酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第19話 雨の日のキャンセルと、ひとりの来店

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 その夜、「川べり文庫」の窓ガラスは、終始ざあざあと雨に叩かれていた。
 開店前から、川沿いの遊歩道には人影がほとんどない。
 対岸の提灯も、いつもより少なく、ぼんやりとにじんで見えた。
 「本日の天気、土砂降りです」
 ホールのレジ前で、凱理がスマートフォンの画面を掲げる。
 「そんなこと、窓見れば分かるよ」
 絵斗が、カウンターの中から鍋の蓋を押さえながら返した。
 コンロの上では、牛すじの煮込みがゆっくりと湯気を立てている。
 「でも、気象庁の発表としても土砂降りだそうです」
 「公式情報いらないから」
 璃音は、冷蔵庫から生クリームを取り出しながら苦笑した。
 「今日はデザート、持ち帰り用も多めに仕込んであるんだけどなあ……」
 「甘いものは気圧に勝つはずなんですけどね」
 花春が、棚にグラスを並べながら言う。
 「低気圧だろうが何だろうが、『スイーツは別腹』って、よく言うじゃないですか」
 「問題は、その別腹を持った人がここまでたどり着けるかどうかだな」
 阿紗美が、タオルを畳みながら窓の外を一瞥する。
 川面は、雨粒で細かく震え続けていた。
 そんな中、カウンターの奥で奏斗が帳簿と予約表を見比べていた。
 「……一組、キャンセル入りました」
 静かな声で告げられる。
 「ああ~、やっぱり」
 凱理が、分かりやすく肩を落とした。
 「どのテーブルですか?」
 「四人組。会社の飲み会らしいです。
 『天候不良のため、本日は見合わせます』とのこと」
 「見合わせた先、たぶん家飲みだろうなあ」
 絵斗が、煮込みの鍋をかき混ぜながらぼそりと言う。
 しばらくして、スマートフォンが再び震えた。
 「……二組目のキャンセルです」
 「えっ」
 「カウンター席のご夫婦。
 『子どもを預ける予定だったが、この雨で断念』とのことです」
 「それは仕方ないですね」
 花春が、ため息混じりに頷く。
 「でも、あのご夫婦、久しぶりの二人時間だったのに」
 「また改めて来てくださると信じましょう」
 奏斗は、冷静な声でそう言いつつ、予約表に小さく丸をつけた。
 そのあとも、ぽつりぽつりとキャンセルの連絡が入った。
 五人組の女子会。
 久しぶりに集まるという同級生グループ。
 「今日は、賑やかな夜になるはずだったんですけどね」
 璃音が、ショーケースに並べたタルトを見下ろす。
 さっくりと焼けたタルト台の上に、薄くスライスした林檎が花のように並んでいる。
 本当なら、にぎやかな笑い声と一緒にテーブルへ運ばれていくはずの顔ぶれだ。
 「まかないが豪華になる未来が見えますね」
 凱理が、現実逃避気味に言う。
 「俺、雨の日大好きですよ。美味しいものの残りが増えるんで」
 「そういうこと、あまり大きな声で言わない方がいいよ」
 絵斗が、苦笑しながら鍋の火を弱めた。
 「まあでも、この雨じゃ仕方ないか」
 「仕方なくないですね」
 阿紗美が、きっぱりと言う。
 「ここまで仕込みしたんですから、一人くらいは来てほしいです」
 「欲張りだなあ」
 「せっかくの『酒の流れる川』なんですから。
 雨の日にしか見られない景色も、誰かに見てほしいですし」
 窓の外では、街灯の光が雨粒とともに川面を斜めに流れていた。
 晴れの日とは違う、ぼんやりとした光の筋が伸びている。
     ◇
 開店時間を迎えても、店内はしんと静かだった。
 椅子はきちんと整列し、カウンターの上には磨かれたグラスが並んでいる。
 BGMのジャズだけが、小さく空間を満たしていた。
 「開いてるのって、うちと向かいの居酒屋くらいかな」
 凱理が、カーテンの隙間から遊歩道を覗き込む。
 「こういう日は、店同士で『客、一人来たらおすそ分け』みたいな制度ほしいですね」
 「そんな物々交換みたいな制度ありませんから」
 奏斗が、レジ横で静かにカップを拭きながら言う。
 「とはいえ、今のところ——」
 そこで、扉の鈴が高く鳴った。
 全員の視線が、一斉に入口へ向かう。
 そこに立っていたのは、びしょ濡れのスーツ姿の男性だった。
 髪からは水滴がぽたぽたと落ち、背広の肩には雨粒が染み込んでいる。
 足元の革靴も、すっかり色が変わっていた。
 「……営業、してますか」
 少しだけ息を切らしながら、男性が尋ねる。
 「もちろんです」
 奏斗が、すぐに答えた。
 「いらっしゃいませ。タオルをお持ちします」
 阿紗美が、すでにカウンターの奥からタオルを二枚持って走ってきていた。
 「どうぞ、まずはこれで」
 「あ、ありがとうございます」
 男性は、タオルで髪と顔を拭きながら、小さく頭を下げる。
 「予約は……してないんですが」
 「本日は、予約より雨が強いので、大丈夫です」
 璃音が、冗談めかした一言を添える。
 「お好きな席へどうぞ。窓際は少し冷えますが、川がよく見えます」
 「せっかくなんで、川が見えるところで」
 男性は、窓際の二人掛けの席に腰を下ろした。
 ぴちゃ、と椅子の下で水滴が落ちる音がする。
 「床、すみません……」
 「気にしないでください。雨の日あるあるです」
 花春が、モップを持って軽く笑った。
     ◇
 メニューを渡したあと、しばらく男性は黙ってページを眺めていた。
 窓の外では、川面に落ちる雨粒が絶え間なく輪を広げている。
 「ご注文、お決まりですか?」
 璃音が、タイミングを見計らって声をかけた。
 「そうですね……」
 男性は、メニューから顔を上げる。
 「おすすめ、ありますか」
 「温まりたいですか、それとも冷ましたいですか」
 唐突な問いに、男性が目を瞬いた。
 「……どういう意味です?」
 「今日一日を、ぬくぬくにして終わらせたいのか、
 それとも、頭の中を一回クールダウンさせたいのか。
 どちら寄りかな、と思いまして」
 璃音の説明に、男性は思わず笑ってしまった。
 「そんな聞き方、初めてされました」
 「すみません、うちのホール担当が最近考えた質問です」
 カウンターの方から、花春が「えへへ」と誇らしげに笑う。
 「『今日はどんな一日でした?』って聞くと重たいこともあるので、
 もう少し答えやすい聞き方にしてみました」
 「なるほど……」
 男性は、窓の外に視線を向けた。
 「じゃあ——どちらかというと、冷ましたい、ですかね」
 「冷ましたい、了解です」
 璃音は、すぐに厨房の方を振り返る。
 「絵斗さん、『冷ましたいセット』お願いします」
 「そんな名前のメニューあったか?」
 絵斗が眉をひそめる。
 「今日の気分限定です」
 「じゃあ、こっちで内容決めていいんだな」
 そう言うと、彼は冷蔵庫から日本酒の瓶を一本取り出した。
 「燗じゃなくて、今日は冷やでいこう。
 煮込みを少し軽めによそって、小さめの前菜も付けて」
 「はい」
 花春が、小鉢を用意して動き出す。
 カウンターの奥で料理が準備される間、璃音は男性に一つだけ尋ねた。
 「差し支えなければ……本当にざっくりでいいので、
 今日はどんな一日でしたか?」
 男性は、苦笑いを浮かべる。
 「そう聞かれると、余計に答えにくいですね」
 「『最悪でした』とか、『ちょっと疲れました』くらいでも」
 「じゃあ……『思ってたより、だいぶしんどかった』にしておきます」
 男性は、ネクタイをゆるめながら続けた。
 「外回りで歩き回って、
 ようやくまとまりかけてた話が、土壇場で白紙になって。
 『今日は解散しましょう』って言われたあと、
 この雨ですよ」
 「それは、かなりしんどいですね」
 「はい。
 でも、家に帰る前に、
 どこかで今日をいったん置いていきたくて」
 その一言に、店内が少しだけ静かになる。
 「この川沿い、前から気になってたんです。
 雨でも灯りがきれいだなって。
 たまたま、ここの看板がまだ点いてたので、助かりました」
 「うちの電気代が、報われましたね」
 凱理が、レジ前から小声でつぶやき、阿紗美に肘で突かれる。
 「そういうことを言う前に、『いらっしゃってくださってありがとうございます』でしょ」
 「いらっしゃってくださってありがとうございます!」
 声だけは元気に言い直す。
 男性は、思わず吹き出した。
     ◇
 やがて、料理が運ばれてきた。
 「お待たせしました。
 牛すじの煮込みを少し軽めに盛りつけたものと、
 柚子胡椒を添えた焼きおにぎり風のおつまみです」
 花春が、湯気の立つ器をそっとテーブルに置く。
 「それから——」
 璃音が、冷えたグラスと徳利を差し出した。
 「少し辛口の日本酒です。
 頭の中をシャキッとさせたいときに、よく出します」
 「すごいな……」
 男性は、目の前の光景を見て、ぽつりと言った。
 「ちゃんと、『冷ましたい』セットになってる」
 「店内を走り回って考えましたから」
 絵斗が、カウンターの向こうから胸を張る。
 「こう見えて、テンション低めの夜に出す料理は得意なんで」
 男性は箸を取り、まず煮込みを一口。
 柔らかく煮込まれた牛すじと、大根の甘みが口の中に広がる。
 少し遅れて、生姜の香りが追いかけてきた。
 「……ああ」
 思わず、低い声が漏れる。
 「ここ数時間くらい、
 ずっと肩に乗ってた何かが、ちょっと降りた気がします」
 「それは何よりです」
 璃音が、ほっとしたように微笑んだ。
 「たぶん、今日のしんどさ全部は流せないですけど」
 「全部流したら、明日仕事行けなくなりますしね」
 男性が苦笑する。
 「でも、半分くらい置いていっていただければ。
 残り半分は、川が勝手に流してくれると思います」
 「そんなサービスもあるんですか、この店」
 「サービスというより、副作用ですね」
 窓の外では、相変わらず雨が降り続いていた。
 川面に落ちた雨粒は、すぐに流れに紛れていく。
     ◇
 料理が半分ほど減った頃。
 男性は、グラスを指先でくるくる回しながら言った。
 「さっき、『今日はどんな一日でした?』って聞かれたじゃないですか」
 「はい」
 「逆に聞いてもいいですか」
 「……私たちに、ですか?」
 「ええ。
 こんな雨の日に店を開けてる人たちの今日は、
 どんな一日だったのかなって」
 意外な問いかけに、スタッフ全員が一瞬固まった。
 「今日?」
 凱理が、レジの前で首をかしげる。
 「キャンセルメールと天気予報を交互に見てました」
 「正直すぎる」
 花春が呆れつつも笑う。
 「私は、焼いたタルトの行き先を心配してました」
 璃音が続ける。
 「この雨で誰にも食べてもらえなかったら、
 かわいそうだなって」
 「俺は、煮込みが煮詰まり過ぎないように火加減と格闘してた」
 絵斗も、肩をすくめる。
 「今日の煮込み、いつもより味がまとまってるのは、
 キャンセルが増えたおかげかもしれないな」
 「私は、いつも通りですね」
 阿紗美は、グラスを拭きながら淡々と言った。
 「誰か一人でも来たときに、
 ちゃんと走れるように準備してただけです」
 最後に、視線が自然と奏斗へ向かう。
 「店長代行は?」
 「今日ですか」
 奏斗は、少しだけ考えてから答えた。
 「天気と予約の数字を見比べていました。
 雨の日の売上予測を、頭の中で何度もやり直していましたね」
 「すごく現実的な一日だ……」
 男性は、感心とも呆れともつかない声を出した。
 「でも、そのおかげで、
 こうして一人分の席と料理を確保してもらえてるんですよね」
 「結果としては、そうなります」
 奏斗は、きちんと認めるように頷いた。
 「本音を言えば、
 キャンセルが出るたびに胃が痛くなっていましたが」
 「ですよね」
 男性は、笑いながらグラスを空けた。
 「でも、おかげさまで、
 今日の終わり方がだいぶマシになりました」
 その言葉に、店内の空気がふっとゆるむ。
 「……よかった」
 璃音が、ほんの少しだけ息を吐くように呟いた。
     ◇
 男性が会計を済ませ、玄関で傘を広げる。
 「雨、まだ強いですね」
 「駅までは、ゆっくり歩いてください」
 花春が、マフラーの位置を直すような仕草で軽く頭を下げた。
 「今日は、ありがとうございました」
 男性は、一度だけ振り返る。
 窓の向こうには、まだ温かな灯りと、スタッフたちの姿があった。
 「ひどい一日だったはずなんですけど」
 彼は、少しだけ照れたように笑った。
 「ここで一時間半くらい過ごしたおかげで、
 『そこそこ悪くなかった日』くらいまで戻りました」
 「それは、かなりの回復ですね」
 璃音が、嬉しそうに微笑む。
 「また、しんどい日に来てください」
 凱理が、おどけたように言う。
 「もちろん、嬉しい日も歓迎ですけど」
 「じゃあ、次は『そこそこいい日』に来ます」
 男性はそう言って、雨の中へと歩き出した。
 扉の鈴が、静かに鳴る。
     ◇
 客が帰ったあと、店内には再び静けさが戻った。
 時計を見ると、まだラストオーダーには少し早い。
 「……今日の売上、数としては正直厳しいですね」
 凱理が、レジの画面を覗き込みながら言う。
 「でも、なんか、悪くない夜だった気がします」
 「分かります」
 花春が、ゆっくり頷いた。
 「たった一人でも、その人の一日が少し救われたなら、
 この店を開けてた意味、ありますよね」
 「あります」
 奏斗は、ためらわずに答えた。
 「数字には残りにくいですけど」
 「じゃあ、別のところに残しましょうか」
 璃音が、カウンターの端に置かれた黒いノートを手に取る。
 「『雨の日のキャンセルと、ひとりの来店』って、
 今日のページに書いてもいいですか」
 「お願いします」
 奏斗は、ノートを受け取り、自分でページを開いた。
 日付の下に、ゆっくりと文字を書く。
 『雨でキャンセルが続いた夜、
 一人の客が「今日を置いていきたい」と言ってきた。
 特別なことは何もしていない。
 ただ、温かい料理と冷たい酒と、
 少しだけ本音を話せる席を用意しただけ。』
 書き終えてから、一拍おいて行を足す。
 『君に恋する確率:——
 店に恋してくれている確率も、
 少しだけ上がった気がする。』
 「最後の一文、いいですね」
 花春が、背伸びをしながら覗き込んで微笑んだ。
 「店に恋してくれている確率かあ」
 「その数字は、帳簿には載りませんから」
 奏斗は、ノートを閉じながら言う。
 「だからこそ、ここに書いておきます」
 窓の外では、相変わらず雨が降り続いていた。
 けれど、さっきよりも川面の揺れは穏やかに見える。
 酒の流れる川のほとりで、
 土砂降りの夜にたった一人来てくれた客の記憶が、
 静かにこの店の「最高の思い出候補」に加わっていった。
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