酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第23話 限定メニュー「君に恋する確率」誕生

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 開店前の「川べり文庫」は、いつもより甘い匂いがしていた。
 オーブンから立ちのぼるバターの香りと、鍋で温めているカカオの匂い。
 そのあいだを縫うように、柑橘のさわやかな香りがふわりと漂う。
 「……ちょっと甘さが勝ち過ぎですね」
 カウンターの奥で、璃音が小さなスプーンを口から離した。
 目の前には、三つ並んだ小さなグラス。
 一つはほんのり赤く、もう一つは琥珀色に近い。
 最後の一つは、レモンイエローが静かに揺れている。
 「味見、お願いします」
 差し出されたトレーに、最初に手を伸ばしたのは絵斗だった。
 「どれから?」
 「左から順番にお願いします。
 『まだ自分の気持ちに気づいていない人用』、
 『ちょっと自覚してきた人用』、
 『もうごまかせない人用』です」
 「説明が生々しい」
 そう言いながらも、一番左の赤いグラスを口に運ぶ。
 一口飲んだ瞬間、彼の眉が少しだけ上がった。
 「……ベリーと、少しだけハーブ?」
 「はい。
 甘さ強めで、後口だけすこしスッとするようにしてあります。
 『何となく楽しい』くらいの気持ちを、邪魔しない味にしたくて」
 「いいと思う。
 なんか、『まだ恋って言うほどじゃないよな』って言い訳してる感じが出てる」
 「言い訳って言わないでください」
 璃音は苦笑しながら、次の琥珀色のグラスを指さした。
 「二つ目は、どうですか」
 「ん……」
 絵斗は一口飲んで、少しだけ目を細めた。
 「さっきのより、甘さがすっと引く。
 苦味まではいかないけど、ちゃんと芯がある感じ」
 「柑橘の皮を少しだけ煮出してます。
 『ちょっと気づいちゃったけど、まだ怖い』くらいの状態をイメージして」
 「さっきから例えが具体的すぎるんだよ」
 そう言いながらも、表情には楽しげな色が滲んでいる。
 「三つ目は?」
 「それは、『もう目をそらせない人用』です」
 最後のレモンイエローのグラスには、氷がひとつだけ沈んでいる。
 透明な角が、外の光をささやかに反射していた。
 絵斗がゆっくりと口に運ぶ。
 「……おお」
 最初に広がるのは、はっきりとした苦味。
 そのあと追いかけてくる、控えめな甘さが喉の奥に残る。
 「ちゃんと苦いのに、嫌な後味が残らない。
 これ、名前つけるなら『覚悟の一杯』だな」
 「メニュー名にするには重すぎます」
 璃音は、思わず笑った。
 「でも、方向性は合ってます。
 『苦いだけじゃないけど、甘いだけでもない』感じを出したかったので」
 「なるほどな」
 グラスをテーブルに戻しながら、絵斗が腕を組む。
 「じゃあ、この三つが『君に恋する確率』セット?」
 「いえ、アルコールは基本一種類だけにします。
 三つとも飲ませたら確率が跳ね上がりすぎて危ないので」
 「たしかに」
 カウンターの端で聞いていた阿紗美が、静かに頷いた。
 「走りすぎる前にブレーキをかけるのも、大事ですからね」
 「なので——」
 璃音は、カウンターの横に置いてある紙束を持ち上げた。
 「この小さな『診断シート』で、
 その人に合った一杯を選ぶようにしようと思ってます」
     ◇
 診断シートと書かれた紙には、いくつかの質問が並んでいた。
 『Q1 最近、「あの人のことを考える時間」が増えた気がする』
 『Q2 その人に話しかけるタイミングを、ちょっと探している』
 『Q3 自分の気持ちを、まだ誰にも話していない』
 それぞれの隣に、○と△と空欄の三つのチェック欄。
 「多くチェックが入った場所で、おすすめを変える感じですね」
 璃音が、ペン先で紙の上をなぞる。
 「○が多い人には、二番目のバランス型。
 △が多い人には、一番目の甘め。
 空欄が多い人には……」
 「三番目の苦いやつ?」
 凱理が、横からひょいと顔を出した。
 「まだ何もチェックできない人に、いきなり覚悟決めさせるんですか」
 「違います。
 空欄が多い人は、『まだ自分でもよく分からない』人だと思うので、
 ノンアルコールの、さっぱりしたやつを出そうかなと」
 カウンターの下から、小さなガラスの瓶を取り出す。
 「こっちが、そのためのシロップです」
 瓶の中には、レモンとハチミツとハーブを漬け込んだ液体が光っていた。
 「炭酸で割って、最後にミントを少しだけ。
 『これからどうなるかは、自分で決めていい』って気持ちを込めてます」
 「説明がいちいち物語になってるな」
 絵斗が呆れたように笑う。
 「でも、いいと思う。
 『君に恋する確率』って名前のメニューを頼んで、
 いきなりアルコールだけ出されるのも怖いだろうし」
 「そうなんです。
 恋してない人だって、このメニューを頼むかもしれませんから」
 「恋してない人はどうなるんです?」
 凱理が、妙に真剣な顔で聞いてくる。
 「恋してないけど、このメニュー気になって頼んだ場合。
 確率、ゼロパーセントって出されたりします?」
 「しません」
 璃音は、即答した。
 「ここで『ゼロパーセント』って言われたら、
 たぶんもう二度と恋しようって気にならなくなります」
 「ですよね」
 凱理は、妙にほっとした顔になる。
 「じゃあ、恋してない人が頼んだときは……?」
 「『君に恋する確率は、まだ測定不能です』って書きます」
 そう言って、診断シートの下の方を指さした。
 『今日の君に恋する確率は——
  □ まだ測定不能
  □ じわじわ上昇中
  □ ごまかしきれない域に突入』
 それぞれの横には、ちいさな一文が添えられている。
 『まだ測定不能』の下には、
 ——「焦らなくて大丈夫。今日は、自分を甘やかす日です」
 『じわじわ上昇中』の下には、
 ——「ほんの少しだけ、勇気を足してみてもいいかもしれません」
 『ごまかしきれない域に突入』の下には、
 ——「無理に決めなくていいので、まずは今日を楽しんで」
 「……優しい」
 花春が、紙を覗き込みながら笑った。
 「どの結果でも、『こうしろ』って命令が書いてないのがいいですね」
 「そこはこだわりました」
 璃音は、ペン先をくるくる回す。
 「この店の方針が、『確率を少しだけ上げる』なので。
 『絶対に告白しろ』とか、『今すぐ動け』みたいな言い方は、
 どうしても合わない気がして」
 「うん」
 カウンターの端でグラスを磨いていた奏斗が、小さく頷いた。
 「『確率を少しだけ上げる』という範囲なら、
 この店でも責任を持てる気がします」
 「責任の話になるの、さすが店長代行ですね」
 凱理が、半分からかうように笑う。
 「でも、ほんとそうですよ。
 『絶対叶います!』って書かれてたら、俺でも怖くて頼めませんし」
     ◇
 「デザートの方は、どうする?」
 絵斗が、キッチンの奥から焼き上がったタルトを持ってくる。
 「ドリンクだけだと、物足りないだろ」
 「そうですね。
 ドリンクとデザートの、両方で一つのセットにしたいです」
 タルトの上には、フルーツが美しく並べられていた。
 赤いベリー、黄金色のオレンジ、深い色のチョコレートソース。
 「まず、『測定不能』の人には、フルーツ多めのタルト。
 素直に美味しくて、あんまり頭を使わなくていいやつ」
 「『何も考えなくていい甘さ』だな」
 「はい。
 『じわじわ上昇中』の人には、
 ほんの少しだけ塩気を効かせたキャラメルソースをかけたプリン。
 甘さの中に、ちょっとした緊張感がある感じにしたいです」
 「『ごまかしきれない域』の人は?」
 凱理が、興味津々で身を乗り出す。
 「ビターなチョコレートケーキです。
 でも、上にのせるホイップは、いつもより少し多めにします」
 璃音の説明に、花春がくすりと笑った。
 「『苦いだけじゃないよ』って、ちゃんと伝わりますね」
 「……自分で言ってて恥ずかしくなってきました」
 璃音は、耳まで赤くしながら視線をそらした。
 「でも、どのデザートも、
 最後には『今日の一歩ケーキ』と同じように、
 『よく頑張ったね』って言ってあげられる味にしたいんです」
 「いいと思う」
 奏斗が、静かに口を開いた。
 「この一週間、『酒の流れる川ウィーク』の中心になるメニューです。
 名前負けしないように、でも背伸びしすぎないように」
 「背伸びしすぎると、走ってる途中でこけますからね」
 阿紗美が、さらりと加える。
 「ほどよいストライドで行きましょう」
     ◇
 「じゃあ、メニュー表を書き換えます」
 夕方。
 店の外が少しずつオレンジ色に染まり始めた頃、奏斗はカウンターに座って新しいメニューを広げた。
 「酒の流れる川ウィーク限定メニュー」という見出しの下に、
 細いペンで文字を並べていく。
 『限定セット 君に恋する確率』
 文字を書いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
 (ずいぶん、思い切った名前だな)
 自分で考えた方針とはいえ、
 いざ紙の上に並べると、途端に現実味を帯びて迫ってくる。
 その下に、説明文を添える。
 『いくつかの質問に答えていただき、
 今のあなたに合った一杯とデザートをお出しします。
 今日の君に恋する確率を、ほんの少しだけ上げたいときに。』
 書きながら、ふと手が止まった。
 (……自分でこのメニューを頼んだら、何パーセントって出るんだろう)
 頭の中に、診断シートの質問が浮かぶ。
 『最近、「あの人のことを考える時間」が増えた気がする』
 ○か、△か。
 空欄、という選択肢は、もうほとんど残っていない気がした。
 『その人に話しかけるタイミングを、ちょっと探している』
 思い出したのは、熱を出した日に璃音を帰らせたときのこと。
 「明日も休んでいいです」と言った自分の声が、少しだけ震えていた。
 『自分の気持ちを、まだ誰にも話していない』
 この項目だけは、はっきりと○が付く。
 ノートの中にこっそり書き込んだ数字を、誰にも見せていないのだから。
 (診断シートに従えば、
 自分が選ばれるのは、きっと『じわじわ上昇中』だろう)
 そこまで考えて、苦笑する。
 (百パーセントには、まだ遠い)
 遠いからこそ、このメニューを出せるのかもしれない。
 誰かの恋を、勝手に背負い込むつもりはない。
 ただ、今日この店で過ごした時間が、
 明日の一歩を少し軽くするきっかけになればいい——。
 ペン先をもう一度動かし、最後に一行だけ書き足した。
 『※結果に「ゼロパーセント」はありません。
 今日ここに来てくださった時点で、
 すでに何かが少し動き始めているはずなので。』
 書き終えてペンを置くと、璃音がカウンター越しに覗き込んだ。
 「見てもいいですか」
 「どうぞ」
 メニュー表を差し出すと、
 彼女は丁寧に文字を追っていき、最後の一文でふっと笑った。
 「やさしいですね」
 「そうですか」
 「はい。
 『ゼロパーセントはありません』って書いてくれたの、
 きっと救われる人がいます」
 そう言って、璃音はメニュー表をそっと両手で包み込む。
 「私も、これ頼んでみようかな」
 「自分で考えたメニューですよね」
 「自分のことって、自分がいちばん分からなかったりしますから」
 冗談めかして笑い、すぐに厨房の方へ戻っていく。
 残された奏斗は、閉じかけたノートの表紙を見下ろした。
 ——「君に恋する確率」と書かれた黒い表紙。
 その中には、まだ書かれていないページがいくつもある。
 (いつか、本当に『百パーセント』って書く日が来るんだろうか)
 答えの出ない問いを、そっと心の奥にしまい込む。
 窓の外では、酒の流れる川に、夕暮れの光が細く差し込んでいた。
 その川沿いの小さな店に、新しいメニューの名前が静かに刻まれる。
 ——限定セット「君に恋する確率」。
 まだ誰も、そのメニューがどんな一週間を呼び込むのかを知らない。
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