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第28話 気まぐれデザートが救った一日
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昼下がりの「川べり文庫」は、いつもより静かだった。
窓の外には、ゆっくりと流れる川と、まだ灯っていない提灯の列。
店内には、コーヒー豆を挽く音と、たまにページをめくる紙の音だけが響いている。
「……今日、静かですね」
カウンターでグラスを磨いていた璃音が、ふとつぶやいた。
「昨日が賑やかすぎただけです」
奏斗は、帳簿を閉じてレジの横に置く。
「人気投票期間といっても、山と谷がありますから」
「谷、ですねえ」
璃音は、窓際の二人席をちらりと見る。
今、客はその席に座る常連の一人だけ。
目の前の本に集中しているのか、
マグカップの中身は半分以上冷めているのに、気にしている様子はない。
「こういう日があるのは分かってるんですけど」
璃音は、エプロンのポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「……少しだけ、何か仕掛けてみてもいいですか」
「仕掛け?」
「メニューには載せない、気まぐれデザートです」
思いついたように言うわりには、
目の奥はいつもの冷静さを維持している。
「仕込みの量は、控えめにします。
もし売れなかったら——」
そこで一度言葉を切り、
厨房に向かって声を飛ばした。
「絵斗さん、今日のまかない、甘めでもいいですか」
「え? 甘め?」
オーブンの前にいた絵斗が振り返る。
「甘めって、どのくらい?」
「『ちょっと胃もたれするけど幸せ』くらいです」
「それはもう、甘めじゃなくて本気だな」
そう言いながらも、絵斗の口元には笑みが浮かんでいる。
「余ったら責任持って食べます、って顔してるから、
とりあえず止めないでおくわ」
「ありがとうございます」
璃音は、軽く会釈すると、そのまま厨房へと消えていった。
◇
冷蔵庫の中をのぞき込み、
璃音は手早く残り物の状況を確認した。
昨日のタルトで使ったフルーツの端切れ。
「今日の一歩ケーキ」に使う予定だった生クリームの余り。
賞味期限が近いヨーグルト。
「……このくらいなら、何とかなるかな」
メモ帳に、ざっと比率を書き込む。
「ヨーグルトと生クリームを半々。
甘さ控えめで、酸味を残して……」
ボウルに材料を入れ、泡立て器で混ぜながら、
冷蔵庫から小さめの耐熱容器を取り出した。
「土台は、昨日のビスケットの砕きかけ。
バターを少しだけ足して、ぎゅっと押し固めて……」
手元の動きは迷いがない。
新しいレシピではあるけれど、
頭の中にはすでに「完成図」が浮かんでいる。
「気まぐれって言っても、
『なんとなく』じゃなくて『このくらいなら責任とれる』くらいの計算はしておきたいんですよね」
自分に言い聞かせるように呟きながら、
璃音は小さなグラスを六つ並べた。
グラスの底にビスケットを敷き詰め、
その上にクリームとヨーグルトを混ぜた層を重ねる。
最後に、フルーツの端切れを彩りよく載せ、
ミントを一枚ずつちょこんとのせた。
「……よし」
グラスをトレーに乗せて冷蔵庫に入れると、
璃音は小さく伸びをした。
六つ。
売れ残っても、スタッフで分ければ一人一個。
それなら「胃もたれするけど幸せ」で済む。
◇
「何か作ったんですか」
カウンターに戻ると、凱理が興味津々で顔を寄せてきた。
「さっき、冷蔵庫の前で『よし』って言ってたけど」
「今日限定の、気まぐれデザートです」
璃音は、黒板用の小さなプレートを取り出した。
チョークで、さらさらと文字を書く。
『本日のきまぐれ
川べりヨーグルトパフェ(ミニ)
数量限定』
「名前、今決めましたよね」
「はい。
こういうのは、勢いも大事なので」
「原価の計算も勢いですか」
隣から、ひややかな声が飛んでくる。
奏斗だ。
「原価は、ちゃんと計算済みです。
余り物中心なので、むしろ救済的な……」
「『救済的』は、少し言葉が美しすぎますね」
奏斗は、プレートの文字をじっと見つめる。
「ただし、数量限定で、なおかつ余り物活用なら、
大きな赤字にはならないでしょう」
「許可、ということでいいですか?」
「お客様が喜んでくださるのであれば」
完全な肯定ではない。
けれど、それで十分だった。
「じゃあ、カウンターの端に出しますね」
璃音は、プレートをレジ横に立てかけた。
少しだけ、緊張する。
六つのグラス。
黒板の小さな文字。
それを見て、どれくらいの人が足を止めてくれるだろう。
◇
午後三時。
外の光が少し傾き始めたころ、
扉のベルが軽やかに鳴った。
「こんにちはー」
入ってきたのは、いつもの常連客——
川沿いの会社に勤める女性、葵だった。
「今日も『今日の一歩ケーキ』あります?」
「ありますよ」
花春が、にこやかに答える。
「それと、もしよかったら——」
璃音が、タイミングを見計らって一歩前に出た。
「本日、数量限定のミニデザートもあります。
ヨーグルト系なので、軽く食べたいときにおすすめです」
「へえ」
葵は、レジ横のプレートに目をやる。
「『きまぐれ』って書いてある」
「はい。
今日の気分で、余っていた材料をいい感じにまとめてみました」
「余ってたって言っちゃうんだ」
くすっと笑いながらも、葵の目はどこか楽しそうだ。
「でも、璃音さんの『いい感じ』、信頼してるからなあ……」
しばらく迷ったあと、彼女はあっさりと言った。
「じゃあ、それください。
あと、コーヒーを一緒に」
「ありがとうございます」
璃音は、胸の中で小さくガッツポーズをした。
一つ目。
冷蔵庫から慎重にグラスを取り出し、
受け皿に乗せてカウンターへ運ぶ。
葵は、スプーンで一口すくって口に運んだ。
「……あ、これ好き」
目を見開き、思わずもう一口。
「甘さ控えめなのに、ちゃんとデザートって感じする。
ヨーグルトの酸味で、口の中リセットされるし」
「ありがとうございます」
三口目を食べたところで、
葵はふと、隣の席の男性に目を向けた。
カウンターで一人、ゆっくりとビールを飲んでいた常連だ。
「これ、すごくいいですよ。
軽いから、お酒の前でも後でもいけそう」
その一言に、男性の方も興味を示した。
「そんなに?」
「はい。
『きまぐれ』って書いてある割に、
ちゃんと考えて作ってある感じです」
説明の仕方がどこか的確で、
璃音は思わず笑ってしまった。
「お客様の説明がいちばん的確です」
「じゃあ俺も、それ一つ」
男性は、空になったグラスをカウンターに置いた。
「ビールのあとの、口直しにちょうど良さそうだ」
二つ目。
気まぐれデザートの在庫は、
あっという間に「残り四」になった。
◇
そのあとも、「きまぐれ」を見た人が少しずつ注文していった。
打ち合わせ帰りらしい二人組が、
「甘いものなら入る」と言って分け合ったり。
読書中の男性が、
ページの合間に一口ずつ味わったり。
「これ、思ってたより出てますね」
凱理が、帳簿の隅に「気まぐれ」の売上をメモしながら言う。
「今日のデザート部門、
『今日の一歩ケーキ』といい勝負ですよ」
「いい勝負なら、ちょうどいいかもしれません」
奏斗は、いつもの冷静な口調のまま答えた。
「限定メニューが定番の売上を完全に食ってしまうと、
それはそれでバランスが崩れるので」
「そこまでいく勢いがあったら、それはそれで見てみたいですけどね」
凱理が、冗談めかして笑う。
そのとき——。
「すみません」
入口近くのテーブル席から、声が飛んできた。
さっき入ってきたばかりの女性客が、
メニューを持ちながら手を挙げている。
「この『きまぐれ』って、まだありますか」
「残り、二つです」
花春が答えようとした瞬間、
別のテーブルからも声が上がった。
「じゃあ、その残り二つください」
仕事帰りの男女三人組。
「えっ、ちょっと待って」
最初の女性客が慌てて言う。
「私も食べたいんですけど」
「あ、ごめんなさい」
三人組の一人が、苦笑いを浮かべる。
「そんなに人気だとは思わなくて。
『残り二つ』って聞いたら、つい……」
場の空気が、わずかに気まずい沈黙をまとった。
その隙間に、璃音の声がすっと入り込む。
「では」
彼女は、黒板プレートを手に取り、
「数量限定」の文字を指でなぞった。
「今ある分を、お一人分ずつに少しだけ増量します」
「増量?」
「はい。
もともと『胃もたれするけど幸せ』サイズで作っているので」
さらりと言って、彼女は厨房へ戻る。
冷蔵庫からグラスを二つ取り出し、
新しいグラスをもう一つ用意した。
「土台を少し足して……
クリームも、ぎりぎり三等分できるはず」
ボウルの中身を目分量で見ながら、
スプーンで慎重にすくっていく。
残りのフルーツも、
バランスよく三つに分けて飾った。
「よし。
『胃もたれするけど幸せ』から、
『ちょうど満足する』サイズに調整完了です」
小さな声でそう言って、
三つのグラスをトレーに乗せる。
「お待たせしました」
テーブル席に戻ると、
三人組と一人客の女性が、少し緊張した面持ちでこちらを見ていた。
「数量限定だったので、本来ならどちらか一組だけになるところですが」
璃音は、落ち着いた声で説明する。
「少しだけ工夫して、三人分に分けさせていただきました。
もともと『まかないに回してもいい量』で作っていたので、
このくらいの融通はききます」
そう言って、
三人組のテーブルに二つ、一人客のテーブルに一つ置いた。
「よろしければ、
『譲り合いで成り立ったデザート』として、
少しだけ美味しく感じていただけると嬉しいです」
一瞬、静けさが降りる。
次の瞬間、一人客の女性がふっと笑った。
「じゃあ、私、先に『ありがとう』言っときますね」
三人組の方を向き、軽く頭を下げる。
「譲り合いで成り立ったデザート、悪くないです」
「いえいえ、こちらこそ」
三人組の一人も笑い返す。
「半分こする覚悟だったんで、
ちゃんと一個出てきてくれてありがたいです」
空気が、ふわりと和んだ。
その様子を少し離れた席から見ていた葵が、
小さく拍手をした。
「こういうの、いいですね」
その一言が、店中にじんわりと広がっていく。
◇
閉店後。
レジ締めを終えた奏斗は、
今日一日の売上表を静かに見下ろしていた。
「……今日は、予想より数字が伸びていますね」
「おお、やっぱり」
凱理が、椅子の背にもたれながら顔を上げる。
「気まぐれデザート効果、出てます?」
「それだけではありませんが」
奏斗は、デザート欄の数字を指でなぞった。
「『君に恋する確率セット』と『今日の一歩ケーキ』、
それに今日の『きまぐれ』。
三つのバランスが、うまく噛み合っています」
「バランスかあ」
絵斗が、グラスを拭きながらうなずく。
「甘さ控えめのやつと、しっかり甘いやつと、
ちょっと変化球のやつ。
それぞれ好みが分かれてる感じだったもんな」
「変化球って言わないでください」
璃音が苦笑しながらも、どこか嬉しそうだ。
「でも、たしかに今日は、
『ちょっとだけ甘いもの』って気分の人が多かった気がします」
「気まぐれで作ったのに、
よくそこまで読めたよな」
凱理が感心したように言う。
「いえ、読めていたわけではないです。
ただ——」
璃音は、少しだけ考えてから続けた。
「最近、『君に恋する確率セット』みたいに、
大事な選択をテーマにしたメニューが多かったじゃないですか」
「たしかに」
阿紗美が、カウンターに肘をつきながらうなずく。
「診断したり、結果を見て照れたり。
心の準備が必要なメニューが増えてましたね」
「だから、今日はもう少しだけ、
『何も考えないで頼める甘いもの』があってもいいかなって」
璃音は、自分のマグカップを見下ろした。
「『とりあえず、これ頼んどけば間違いないや』って、
気楽に選べるもの。
その中に、ちょっとだけ『ここで過ごした時間』を
思い出してもらえる味があればいいなって」
「……気まぐれにしては、ずいぶん考えてるな」
凱理が、半分呆れたように笑う。
「冷静さと気まぐれさ、
両方持ってるってことですね」
花春が、くすりと笑いながら言う。
「ちゃんと原価も考えて、数量も絞って、
それでも『やってみる』って決めて作るの、
この店っぽい気がします」
「この店っぽい?」
「はい。
奏斗さんの『折り目正しさ』と、
璃音さんの『気まぐれ』が、
うまく混ざった感じっていうか」
その言葉に、奏斗は思わずノートを開いた。
今日のページには、
すでに数字と簡単な出来事が書き込まれている。
その下に、新しい項目を足した。
『今日の言葉』
そして、ゆっくりとペンを動かす。
『譲り合いで成り立ったデザート、悪くないです。』
『冷静さと気まぐれさの両方が、
この店らしさになっている気がする。』
書き終えてペンを置くと、
璃音が覗き込んで小さく笑った。
「今日の『きまぐれ』、
またいつかやってもいいですか」
「同じものをですか?」
「いえ。
その日の気分と、冷蔵庫の中身に合わせて変えます」
「それなら、メニュー名はそのままでいいかもしれませんね」
奏斗は、ノートを閉じて棚に戻した。
「『気まぐれデザート』という名前の中に、
あなたの冷静さも含まれていると分かったので」
酒の流れる川のほとりで過ごした、
客足の少ない一日の終わり。
その一日を救ったのは、
勢いだけの「気まぐれ」ではなく、
冷静さと遊び心がほどよく混ざった小さなグラスだった。
窓の外には、ゆっくりと流れる川と、まだ灯っていない提灯の列。
店内には、コーヒー豆を挽く音と、たまにページをめくる紙の音だけが響いている。
「……今日、静かですね」
カウンターでグラスを磨いていた璃音が、ふとつぶやいた。
「昨日が賑やかすぎただけです」
奏斗は、帳簿を閉じてレジの横に置く。
「人気投票期間といっても、山と谷がありますから」
「谷、ですねえ」
璃音は、窓際の二人席をちらりと見る。
今、客はその席に座る常連の一人だけ。
目の前の本に集中しているのか、
マグカップの中身は半分以上冷めているのに、気にしている様子はない。
「こういう日があるのは分かってるんですけど」
璃音は、エプロンのポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「……少しだけ、何か仕掛けてみてもいいですか」
「仕掛け?」
「メニューには載せない、気まぐれデザートです」
思いついたように言うわりには、
目の奥はいつもの冷静さを維持している。
「仕込みの量は、控えめにします。
もし売れなかったら——」
そこで一度言葉を切り、
厨房に向かって声を飛ばした。
「絵斗さん、今日のまかない、甘めでもいいですか」
「え? 甘め?」
オーブンの前にいた絵斗が振り返る。
「甘めって、どのくらい?」
「『ちょっと胃もたれするけど幸せ』くらいです」
「それはもう、甘めじゃなくて本気だな」
そう言いながらも、絵斗の口元には笑みが浮かんでいる。
「余ったら責任持って食べます、って顔してるから、
とりあえず止めないでおくわ」
「ありがとうございます」
璃音は、軽く会釈すると、そのまま厨房へと消えていった。
◇
冷蔵庫の中をのぞき込み、
璃音は手早く残り物の状況を確認した。
昨日のタルトで使ったフルーツの端切れ。
「今日の一歩ケーキ」に使う予定だった生クリームの余り。
賞味期限が近いヨーグルト。
「……このくらいなら、何とかなるかな」
メモ帳に、ざっと比率を書き込む。
「ヨーグルトと生クリームを半々。
甘さ控えめで、酸味を残して……」
ボウルに材料を入れ、泡立て器で混ぜながら、
冷蔵庫から小さめの耐熱容器を取り出した。
「土台は、昨日のビスケットの砕きかけ。
バターを少しだけ足して、ぎゅっと押し固めて……」
手元の動きは迷いがない。
新しいレシピではあるけれど、
頭の中にはすでに「完成図」が浮かんでいる。
「気まぐれって言っても、
『なんとなく』じゃなくて『このくらいなら責任とれる』くらいの計算はしておきたいんですよね」
自分に言い聞かせるように呟きながら、
璃音は小さなグラスを六つ並べた。
グラスの底にビスケットを敷き詰め、
その上にクリームとヨーグルトを混ぜた層を重ねる。
最後に、フルーツの端切れを彩りよく載せ、
ミントを一枚ずつちょこんとのせた。
「……よし」
グラスをトレーに乗せて冷蔵庫に入れると、
璃音は小さく伸びをした。
六つ。
売れ残っても、スタッフで分ければ一人一個。
それなら「胃もたれするけど幸せ」で済む。
◇
「何か作ったんですか」
カウンターに戻ると、凱理が興味津々で顔を寄せてきた。
「さっき、冷蔵庫の前で『よし』って言ってたけど」
「今日限定の、気まぐれデザートです」
璃音は、黒板用の小さなプレートを取り出した。
チョークで、さらさらと文字を書く。
『本日のきまぐれ
川べりヨーグルトパフェ(ミニ)
数量限定』
「名前、今決めましたよね」
「はい。
こういうのは、勢いも大事なので」
「原価の計算も勢いですか」
隣から、ひややかな声が飛んでくる。
奏斗だ。
「原価は、ちゃんと計算済みです。
余り物中心なので、むしろ救済的な……」
「『救済的』は、少し言葉が美しすぎますね」
奏斗は、プレートの文字をじっと見つめる。
「ただし、数量限定で、なおかつ余り物活用なら、
大きな赤字にはならないでしょう」
「許可、ということでいいですか?」
「お客様が喜んでくださるのであれば」
完全な肯定ではない。
けれど、それで十分だった。
「じゃあ、カウンターの端に出しますね」
璃音は、プレートをレジ横に立てかけた。
少しだけ、緊張する。
六つのグラス。
黒板の小さな文字。
それを見て、どれくらいの人が足を止めてくれるだろう。
◇
午後三時。
外の光が少し傾き始めたころ、
扉のベルが軽やかに鳴った。
「こんにちはー」
入ってきたのは、いつもの常連客——
川沿いの会社に勤める女性、葵だった。
「今日も『今日の一歩ケーキ』あります?」
「ありますよ」
花春が、にこやかに答える。
「それと、もしよかったら——」
璃音が、タイミングを見計らって一歩前に出た。
「本日、数量限定のミニデザートもあります。
ヨーグルト系なので、軽く食べたいときにおすすめです」
「へえ」
葵は、レジ横のプレートに目をやる。
「『きまぐれ』って書いてある」
「はい。
今日の気分で、余っていた材料をいい感じにまとめてみました」
「余ってたって言っちゃうんだ」
くすっと笑いながらも、葵の目はどこか楽しそうだ。
「でも、璃音さんの『いい感じ』、信頼してるからなあ……」
しばらく迷ったあと、彼女はあっさりと言った。
「じゃあ、それください。
あと、コーヒーを一緒に」
「ありがとうございます」
璃音は、胸の中で小さくガッツポーズをした。
一つ目。
冷蔵庫から慎重にグラスを取り出し、
受け皿に乗せてカウンターへ運ぶ。
葵は、スプーンで一口すくって口に運んだ。
「……あ、これ好き」
目を見開き、思わずもう一口。
「甘さ控えめなのに、ちゃんとデザートって感じする。
ヨーグルトの酸味で、口の中リセットされるし」
「ありがとうございます」
三口目を食べたところで、
葵はふと、隣の席の男性に目を向けた。
カウンターで一人、ゆっくりとビールを飲んでいた常連だ。
「これ、すごくいいですよ。
軽いから、お酒の前でも後でもいけそう」
その一言に、男性の方も興味を示した。
「そんなに?」
「はい。
『きまぐれ』って書いてある割に、
ちゃんと考えて作ってある感じです」
説明の仕方がどこか的確で、
璃音は思わず笑ってしまった。
「お客様の説明がいちばん的確です」
「じゃあ俺も、それ一つ」
男性は、空になったグラスをカウンターに置いた。
「ビールのあとの、口直しにちょうど良さそうだ」
二つ目。
気まぐれデザートの在庫は、
あっという間に「残り四」になった。
◇
そのあとも、「きまぐれ」を見た人が少しずつ注文していった。
打ち合わせ帰りらしい二人組が、
「甘いものなら入る」と言って分け合ったり。
読書中の男性が、
ページの合間に一口ずつ味わったり。
「これ、思ってたより出てますね」
凱理が、帳簿の隅に「気まぐれ」の売上をメモしながら言う。
「今日のデザート部門、
『今日の一歩ケーキ』といい勝負ですよ」
「いい勝負なら、ちょうどいいかもしれません」
奏斗は、いつもの冷静な口調のまま答えた。
「限定メニューが定番の売上を完全に食ってしまうと、
それはそれでバランスが崩れるので」
「そこまでいく勢いがあったら、それはそれで見てみたいですけどね」
凱理が、冗談めかして笑う。
そのとき——。
「すみません」
入口近くのテーブル席から、声が飛んできた。
さっき入ってきたばかりの女性客が、
メニューを持ちながら手を挙げている。
「この『きまぐれ』って、まだありますか」
「残り、二つです」
花春が答えようとした瞬間、
別のテーブルからも声が上がった。
「じゃあ、その残り二つください」
仕事帰りの男女三人組。
「えっ、ちょっと待って」
最初の女性客が慌てて言う。
「私も食べたいんですけど」
「あ、ごめんなさい」
三人組の一人が、苦笑いを浮かべる。
「そんなに人気だとは思わなくて。
『残り二つ』って聞いたら、つい……」
場の空気が、わずかに気まずい沈黙をまとった。
その隙間に、璃音の声がすっと入り込む。
「では」
彼女は、黒板プレートを手に取り、
「数量限定」の文字を指でなぞった。
「今ある分を、お一人分ずつに少しだけ増量します」
「増量?」
「はい。
もともと『胃もたれするけど幸せ』サイズで作っているので」
さらりと言って、彼女は厨房へ戻る。
冷蔵庫からグラスを二つ取り出し、
新しいグラスをもう一つ用意した。
「土台を少し足して……
クリームも、ぎりぎり三等分できるはず」
ボウルの中身を目分量で見ながら、
スプーンで慎重にすくっていく。
残りのフルーツも、
バランスよく三つに分けて飾った。
「よし。
『胃もたれするけど幸せ』から、
『ちょうど満足する』サイズに調整完了です」
小さな声でそう言って、
三つのグラスをトレーに乗せる。
「お待たせしました」
テーブル席に戻ると、
三人組と一人客の女性が、少し緊張した面持ちでこちらを見ていた。
「数量限定だったので、本来ならどちらか一組だけになるところですが」
璃音は、落ち着いた声で説明する。
「少しだけ工夫して、三人分に分けさせていただきました。
もともと『まかないに回してもいい量』で作っていたので、
このくらいの融通はききます」
そう言って、
三人組のテーブルに二つ、一人客のテーブルに一つ置いた。
「よろしければ、
『譲り合いで成り立ったデザート』として、
少しだけ美味しく感じていただけると嬉しいです」
一瞬、静けさが降りる。
次の瞬間、一人客の女性がふっと笑った。
「じゃあ、私、先に『ありがとう』言っときますね」
三人組の方を向き、軽く頭を下げる。
「譲り合いで成り立ったデザート、悪くないです」
「いえいえ、こちらこそ」
三人組の一人も笑い返す。
「半分こする覚悟だったんで、
ちゃんと一個出てきてくれてありがたいです」
空気が、ふわりと和んだ。
その様子を少し離れた席から見ていた葵が、
小さく拍手をした。
「こういうの、いいですね」
その一言が、店中にじんわりと広がっていく。
◇
閉店後。
レジ締めを終えた奏斗は、
今日一日の売上表を静かに見下ろしていた。
「……今日は、予想より数字が伸びていますね」
「おお、やっぱり」
凱理が、椅子の背にもたれながら顔を上げる。
「気まぐれデザート効果、出てます?」
「それだけではありませんが」
奏斗は、デザート欄の数字を指でなぞった。
「『君に恋する確率セット』と『今日の一歩ケーキ』、
それに今日の『きまぐれ』。
三つのバランスが、うまく噛み合っています」
「バランスかあ」
絵斗が、グラスを拭きながらうなずく。
「甘さ控えめのやつと、しっかり甘いやつと、
ちょっと変化球のやつ。
それぞれ好みが分かれてる感じだったもんな」
「変化球って言わないでください」
璃音が苦笑しながらも、どこか嬉しそうだ。
「でも、たしかに今日は、
『ちょっとだけ甘いもの』って気分の人が多かった気がします」
「気まぐれで作ったのに、
よくそこまで読めたよな」
凱理が感心したように言う。
「いえ、読めていたわけではないです。
ただ——」
璃音は、少しだけ考えてから続けた。
「最近、『君に恋する確率セット』みたいに、
大事な選択をテーマにしたメニューが多かったじゃないですか」
「たしかに」
阿紗美が、カウンターに肘をつきながらうなずく。
「診断したり、結果を見て照れたり。
心の準備が必要なメニューが増えてましたね」
「だから、今日はもう少しだけ、
『何も考えないで頼める甘いもの』があってもいいかなって」
璃音は、自分のマグカップを見下ろした。
「『とりあえず、これ頼んどけば間違いないや』って、
気楽に選べるもの。
その中に、ちょっとだけ『ここで過ごした時間』を
思い出してもらえる味があればいいなって」
「……気まぐれにしては、ずいぶん考えてるな」
凱理が、半分呆れたように笑う。
「冷静さと気まぐれさ、
両方持ってるってことですね」
花春が、くすりと笑いながら言う。
「ちゃんと原価も考えて、数量も絞って、
それでも『やってみる』って決めて作るの、
この店っぽい気がします」
「この店っぽい?」
「はい。
奏斗さんの『折り目正しさ』と、
璃音さんの『気まぐれ』が、
うまく混ざった感じっていうか」
その言葉に、奏斗は思わずノートを開いた。
今日のページには、
すでに数字と簡単な出来事が書き込まれている。
その下に、新しい項目を足した。
『今日の言葉』
そして、ゆっくりとペンを動かす。
『譲り合いで成り立ったデザート、悪くないです。』
『冷静さと気まぐれさの両方が、
この店らしさになっている気がする。』
書き終えてペンを置くと、
璃音が覗き込んで小さく笑った。
「今日の『きまぐれ』、
またいつかやってもいいですか」
「同じものをですか?」
「いえ。
その日の気分と、冷蔵庫の中身に合わせて変えます」
「それなら、メニュー名はそのままでいいかもしれませんね」
奏斗は、ノートを閉じて棚に戻した。
「『気まぐれデザート』という名前の中に、
あなたの冷静さも含まれていると分かったので」
酒の流れる川のほとりで過ごした、
客足の少ない一日の終わり。
その一日を救ったのは、
勢いだけの「気まぐれ」ではなく、
冷静さと遊び心がほどよく混ざった小さなグラスだった。
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