石段が暗く落ちている。

  ヴァランが降りようとして、足元で紐がほどけた。靴紐。さっきの怒鳴り声より、よほど無様だ。
  監査官としては、誰かに膝をつかれる図は避けたい。けれど今夜の彼は、見栄を守るより先に、転ぶ未来だけを消しに来る。その近さが、胸の奥の固い場所をほどいていく。
  「……っ」
  しゃがむより早く、シェルヴィが膝をついた。黒手袋の指が、紐を拾い、結び目を作る。慣れていない結び方で、指先が少し震えた。

  「自分で——」
  言いかけて、ヴァランは口を閉じた。結び目がきゅっと締まり、足元が地面へ戻る。胸のどこかも、同じ音で締まった気がした。

  「……ありがとう」
  礼を言うと、彼は目を逸らさずに言った。
  「夜回りです。急ぎます」

  通路の先、屋根のある柱廊に、扉が一つある。上層街の備品庫の裏口。鍵穴はない。代わりに、半月の錠前が埋め込まれていた。

  ヴァランは黒い仮面の裏の金具を当てた。半月が重なり、かちり、と静かな音がした。
  扉が開く。

  中は細い通路だった。壁の石に、月虹装置の配線が走っている。金属の匂いと、淡い油の匂い。遠くで、低い唸りが響く。あれが都の灯りを操る心臓——核の振動か。

  通路の先に、木箱が二つ。片方は空。片方には、封印蝋が割られた跡がある。側面に、印。
  整備局の印ではない。上層街の文化祭の備品庫で使う、貸出の印だ。

  ヴァランは息を吸った。息を吸うだけで、喉の奥の刃が少し丸くなる。
  それでも、次の声は丸くならなかった。

  そこから、声が落ちてくる。
  「監査官さま。そこは、許可がいる通路です」

  丁寧な言葉。けれど、逃げ道を塞ぐ丁寧さだった。

  シェルヴィが、ヴァランの前へ半歩出る。必要なときだけ一歩前へ出る、その動き。
  ヴァランは帳面を閉じた。紙ではなく、自分の声で言う。

  「では、許可を出した人の名前を、ここで言いなさい」

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