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第21話 再開発計画と立ち退きの知らせ
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昼営業が終わり、「川べり文庫」の店内には一瞬だけ静けさが戻っていた。
カウンターの上には、さっきまで客に出していた「確率上昇ケーキ」の切れ端が、ひとかけらだけ残っている。
「この名前、やっぱりちょっと長い気がするんですよね」
璃音が、最後のひとかけらをフォークでつつきながら言った。
「『上昇ケーキ』だと意味が分かりづらいですし、『確率ケーキ』だと数学の課題みたいだし」
「『君ケーキ』はどうだ」
絵斗が、厨房から顔を出す。
「君に恋する確率、略して君ケーキ」
「それはそれで、勇気が要りすぎます」
璃音は、即座に却下した。
「『君ケーキください』って注文するの、かなり心の準備が必要ですよ?」
「じゃあ、『今日の一歩ケーキ』」
花春が、茶碗を拭きながらぽつりと案を出す。
「食べたら、明日の一歩が少し軽くなる感じがして、いいと思うんですけど」
「いいですね、それ」
璃音の目が、少しだけ輝いた。
「『今日の一歩ケーキ』……。
うん、声に出しても照れないし、意味もちゃんと伝わる気がします」
「問題は、その『一歩』を踏み出させるほどの味かどうかだな」
凱理が、カウンターに肘をつきながら口を挟む。
「さっき味見したけど、確かにうまかった。
でも、『人生がちょっと変わるケーキ』ってほどじゃ——」
「そういうハードルの上げ方をするからダメなんです」
璃音が、苦笑しながらフォークを置いた。
「『人生が変わる』まではいかなくても、『今日の自分をちょっと許せる』くらいなら、たぶんいけます」
「そのくらいの距離感が一番いいですね」
阿紗美が、グラスを拭きながらうなずく。
「全力疾走じゃなくて、ちょっとだけストライドが伸びるくらいの」
「比喩がランナー」
凱理のツッコミに、笑いが起きる。
そのときだった。
扉の鈴が、カラン、と控えめに鳴った。
振り向くと、宅配便の制服を着た青年が、濡れた段ボール箱を抱えて立っていた。
「すみません、『川べり文庫』さんでよろしいですか」
「はい」
奏斗が、すぐにカウンターから出てくる。
「こちらにサインをお願いします。
ビルのオーナー様からの書類だそうです」
青年が差し出した端末の画面に、「橘不動産」の文字が光っていた。
「橘さんから……?」
奏斗は、少し眉を動かしながらサインをする。
受け取った段ボールは、思っていたよりも重い。
中身が書類だけとは思えないくらいの重さだった。
「それでは、失礼します」
青年が去っていくと、店内には再び静けさが落ちた。
「……また、ビールの請求書とかですか?」
凱理が、おそるおそる尋ねる。
「そんな大きさの箱で請求書が来たら怖いです」
奏斗は、段ボールをカウンターの上に置いた。
「『ご入金が確認できません』って横断幕でも入ってたりして」
「そういう冗談は、箱を開ける前に言わないでください」
璃音が、少し青ざめた顔で止めに入る。
「とりあえず、一度開けてみましょう」
カッターでテープを切ると、中から現れたのは分厚い紙の束だった。
クリアファイルと、図面のような大きな紙。
一番上の紙には、大きくタイトルが印字されている。
『川沿い地区再開発計画 説明資料』
その文字を見た瞬間、空気がわずかに変わった。
「……再開発?」
璃音が、固い声で読み上げる。
花春は、拭いていた茶碗を思わず止めた。
「このビルの話、ですよね」
「おそらく」
奏斗は、紙束を取り出してページをめくる。
図面には、川沿い一帯の建物がブロックごとに色分けされていた。
赤い枠線で囲われた区画には、「老朽化に伴う建て替え候補」と書かれている。
そして、その赤い枠の中に、「川べり文庫」が入る建物の番号が、はっきりと含まれていた。
「……あった」
奏斗の声が、小さく落ちる。
「ここです。うちのビル」
スタッフ全員が、図面に顔を寄せる。
「ほんとだ。ここ、『取り壊し候補』って書いてある」
凱理が、指先でその文字をなぞった。
「候補、ですよね。まだ決定じゃなくて」
璃音が、必死に言葉を探す。
「『検討対象』とも書いてありますね。
でも、『数年以内の建て替えを視野に入れた計画』……」
奏斗は、説明文を淡々と読み上げていく。
「『詳細は来月の説明会にてお伝えします。
なお、入居者の皆様には、立ち退きの可能性があることをあらかじめお知らせいたします』」
最後の一文を読み終えたとき、店内から音が消えた。
コンロの火も落ちている。
冷蔵庫の小さなモーター音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……立ち退き」
花春が、乾いた声で繰り返した。
「立ち退きって、つまり」
「この場所から出ていかないといけない、ということです」
奏斗は、短く答えた。
「いつとは、まだ書かれていませんが」
「やだなあ」
凱理が、冗談とも本気ともつかない声で笑う。
「『確率上昇ケーキ』とかのんきな名前考えてた直後に、立ち退きの話って」
「……『立ち退きの確率』は、上昇してほしくないですね」
璃音の口から出たのは、精一杯の冗談だった。
誰も笑わなかった。
冗談として十分に成立しているのに、笑いまで届く気持ちの余裕がなかった。
◇
資料の束を、テーブルに並べる。
再開発後の完成予想図。
広くなった歩道と、新しい商業ビル。
川沿いに整備されたテラスと、整然と並ぶ街路樹。
「きれい……ですね」
花春が、予想図を見つめて呟いた。
「きれいだけど、ちょっと息苦しい」
絵斗が、腕を組む。
「全部同じガラス張りの建物で、面白みがないというか」
「でも、老朽化しているのは事実ですから」
奏斗は、できるだけ感情を抑えた声で言った。
「配管のトラブルも、ここ一年で増えていますし」
「分かってます。
分かってるんですけど……」
璃音は、言葉を飲み込んだ。
(分かっている。
建物はいつか古くなる。
変わらない場所なんて、どこにもない。
それでも。
せめて、もう少しだけ)
胸の奥で、そんな子どもじみた願いが顔を出す。
「これ……店がなくなるかもしれないってことですよね」
ぽつり、と凱理が言った。
「ここで働いてる俺たちも、バラバラになる可能性あるってことですよね」
「可能性としては」
奏斗は、あえて「はい」と言わなかった。
「今の段階では、あくまで計画です。
説明会で商店街の意見を聞くとは書いてあります」
「意見って……『やめてください』って言えばやめてくれるんでしょうか」
花春の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
現実の重さと、自分たちの小ささが、図面の上で直線と数字になっている。
◇
「とりあえず」
しばらく沈黙が続いたあと、阿紗美が口を開いた。
「勝手にゴールテープを切られた気分なのは、よく分かります」
走るのをやめたランナーの目線は、こういうときだけ妙に冷静だ。
「でも、まだピストル鳴ってないです。
『スタートラインまで歩いてきてください』って紙を渡された段階だと思います」
「説明会が、そのスタートラインってことですか」
璃音が、少しだけ顔を上げる。
「はい。
そこで何が決まるかは分かりませんけど、
少なくとも、今のうちに『自分たちがどうしたいか』を決めておかないと、
スタートの号砲が鳴ったときに転びます」
比喩だらけなのに、不思議と分かりやすかった。
「……どうしたいか、か」
絵斗が、ゆっくりと息を吐く。
「俺は、正直に言うと、この店がなくなるのは嫌だ。
厨房ごと引っ越しって言われても、
この場所じゃないと出せない味って、ある気がするし」
「私も、そう思います」
花春が、小さくうなずいた。
「川を見ながら飲んでもらうコーヒーとか、
本棚の隙間に置いた小さなメモとか、
ここだからできたことがたくさんあって……」
「でも、嫌だ嫌だだけでは、ビルは残してくれません」
奏斗の言葉は、残酷なほど現実的だった。
「老朽化は客観的な事実です。
それを覆すのは難しい」
「じゃあ、何ならできるんですか」
凱理が問う。
「立ち退きの話が出たときに、店としてできることって」
その問いは、奏斗自身が一番考えていたことでもある。
ノートの中の「最高の思い出(仮)」のページが頭に浮かんだ。
(いつかここで、『最高の夜』を決めるつもりだった。
その前に、場所ごと消えてしまう可能性が出てきた)
喉の奥に、言葉にならない苦さが残る。
「……今すぐの答えは、出せません」
正直にそう言うしかなかった。
「ただ、一つだけはっきりしているのは」
奏斗は、資料の束にそっと手を置く。
「ここが閉まるかもしれないからといって、
『君に恋する確率を少しだけ上げる店』であることをやめる理由にはならない、ということです」
その言葉に、璃音が小さく目を見開いた。
「閉まるかもしれないからこそ、でしょうか」
花春が、静かな声で続ける。
「今日来てくださったお客様にとって、
ここが最初で最後の来店になる可能性もあるなら……」
「その一回に全力を出す意味は、前より大きくなる」
阿紗美が、きっぱりと言った。
「ゴールが近いかどうかに関係なく、
今走っている一歩の価値は変わりません」
「だからランナー比喩」
凱理が、半分泣き笑いのような顔でつっこむ。
「でも、言ってることは分かります」
◇
その日の夜営業は、不思議な緊張感の中で始まった。
客席に座る人たちは、誰一人として、
この店が「取り壊し候補」のビルの一階だとは知らない。
仕事帰りの会社員が、
いつものように「いつものやつ」を注文する。
川沿いを散歩していた親子連れが、
「ちょっとだけ」と言ってホットチョコレートを頼む。
「いらっしゃいませ」
璃音の声は、いつも通り丁寧で落ち着いていた。
「今日のおすすめは、『今日の一歩ケーキ』です。
少しだけ、明日の一歩が軽くなるようにお作りしました」
さっき決まったばかりの名前を、自然に口にする。
「じゃあ、それください」
女性客が、メニューも見ずに笑って答えた。
「今日は、ちょっと重たい会議があったんで」
「お疲れさまでした」
璃音は、深く頭を下げる。
(こっちも、けっこう重たい知らせがあったんですよ)
胸の中で苦笑しつつ、ケーキを取りに厨房へ向かった。
カウンターの中では、奏斗がグラスを磨いている。
手つきはいつも通り落ち着いていて、
さっき資料を読んだときの硬さは、表面からはほとんど消えていた。
ただ、グラスの縁を拭く指先が、いつもより少しだけ丁寧だった。
◇
閉店後。
シャッターを半分下ろした店内に、川の音は届かない。
代わりに、窓の外の夜風が、ガラスをわずかに震わせている。
スタッフたちは、それぞれ片付けの手を止めて、一瞬だけ川の方を見た。
「……いつもより、風が冷たく感じますね」
花春が、窓ガラスに少しだけ近づいて言った。
「本当の気温は、昨日とあまり変わらないはずなんですけど」
「気持ちの問題だろうな」
絵斗が、厨房から顔を出す。
「『この景色、いつまで見られるんだろう』って考えた瞬間に、
急に貴重品みたいに思えてくる」
「それでも、明日は普通に仕込みがあります」
奏斗が、いつもの口調で告げる。
「営業もしなければなりません。
説明会は来月ですし、
その前に商店街の人気投票もあります」
「人気投票……」
凱理が、思い出したように顔を上げた。
「そういえば、あれも『街の魅力を外に伝えるため』って話でしたよね。
こんなタイミングでやるなんて、冗談きついなあ」
「でも」
花春が、少しだけ表情を引き締める。
「どうせ何かが変わるなら、
ただ流されるんじゃなくて、自分たちから何かしたいです」
その一言は、まだ形のはっきりしない願いだった。
けれど、確かにテーブルの上に置かれた小さな種のように、
そこに残った。
誰も、まだそれが「酒の流れる川ウィーク」という名前になるとは知らない。
ただ、酒瓶が並ぶカウンターと、夜の川。
そのあいだで働く六人の胸の中に、
「このまま終わらせたくない」という思いだけが静かに膨らみ始めていた。
川沿いの夜風は、やはりいつもより少しだけ冷たく感じられた。
それでも、その風の中で揺れる提灯の灯りは、まだ消えていない。
カウンターの上には、さっきまで客に出していた「確率上昇ケーキ」の切れ端が、ひとかけらだけ残っている。
「この名前、やっぱりちょっと長い気がするんですよね」
璃音が、最後のひとかけらをフォークでつつきながら言った。
「『上昇ケーキ』だと意味が分かりづらいですし、『確率ケーキ』だと数学の課題みたいだし」
「『君ケーキ』はどうだ」
絵斗が、厨房から顔を出す。
「君に恋する確率、略して君ケーキ」
「それはそれで、勇気が要りすぎます」
璃音は、即座に却下した。
「『君ケーキください』って注文するの、かなり心の準備が必要ですよ?」
「じゃあ、『今日の一歩ケーキ』」
花春が、茶碗を拭きながらぽつりと案を出す。
「食べたら、明日の一歩が少し軽くなる感じがして、いいと思うんですけど」
「いいですね、それ」
璃音の目が、少しだけ輝いた。
「『今日の一歩ケーキ』……。
うん、声に出しても照れないし、意味もちゃんと伝わる気がします」
「問題は、その『一歩』を踏み出させるほどの味かどうかだな」
凱理が、カウンターに肘をつきながら口を挟む。
「さっき味見したけど、確かにうまかった。
でも、『人生がちょっと変わるケーキ』ってほどじゃ——」
「そういうハードルの上げ方をするからダメなんです」
璃音が、苦笑しながらフォークを置いた。
「『人生が変わる』まではいかなくても、『今日の自分をちょっと許せる』くらいなら、たぶんいけます」
「そのくらいの距離感が一番いいですね」
阿紗美が、グラスを拭きながらうなずく。
「全力疾走じゃなくて、ちょっとだけストライドが伸びるくらいの」
「比喩がランナー」
凱理のツッコミに、笑いが起きる。
そのときだった。
扉の鈴が、カラン、と控えめに鳴った。
振り向くと、宅配便の制服を着た青年が、濡れた段ボール箱を抱えて立っていた。
「すみません、『川べり文庫』さんでよろしいですか」
「はい」
奏斗が、すぐにカウンターから出てくる。
「こちらにサインをお願いします。
ビルのオーナー様からの書類だそうです」
青年が差し出した端末の画面に、「橘不動産」の文字が光っていた。
「橘さんから……?」
奏斗は、少し眉を動かしながらサインをする。
受け取った段ボールは、思っていたよりも重い。
中身が書類だけとは思えないくらいの重さだった。
「それでは、失礼します」
青年が去っていくと、店内には再び静けさが落ちた。
「……また、ビールの請求書とかですか?」
凱理が、おそるおそる尋ねる。
「そんな大きさの箱で請求書が来たら怖いです」
奏斗は、段ボールをカウンターの上に置いた。
「『ご入金が確認できません』って横断幕でも入ってたりして」
「そういう冗談は、箱を開ける前に言わないでください」
璃音が、少し青ざめた顔で止めに入る。
「とりあえず、一度開けてみましょう」
カッターでテープを切ると、中から現れたのは分厚い紙の束だった。
クリアファイルと、図面のような大きな紙。
一番上の紙には、大きくタイトルが印字されている。
『川沿い地区再開発計画 説明資料』
その文字を見た瞬間、空気がわずかに変わった。
「……再開発?」
璃音が、固い声で読み上げる。
花春は、拭いていた茶碗を思わず止めた。
「このビルの話、ですよね」
「おそらく」
奏斗は、紙束を取り出してページをめくる。
図面には、川沿い一帯の建物がブロックごとに色分けされていた。
赤い枠線で囲われた区画には、「老朽化に伴う建て替え候補」と書かれている。
そして、その赤い枠の中に、「川べり文庫」が入る建物の番号が、はっきりと含まれていた。
「……あった」
奏斗の声が、小さく落ちる。
「ここです。うちのビル」
スタッフ全員が、図面に顔を寄せる。
「ほんとだ。ここ、『取り壊し候補』って書いてある」
凱理が、指先でその文字をなぞった。
「候補、ですよね。まだ決定じゃなくて」
璃音が、必死に言葉を探す。
「『検討対象』とも書いてありますね。
でも、『数年以内の建て替えを視野に入れた計画』……」
奏斗は、説明文を淡々と読み上げていく。
「『詳細は来月の説明会にてお伝えします。
なお、入居者の皆様には、立ち退きの可能性があることをあらかじめお知らせいたします』」
最後の一文を読み終えたとき、店内から音が消えた。
コンロの火も落ちている。
冷蔵庫の小さなモーター音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……立ち退き」
花春が、乾いた声で繰り返した。
「立ち退きって、つまり」
「この場所から出ていかないといけない、ということです」
奏斗は、短く答えた。
「いつとは、まだ書かれていませんが」
「やだなあ」
凱理が、冗談とも本気ともつかない声で笑う。
「『確率上昇ケーキ』とかのんきな名前考えてた直後に、立ち退きの話って」
「……『立ち退きの確率』は、上昇してほしくないですね」
璃音の口から出たのは、精一杯の冗談だった。
誰も笑わなかった。
冗談として十分に成立しているのに、笑いまで届く気持ちの余裕がなかった。
◇
資料の束を、テーブルに並べる。
再開発後の完成予想図。
広くなった歩道と、新しい商業ビル。
川沿いに整備されたテラスと、整然と並ぶ街路樹。
「きれい……ですね」
花春が、予想図を見つめて呟いた。
「きれいだけど、ちょっと息苦しい」
絵斗が、腕を組む。
「全部同じガラス張りの建物で、面白みがないというか」
「でも、老朽化しているのは事実ですから」
奏斗は、できるだけ感情を抑えた声で言った。
「配管のトラブルも、ここ一年で増えていますし」
「分かってます。
分かってるんですけど……」
璃音は、言葉を飲み込んだ。
(分かっている。
建物はいつか古くなる。
変わらない場所なんて、どこにもない。
それでも。
せめて、もう少しだけ)
胸の奥で、そんな子どもじみた願いが顔を出す。
「これ……店がなくなるかもしれないってことですよね」
ぽつり、と凱理が言った。
「ここで働いてる俺たちも、バラバラになる可能性あるってことですよね」
「可能性としては」
奏斗は、あえて「はい」と言わなかった。
「今の段階では、あくまで計画です。
説明会で商店街の意見を聞くとは書いてあります」
「意見って……『やめてください』って言えばやめてくれるんでしょうか」
花春の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
現実の重さと、自分たちの小ささが、図面の上で直線と数字になっている。
◇
「とりあえず」
しばらく沈黙が続いたあと、阿紗美が口を開いた。
「勝手にゴールテープを切られた気分なのは、よく分かります」
走るのをやめたランナーの目線は、こういうときだけ妙に冷静だ。
「でも、まだピストル鳴ってないです。
『スタートラインまで歩いてきてください』って紙を渡された段階だと思います」
「説明会が、そのスタートラインってことですか」
璃音が、少しだけ顔を上げる。
「はい。
そこで何が決まるかは分かりませんけど、
少なくとも、今のうちに『自分たちがどうしたいか』を決めておかないと、
スタートの号砲が鳴ったときに転びます」
比喩だらけなのに、不思議と分かりやすかった。
「……どうしたいか、か」
絵斗が、ゆっくりと息を吐く。
「俺は、正直に言うと、この店がなくなるのは嫌だ。
厨房ごと引っ越しって言われても、
この場所じゃないと出せない味って、ある気がするし」
「私も、そう思います」
花春が、小さくうなずいた。
「川を見ながら飲んでもらうコーヒーとか、
本棚の隙間に置いた小さなメモとか、
ここだからできたことがたくさんあって……」
「でも、嫌だ嫌だだけでは、ビルは残してくれません」
奏斗の言葉は、残酷なほど現実的だった。
「老朽化は客観的な事実です。
それを覆すのは難しい」
「じゃあ、何ならできるんですか」
凱理が問う。
「立ち退きの話が出たときに、店としてできることって」
その問いは、奏斗自身が一番考えていたことでもある。
ノートの中の「最高の思い出(仮)」のページが頭に浮かんだ。
(いつかここで、『最高の夜』を決めるつもりだった。
その前に、場所ごと消えてしまう可能性が出てきた)
喉の奥に、言葉にならない苦さが残る。
「……今すぐの答えは、出せません」
正直にそう言うしかなかった。
「ただ、一つだけはっきりしているのは」
奏斗は、資料の束にそっと手を置く。
「ここが閉まるかもしれないからといって、
『君に恋する確率を少しだけ上げる店』であることをやめる理由にはならない、ということです」
その言葉に、璃音が小さく目を見開いた。
「閉まるかもしれないからこそ、でしょうか」
花春が、静かな声で続ける。
「今日来てくださったお客様にとって、
ここが最初で最後の来店になる可能性もあるなら……」
「その一回に全力を出す意味は、前より大きくなる」
阿紗美が、きっぱりと言った。
「ゴールが近いかどうかに関係なく、
今走っている一歩の価値は変わりません」
「だからランナー比喩」
凱理が、半分泣き笑いのような顔でつっこむ。
「でも、言ってることは分かります」
◇
その日の夜営業は、不思議な緊張感の中で始まった。
客席に座る人たちは、誰一人として、
この店が「取り壊し候補」のビルの一階だとは知らない。
仕事帰りの会社員が、
いつものように「いつものやつ」を注文する。
川沿いを散歩していた親子連れが、
「ちょっとだけ」と言ってホットチョコレートを頼む。
「いらっしゃいませ」
璃音の声は、いつも通り丁寧で落ち着いていた。
「今日のおすすめは、『今日の一歩ケーキ』です。
少しだけ、明日の一歩が軽くなるようにお作りしました」
さっき決まったばかりの名前を、自然に口にする。
「じゃあ、それください」
女性客が、メニューも見ずに笑って答えた。
「今日は、ちょっと重たい会議があったんで」
「お疲れさまでした」
璃音は、深く頭を下げる。
(こっちも、けっこう重たい知らせがあったんですよ)
胸の中で苦笑しつつ、ケーキを取りに厨房へ向かった。
カウンターの中では、奏斗がグラスを磨いている。
手つきはいつも通り落ち着いていて、
さっき資料を読んだときの硬さは、表面からはほとんど消えていた。
ただ、グラスの縁を拭く指先が、いつもより少しだけ丁寧だった。
◇
閉店後。
シャッターを半分下ろした店内に、川の音は届かない。
代わりに、窓の外の夜風が、ガラスをわずかに震わせている。
スタッフたちは、それぞれ片付けの手を止めて、一瞬だけ川の方を見た。
「……いつもより、風が冷たく感じますね」
花春が、窓ガラスに少しだけ近づいて言った。
「本当の気温は、昨日とあまり変わらないはずなんですけど」
「気持ちの問題だろうな」
絵斗が、厨房から顔を出す。
「『この景色、いつまで見られるんだろう』って考えた瞬間に、
急に貴重品みたいに思えてくる」
「それでも、明日は普通に仕込みがあります」
奏斗が、いつもの口調で告げる。
「営業もしなければなりません。
説明会は来月ですし、
その前に商店街の人気投票もあります」
「人気投票……」
凱理が、思い出したように顔を上げた。
「そういえば、あれも『街の魅力を外に伝えるため』って話でしたよね。
こんなタイミングでやるなんて、冗談きついなあ」
「でも」
花春が、少しだけ表情を引き締める。
「どうせ何かが変わるなら、
ただ流されるんじゃなくて、自分たちから何かしたいです」
その一言は、まだ形のはっきりしない願いだった。
けれど、確かにテーブルの上に置かれた小さな種のように、
そこに残った。
誰も、まだそれが「酒の流れる川ウィーク」という名前になるとは知らない。
ただ、酒瓶が並ぶカウンターと、夜の川。
そのあいだで働く六人の胸の中に、
「このまま終わらせたくない」という思いだけが静かに膨らみ始めていた。
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