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第19話 雨の日のキャンセルと、ひとりの来店
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その夜、「川べり文庫」の窓ガラスは、終始ざあざあと雨に叩かれていた。
開店前から、川沿いの遊歩道には人影がほとんどない。
対岸の提灯も、いつもより少なく、ぼんやりとにじんで見えた。
「本日の天気、土砂降りです」
ホールのレジ前で、凱理がスマートフォンの画面を掲げる。
「そんなこと、窓見れば分かるよ」
絵斗が、カウンターの中から鍋の蓋を押さえながら返した。
コンロの上では、牛すじの煮込みがゆっくりと湯気を立てている。
「でも、気象庁の発表としても土砂降りだそうです」
「公式情報いらないから」
璃音は、冷蔵庫から生クリームを取り出しながら苦笑した。
「今日はデザート、持ち帰り用も多めに仕込んであるんだけどなあ……」
「甘いものは気圧に勝つはずなんですけどね」
花春が、棚にグラスを並べながら言う。
「低気圧だろうが何だろうが、『スイーツは別腹』って、よく言うじゃないですか」
「問題は、その別腹を持った人がここまでたどり着けるかどうかだな」
阿紗美が、タオルを畳みながら窓の外を一瞥する。
川面は、雨粒で細かく震え続けていた。
そんな中、カウンターの奥で奏斗が帳簿と予約表を見比べていた。
「……一組、キャンセル入りました」
静かな声で告げられる。
「ああ~、やっぱり」
凱理が、分かりやすく肩を落とした。
「どのテーブルですか?」
「四人組。会社の飲み会らしいです。
『天候不良のため、本日は見合わせます』とのこと」
「見合わせた先、たぶん家飲みだろうなあ」
絵斗が、煮込みの鍋をかき混ぜながらぼそりと言う。
しばらくして、スマートフォンが再び震えた。
「……二組目のキャンセルです」
「えっ」
「カウンター席のご夫婦。
『子どもを預ける予定だったが、この雨で断念』とのことです」
「それは仕方ないですね」
花春が、ため息混じりに頷く。
「でも、あのご夫婦、久しぶりの二人時間だったのに」
「また改めて来てくださると信じましょう」
奏斗は、冷静な声でそう言いつつ、予約表に小さく丸をつけた。
そのあとも、ぽつりぽつりとキャンセルの連絡が入った。
五人組の女子会。
久しぶりに集まるという同級生グループ。
「今日は、賑やかな夜になるはずだったんですけどね」
璃音が、ショーケースに並べたタルトを見下ろす。
さっくりと焼けたタルト台の上に、薄くスライスした林檎が花のように並んでいる。
本当なら、にぎやかな笑い声と一緒にテーブルへ運ばれていくはずの顔ぶれだ。
「まかないが豪華になる未来が見えますね」
凱理が、現実逃避気味に言う。
「俺、雨の日大好きですよ。美味しいものの残りが増えるんで」
「そういうこと、あまり大きな声で言わない方がいいよ」
絵斗が、苦笑しながら鍋の火を弱めた。
「まあでも、この雨じゃ仕方ないか」
「仕方なくないですね」
阿紗美が、きっぱりと言う。
「ここまで仕込みしたんですから、一人くらいは来てほしいです」
「欲張りだなあ」
「せっかくの『酒の流れる川』なんですから。
雨の日にしか見られない景色も、誰かに見てほしいですし」
窓の外では、街灯の光が雨粒とともに川面を斜めに流れていた。
晴れの日とは違う、ぼんやりとした光の筋が伸びている。
◇
開店時間を迎えても、店内はしんと静かだった。
椅子はきちんと整列し、カウンターの上には磨かれたグラスが並んでいる。
BGMのジャズだけが、小さく空間を満たしていた。
「開いてるのって、うちと向かいの居酒屋くらいかな」
凱理が、カーテンの隙間から遊歩道を覗き込む。
「こういう日は、店同士で『客、一人来たらおすそ分け』みたいな制度ほしいですね」
「そんな物々交換みたいな制度ありませんから」
奏斗が、レジ横で静かにカップを拭きながら言う。
「とはいえ、今のところ——」
そこで、扉の鈴が高く鳴った。
全員の視線が、一斉に入口へ向かう。
そこに立っていたのは、びしょ濡れのスーツ姿の男性だった。
髪からは水滴がぽたぽたと落ち、背広の肩には雨粒が染み込んでいる。
足元の革靴も、すっかり色が変わっていた。
「……営業、してますか」
少しだけ息を切らしながら、男性が尋ねる。
「もちろんです」
奏斗が、すぐに答えた。
「いらっしゃいませ。タオルをお持ちします」
阿紗美が、すでにカウンターの奥からタオルを二枚持って走ってきていた。
「どうぞ、まずはこれで」
「あ、ありがとうございます」
男性は、タオルで髪と顔を拭きながら、小さく頭を下げる。
「予約は……してないんですが」
「本日は、予約より雨が強いので、大丈夫です」
璃音が、冗談めかした一言を添える。
「お好きな席へどうぞ。窓際は少し冷えますが、川がよく見えます」
「せっかくなんで、川が見えるところで」
男性は、窓際の二人掛けの席に腰を下ろした。
ぴちゃ、と椅子の下で水滴が落ちる音がする。
「床、すみません……」
「気にしないでください。雨の日あるあるです」
花春が、モップを持って軽く笑った。
◇
メニューを渡したあと、しばらく男性は黙ってページを眺めていた。
窓の外では、川面に落ちる雨粒が絶え間なく輪を広げている。
「ご注文、お決まりですか?」
璃音が、タイミングを見計らって声をかけた。
「そうですね……」
男性は、メニューから顔を上げる。
「おすすめ、ありますか」
「温まりたいですか、それとも冷ましたいですか」
唐突な問いに、男性が目を瞬いた。
「……どういう意味です?」
「今日一日を、ぬくぬくにして終わらせたいのか、
それとも、頭の中を一回クールダウンさせたいのか。
どちら寄りかな、と思いまして」
璃音の説明に、男性は思わず笑ってしまった。
「そんな聞き方、初めてされました」
「すみません、うちのホール担当が最近考えた質問です」
カウンターの方から、花春が「えへへ」と誇らしげに笑う。
「『今日はどんな一日でした?』って聞くと重たいこともあるので、
もう少し答えやすい聞き方にしてみました」
「なるほど……」
男性は、窓の外に視線を向けた。
「じゃあ——どちらかというと、冷ましたい、ですかね」
「冷ましたい、了解です」
璃音は、すぐに厨房の方を振り返る。
「絵斗さん、『冷ましたいセット』お願いします」
「そんな名前のメニューあったか?」
絵斗が眉をひそめる。
「今日の気分限定です」
「じゃあ、こっちで内容決めていいんだな」
そう言うと、彼は冷蔵庫から日本酒の瓶を一本取り出した。
「燗じゃなくて、今日は冷やでいこう。
煮込みを少し軽めによそって、小さめの前菜も付けて」
「はい」
花春が、小鉢を用意して動き出す。
カウンターの奥で料理が準備される間、璃音は男性に一つだけ尋ねた。
「差し支えなければ……本当にざっくりでいいので、
今日はどんな一日でしたか?」
男性は、苦笑いを浮かべる。
「そう聞かれると、余計に答えにくいですね」
「『最悪でした』とか、『ちょっと疲れました』くらいでも」
「じゃあ……『思ってたより、だいぶしんどかった』にしておきます」
男性は、ネクタイをゆるめながら続けた。
「外回りで歩き回って、
ようやくまとまりかけてた話が、土壇場で白紙になって。
『今日は解散しましょう』って言われたあと、
この雨ですよ」
「それは、かなりしんどいですね」
「はい。
でも、家に帰る前に、
どこかで今日をいったん置いていきたくて」
その一言に、店内が少しだけ静かになる。
「この川沿い、前から気になってたんです。
雨でも灯りがきれいだなって。
たまたま、ここの看板がまだ点いてたので、助かりました」
「うちの電気代が、報われましたね」
凱理が、レジ前から小声でつぶやき、阿紗美に肘で突かれる。
「そういうことを言う前に、『いらっしゃってくださってありがとうございます』でしょ」
「いらっしゃってくださってありがとうございます!」
声だけは元気に言い直す。
男性は、思わず吹き出した。
◇
やがて、料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。
牛すじの煮込みを少し軽めに盛りつけたものと、
柚子胡椒を添えた焼きおにぎり風のおつまみです」
花春が、湯気の立つ器をそっとテーブルに置く。
「それから——」
璃音が、冷えたグラスと徳利を差し出した。
「少し辛口の日本酒です。
頭の中をシャキッとさせたいときに、よく出します」
「すごいな……」
男性は、目の前の光景を見て、ぽつりと言った。
「ちゃんと、『冷ましたい』セットになってる」
「店内を走り回って考えましたから」
絵斗が、カウンターの向こうから胸を張る。
「こう見えて、テンション低めの夜に出す料理は得意なんで」
男性は箸を取り、まず煮込みを一口。
柔らかく煮込まれた牛すじと、大根の甘みが口の中に広がる。
少し遅れて、生姜の香りが追いかけてきた。
「……ああ」
思わず、低い声が漏れる。
「ここ数時間くらい、
ずっと肩に乗ってた何かが、ちょっと降りた気がします」
「それは何よりです」
璃音が、ほっとしたように微笑んだ。
「たぶん、今日のしんどさ全部は流せないですけど」
「全部流したら、明日仕事行けなくなりますしね」
男性が苦笑する。
「でも、半分くらい置いていっていただければ。
残り半分は、川が勝手に流してくれると思います」
「そんなサービスもあるんですか、この店」
「サービスというより、副作用ですね」
窓の外では、相変わらず雨が降り続いていた。
川面に落ちた雨粒は、すぐに流れに紛れていく。
◇
料理が半分ほど減った頃。
男性は、グラスを指先でくるくる回しながら言った。
「さっき、『今日はどんな一日でした?』って聞かれたじゃないですか」
「はい」
「逆に聞いてもいいですか」
「……私たちに、ですか?」
「ええ。
こんな雨の日に店を開けてる人たちの今日は、
どんな一日だったのかなって」
意外な問いかけに、スタッフ全員が一瞬固まった。
「今日?」
凱理が、レジの前で首をかしげる。
「キャンセルメールと天気予報を交互に見てました」
「正直すぎる」
花春が呆れつつも笑う。
「私は、焼いたタルトの行き先を心配してました」
璃音が続ける。
「この雨で誰にも食べてもらえなかったら、
かわいそうだなって」
「俺は、煮込みが煮詰まり過ぎないように火加減と格闘してた」
絵斗も、肩をすくめる。
「今日の煮込み、いつもより味がまとまってるのは、
キャンセルが増えたおかげかもしれないな」
「私は、いつも通りですね」
阿紗美は、グラスを拭きながら淡々と言った。
「誰か一人でも来たときに、
ちゃんと走れるように準備してただけです」
最後に、視線が自然と奏斗へ向かう。
「店長代行は?」
「今日ですか」
奏斗は、少しだけ考えてから答えた。
「天気と予約の数字を見比べていました。
雨の日の売上予測を、頭の中で何度もやり直していましたね」
「すごく現実的な一日だ……」
男性は、感心とも呆れともつかない声を出した。
「でも、そのおかげで、
こうして一人分の席と料理を確保してもらえてるんですよね」
「結果としては、そうなります」
奏斗は、きちんと認めるように頷いた。
「本音を言えば、
キャンセルが出るたびに胃が痛くなっていましたが」
「ですよね」
男性は、笑いながらグラスを空けた。
「でも、おかげさまで、
今日の終わり方がだいぶマシになりました」
その言葉に、店内の空気がふっとゆるむ。
「……よかった」
璃音が、ほんの少しだけ息を吐くように呟いた。
◇
男性が会計を済ませ、玄関で傘を広げる。
「雨、まだ強いですね」
「駅までは、ゆっくり歩いてください」
花春が、マフラーの位置を直すような仕草で軽く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
男性は、一度だけ振り返る。
窓の向こうには、まだ温かな灯りと、スタッフたちの姿があった。
「ひどい一日だったはずなんですけど」
彼は、少しだけ照れたように笑った。
「ここで一時間半くらい過ごしたおかげで、
『そこそこ悪くなかった日』くらいまで戻りました」
「それは、かなりの回復ですね」
璃音が、嬉しそうに微笑む。
「また、しんどい日に来てください」
凱理が、おどけたように言う。
「もちろん、嬉しい日も歓迎ですけど」
「じゃあ、次は『そこそこいい日』に来ます」
男性はそう言って、雨の中へと歩き出した。
扉の鈴が、静かに鳴る。
◇
客が帰ったあと、店内には再び静けさが戻った。
時計を見ると、まだラストオーダーには少し早い。
「……今日の売上、数としては正直厳しいですね」
凱理が、レジの画面を覗き込みながら言う。
「でも、なんか、悪くない夜だった気がします」
「分かります」
花春が、ゆっくり頷いた。
「たった一人でも、その人の一日が少し救われたなら、
この店を開けてた意味、ありますよね」
「あります」
奏斗は、ためらわずに答えた。
「数字には残りにくいですけど」
「じゃあ、別のところに残しましょうか」
璃音が、カウンターの端に置かれた黒いノートを手に取る。
「『雨の日のキャンセルと、ひとりの来店』って、
今日のページに書いてもいいですか」
「お願いします」
奏斗は、ノートを受け取り、自分でページを開いた。
日付の下に、ゆっくりと文字を書く。
『雨でキャンセルが続いた夜、
一人の客が「今日を置いていきたい」と言ってきた。
特別なことは何もしていない。
ただ、温かい料理と冷たい酒と、
少しだけ本音を話せる席を用意しただけ。』
書き終えてから、一拍おいて行を足す。
『君に恋する確率:——
店に恋してくれている確率も、
少しだけ上がった気がする。』
「最後の一文、いいですね」
花春が、背伸びをしながら覗き込んで微笑んだ。
「店に恋してくれている確率かあ」
「その数字は、帳簿には載りませんから」
奏斗は、ノートを閉じながら言う。
「だからこそ、ここに書いておきます」
窓の外では、相変わらず雨が降り続いていた。
けれど、さっきよりも川面の揺れは穏やかに見える。
酒の流れる川のほとりで、
土砂降りの夜にたった一人来てくれた客の記憶が、
静かにこの店の「最高の思い出候補」に加わっていった。
開店前から、川沿いの遊歩道には人影がほとんどない。
対岸の提灯も、いつもより少なく、ぼんやりとにじんで見えた。
「本日の天気、土砂降りです」
ホールのレジ前で、凱理がスマートフォンの画面を掲げる。
「そんなこと、窓見れば分かるよ」
絵斗が、カウンターの中から鍋の蓋を押さえながら返した。
コンロの上では、牛すじの煮込みがゆっくりと湯気を立てている。
「でも、気象庁の発表としても土砂降りだそうです」
「公式情報いらないから」
璃音は、冷蔵庫から生クリームを取り出しながら苦笑した。
「今日はデザート、持ち帰り用も多めに仕込んであるんだけどなあ……」
「甘いものは気圧に勝つはずなんですけどね」
花春が、棚にグラスを並べながら言う。
「低気圧だろうが何だろうが、『スイーツは別腹』って、よく言うじゃないですか」
「問題は、その別腹を持った人がここまでたどり着けるかどうかだな」
阿紗美が、タオルを畳みながら窓の外を一瞥する。
川面は、雨粒で細かく震え続けていた。
そんな中、カウンターの奥で奏斗が帳簿と予約表を見比べていた。
「……一組、キャンセル入りました」
静かな声で告げられる。
「ああ~、やっぱり」
凱理が、分かりやすく肩を落とした。
「どのテーブルですか?」
「四人組。会社の飲み会らしいです。
『天候不良のため、本日は見合わせます』とのこと」
「見合わせた先、たぶん家飲みだろうなあ」
絵斗が、煮込みの鍋をかき混ぜながらぼそりと言う。
しばらくして、スマートフォンが再び震えた。
「……二組目のキャンセルです」
「えっ」
「カウンター席のご夫婦。
『子どもを預ける予定だったが、この雨で断念』とのことです」
「それは仕方ないですね」
花春が、ため息混じりに頷く。
「でも、あのご夫婦、久しぶりの二人時間だったのに」
「また改めて来てくださると信じましょう」
奏斗は、冷静な声でそう言いつつ、予約表に小さく丸をつけた。
そのあとも、ぽつりぽつりとキャンセルの連絡が入った。
五人組の女子会。
久しぶりに集まるという同級生グループ。
「今日は、賑やかな夜になるはずだったんですけどね」
璃音が、ショーケースに並べたタルトを見下ろす。
さっくりと焼けたタルト台の上に、薄くスライスした林檎が花のように並んでいる。
本当なら、にぎやかな笑い声と一緒にテーブルへ運ばれていくはずの顔ぶれだ。
「まかないが豪華になる未来が見えますね」
凱理が、現実逃避気味に言う。
「俺、雨の日大好きですよ。美味しいものの残りが増えるんで」
「そういうこと、あまり大きな声で言わない方がいいよ」
絵斗が、苦笑しながら鍋の火を弱めた。
「まあでも、この雨じゃ仕方ないか」
「仕方なくないですね」
阿紗美が、きっぱりと言う。
「ここまで仕込みしたんですから、一人くらいは来てほしいです」
「欲張りだなあ」
「せっかくの『酒の流れる川』なんですから。
雨の日にしか見られない景色も、誰かに見てほしいですし」
窓の外では、街灯の光が雨粒とともに川面を斜めに流れていた。
晴れの日とは違う、ぼんやりとした光の筋が伸びている。
◇
開店時間を迎えても、店内はしんと静かだった。
椅子はきちんと整列し、カウンターの上には磨かれたグラスが並んでいる。
BGMのジャズだけが、小さく空間を満たしていた。
「開いてるのって、うちと向かいの居酒屋くらいかな」
凱理が、カーテンの隙間から遊歩道を覗き込む。
「こういう日は、店同士で『客、一人来たらおすそ分け』みたいな制度ほしいですね」
「そんな物々交換みたいな制度ありませんから」
奏斗が、レジ横で静かにカップを拭きながら言う。
「とはいえ、今のところ——」
そこで、扉の鈴が高く鳴った。
全員の視線が、一斉に入口へ向かう。
そこに立っていたのは、びしょ濡れのスーツ姿の男性だった。
髪からは水滴がぽたぽたと落ち、背広の肩には雨粒が染み込んでいる。
足元の革靴も、すっかり色が変わっていた。
「……営業、してますか」
少しだけ息を切らしながら、男性が尋ねる。
「もちろんです」
奏斗が、すぐに答えた。
「いらっしゃいませ。タオルをお持ちします」
阿紗美が、すでにカウンターの奥からタオルを二枚持って走ってきていた。
「どうぞ、まずはこれで」
「あ、ありがとうございます」
男性は、タオルで髪と顔を拭きながら、小さく頭を下げる。
「予約は……してないんですが」
「本日は、予約より雨が強いので、大丈夫です」
璃音が、冗談めかした一言を添える。
「お好きな席へどうぞ。窓際は少し冷えますが、川がよく見えます」
「せっかくなんで、川が見えるところで」
男性は、窓際の二人掛けの席に腰を下ろした。
ぴちゃ、と椅子の下で水滴が落ちる音がする。
「床、すみません……」
「気にしないでください。雨の日あるあるです」
花春が、モップを持って軽く笑った。
◇
メニューを渡したあと、しばらく男性は黙ってページを眺めていた。
窓の外では、川面に落ちる雨粒が絶え間なく輪を広げている。
「ご注文、お決まりですか?」
璃音が、タイミングを見計らって声をかけた。
「そうですね……」
男性は、メニューから顔を上げる。
「おすすめ、ありますか」
「温まりたいですか、それとも冷ましたいですか」
唐突な問いに、男性が目を瞬いた。
「……どういう意味です?」
「今日一日を、ぬくぬくにして終わらせたいのか、
それとも、頭の中を一回クールダウンさせたいのか。
どちら寄りかな、と思いまして」
璃音の説明に、男性は思わず笑ってしまった。
「そんな聞き方、初めてされました」
「すみません、うちのホール担当が最近考えた質問です」
カウンターの方から、花春が「えへへ」と誇らしげに笑う。
「『今日はどんな一日でした?』って聞くと重たいこともあるので、
もう少し答えやすい聞き方にしてみました」
「なるほど……」
男性は、窓の外に視線を向けた。
「じゃあ——どちらかというと、冷ましたい、ですかね」
「冷ましたい、了解です」
璃音は、すぐに厨房の方を振り返る。
「絵斗さん、『冷ましたいセット』お願いします」
「そんな名前のメニューあったか?」
絵斗が眉をひそめる。
「今日の気分限定です」
「じゃあ、こっちで内容決めていいんだな」
そう言うと、彼は冷蔵庫から日本酒の瓶を一本取り出した。
「燗じゃなくて、今日は冷やでいこう。
煮込みを少し軽めによそって、小さめの前菜も付けて」
「はい」
花春が、小鉢を用意して動き出す。
カウンターの奥で料理が準備される間、璃音は男性に一つだけ尋ねた。
「差し支えなければ……本当にざっくりでいいので、
今日はどんな一日でしたか?」
男性は、苦笑いを浮かべる。
「そう聞かれると、余計に答えにくいですね」
「『最悪でした』とか、『ちょっと疲れました』くらいでも」
「じゃあ……『思ってたより、だいぶしんどかった』にしておきます」
男性は、ネクタイをゆるめながら続けた。
「外回りで歩き回って、
ようやくまとまりかけてた話が、土壇場で白紙になって。
『今日は解散しましょう』って言われたあと、
この雨ですよ」
「それは、かなりしんどいですね」
「はい。
でも、家に帰る前に、
どこかで今日をいったん置いていきたくて」
その一言に、店内が少しだけ静かになる。
「この川沿い、前から気になってたんです。
雨でも灯りがきれいだなって。
たまたま、ここの看板がまだ点いてたので、助かりました」
「うちの電気代が、報われましたね」
凱理が、レジ前から小声でつぶやき、阿紗美に肘で突かれる。
「そういうことを言う前に、『いらっしゃってくださってありがとうございます』でしょ」
「いらっしゃってくださってありがとうございます!」
声だけは元気に言い直す。
男性は、思わず吹き出した。
◇
やがて、料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。
牛すじの煮込みを少し軽めに盛りつけたものと、
柚子胡椒を添えた焼きおにぎり風のおつまみです」
花春が、湯気の立つ器をそっとテーブルに置く。
「それから——」
璃音が、冷えたグラスと徳利を差し出した。
「少し辛口の日本酒です。
頭の中をシャキッとさせたいときに、よく出します」
「すごいな……」
男性は、目の前の光景を見て、ぽつりと言った。
「ちゃんと、『冷ましたい』セットになってる」
「店内を走り回って考えましたから」
絵斗が、カウンターの向こうから胸を張る。
「こう見えて、テンション低めの夜に出す料理は得意なんで」
男性は箸を取り、まず煮込みを一口。
柔らかく煮込まれた牛すじと、大根の甘みが口の中に広がる。
少し遅れて、生姜の香りが追いかけてきた。
「……ああ」
思わず、低い声が漏れる。
「ここ数時間くらい、
ずっと肩に乗ってた何かが、ちょっと降りた気がします」
「それは何よりです」
璃音が、ほっとしたように微笑んだ。
「たぶん、今日のしんどさ全部は流せないですけど」
「全部流したら、明日仕事行けなくなりますしね」
男性が苦笑する。
「でも、半分くらい置いていっていただければ。
残り半分は、川が勝手に流してくれると思います」
「そんなサービスもあるんですか、この店」
「サービスというより、副作用ですね」
窓の外では、相変わらず雨が降り続いていた。
川面に落ちた雨粒は、すぐに流れに紛れていく。
◇
料理が半分ほど減った頃。
男性は、グラスを指先でくるくる回しながら言った。
「さっき、『今日はどんな一日でした?』って聞かれたじゃないですか」
「はい」
「逆に聞いてもいいですか」
「……私たちに、ですか?」
「ええ。
こんな雨の日に店を開けてる人たちの今日は、
どんな一日だったのかなって」
意外な問いかけに、スタッフ全員が一瞬固まった。
「今日?」
凱理が、レジの前で首をかしげる。
「キャンセルメールと天気予報を交互に見てました」
「正直すぎる」
花春が呆れつつも笑う。
「私は、焼いたタルトの行き先を心配してました」
璃音が続ける。
「この雨で誰にも食べてもらえなかったら、
かわいそうだなって」
「俺は、煮込みが煮詰まり過ぎないように火加減と格闘してた」
絵斗も、肩をすくめる。
「今日の煮込み、いつもより味がまとまってるのは、
キャンセルが増えたおかげかもしれないな」
「私は、いつも通りですね」
阿紗美は、グラスを拭きながら淡々と言った。
「誰か一人でも来たときに、
ちゃんと走れるように準備してただけです」
最後に、視線が自然と奏斗へ向かう。
「店長代行は?」
「今日ですか」
奏斗は、少しだけ考えてから答えた。
「天気と予約の数字を見比べていました。
雨の日の売上予測を、頭の中で何度もやり直していましたね」
「すごく現実的な一日だ……」
男性は、感心とも呆れともつかない声を出した。
「でも、そのおかげで、
こうして一人分の席と料理を確保してもらえてるんですよね」
「結果としては、そうなります」
奏斗は、きちんと認めるように頷いた。
「本音を言えば、
キャンセルが出るたびに胃が痛くなっていましたが」
「ですよね」
男性は、笑いながらグラスを空けた。
「でも、おかげさまで、
今日の終わり方がだいぶマシになりました」
その言葉に、店内の空気がふっとゆるむ。
「……よかった」
璃音が、ほんの少しだけ息を吐くように呟いた。
◇
男性が会計を済ませ、玄関で傘を広げる。
「雨、まだ強いですね」
「駅までは、ゆっくり歩いてください」
花春が、マフラーの位置を直すような仕草で軽く頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
男性は、一度だけ振り返る。
窓の向こうには、まだ温かな灯りと、スタッフたちの姿があった。
「ひどい一日だったはずなんですけど」
彼は、少しだけ照れたように笑った。
「ここで一時間半くらい過ごしたおかげで、
『そこそこ悪くなかった日』くらいまで戻りました」
「それは、かなりの回復ですね」
璃音が、嬉しそうに微笑む。
「また、しんどい日に来てください」
凱理が、おどけたように言う。
「もちろん、嬉しい日も歓迎ですけど」
「じゃあ、次は『そこそこいい日』に来ます」
男性はそう言って、雨の中へと歩き出した。
扉の鈴が、静かに鳴る。
◇
客が帰ったあと、店内には再び静けさが戻った。
時計を見ると、まだラストオーダーには少し早い。
「……今日の売上、数としては正直厳しいですね」
凱理が、レジの画面を覗き込みながら言う。
「でも、なんか、悪くない夜だった気がします」
「分かります」
花春が、ゆっくり頷いた。
「たった一人でも、その人の一日が少し救われたなら、
この店を開けてた意味、ありますよね」
「あります」
奏斗は、ためらわずに答えた。
「数字には残りにくいですけど」
「じゃあ、別のところに残しましょうか」
璃音が、カウンターの端に置かれた黒いノートを手に取る。
「『雨の日のキャンセルと、ひとりの来店』って、
今日のページに書いてもいいですか」
「お願いします」
奏斗は、ノートを受け取り、自分でページを開いた。
日付の下に、ゆっくりと文字を書く。
『雨でキャンセルが続いた夜、
一人の客が「今日を置いていきたい」と言ってきた。
特別なことは何もしていない。
ただ、温かい料理と冷たい酒と、
少しだけ本音を話せる席を用意しただけ。』
書き終えてから、一拍おいて行を足す。
『君に恋する確率:——
店に恋してくれている確率も、
少しだけ上がった気がする。』
「最後の一文、いいですね」
花春が、背伸びをしながら覗き込んで微笑んだ。
「店に恋してくれている確率かあ」
「その数字は、帳簿には載りませんから」
奏斗は、ノートを閉じながら言う。
「だからこそ、ここに書いておきます」
窓の外では、相変わらず雨が降り続いていた。
けれど、さっきよりも川面の揺れは穏やかに見える。
酒の流れる川のほとりで、
土砂降りの夜にたった一人来てくれた客の記憶が、
静かにこの店の「最高の思い出候補」に加わっていった。
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