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第30話 投票最終日、川に灯りがともる
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夕方前の川沿いは、いつもより少しだけ華やいでいた。
店の前の通りには、商店街の人たちが朝から取り付けた提灯が、ずらりと並んでいる。
まだ灯りは点いていないが、白地に描かれた店の名前やイラストが風に揺れ、川面にはうっすらとその影が映っていた。
「今日は、人気投票の最終日、ですね」
ガラス越しに外を見ながら、璃音がぽつりと言う。
「最終日かあ」
カウンターの内側でレジを確認していた凱理が、少し伸びをした。
「なんか、夏休み最終日みたいな響きですね」
「宿題、終わってますか」
奏斗が、冷静な声で返す。
「ギクッ」
「票を増やそうとする宿題なら、
みんなで分担してやってきたと思いますよ」
花春が、トレーを片手にくすりと笑った。
「カードも配ったし、『今日の一歩ケーキ』も頑張ってきましたし」
「『気まぐれデザート』も」
璃音が、冷蔵庫の中を確認しながら言う。
「今日は最終日ですから、
少しだけ多めに仕込んでおきました」
「多めって、どのくらい」
厨房から顔を出した絵斗が聞く。
「『まかないに回してもいい覚悟』を、
いつもの一・五倍くらいに増やした程度です」
「それはかなりの覚悟だな」
そう言いながらも、絵斗の口元は緩んでいた。
人気投票が始まってから、一週間。
「酒の流れる川ウィーク」と名付けた特別営業も、今日で一区切りになる。
川沿いの歴史をモチーフにしたプレート、
本をイメージしたドリンク、
恋を後押しする特別メニュー「君に恋する確率セット」。
あれこれ手を伸ばして、失敗も山ほどした。
でも——。
「今日だけはさ」
ホールの椅子を整えながら、花春が言った。
「人気投票の順位とか、再開発がどうなるかとか、
そういうのはいったん脇に置いておきませんか」
その言葉に、全員の手が一瞬止まる。
「もちろん、気になるのは分かるんですけど」
花春は、窓際の席をそっと撫でるように拭いた。
「せっかく『酒の流れる川ウィーク』って名前をつけたんだから、
最後の日くらいはさ」
ふっと笑い、言葉を続ける。
「ここで誰かの『最高の思い出』を、
また更新する日にしたいなって思うんです」
最高の思い出。
その言葉は、派手な言い回しではないのに、
妙に胸に残った。
「……更新、ですか」
奏斗が、確認するように問い返す。
「はい」
花春は、頷いた。
「『あのとき楽しかったな』って思い出は、きっともう、
ここにたくさん積み重なってると思うんです。
でも、今日来てくれる人には、
『今がいちばん好き』って思って帰ってほしいなって。
だから、『昔の思い出を守る日』というより、
『最高を更新する日』にしたいんです」
言いながら、少し照れくさそうに笑った。
「……欲張りですかね」
「欲張りでいいと思います」
璃音が、即座に答える。
「じゃあ、今日はその方向で」
奏斗は、壁の時計を見上げ、深呼吸を一つ。
「人気投票の最終日。
結果は、明日以降にしか分かりません。
でも、『今日ここに来てよかった』と言っていただけたかどうかは、
今日ここでしか作れません」
静かな言葉に、全員がうなずいた。
「本日も、よろしくお願いします」
扉の鍵が開けられ、ベルが鳴る準備を整える。
川面の光はまだ淡い。
けれど、心のどこかで、もう灯りがともり始めていた。
◇
人気投票最終日の「川べり文庫」は、
開店直後からほどよい混雑が続いた。
「すみません、『川沿いの歴史プレート』二つ」
「『君に恋する確率セット』、お二人分お願いします」
奥のテーブルでは、地元の年配夫婦が
川の昔話をしながらプレートをつついている。
「この写真、懐かしいねえ。
ほら、子どもの頃の花火大会のとき、ちょうどこのあたりで……」
「ええ、あなたが屋台の焼きそば落として泣いてたときね」
そんな会話に、凱理がさりげなく耳を傾ける。
「おふたりとも、
川沿いのこと、たくさん覚えてらっしゃるんですね」
「そりゃもう」
夫が、誇らしげに胸を張った。
「ここら一帯で一番長く川を眺めてる自信あるよ」
「じゃあ、今日も一枚、
川の思い出を増やしていってください」
凱理は、トレーの上の投票用紙を指さした。
「よろしければ、
『今日の一日』を一行だけ書いていただけると嬉しいです」
「一行だけかい」
「はい。
『焼きそば落とさなかった』とか」
軽口に、夫婦は声を立てて笑った。
「じゃあ、
『焼きそばを落とさなかった記念日』にしようか」
「やめなさいよ、恥ずかしい」
そう言いつつ、
妻は楽しそうにペンを走らせていた。
◇
カウンター席では、
会社帰りの女性二人組が「君に恋する確率セット」を前に盛り上がっていた。
「ねえ見て、『じわじわ上昇中』だって」
「私は『ごまかしきれない』だった。
なにこれ、怖いんだけど」
「お二人とも、表情がとてもわかりやすかったので」
璃音が、静かに微笑む。
「カード、少しだけ当たりやすいものを選んでおきました」
「え、そんな仕様なの?」
「仕様って言わないでください」
思わず突っ込んだのは凱理だ。
「でも、今日は最終日なので、
『本音が出やすいカード』を多めに混ぜてあります」
「それ、ますます怖いんだけど」
見かけによらず容赦ない。
そう言いながらも、
二人はカードの裏にこっそりメモを書き込んでいる。
「……ちょっと、書き過ぎじゃないですか」
璃音が思わずのぞき込むと、
そこには細かい文字がぎっしり詰まっていた。
『今度の飲み会であの人の隣に座れる確率が、
じわじわ上がっている気がします。
根拠はないけど、ここで相談したら背中を押されたので。』
「素敵な長文なら、大歓迎です」
璃音は、素直にそう言った。
◇
午後七時を過ぎる頃には、
外の提灯に一斉に灯りがともった。
白かった紙が、橙色に染まる。
川面には、その灯りが細く揺れながら映り込む。
「おおー……」
窓際の席に座っていた中学生たちが、
一斉に外を見て声を上げた。
「まじで川が光ってるみたいじゃん」
「『酒の流れる川』ってやつだ」
「酒は流れてないけどな」
そんな会話を聞いて、
阿紗美は「そうそう」と心の中で頷いた。
「こういうの聞くとさ、
頑張って走り回ってよかったって思うんだよね」
厨房とホールを行き来しながら、
彼女は自分の足音を確かめるように動いていた。
料理を運び、空いた皿を下げ、
水のピッチャーを補充し、入口のベルの音に反応する。
その動きには、
マラソンで培ったリズムが自然と滲んでいる。
「阿紗美さん、水、追加お願いできますか」
「はい、すぐに」
息は上がっていない。
むしろ、身体がこの忙しさを楽しんでいるようにさえ感じる。
(もし、本当にここがなくなっても)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
(この足の動きは、たぶんどこに行っても消えないんだろうな)
そう思ったら、
少しだけ胸のつかえが軽くなった。
◇
その頃、厨房では。
「今日は、
『最高の思い出プレート』の注文、多いですね」
璃音が、伝票を確認しながら声をかける。
「最高の思い出プレート」とは、
「川の向こうの約束トースト」と「今日の一歩ケーキ」と、
小さな気まぐれデザートを一皿にまとめた特別メニューだ。
「名前がずるいんだよ、まず」
フライパンをあおぎながら、絵斗が笑う。
「『最高の思い出にしてください』って、
言われたら頼みたくなるに決まってる」
「つけたの、誰でしたっけ」
「俺だよ。
花春さんに、『名前、どうしましょうか』って聞かれて、
勢いで言っちゃった」
あの日。
再開発の資料を見て、
全員が一度立ち止まったあと——。
花春が「最高の思い出を更新したい」と言い、
そこから生まれたメニューだ。
「でもさ」
トングを置きながら、絵斗は言う。
「今日、その名前で注文が入るたびに、
『この一皿に、誰かの一日がくっついていくんだな』って思うとさ」
口調とは裏腹に、
盛り付ける手はいつもよりほんの少しだけ丁寧だった。
「俺、この店でやれること、
結構やり切りつつあるんだなって感じもちょっとするんだよね」
「やり切ったら、卒業ですか」
「どうだろ」
鉄板の上でジュウと音が鳴る。
「やり切っても、
『ここからもう一歩』って、
簡単に出てくる場所なんだよな、ここ」
自分でも答えが出ないまま、
絵斗は皿をホールに送り出した。
◇
夜も深まり、
客の波が一度落ち着いた頃。
レジの横に置かれた投票箱は、
朝よりも明らかに重くなっていた。
「けっこう、たまりましたね」
凱理が、箱の横を軽く叩く。
「音が低い。
これは、入ってますよ」
「叩かないでください」
奏斗が、即座にツッコミを入れる。
「中の紙が折れ曲がってしまいます」
「そこですか」
凱理は笑いながらも、
箱の表面をそっと撫でるように指を滑らせた。
「何枚入ってるか、
ちょっとだけ気になります?」
「もちろん、気になります」
奏斗は、素直に認めた。
「ですが、開けていいのは商店街の事務所だけです」
「ですよね」
「ただ——」
奏斗は、投票箱の横に積まれたコメント用紙の束を手に取った。
「何が書かれているかは、
少しだけ見ても怒られないはずです」
「それは大事です」
花春が、小走りで近づいてくる。
「今日の『最高の思い出更新』、
ちゃんと文字になってるか、確認しないと」
璃音も、そっと輪に加わった。
四人で、コメントをいくつか拾い上げて読む。
『仕事でくたくたでしたが、
ここで一杯飲んでから帰ると、
ちゃんと「今日が終わった」って思えます。』
『君に恋する確率セット、
友達と笑いながら頼んだはずなのに、
本気で背中を押されてしまいました。』
『ここがあるから、
再開発の話が少し怖いです。
でも、怖いって思える場所があるのは、
ちょっと幸せなことかもしれません。』
最後の一行を読んだところで、
誰かが小さく息を呑んだ。
「……これ、
ノートに写しておきたいです」
奏斗が、そっと言う。
「今日のページが、
文字で埋まらなくて済みそうですね」
凱理が、どこか嬉しそうに笑った。
◇
閉店時間が近づくと、
商店街の腕章を付けた男性が店に入ってきた。
「お疲れさまです。
投票箱の回収に来ました」
人気投票開始の日にも顔を見せた、商店街事務所の担当者だ。
「お世話になっております」
奏斗が、投票箱の前に立って軽く会釈する。
「箱、開けないように、
しっかり見張っていただいてありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
男性は、箱を持ち上げてみて、
少し目を丸くした。
「おや」
「重いですか」
「ずっしり来ますね」
腕の感触を確かめるようにしながら、
男性はふっと笑った。
「ここ、かなり票が集まってましたよ」
「え……」
思わず、全員の視線が箱に集まる。
男性は、にやりともせず、
あくまで事務的な口調のまま付け足した。
「他の店も頑張ってましたけどね。
箱を持った感じだと、
上位争いにきっちり食い込んでると思います」
「そうですか」
奏斗の声は、驚くほど落ち着いていた。
心臓は、さっきまでよりずっと早く動いているのに。
「結果は、いつ分かりますか」
「三日後くらいになりそうです」
腕章の男性は、箱を抱え直す。
「集計に時間がかかるので。
発表前に、またご連絡しますね」
「よろしくお願いします」
扉のベルが鳴り、
投票箱が夜の通りに運び出される。
提灯の灯りが、その背中を照らしていた。
◇
箱が見えなくなってから、
しばらく誰も動かなかった。
「……かなり、か」
絵斗が、ぽつりと言う。
「『一位です』とも『ギリギリです』とも言わない、
絶妙な表現ですね」
「商店街事務所の人、
こういうところだけ口が固いんですよね」
凱理が、半分冗談めかして笑う。
「でも、
『全然入ってません』じゃなかっただけで、
ちょっと救われました」
「ですね」
璃音は、窓の外の川を見た。
提灯の灯りが、
川面に細い道のように伸びている。
「結果はどうであれ、
今日の全部が、
『ここに来てくれた人の一日』になってるんですよね」
「はい」
奏斗は、カウンターの内側に置いていた黒いノートを開いた。
今日の日付を書き、
売上と客数を記入し、
その下に新しい項目を足す。
『今日の言葉』
そこに、コメント用紙から写した一文を
ゆっくり書き写していく。
『ここがあるから、
再開発の話が少し怖いです。
でも、怖いって思える場所があるのは、
ちょっと幸せなことかもしれません。』
書き終えた文字を見て、
花春が、そっと口を開いた。
「ねえ」
「はい」
「人気投票で一位になれたら、
もちろん嬉しいですけど」
彼女は、窓際の席を振り返る。
そこには、ついさっきまで誰かが座っていた気配が、
まだ温度を残していた。
「この一週間で、
『ここがなくなったら困る』って言ってくれた人が何人もいて。
その人たちの、
今日の一日を一緒に作れたなら——」
ふっと笑って、言葉を結ぶ。
「もう、
けっこういいところまで来てる気がします」
その言葉に、
誰も「いやいや」とは否定しなかった。
疲労も、迷いも、不安も、
全部消えたわけじゃない。
でも、確かに今、
ここに立っている全員の胸の中に、
同じ温度のものが灯っている。
提灯の灯りが川面を流れ、
夜風が、酒とコーヒーの混じった匂いをそっと運んでいく。
酒の流れる川のほとりで、
人気投票の行方よりも先に、
「今日の一日」が静かに記憶に刻まれていく。
店の前の通りには、商店街の人たちが朝から取り付けた提灯が、ずらりと並んでいる。
まだ灯りは点いていないが、白地に描かれた店の名前やイラストが風に揺れ、川面にはうっすらとその影が映っていた。
「今日は、人気投票の最終日、ですね」
ガラス越しに外を見ながら、璃音がぽつりと言う。
「最終日かあ」
カウンターの内側でレジを確認していた凱理が、少し伸びをした。
「なんか、夏休み最終日みたいな響きですね」
「宿題、終わってますか」
奏斗が、冷静な声で返す。
「ギクッ」
「票を増やそうとする宿題なら、
みんなで分担してやってきたと思いますよ」
花春が、トレーを片手にくすりと笑った。
「カードも配ったし、『今日の一歩ケーキ』も頑張ってきましたし」
「『気まぐれデザート』も」
璃音が、冷蔵庫の中を確認しながら言う。
「今日は最終日ですから、
少しだけ多めに仕込んでおきました」
「多めって、どのくらい」
厨房から顔を出した絵斗が聞く。
「『まかないに回してもいい覚悟』を、
いつもの一・五倍くらいに増やした程度です」
「それはかなりの覚悟だな」
そう言いながらも、絵斗の口元は緩んでいた。
人気投票が始まってから、一週間。
「酒の流れる川ウィーク」と名付けた特別営業も、今日で一区切りになる。
川沿いの歴史をモチーフにしたプレート、
本をイメージしたドリンク、
恋を後押しする特別メニュー「君に恋する確率セット」。
あれこれ手を伸ばして、失敗も山ほどした。
でも——。
「今日だけはさ」
ホールの椅子を整えながら、花春が言った。
「人気投票の順位とか、再開発がどうなるかとか、
そういうのはいったん脇に置いておきませんか」
その言葉に、全員の手が一瞬止まる。
「もちろん、気になるのは分かるんですけど」
花春は、窓際の席をそっと撫でるように拭いた。
「せっかく『酒の流れる川ウィーク』って名前をつけたんだから、
最後の日くらいはさ」
ふっと笑い、言葉を続ける。
「ここで誰かの『最高の思い出』を、
また更新する日にしたいなって思うんです」
最高の思い出。
その言葉は、派手な言い回しではないのに、
妙に胸に残った。
「……更新、ですか」
奏斗が、確認するように問い返す。
「はい」
花春は、頷いた。
「『あのとき楽しかったな』って思い出は、きっともう、
ここにたくさん積み重なってると思うんです。
でも、今日来てくれる人には、
『今がいちばん好き』って思って帰ってほしいなって。
だから、『昔の思い出を守る日』というより、
『最高を更新する日』にしたいんです」
言いながら、少し照れくさそうに笑った。
「……欲張りですかね」
「欲張りでいいと思います」
璃音が、即座に答える。
「じゃあ、今日はその方向で」
奏斗は、壁の時計を見上げ、深呼吸を一つ。
「人気投票の最終日。
結果は、明日以降にしか分かりません。
でも、『今日ここに来てよかった』と言っていただけたかどうかは、
今日ここでしか作れません」
静かな言葉に、全員がうなずいた。
「本日も、よろしくお願いします」
扉の鍵が開けられ、ベルが鳴る準備を整える。
川面の光はまだ淡い。
けれど、心のどこかで、もう灯りがともり始めていた。
◇
人気投票最終日の「川べり文庫」は、
開店直後からほどよい混雑が続いた。
「すみません、『川沿いの歴史プレート』二つ」
「『君に恋する確率セット』、お二人分お願いします」
奥のテーブルでは、地元の年配夫婦が
川の昔話をしながらプレートをつついている。
「この写真、懐かしいねえ。
ほら、子どもの頃の花火大会のとき、ちょうどこのあたりで……」
「ええ、あなたが屋台の焼きそば落として泣いてたときね」
そんな会話に、凱理がさりげなく耳を傾ける。
「おふたりとも、
川沿いのこと、たくさん覚えてらっしゃるんですね」
「そりゃもう」
夫が、誇らしげに胸を張った。
「ここら一帯で一番長く川を眺めてる自信あるよ」
「じゃあ、今日も一枚、
川の思い出を増やしていってください」
凱理は、トレーの上の投票用紙を指さした。
「よろしければ、
『今日の一日』を一行だけ書いていただけると嬉しいです」
「一行だけかい」
「はい。
『焼きそば落とさなかった』とか」
軽口に、夫婦は声を立てて笑った。
「じゃあ、
『焼きそばを落とさなかった記念日』にしようか」
「やめなさいよ、恥ずかしい」
そう言いつつ、
妻は楽しそうにペンを走らせていた。
◇
カウンター席では、
会社帰りの女性二人組が「君に恋する確率セット」を前に盛り上がっていた。
「ねえ見て、『じわじわ上昇中』だって」
「私は『ごまかしきれない』だった。
なにこれ、怖いんだけど」
「お二人とも、表情がとてもわかりやすかったので」
璃音が、静かに微笑む。
「カード、少しだけ当たりやすいものを選んでおきました」
「え、そんな仕様なの?」
「仕様って言わないでください」
思わず突っ込んだのは凱理だ。
「でも、今日は最終日なので、
『本音が出やすいカード』を多めに混ぜてあります」
「それ、ますます怖いんだけど」
見かけによらず容赦ない。
そう言いながらも、
二人はカードの裏にこっそりメモを書き込んでいる。
「……ちょっと、書き過ぎじゃないですか」
璃音が思わずのぞき込むと、
そこには細かい文字がぎっしり詰まっていた。
『今度の飲み会であの人の隣に座れる確率が、
じわじわ上がっている気がします。
根拠はないけど、ここで相談したら背中を押されたので。』
「素敵な長文なら、大歓迎です」
璃音は、素直にそう言った。
◇
午後七時を過ぎる頃には、
外の提灯に一斉に灯りがともった。
白かった紙が、橙色に染まる。
川面には、その灯りが細く揺れながら映り込む。
「おおー……」
窓際の席に座っていた中学生たちが、
一斉に外を見て声を上げた。
「まじで川が光ってるみたいじゃん」
「『酒の流れる川』ってやつだ」
「酒は流れてないけどな」
そんな会話を聞いて、
阿紗美は「そうそう」と心の中で頷いた。
「こういうの聞くとさ、
頑張って走り回ってよかったって思うんだよね」
厨房とホールを行き来しながら、
彼女は自分の足音を確かめるように動いていた。
料理を運び、空いた皿を下げ、
水のピッチャーを補充し、入口のベルの音に反応する。
その動きには、
マラソンで培ったリズムが自然と滲んでいる。
「阿紗美さん、水、追加お願いできますか」
「はい、すぐに」
息は上がっていない。
むしろ、身体がこの忙しさを楽しんでいるようにさえ感じる。
(もし、本当にここがなくなっても)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
(この足の動きは、たぶんどこに行っても消えないんだろうな)
そう思ったら、
少しだけ胸のつかえが軽くなった。
◇
その頃、厨房では。
「今日は、
『最高の思い出プレート』の注文、多いですね」
璃音が、伝票を確認しながら声をかける。
「最高の思い出プレート」とは、
「川の向こうの約束トースト」と「今日の一歩ケーキ」と、
小さな気まぐれデザートを一皿にまとめた特別メニューだ。
「名前がずるいんだよ、まず」
フライパンをあおぎながら、絵斗が笑う。
「『最高の思い出にしてください』って、
言われたら頼みたくなるに決まってる」
「つけたの、誰でしたっけ」
「俺だよ。
花春さんに、『名前、どうしましょうか』って聞かれて、
勢いで言っちゃった」
あの日。
再開発の資料を見て、
全員が一度立ち止まったあと——。
花春が「最高の思い出を更新したい」と言い、
そこから生まれたメニューだ。
「でもさ」
トングを置きながら、絵斗は言う。
「今日、その名前で注文が入るたびに、
『この一皿に、誰かの一日がくっついていくんだな』って思うとさ」
口調とは裏腹に、
盛り付ける手はいつもよりほんの少しだけ丁寧だった。
「俺、この店でやれること、
結構やり切りつつあるんだなって感じもちょっとするんだよね」
「やり切ったら、卒業ですか」
「どうだろ」
鉄板の上でジュウと音が鳴る。
「やり切っても、
『ここからもう一歩』って、
簡単に出てくる場所なんだよな、ここ」
自分でも答えが出ないまま、
絵斗は皿をホールに送り出した。
◇
夜も深まり、
客の波が一度落ち着いた頃。
レジの横に置かれた投票箱は、
朝よりも明らかに重くなっていた。
「けっこう、たまりましたね」
凱理が、箱の横を軽く叩く。
「音が低い。
これは、入ってますよ」
「叩かないでください」
奏斗が、即座にツッコミを入れる。
「中の紙が折れ曲がってしまいます」
「そこですか」
凱理は笑いながらも、
箱の表面をそっと撫でるように指を滑らせた。
「何枚入ってるか、
ちょっとだけ気になります?」
「もちろん、気になります」
奏斗は、素直に認めた。
「ですが、開けていいのは商店街の事務所だけです」
「ですよね」
「ただ——」
奏斗は、投票箱の横に積まれたコメント用紙の束を手に取った。
「何が書かれているかは、
少しだけ見ても怒られないはずです」
「それは大事です」
花春が、小走りで近づいてくる。
「今日の『最高の思い出更新』、
ちゃんと文字になってるか、確認しないと」
璃音も、そっと輪に加わった。
四人で、コメントをいくつか拾い上げて読む。
『仕事でくたくたでしたが、
ここで一杯飲んでから帰ると、
ちゃんと「今日が終わった」って思えます。』
『君に恋する確率セット、
友達と笑いながら頼んだはずなのに、
本気で背中を押されてしまいました。』
『ここがあるから、
再開発の話が少し怖いです。
でも、怖いって思える場所があるのは、
ちょっと幸せなことかもしれません。』
最後の一行を読んだところで、
誰かが小さく息を呑んだ。
「……これ、
ノートに写しておきたいです」
奏斗が、そっと言う。
「今日のページが、
文字で埋まらなくて済みそうですね」
凱理が、どこか嬉しそうに笑った。
◇
閉店時間が近づくと、
商店街の腕章を付けた男性が店に入ってきた。
「お疲れさまです。
投票箱の回収に来ました」
人気投票開始の日にも顔を見せた、商店街事務所の担当者だ。
「お世話になっております」
奏斗が、投票箱の前に立って軽く会釈する。
「箱、開けないように、
しっかり見張っていただいてありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
男性は、箱を持ち上げてみて、
少し目を丸くした。
「おや」
「重いですか」
「ずっしり来ますね」
腕の感触を確かめるようにしながら、
男性はふっと笑った。
「ここ、かなり票が集まってましたよ」
「え……」
思わず、全員の視線が箱に集まる。
男性は、にやりともせず、
あくまで事務的な口調のまま付け足した。
「他の店も頑張ってましたけどね。
箱を持った感じだと、
上位争いにきっちり食い込んでると思います」
「そうですか」
奏斗の声は、驚くほど落ち着いていた。
心臓は、さっきまでよりずっと早く動いているのに。
「結果は、いつ分かりますか」
「三日後くらいになりそうです」
腕章の男性は、箱を抱え直す。
「集計に時間がかかるので。
発表前に、またご連絡しますね」
「よろしくお願いします」
扉のベルが鳴り、
投票箱が夜の通りに運び出される。
提灯の灯りが、その背中を照らしていた。
◇
箱が見えなくなってから、
しばらく誰も動かなかった。
「……かなり、か」
絵斗が、ぽつりと言う。
「『一位です』とも『ギリギリです』とも言わない、
絶妙な表現ですね」
「商店街事務所の人、
こういうところだけ口が固いんですよね」
凱理が、半分冗談めかして笑う。
「でも、
『全然入ってません』じゃなかっただけで、
ちょっと救われました」
「ですね」
璃音は、窓の外の川を見た。
提灯の灯りが、
川面に細い道のように伸びている。
「結果はどうであれ、
今日の全部が、
『ここに来てくれた人の一日』になってるんですよね」
「はい」
奏斗は、カウンターの内側に置いていた黒いノートを開いた。
今日の日付を書き、
売上と客数を記入し、
その下に新しい項目を足す。
『今日の言葉』
そこに、コメント用紙から写した一文を
ゆっくり書き写していく。
『ここがあるから、
再開発の話が少し怖いです。
でも、怖いって思える場所があるのは、
ちょっと幸せなことかもしれません。』
書き終えた文字を見て、
花春が、そっと口を開いた。
「ねえ」
「はい」
「人気投票で一位になれたら、
もちろん嬉しいですけど」
彼女は、窓際の席を振り返る。
そこには、ついさっきまで誰かが座っていた気配が、
まだ温度を残していた。
「この一週間で、
『ここがなくなったら困る』って言ってくれた人が何人もいて。
その人たちの、
今日の一日を一緒に作れたなら——」
ふっと笑って、言葉を結ぶ。
「もう、
けっこういいところまで来てる気がします」
その言葉に、
誰も「いやいや」とは否定しなかった。
疲労も、迷いも、不安も、
全部消えたわけじゃない。
でも、確かに今、
ここに立っている全員の胸の中に、
同じ温度のものが灯っている。
提灯の灯りが川面を流れ、
夜風が、酒とコーヒーの混じった匂いをそっと運んでいく。
酒の流れる川のほとりで、
人気投票の行方よりも先に、
「今日の一日」が静かに記憶に刻まれていく。
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