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第22話 酒の流れる川ウィークを企画する
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翌日、「川べり文庫」の昼営業が終わった店内には、昨夜から続く重たい空気が、まだ薄く残っていた。
再開発計画、取り壊し候補、立ち退きの可能性——。
どの言葉も、カウンターの隅に置いた資料の束から、じわじわとにじみ出てくる。
「……なんか、静かですね」
凱理が、ホールの椅子を戻しながらぼそりと言った。
「いつもは昼営業終わったあと、誰かしら『まかない何にします?』って騒いでるのに」
「その『誰かしら』って、大体あんたでしょ」
絵斗が、シンクでフライパンを洗いながら返す。
口調はいつも通りだが、水音の向こう側で、眉間の皺がいつもより深くなっている。
璃音は、ショーケースのガラスを拭きながら、目だけでカウンターの端を見た。
昨夜届いた再開発の資料が、クリップでまとめられてうつ伏せになっている。
(見たくないなあ……でも、見ないふりもできないし)
心のどこかでそんなことを思いながら、布巾を動かし続ける。
◇
「——あの」
その沈黙を破ったのは、花春だった。
いつも通りマグカップを片付けていた手を止め、少しだけ大きめの声を出す。
「ちょっと、いいですか」
全員の視線が集まる。
突然注目を浴びて、花春は一瞬だけ肩をすくめたが、それでも逃げずに続けた。
「昨日の、再開発の話なんですけど」
「……うん」
璃音が、そっと布巾を置いてうなずく。
「正直、私たちにできることって、そんなに多くないと思うんです。
説明会で意見を言ったところで、建物そのものがどうなるかは分からないし」
「そうだな」
奏斗が、レジ横で腕を組む。
「老朽化しているのも事実ですし、
安全面を理由にされたら、反論は難しいかと思います」
「それは分かってるんです」
花春は、窓の外の川を一瞬だけ見やった。
「でも、どうせ終わるかもしれないなら——」
そこで言葉を探し、ほんの少し笑う。
「最高の一週間くらい、ここで作ってから終わりたいなって」
その一言に、空気がかすかに揺れた。
「最高の、一週間……」
璃音が、ゆっくりと復唱する。
「この店が、いつか形を変えちゃうにしても。
最後まで、『ここで働けてよかった』って胸を張って言えるようにしたいんです。
そのために、できること全部を——いや、全部は無理でも、『やれるところまでは』やり切っておきたい」
真面目な言い回しの中に、花春らしい控えめな逃げ道が一つだけ混ざっている。
「それ、賛成」
絵斗が、フライパンを置いて手を拭きながら言った。
「どうせだったら、ぐじぐじ悩んでるより、
はっきり『ここが一番忙しかった一週間』って後から言えるくらいの仕事したい」
「忙しい前提なんですね」
凱理が、思わず口を挟む。
「忙しいのは好きですけど、体力の方が心配なんですが」
「そこは、阿紗美さんがペース配分見てくれるから」
「勝手にペースメーカーにしないでください」
阿紗美は、苦笑しながらも否定しきれない表情だった。
「でも、花春さんの言うことも一理あります。
ゴールがいつか分からないまま走るの、しんどいですからね。
『ここからの一週間、全力で駆け抜ける』って区切りがあれば、
少しは呼吸が整いやすくなると思います」
「……区切り、か」
奏斗は、腕を組んだまま考え込む。
頭の中で、売上のグラフと、再開発のスケジュール表と、商店街の回覧板が一斉に浮かぶ。
「ちょうど、商店街の人気投票の時期と重なります」
璃音が、カウンターの奥から一枚のチラシを持ってきた。
「『川沿いグルメ・人気投票』。
来月の一週間、各店が推しメニューを出して、お客さんに投票してもらうっていう」
「それだ」
凱理が、ぱっと顔を明るくする。
「その一週間を、丸ごと『最高の一週間』にすればいいじゃないですか」
「簡単に言うなあ」
絵斗が、肩をすくめる。
「でも、悪くない」
奏斗は、チラシと再開発資料を並べて机に置いた。
「再開発の説明会が来月末。
その前に、人気投票の期間がちょうど一週間ある。
街としても、『このエリアはまだ活気があります』ってアピールしたい時期でしょう」
「じゃあ、その一週間で、
『酒の流れる川って、こういう場所です』って見せつけちゃいましょう」
花春の声に、ほんの少しだけ熱が乗る。
「うちの店だけじゃなくて、向かいの居酒屋さんや、
隣の立ち飲みのおじさんのところも巻き込んで」
「巻き込み力高いなあ、花春さん」
凱理が感心したように笑う。
「でも、やるなら名前がいるよね」
「名前?」
「その一週間の呼び方です」
璃音が、チラシの余白を指でなぞる。
「『人気投票期間』って言うより、
もうちょっとワクワクする何かがあった方が、来る側も楽しいかなって」
「たとえば?」
「……『川沿いグルメフェスティバル』とか?」
「急に大きくなったな」
絵斗が、即座に却下した。
「フェスティバルってほどの規模ないだろ、この通り」
「じゃあ、『川べり文庫感謝デー』」
「それ、一週間あるのに『デー』なの?」
凱理のツッコミに、璃音は「うーん」と唸る。
「『川沿いありがとうウィーク』」
「どことなく商店街の安売りチラシみたいですね」
花春が、苦笑いで却下する。
「じゃあ、もっとシンプルに——」
阿紗美が、腕を組んで少し考えた。
「『酒の流れる川ウィーク』。
この通り全体の呼び名を、そのまま一週間の名前にしちゃうのはどうですか」
その案に、店内の空気が一瞬だけ止まり、すぐにふわっと広がった。
「……いい」
璃音が、ぽつりと言う。
「分かりやすいし、この街にしかない名前です」
「たしかに」
絵斗も、すんなりと頷いた。
「『酒の流れる川』って、ずっと口だけで言ってたけど、
ちゃんと文字になって並ぶの、けっこう好きかもしれない」
「『酒の流れる川ウィーク』かあ」
凱理は、口の中で何度か繰り返してみる。
「ポスターに印刷したら、映えそうですね」
「映えとか言わない」
奏斗が、小さく咳払いをした。
「でも、名前としては賛成です」
彼は、カウンターの端に置いてあった黒いノートを手に取った。
表紙を開き、まだ何も書かれていないページの上部に、ゆっくりと文字を記す。
『酒の流れる川ウィーク』
書き終えた瞬間、ノートの中に小さな旗を立てたような感覚があった。
「これを、人気投票の一週間に合わせましょう」
奏斗は、ノートをテーブルに置き、全員を見回す。
「この一週間、『君に恋する確率を少しだけ上げる店』としてできることを、
できるだけ詰め込んでみる」
「詰め込み過ぎて倒れない程度に、ですね」
阿紗美が、しっかりと釘を刺す。
「そこは、私がブレーキ役をしますから」
「その役目、ほんと頼りにしてます」
璃音が、ほっとしたように笑った。
◇
「じゃあ、中身を考えましょうか」
花春が、ノートの隅にペンを構える。
「この一週間、何をするか。
具体的に出していきましょう」
「まずは、限定メニューだろうな」
絵斗が、真っ先に手を挙げる。
「うちの場合、『川沿いセット』とか『酒の流れる川プレート』みたいな、
この店っぽい組み合わせを作りたい」
「『酒の流れる川』って名前が入ってる時点で、相当この店っぽいですけどね」
凱理が笑いながらも、真剣に耳を傾ける。
「具体的には?」
「たとえば——」
絵斗は、頭の中の厨房を思い浮かべながら続けた。
「川の流れをイメージした前菜の盛り合わせ、とか。
細長い皿に、色の違うおかずを少しずつ並べて、
手前から『今日』、『昨日』、『もう少し前』みたいに味を変えていく」
「時間の流れ、ですか」
「そう。
『酒の流れる川』って言ってるけど、
結局流れてるのは時間だからな。
今の一杯と、少し前の一杯と、
そこから先の一杯の味が、ちょっとずつ違う感じを出したい」
「詩人ですね」
璃音が、感心とも茶化しともつかない声で言う。
「じゃあ、甘いもの側は——」
自分の担当と聞いて、背筋が自然と伸びた。
「恋を後押しする何かをやりたいです」
「恋?」
凱理が、即座にそちらを振り向く。
「それ、『君に恋する確率』シリーズの出番じゃないですか」
「シリーズ扱いしないでください」
璃音は照れ隠しのように言ったが、目はどこか楽しそうだった。
「でもたしかに、この一週間の目玉として、
『君に恋する確率』って名前の何かを用意できたら素敵だなって」
「何かって……」
「ドリンクか、デザートか、その両方か。
詳しいところは、私に任せてもらえませんか」
ふだん慎重な彼女にしては、珍しく踏み込んだ言い方だった。
「任せる」
奏斗は、即答した。
「璃音さんが『やりたい』と言った仕事に、
今さらブレーキをかける理由はありません」
「ありがとうございます」
璃音は、ほんの少しだけ頬を赤くしながら頭を下げる。
「じゃあ、私、その一週間限定のドリンクとデザートを考えます。
『甘さと苦味のバランスがちょっとずつ違う』みたいな、
恋の状態に合わせて選べる何かを」
「おお、それ絶対面白い」
凱理が、食い気味に賛成した。
「『片想い寄り』『両想い手前』『安定期』みたいな」
「安定期って言い方、急に生活感出ますね」
阿紗美が、思わず笑う。
「そのあたりは、もう少しロマンのある言葉に変えましょう」
◇
「ホール側は、どうしましょうか」
花春が、ペンを持ち替える。
「この一週間、ただ忙しくなるだけじゃなくて、
来てくださったお客様に楽しんでもらえる工夫をしたいです」
「そうだなあ」
凱理が、空中を見ながら考え込む。
「簡単なのは、スタンプカードだけど……
それだと、どこにでもあるしなあ」
「スタンプを集めたら何が起こるか、ですね」
阿紗美が、静かに言葉を挟む。
「豪華な景品とかは、この店の規模的に難しいですし」
「じゃあ、『君に恋する確率診断』はどうです?」
璃音が、少しおそるおそる提案した。
「メニューの一番後ろに、小さな質問をいくつか載せておいて。
回答を○とか△とかでチェックしてもらって、
最後に、『今日の君に恋する確率』ってひと言を添えるんです」
「診断って言うと、占いっぽくて楽しそうですね」
花春が、目を輝かせる。
「結果に、『だからこうしろ』って命令は書かずに、
『今日は自分を甘やかしていい日』とか『今日は誰かの話を聞いてあげる日』とか、
さりげない一文だけにすれば、重くならない気がします」
「店側の負担も少なそうだしな」
絵斗が、現実的な点を評価する。
「紙とペンがあればできるし」
「『診断結果を見せてくれた方には、今日の一歩ケーキを少しお得に』とかもできそうですね」
凱理が、営業っぽいことを提案する。
「それ、いいです」
璃音が、即座に乗った。
「『診断結果の紙を持ってきた人限定』って書いておけば、
無理矢理頼ませてる感じもないですし」
「ただし、飲み過ぎにつながるものは控えめに」
阿紗美が、しっかりと釘を刺す。
「この一週間、ただ盛り上がるだけじゃなくて、
ちゃんと無事に帰ってもらうことも大事ですから」
「そこは、いつも通り」
奏斗が、静かに頷いた。
「どんなに特別な一週間でも、
『終電に乗り遅れさせない』のが、この店の方針です」
「終電を逃した人用のポテサラ、作ったのはどこのどなたでしたっけ」
凱理が、小声で突っ込む。
「名前を付けただけで、その人の終電は守ってます」
絵斗のさらりとした返しに、再び笑いが起きた。
◇
「じゃあ、最後に」
ノートのページが、アイデアでぎっしり埋まってきた頃。
花春が、ペンを置いて言った。
「この一週間で、私たちが一番大事にしたいことを、
一言ずつ書きませんか」
「一言?」
「はい。
具体的な内容は、今書いたものをベースにして動かすとして。
迷ったときに立ち返るための『一言』があった方が、
ぶれずにいられる気がして」
その提案に、奏斗は少しだけ目を細めた。
「いい考えです」
ノートを真ん中に置き、ペンを順番に回していく。
絵斗は、迷いなく書いた。
『今日の一皿で、明日の一歩を軽くする』
璃音は、少し考えてから。
『自分を甘やかす理由を、一つ増やす』
花春は、丁寧な字で。
『誰かの「ちゃんと生きた一日」を祝う』
凱理は、走り書きで。
『ふらっと来た人にも、ここをちょっと好きになってもらう』
阿紗美は、簡潔に。
『やり過ぎないでやり切る』
そして、最後に奏斗。
彼はペン先をしばらく宙に止めたあと、ゆっくりと文字を置いた。
『君に恋する確率を、今日も少しだけ上げる』
ページの下に並んだ六つの言葉を見て、誰かが小さく息をついた。
「……やっぱり、この店っぽいですね」
璃音が、ぽつりと言う。
「どれも、完璧じゃないけど、
ちゃんと今の自分たちにできそうな範囲のことばっかりで」
「完璧を狙うと、足が止まりますから」
奏斗は、ノートを閉じながら言った。
「この一週間で、街の地図が変わるかどうかは分かりません。
でも、この店で過ごした誰かの記憶の中に、
『酒の流れる川ウィーク』という名前が残れば、それで十分です」
「十分以上ですよ」
花春が、柔らかく笑う。
「『あの一週間、よく働いたなあ』って、
いつかみんなで思い出せたら、それがきっと——」
言いかけて、彼女は一度言葉を飲み込んだ。
「最高の思い出」という単語が喉元まで来て、そっと引き返していく。
「……そのページ、埋まるかもしれないですね」
代わりにそう言うと、奏斗は目を伏せて小さく頷いた。
酒の流れる川のほとりで、
いつ終わるか分からない日々の中に刻まれた、一週間の旗印。
その旗の名前は、「酒の流れる川ウィーク」。
まだ誰も、その一週間がどんな騒がしい毎日になるのかを知らない。
ただ、「やれる範囲でやってみよう」という静かな熱だけが、
この小さな店の中で確かに燃え始めていた。
再開発計画、取り壊し候補、立ち退きの可能性——。
どの言葉も、カウンターの隅に置いた資料の束から、じわじわとにじみ出てくる。
「……なんか、静かですね」
凱理が、ホールの椅子を戻しながらぼそりと言った。
「いつもは昼営業終わったあと、誰かしら『まかない何にします?』って騒いでるのに」
「その『誰かしら』って、大体あんたでしょ」
絵斗が、シンクでフライパンを洗いながら返す。
口調はいつも通りだが、水音の向こう側で、眉間の皺がいつもより深くなっている。
璃音は、ショーケースのガラスを拭きながら、目だけでカウンターの端を見た。
昨夜届いた再開発の資料が、クリップでまとめられてうつ伏せになっている。
(見たくないなあ……でも、見ないふりもできないし)
心のどこかでそんなことを思いながら、布巾を動かし続ける。
◇
「——あの」
その沈黙を破ったのは、花春だった。
いつも通りマグカップを片付けていた手を止め、少しだけ大きめの声を出す。
「ちょっと、いいですか」
全員の視線が集まる。
突然注目を浴びて、花春は一瞬だけ肩をすくめたが、それでも逃げずに続けた。
「昨日の、再開発の話なんですけど」
「……うん」
璃音が、そっと布巾を置いてうなずく。
「正直、私たちにできることって、そんなに多くないと思うんです。
説明会で意見を言ったところで、建物そのものがどうなるかは分からないし」
「そうだな」
奏斗が、レジ横で腕を組む。
「老朽化しているのも事実ですし、
安全面を理由にされたら、反論は難しいかと思います」
「それは分かってるんです」
花春は、窓の外の川を一瞬だけ見やった。
「でも、どうせ終わるかもしれないなら——」
そこで言葉を探し、ほんの少し笑う。
「最高の一週間くらい、ここで作ってから終わりたいなって」
その一言に、空気がかすかに揺れた。
「最高の、一週間……」
璃音が、ゆっくりと復唱する。
「この店が、いつか形を変えちゃうにしても。
最後まで、『ここで働けてよかった』って胸を張って言えるようにしたいんです。
そのために、できること全部を——いや、全部は無理でも、『やれるところまでは』やり切っておきたい」
真面目な言い回しの中に、花春らしい控えめな逃げ道が一つだけ混ざっている。
「それ、賛成」
絵斗が、フライパンを置いて手を拭きながら言った。
「どうせだったら、ぐじぐじ悩んでるより、
はっきり『ここが一番忙しかった一週間』って後から言えるくらいの仕事したい」
「忙しい前提なんですね」
凱理が、思わず口を挟む。
「忙しいのは好きですけど、体力の方が心配なんですが」
「そこは、阿紗美さんがペース配分見てくれるから」
「勝手にペースメーカーにしないでください」
阿紗美は、苦笑しながらも否定しきれない表情だった。
「でも、花春さんの言うことも一理あります。
ゴールがいつか分からないまま走るの、しんどいですからね。
『ここからの一週間、全力で駆け抜ける』って区切りがあれば、
少しは呼吸が整いやすくなると思います」
「……区切り、か」
奏斗は、腕を組んだまま考え込む。
頭の中で、売上のグラフと、再開発のスケジュール表と、商店街の回覧板が一斉に浮かぶ。
「ちょうど、商店街の人気投票の時期と重なります」
璃音が、カウンターの奥から一枚のチラシを持ってきた。
「『川沿いグルメ・人気投票』。
来月の一週間、各店が推しメニューを出して、お客さんに投票してもらうっていう」
「それだ」
凱理が、ぱっと顔を明るくする。
「その一週間を、丸ごと『最高の一週間』にすればいいじゃないですか」
「簡単に言うなあ」
絵斗が、肩をすくめる。
「でも、悪くない」
奏斗は、チラシと再開発資料を並べて机に置いた。
「再開発の説明会が来月末。
その前に、人気投票の期間がちょうど一週間ある。
街としても、『このエリアはまだ活気があります』ってアピールしたい時期でしょう」
「じゃあ、その一週間で、
『酒の流れる川って、こういう場所です』って見せつけちゃいましょう」
花春の声に、ほんの少しだけ熱が乗る。
「うちの店だけじゃなくて、向かいの居酒屋さんや、
隣の立ち飲みのおじさんのところも巻き込んで」
「巻き込み力高いなあ、花春さん」
凱理が感心したように笑う。
「でも、やるなら名前がいるよね」
「名前?」
「その一週間の呼び方です」
璃音が、チラシの余白を指でなぞる。
「『人気投票期間』って言うより、
もうちょっとワクワクする何かがあった方が、来る側も楽しいかなって」
「たとえば?」
「……『川沿いグルメフェスティバル』とか?」
「急に大きくなったな」
絵斗が、即座に却下した。
「フェスティバルってほどの規模ないだろ、この通り」
「じゃあ、『川べり文庫感謝デー』」
「それ、一週間あるのに『デー』なの?」
凱理のツッコミに、璃音は「うーん」と唸る。
「『川沿いありがとうウィーク』」
「どことなく商店街の安売りチラシみたいですね」
花春が、苦笑いで却下する。
「じゃあ、もっとシンプルに——」
阿紗美が、腕を組んで少し考えた。
「『酒の流れる川ウィーク』。
この通り全体の呼び名を、そのまま一週間の名前にしちゃうのはどうですか」
その案に、店内の空気が一瞬だけ止まり、すぐにふわっと広がった。
「……いい」
璃音が、ぽつりと言う。
「分かりやすいし、この街にしかない名前です」
「たしかに」
絵斗も、すんなりと頷いた。
「『酒の流れる川』って、ずっと口だけで言ってたけど、
ちゃんと文字になって並ぶの、けっこう好きかもしれない」
「『酒の流れる川ウィーク』かあ」
凱理は、口の中で何度か繰り返してみる。
「ポスターに印刷したら、映えそうですね」
「映えとか言わない」
奏斗が、小さく咳払いをした。
「でも、名前としては賛成です」
彼は、カウンターの端に置いてあった黒いノートを手に取った。
表紙を開き、まだ何も書かれていないページの上部に、ゆっくりと文字を記す。
『酒の流れる川ウィーク』
書き終えた瞬間、ノートの中に小さな旗を立てたような感覚があった。
「これを、人気投票の一週間に合わせましょう」
奏斗は、ノートをテーブルに置き、全員を見回す。
「この一週間、『君に恋する確率を少しだけ上げる店』としてできることを、
できるだけ詰め込んでみる」
「詰め込み過ぎて倒れない程度に、ですね」
阿紗美が、しっかりと釘を刺す。
「そこは、私がブレーキ役をしますから」
「その役目、ほんと頼りにしてます」
璃音が、ほっとしたように笑った。
◇
「じゃあ、中身を考えましょうか」
花春が、ノートの隅にペンを構える。
「この一週間、何をするか。
具体的に出していきましょう」
「まずは、限定メニューだろうな」
絵斗が、真っ先に手を挙げる。
「うちの場合、『川沿いセット』とか『酒の流れる川プレート』みたいな、
この店っぽい組み合わせを作りたい」
「『酒の流れる川』って名前が入ってる時点で、相当この店っぽいですけどね」
凱理が笑いながらも、真剣に耳を傾ける。
「具体的には?」
「たとえば——」
絵斗は、頭の中の厨房を思い浮かべながら続けた。
「川の流れをイメージした前菜の盛り合わせ、とか。
細長い皿に、色の違うおかずを少しずつ並べて、
手前から『今日』、『昨日』、『もう少し前』みたいに味を変えていく」
「時間の流れ、ですか」
「そう。
『酒の流れる川』って言ってるけど、
結局流れてるのは時間だからな。
今の一杯と、少し前の一杯と、
そこから先の一杯の味が、ちょっとずつ違う感じを出したい」
「詩人ですね」
璃音が、感心とも茶化しともつかない声で言う。
「じゃあ、甘いもの側は——」
自分の担当と聞いて、背筋が自然と伸びた。
「恋を後押しする何かをやりたいです」
「恋?」
凱理が、即座にそちらを振り向く。
「それ、『君に恋する確率』シリーズの出番じゃないですか」
「シリーズ扱いしないでください」
璃音は照れ隠しのように言ったが、目はどこか楽しそうだった。
「でもたしかに、この一週間の目玉として、
『君に恋する確率』って名前の何かを用意できたら素敵だなって」
「何かって……」
「ドリンクか、デザートか、その両方か。
詳しいところは、私に任せてもらえませんか」
ふだん慎重な彼女にしては、珍しく踏み込んだ言い方だった。
「任せる」
奏斗は、即答した。
「璃音さんが『やりたい』と言った仕事に、
今さらブレーキをかける理由はありません」
「ありがとうございます」
璃音は、ほんの少しだけ頬を赤くしながら頭を下げる。
「じゃあ、私、その一週間限定のドリンクとデザートを考えます。
『甘さと苦味のバランスがちょっとずつ違う』みたいな、
恋の状態に合わせて選べる何かを」
「おお、それ絶対面白い」
凱理が、食い気味に賛成した。
「『片想い寄り』『両想い手前』『安定期』みたいな」
「安定期って言い方、急に生活感出ますね」
阿紗美が、思わず笑う。
「そのあたりは、もう少しロマンのある言葉に変えましょう」
◇
「ホール側は、どうしましょうか」
花春が、ペンを持ち替える。
「この一週間、ただ忙しくなるだけじゃなくて、
来てくださったお客様に楽しんでもらえる工夫をしたいです」
「そうだなあ」
凱理が、空中を見ながら考え込む。
「簡単なのは、スタンプカードだけど……
それだと、どこにでもあるしなあ」
「スタンプを集めたら何が起こるか、ですね」
阿紗美が、静かに言葉を挟む。
「豪華な景品とかは、この店の規模的に難しいですし」
「じゃあ、『君に恋する確率診断』はどうです?」
璃音が、少しおそるおそる提案した。
「メニューの一番後ろに、小さな質問をいくつか載せておいて。
回答を○とか△とかでチェックしてもらって、
最後に、『今日の君に恋する確率』ってひと言を添えるんです」
「診断って言うと、占いっぽくて楽しそうですね」
花春が、目を輝かせる。
「結果に、『だからこうしろ』って命令は書かずに、
『今日は自分を甘やかしていい日』とか『今日は誰かの話を聞いてあげる日』とか、
さりげない一文だけにすれば、重くならない気がします」
「店側の負担も少なそうだしな」
絵斗が、現実的な点を評価する。
「紙とペンがあればできるし」
「『診断結果を見せてくれた方には、今日の一歩ケーキを少しお得に』とかもできそうですね」
凱理が、営業っぽいことを提案する。
「それ、いいです」
璃音が、即座に乗った。
「『診断結果の紙を持ってきた人限定』って書いておけば、
無理矢理頼ませてる感じもないですし」
「ただし、飲み過ぎにつながるものは控えめに」
阿紗美が、しっかりと釘を刺す。
「この一週間、ただ盛り上がるだけじゃなくて、
ちゃんと無事に帰ってもらうことも大事ですから」
「そこは、いつも通り」
奏斗が、静かに頷いた。
「どんなに特別な一週間でも、
『終電に乗り遅れさせない』のが、この店の方針です」
「終電を逃した人用のポテサラ、作ったのはどこのどなたでしたっけ」
凱理が、小声で突っ込む。
「名前を付けただけで、その人の終電は守ってます」
絵斗のさらりとした返しに、再び笑いが起きた。
◇
「じゃあ、最後に」
ノートのページが、アイデアでぎっしり埋まってきた頃。
花春が、ペンを置いて言った。
「この一週間で、私たちが一番大事にしたいことを、
一言ずつ書きませんか」
「一言?」
「はい。
具体的な内容は、今書いたものをベースにして動かすとして。
迷ったときに立ち返るための『一言』があった方が、
ぶれずにいられる気がして」
その提案に、奏斗は少しだけ目を細めた。
「いい考えです」
ノートを真ん中に置き、ペンを順番に回していく。
絵斗は、迷いなく書いた。
『今日の一皿で、明日の一歩を軽くする』
璃音は、少し考えてから。
『自分を甘やかす理由を、一つ増やす』
花春は、丁寧な字で。
『誰かの「ちゃんと生きた一日」を祝う』
凱理は、走り書きで。
『ふらっと来た人にも、ここをちょっと好きになってもらう』
阿紗美は、簡潔に。
『やり過ぎないでやり切る』
そして、最後に奏斗。
彼はペン先をしばらく宙に止めたあと、ゆっくりと文字を置いた。
『君に恋する確率を、今日も少しだけ上げる』
ページの下に並んだ六つの言葉を見て、誰かが小さく息をついた。
「……やっぱり、この店っぽいですね」
璃音が、ぽつりと言う。
「どれも、完璧じゃないけど、
ちゃんと今の自分たちにできそうな範囲のことばっかりで」
「完璧を狙うと、足が止まりますから」
奏斗は、ノートを閉じながら言った。
「この一週間で、街の地図が変わるかどうかは分かりません。
でも、この店で過ごした誰かの記憶の中に、
『酒の流れる川ウィーク』という名前が残れば、それで十分です」
「十分以上ですよ」
花春が、柔らかく笑う。
「『あの一週間、よく働いたなあ』って、
いつかみんなで思い出せたら、それがきっと——」
言いかけて、彼女は一度言葉を飲み込んだ。
「最高の思い出」という単語が喉元まで来て、そっと引き返していく。
「……そのページ、埋まるかもしれないですね」
代わりにそう言うと、奏斗は目を伏せて小さく頷いた。
酒の流れる川のほとりで、
いつ終わるか分からない日々の中に刻まれた、一週間の旗印。
その旗の名前は、「酒の流れる川ウィーク」。
まだ誰も、その一週間がどんな騒がしい毎日になるのかを知らない。
ただ、「やれる範囲でやってみよう」という静かな熱だけが、
この小さな店の中で確かに燃え始めていた。
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でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
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