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第31話 取り壊し審議の前夜
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その日は、朝から街全体の空気が落ち着かなかった。
川沿いの通りを歩く人の足取りはいつも通りなのに、
どこか声のトーンが低いように感じる。
ビルの入り口には、新しい貼り紙が一枚。
『明日〇時より、取り壊し計画に関する審議が行われます』
堅い文字が並ぶ紙を、
阿紗美がじっと見上げていた。
「……ほんとに、明日なんだよね」
呟きに答えるように、
裏口のドアがガタンと開く。
「おはようございます」
エプロンを肩にひっかけた凱理が顔を出した。
「わ、なんか朝から重たい空気ですね」
「紙が重たいんじゃない?」
阿紗美は、貼り紙を指でつつく。
「この一枚で、あっちの世界の人たちが明日いろいろ決めるんだから」
「やめてください、その『あっちの世界』とかいう言い方」
そう言いつつも、凱理の視線も自然と貼り紙に吸い寄せられる。
「……とりあえず、今日の分の仕込みはしますよね?」
「もちろん」
阿紗美は、決心したようにくるりと踵を返した。
「明日のことは、明日の足で走る。
今日は今日の足で走る」
「名言っぽいですけど、
要するに『いつも通りやる』ってことですよね」
「そう」
ふたりの笑い声を背中に、
「川べり文庫」のシャッターが上がっていく。
◇
開店準備は、いつもと同じ順番で進んでいった。
椅子を並べて、テーブルを拭き、
カウンターにグラスを並べる。
奏斗はレジ周りを整えながら、
壁の時計にちらりと目をやった。
(明日のこの時間には、審議が始まっている)
そう思った瞬間、
胸のあたりに冷たいものがひやりと走る。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、「ビルオーナー」の文字。
「……すみません、少し外します」
奏斗は、スタッフたちに軽く会釈してから
店の奥の小さな事務スペースへ向かった。
◇
「お疲れさまです、奏斗くん」
電話口から聞こえるオーナーの声は、
いつもよりすこしだけ低い。
「明日の件、資料は全部届いているかな」
「はい。商店街の資料と、再開発委員会の説明書類も」
「そうか」
短い相づちのあと、
少しだけ間が空いた。
「店の方はどうだい? 人気投票とか、川沿いの催しとか」
「おかげさまで、思っていた以上にお客様が来てくださっています。
投票箱も、かなり重いと事務所の方が」
「それは良かった」
オーナーは本当に嬉しそうに笑った。
「君たちが頑張っているのは、ちゃんと伝わっているよ。
だからこそ……」
そこで、声のトーンが少しだけ変わる。
「だからこそ、現実的な話もしておきたい」
「現実的な、話」
「明日の審議で、
取り壊し計画がそのまま進む可能性は、正直高い。
商店街としては反対意見も出すけれど、
最終的な判断は、どうしても上の人間たちになるからね」
「……はい」
「最後まで希望は捨てない。
それは、約束する。
ただ、最悪の場合、
半年から一年以内に店を畳む準備をしてもらうことになるかもしれない」
言葉は淡々としている。
それでも、「畳む」という音だけが、
やけに大きく耳に残った。
「そのときのために、
固定費や原価の整理、借りている備品の一覧、
退去のときに必要になりそうなものを、
頭の隅でいいから考えておいてほしい」
「……分かりました」
口ではそう返しながら、
心のどこかが反発しているのが自分でも分かった。
(まだ決まってもいないのに)
しかし、オーナーの声は誠実だった。
「急に言えばいいってものでもないからね。
君は数字を見られる人だから、
感情とは別に、一度整理しておいてほしいんだ」
その言い方に、
「信頼している」というニュアンスが混じっている。
それが分かるから、余計に逃げられない。
「……店のみんなには」
「必要だと思ったタイミングで、君から伝えてくれればいい。
明日は、まず審議を乗り切ることを考えよう」
「はい」
通話が切れると同時に、
部屋の中の空気が少し重くなった気がした。
◇
カウンターに戻ると、
璃音がコーヒーの豆を計量しているところだった。
「オーナーさんから、ですか」
「ええ」
奏斗は、帳簿のファイルを手に取った。
「固定費と、借りている備品の整理をしておいてほしいと」
「閉店した場合の、ですか」
問いは短いが、
核心をついている。
「可能性のひとつとして、という話です」
淡々と返し、
奏斗はペンを走らせ始めた。
家賃。
水道光熱費。
リース代。
保証金の扱い。
もし閉店となった場合、
どこに連絡し、どの順番で解約し、
スタッフの給料をどう締めるか。
数字と段取りだけを追えば、
それはただの「手順書」だ。
けれど、一行書くたびに、
胸の中の何かがすり減っていく。
(この作業をしている時点で、
もう終わりに向かっているような気がしてしまう)
そんな考えを、必死で押し込める。
そのとき、
帳簿の上に小さな紙切れが一枚、ひらりと落ちた。
「……これは?」
「ドリップコーヒー一杯の原価です」
璃音が、どこか平然とした顔で言う。
「閉店準備の数字の横に、
『今日淹れた一杯』の数字も並んでいた方が、
少しだけ気が楽かなと思いまして」
紙には、
豆の分量とフィルター、電気代のざっくりした計算が書き込まれている。
「『本日の一杯』のためにかかるコスト。
その下に、今日お客様が書いてくれたコメントを足せば、
閉店準備のページよりも、見ていて救われるかなって」
「……まだ何も書いていませんよ」
「じゃあ、これから書きましょう」
璃音は、コーヒーの香りが立ち上るカップをそっと差し出した。
「とりあえず、この一杯から」
奏斗は、苦笑ともため息ともつかない息を吐いた。
「明日のことを考えるな、とは言いません。
でも、明日のためだけに数字を書くのは、
もったいない気がして」
静かな言葉が、
ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
◇
その日、夜の「川べり文庫」は、
普段より少しだけ静かだった。
席はそこそこ埋まっているのに、
どこか話し声のトーンが低い。
「明日、審議なんだってねえ」
カウンターの端で、日本酒をちびちびやっている常連の会社員が、
ぽつりと言った。
「ビルがどうなるか決まっちゃうんでしょ」
「いえ、決まるのはあくまで『取り壊し計画の進め方』です」
奏斗は、慎重に言葉を選んで返す。
「まだ、『はい、明日で終わりです』という話ではありません」
「でもまあ、落ち着かないよね」
隣の席の男性が、グラスを指で回した。
「もし本当にここがなくなったらさ、
終電前にちょっと一杯引っかける場所、また探さなきゃ」
「『終電前の一杯』組にとっては、一大事だな」
三人目が笑いながら言う。
この三人は、
いつも終電の一本前の時間に現れて、
三十分だけ飲んで帰る。
彼らのことを、スタッフ同士でこっそり
「終電前の一杯チーム」と呼んでいた。
「今日もギリギリまで働いて、
終電前にここ寄って、
『あ、今日も一日終わった』って落ち着くのが習慣なんだよ」
「それを言われると、
閉店時間を勝手に延ばせなくなりますね」
奏斗は、ほんのわずかに表情を緩めた。
「終電を逃すほど長居させてしまったら、
翌日の仕事に差し障ります」
「そこはきっちりしてるよねえ、店長代行」
会社員たちは、からからと笑った。
「でもさ」
一人が、真面目な顔でグラスを見つめる。
「明日どうなるか分からないなら、
今夜ちゃんとここで飲んでおこうって、
自然に思っちゃったんだよね」
冗談めかした口調なのに、
どこか本音が混じっている。
「『いつもの一杯』が、
もしかしたら『最後の一杯』になるかもしれないところでさ」
そう言って、
彼はグラスを軽く掲げた。
「だからさ、
もし本当に最後になっても困らないくらい、
いつも通りで頼むよ」
その一言に、
奏斗の中で何かがカチリと音を立てた。
「……いつも通り、ですか」
「うん。
今日だけ特別に豪華じゃなくていいからさ。
『ああ、ここでいつも飲んでたな』って思える感じが、
ちゃんと残るといいなって」
その言い方が、妙にこそばゆい。
けれど、
オーナーから「最悪の場合」の話を聞かされたばかりの胸には、
まっすぐ突き刺さった。
(最後になるかもしれない夜だからこそ、
いつも通りでいることが大事だ)
そう気づいた瞬間、
手の中のグラスが急に重く感じられた。
「分かりました」
奏斗は、静かに頷いた。
「では、『終電前の一杯』が、
いつも通りきれいに終わるように。
グラスも、ここ数日でいちばん丁寧に磨いておきます」
「お、頼もしいね」
三人の笑い声を背に、
奏斗はカウンターの奥に戻った。
布巾を新しいものに取り替え、
グラスを一本一本、指の跡が残らないように磨いていく。
それは、
閉店準備のために数字を並べる作業とは正反対の、
「今」のためだけの仕事だった。
◇
その背中を、
璃音はカウンターの端から静かに見つめていた。
姿勢はいつも通り。
動きもいつも通り。
けれど、
布巾を握る指先には、
いつもよりわずかな力がこもっている。
「……花春さん」
「ん?」
ホールを一巡りして戻ってきた花春が、
首をかしげる。
「今日のスタッフミーティング、
ちょっとだけ早めにやりませんか」
「もうやってるようなものだと思ってたけど」
そう言いつつも、花春は頷いた。
タイミングを見計らって、
客席の様子が一段落したところで、
璃音は小さく手を叩いた。
「すみません、少しだけお時間いいですか」
カウンターの内側も、厨房も、
自然と彼女の方を向く。
「明日、審議があります」
その言葉だけで、
空気がわずかに固くなる。
「結果がどうなるかは、正直分かりません。
オーナーさんからも、『最悪の場合』の話が出ているのは、
奏斗さんから聞きました」
奏斗が、一瞬だけ視線を落とした。
「不安なのは、みんな同じだと思います。
この店の未来のことも、自分の将来のことも」
璃音は、ゆっくりと周りを見渡した。
「でも——」
そこで、ふっと表情を和らげる。
「明日のことは、明日考えましょう」
シンプルな一言に、
阿紗美が少し目を丸くした。
「今日の営業は、
もう二度と戻ってこない『前夜』です。
もし本当に『最後の前夜』になったとしても、
『あのときちゃんと仕事してたな』って、
胸を張って思い出せる夜にしたいです」
静かな言葉が、
カウンターの木目に染み込むように広がっていく。
「だから、今日だけは」
璃音は、カウンターの奥でグラスを磨き続けている奏斗の背中を見た。
「取り壊しの話も、移転の話も、就職活動の話も、
全部いったん棚に上げて。
目の前のテーブルと、
今ここで飲んでくれている人たちに、
集中しませんか」
しばらく沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは、凱理だった。
「……了解です」
いつになく真面目な声。
「じゃあ僕、
『終電前の一杯チーム』のグラスが、
二度と空にならないように見張ってきます」
「それはそれで危ない気がするけど」
絵斗が笑い、
阿紗美が「ほどほどにね」と肩を叩く。
「私は、
厨房からいつも通りの速さで料理出します」
阿紗美が、軽く拳を握った。
「いつも通りより、
ちょっとだけ気合い多めで」
「ホールも、
いつも通りでいいよね」
花春が、深くうなずく。
「『最高の前夜』になるかどうかは、
お客さんが決めることだから。
私たちは、
いつも通りの全力で」
奏斗は、最後の一本のグラスを磨き終えると、
静かに布巾を置いた。
「……僕も、賛成です」
黒いノートを開き、
今日の日付の下に一行だけ書き加える。
『取り壊し審議の前夜。
明日の数字は、まだ書かない。』
ページを閉じて顔を上げると、
窓の外の川が、街灯の光を受けてゆっくりと流れていた。
酒の流れる川のほとりで迎えた、
取り壊し審議の前夜。
明日を思って揺れる不安と、
今日を守りたいというささやかな意地が、
同じカウンターの上で静かに並んでいた。
川沿いの通りを歩く人の足取りはいつも通りなのに、
どこか声のトーンが低いように感じる。
ビルの入り口には、新しい貼り紙が一枚。
『明日〇時より、取り壊し計画に関する審議が行われます』
堅い文字が並ぶ紙を、
阿紗美がじっと見上げていた。
「……ほんとに、明日なんだよね」
呟きに答えるように、
裏口のドアがガタンと開く。
「おはようございます」
エプロンを肩にひっかけた凱理が顔を出した。
「わ、なんか朝から重たい空気ですね」
「紙が重たいんじゃない?」
阿紗美は、貼り紙を指でつつく。
「この一枚で、あっちの世界の人たちが明日いろいろ決めるんだから」
「やめてください、その『あっちの世界』とかいう言い方」
そう言いつつも、凱理の視線も自然と貼り紙に吸い寄せられる。
「……とりあえず、今日の分の仕込みはしますよね?」
「もちろん」
阿紗美は、決心したようにくるりと踵を返した。
「明日のことは、明日の足で走る。
今日は今日の足で走る」
「名言っぽいですけど、
要するに『いつも通りやる』ってことですよね」
「そう」
ふたりの笑い声を背中に、
「川べり文庫」のシャッターが上がっていく。
◇
開店準備は、いつもと同じ順番で進んでいった。
椅子を並べて、テーブルを拭き、
カウンターにグラスを並べる。
奏斗はレジ周りを整えながら、
壁の時計にちらりと目をやった。
(明日のこの時間には、審議が始まっている)
そう思った瞬間、
胸のあたりに冷たいものがひやりと走る。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、「ビルオーナー」の文字。
「……すみません、少し外します」
奏斗は、スタッフたちに軽く会釈してから
店の奥の小さな事務スペースへ向かった。
◇
「お疲れさまです、奏斗くん」
電話口から聞こえるオーナーの声は、
いつもよりすこしだけ低い。
「明日の件、資料は全部届いているかな」
「はい。商店街の資料と、再開発委員会の説明書類も」
「そうか」
短い相づちのあと、
少しだけ間が空いた。
「店の方はどうだい? 人気投票とか、川沿いの催しとか」
「おかげさまで、思っていた以上にお客様が来てくださっています。
投票箱も、かなり重いと事務所の方が」
「それは良かった」
オーナーは本当に嬉しそうに笑った。
「君たちが頑張っているのは、ちゃんと伝わっているよ。
だからこそ……」
そこで、声のトーンが少しだけ変わる。
「だからこそ、現実的な話もしておきたい」
「現実的な、話」
「明日の審議で、
取り壊し計画がそのまま進む可能性は、正直高い。
商店街としては反対意見も出すけれど、
最終的な判断は、どうしても上の人間たちになるからね」
「……はい」
「最後まで希望は捨てない。
それは、約束する。
ただ、最悪の場合、
半年から一年以内に店を畳む準備をしてもらうことになるかもしれない」
言葉は淡々としている。
それでも、「畳む」という音だけが、
やけに大きく耳に残った。
「そのときのために、
固定費や原価の整理、借りている備品の一覧、
退去のときに必要になりそうなものを、
頭の隅でいいから考えておいてほしい」
「……分かりました」
口ではそう返しながら、
心のどこかが反発しているのが自分でも分かった。
(まだ決まってもいないのに)
しかし、オーナーの声は誠実だった。
「急に言えばいいってものでもないからね。
君は数字を見られる人だから、
感情とは別に、一度整理しておいてほしいんだ」
その言い方に、
「信頼している」というニュアンスが混じっている。
それが分かるから、余計に逃げられない。
「……店のみんなには」
「必要だと思ったタイミングで、君から伝えてくれればいい。
明日は、まず審議を乗り切ることを考えよう」
「はい」
通話が切れると同時に、
部屋の中の空気が少し重くなった気がした。
◇
カウンターに戻ると、
璃音がコーヒーの豆を計量しているところだった。
「オーナーさんから、ですか」
「ええ」
奏斗は、帳簿のファイルを手に取った。
「固定費と、借りている備品の整理をしておいてほしいと」
「閉店した場合の、ですか」
問いは短いが、
核心をついている。
「可能性のひとつとして、という話です」
淡々と返し、
奏斗はペンを走らせ始めた。
家賃。
水道光熱費。
リース代。
保証金の扱い。
もし閉店となった場合、
どこに連絡し、どの順番で解約し、
スタッフの給料をどう締めるか。
数字と段取りだけを追えば、
それはただの「手順書」だ。
けれど、一行書くたびに、
胸の中の何かがすり減っていく。
(この作業をしている時点で、
もう終わりに向かっているような気がしてしまう)
そんな考えを、必死で押し込める。
そのとき、
帳簿の上に小さな紙切れが一枚、ひらりと落ちた。
「……これは?」
「ドリップコーヒー一杯の原価です」
璃音が、どこか平然とした顔で言う。
「閉店準備の数字の横に、
『今日淹れた一杯』の数字も並んでいた方が、
少しだけ気が楽かなと思いまして」
紙には、
豆の分量とフィルター、電気代のざっくりした計算が書き込まれている。
「『本日の一杯』のためにかかるコスト。
その下に、今日お客様が書いてくれたコメントを足せば、
閉店準備のページよりも、見ていて救われるかなって」
「……まだ何も書いていませんよ」
「じゃあ、これから書きましょう」
璃音は、コーヒーの香りが立ち上るカップをそっと差し出した。
「とりあえず、この一杯から」
奏斗は、苦笑ともため息ともつかない息を吐いた。
「明日のことを考えるな、とは言いません。
でも、明日のためだけに数字を書くのは、
もったいない気がして」
静かな言葉が、
ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
◇
その日、夜の「川べり文庫」は、
普段より少しだけ静かだった。
席はそこそこ埋まっているのに、
どこか話し声のトーンが低い。
「明日、審議なんだってねえ」
カウンターの端で、日本酒をちびちびやっている常連の会社員が、
ぽつりと言った。
「ビルがどうなるか決まっちゃうんでしょ」
「いえ、決まるのはあくまで『取り壊し計画の進め方』です」
奏斗は、慎重に言葉を選んで返す。
「まだ、『はい、明日で終わりです』という話ではありません」
「でもまあ、落ち着かないよね」
隣の席の男性が、グラスを指で回した。
「もし本当にここがなくなったらさ、
終電前にちょっと一杯引っかける場所、また探さなきゃ」
「『終電前の一杯』組にとっては、一大事だな」
三人目が笑いながら言う。
この三人は、
いつも終電の一本前の時間に現れて、
三十分だけ飲んで帰る。
彼らのことを、スタッフ同士でこっそり
「終電前の一杯チーム」と呼んでいた。
「今日もギリギリまで働いて、
終電前にここ寄って、
『あ、今日も一日終わった』って落ち着くのが習慣なんだよ」
「それを言われると、
閉店時間を勝手に延ばせなくなりますね」
奏斗は、ほんのわずかに表情を緩めた。
「終電を逃すほど長居させてしまったら、
翌日の仕事に差し障ります」
「そこはきっちりしてるよねえ、店長代行」
会社員たちは、からからと笑った。
「でもさ」
一人が、真面目な顔でグラスを見つめる。
「明日どうなるか分からないなら、
今夜ちゃんとここで飲んでおこうって、
自然に思っちゃったんだよね」
冗談めかした口調なのに、
どこか本音が混じっている。
「『いつもの一杯』が、
もしかしたら『最後の一杯』になるかもしれないところでさ」
そう言って、
彼はグラスを軽く掲げた。
「だからさ、
もし本当に最後になっても困らないくらい、
いつも通りで頼むよ」
その一言に、
奏斗の中で何かがカチリと音を立てた。
「……いつも通り、ですか」
「うん。
今日だけ特別に豪華じゃなくていいからさ。
『ああ、ここでいつも飲んでたな』って思える感じが、
ちゃんと残るといいなって」
その言い方が、妙にこそばゆい。
けれど、
オーナーから「最悪の場合」の話を聞かされたばかりの胸には、
まっすぐ突き刺さった。
(最後になるかもしれない夜だからこそ、
いつも通りでいることが大事だ)
そう気づいた瞬間、
手の中のグラスが急に重く感じられた。
「分かりました」
奏斗は、静かに頷いた。
「では、『終電前の一杯』が、
いつも通りきれいに終わるように。
グラスも、ここ数日でいちばん丁寧に磨いておきます」
「お、頼もしいね」
三人の笑い声を背に、
奏斗はカウンターの奥に戻った。
布巾を新しいものに取り替え、
グラスを一本一本、指の跡が残らないように磨いていく。
それは、
閉店準備のために数字を並べる作業とは正反対の、
「今」のためだけの仕事だった。
◇
その背中を、
璃音はカウンターの端から静かに見つめていた。
姿勢はいつも通り。
動きもいつも通り。
けれど、
布巾を握る指先には、
いつもよりわずかな力がこもっている。
「……花春さん」
「ん?」
ホールを一巡りして戻ってきた花春が、
首をかしげる。
「今日のスタッフミーティング、
ちょっとだけ早めにやりませんか」
「もうやってるようなものだと思ってたけど」
そう言いつつも、花春は頷いた。
タイミングを見計らって、
客席の様子が一段落したところで、
璃音は小さく手を叩いた。
「すみません、少しだけお時間いいですか」
カウンターの内側も、厨房も、
自然と彼女の方を向く。
「明日、審議があります」
その言葉だけで、
空気がわずかに固くなる。
「結果がどうなるかは、正直分かりません。
オーナーさんからも、『最悪の場合』の話が出ているのは、
奏斗さんから聞きました」
奏斗が、一瞬だけ視線を落とした。
「不安なのは、みんな同じだと思います。
この店の未来のことも、自分の将来のことも」
璃音は、ゆっくりと周りを見渡した。
「でも——」
そこで、ふっと表情を和らげる。
「明日のことは、明日考えましょう」
シンプルな一言に、
阿紗美が少し目を丸くした。
「今日の営業は、
もう二度と戻ってこない『前夜』です。
もし本当に『最後の前夜』になったとしても、
『あのときちゃんと仕事してたな』って、
胸を張って思い出せる夜にしたいです」
静かな言葉が、
カウンターの木目に染み込むように広がっていく。
「だから、今日だけは」
璃音は、カウンターの奥でグラスを磨き続けている奏斗の背中を見た。
「取り壊しの話も、移転の話も、就職活動の話も、
全部いったん棚に上げて。
目の前のテーブルと、
今ここで飲んでくれている人たちに、
集中しませんか」
しばらく沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは、凱理だった。
「……了解です」
いつになく真面目な声。
「じゃあ僕、
『終電前の一杯チーム』のグラスが、
二度と空にならないように見張ってきます」
「それはそれで危ない気がするけど」
絵斗が笑い、
阿紗美が「ほどほどにね」と肩を叩く。
「私は、
厨房からいつも通りの速さで料理出します」
阿紗美が、軽く拳を握った。
「いつも通りより、
ちょっとだけ気合い多めで」
「ホールも、
いつも通りでいいよね」
花春が、深くうなずく。
「『最高の前夜』になるかどうかは、
お客さんが決めることだから。
私たちは、
いつも通りの全力で」
奏斗は、最後の一本のグラスを磨き終えると、
静かに布巾を置いた。
「……僕も、賛成です」
黒いノートを開き、
今日の日付の下に一行だけ書き加える。
『取り壊し審議の前夜。
明日の数字は、まだ書かない。』
ページを閉じて顔を上げると、
窓の外の川が、街灯の光を受けてゆっくりと流れていた。
酒の流れる川のほとりで迎えた、
取り壊し審議の前夜。
明日を思って揺れる不安と、
今日を守りたいというささやかな意地が、
同じカウンターの上で静かに並んでいた。
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