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第32話 常連たちの最高の思い出
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取り壊し審議の当日。
昼営業を終えた「川べり文庫」は、いったん「準備中」の札を下げていた。
ホールの椅子はテーブルの上に上げられ、床にはモップの水がまだうっすら残っている。
厨房では、夜の仕込み用の鍋が静かに火にかけられ、玉ねぎの甘い匂いが漂っていた。
「……始まってる頃かな」
レジの横に立った凱理が、時計を見上げながら言う。
市役所の会議室で、まさに今、再開発の取り壊し審議が行われているはずだった。
オーナーは朝からそちらへ向かい、店には報告待ちのスタッフだけが残っている。
「開始時間は、たしか十四時」
奏斗が、帳簿を閉じて言った。
「今は、その少し前ですね」
「始まる前から、こっちがそわそわしてどうするんですか」
阿紗美が、モップをバケツに入れながら苦笑する。
「走ってどうにかなるなら、会議室まで走ってるけどね」
「審議の会場で全力疾走するのは、やめてくださいね」
冷静に釘を刺したのは璃音だった。
「走るより、ここを整える方が、今の私たちにできることだと思います」
「そうだね」
花春が、窓際の席のテーブルを丁寧に拭きながら頷く。
「審議がどう転んでも、
『今日の夜にここへ来るかもしれない人』のための準備は、いつも通りやっとかないと」
そのときだった。
カラン、と軽い音がして、入口のベルが鳴った。
「え?」
全員の視線が、一斉に扉の方へ向く。
「準備中」の札が下がっているのに、そっと扉を開けて顔を出したのは——常連の葵だった。
「すみません、今って、入っちゃダメですよね?」
申し訳なさそうに、扉の隙間からひょこっと頭を出す。
「いえ、どうぞ」
奏斗が、すぐに札を「営業中」に裏返した。
「まだ仕込みの途中ですが、
お飲み物くらいならお出しできます」
「よかった……」
葵は、ほっと胸に手を当てた。
「どうしても、今日ここに寄りたくて」
◇
「取り壊しの審議、今日なんですよね」
窓際の席に腰を下ろし、運ばれてきたアイスコーヒーを前に、葵が切り出した。
「さっき、商店街の掲示板見てきて。
『いよいよか』って思ったら、仕事戻る前にどうしても一杯飲みたくなって」
「ありがとうございます」
奏斗が、静かに頭を下げる。
「閉店したら困るので。
本当に」
葵は、ストローをくるくる回した。
「最初にここに来た日、覚えてます?」
「覚えています」
即答に、葵が少し驚いたように目を丸くする。
「雨の日でした。
窓の外を見ながら、『今日で退職届出してきました』とおっしゃってました」
「あ、そんなことまで覚えてるんですか」
葵は、照れくさそうに笑う。
「会社辞めたその日に、真っ直ぐ家に帰るのが怖くて。
『どこかでワンクッション置かないと、現実に飲み込まれそう』って思って、
ふらっと入ったのがここで」
あの日のことを思い出すように、
指先でコースターの縁をなぞる。
「ここでアイスコーヒー飲みながら、退職届のコピーをもう一回読み返したんですよ。
『本当に出してよかったのかな』って、泣きそうになりながら」
「そのとき、『とりあえず今日のところは、仕事を辞めた人としてコーヒーを一杯飲んでください』とお伝えしました」
奏斗の言葉に、葵は吹き出した。
「そうそう、それ。
あの一言で、だいぶ救われたんですよね」
ストローをひと口吸って、
彼女は柔らかく笑った。
「ここがなかったら、
多分あの日、退職届取り返しに戻ってました。
だから、
閉店したら困ります」
最後の一言だけ、
冗談半分、というより本気が多めだった。
◇
葵が帰っていくと、
間をあけずに次のベルが鳴った。
「失礼しまーす」
入ってきたのは、「終電前の一杯チーム」の三人組だった。
今日は珍しく、全員スーツ姿のまま、しかも昼間だ。
「……まだ終電、かなり先ですけど」
凱理がツッコむと、
三人のうち一人が「あー」と頭をかいた。
「いや、なんか今日、そわそわしてさ」
「会議の資料まとめ終わってないのに、
気づいたらここに向かってたんですよね」
「それはそれで問題では」
奏斗が、小さくため息をつく。
「コーヒーと、おつまみちょっとでいいので。
仕事戻る前に、一回『いつもの席』に座っておきたくて」
三人は、カウンターのいつもの位置に滑り込んだ。
「閉店したら困るよなあ」
ひとりが、ぽつりと言う。
「この店で、何回『愚痴禁止令』出されたか分からないもん」
「愚痴禁止令?」
凱理が目を瞬かせると、
別のひとりが笑いながら説明した。
「仕事の愚痴ばっか言ってたら、
ある日この人に止められたんだよ」
そう言って顎で示したのは——奏斗だ。
「『愚痴は一人一日三つまでです』ってさ」
「そんなルール、ありましたっけ」
「ありましたよ」
三人は口を揃えた。
「四つ目の愚痴を言ったら、『明日の目標を一個追加してください』って言われたんです」
「……記憶にあります」
奏斗は、少しだけ視線をそらした。
「あれきっかけで、
うちらも愚痴のあとに『じゃあどうするか』って話をするようになったんですよ」
「うっかり前向きになったよね」
「ほんと、『うっかり』だったよね」
三人は顔を見合わせて笑った。
「だからさ、閉店したら困るんだよ。
愚痴だけで終わらないで帰れる店、
他にあんまりないから」
そこだけ、少し真面目な声になった。
◇
そのあとも、「準備中」の札は出たり引っ込んだりを繰り返した。
「お邪魔します」
ゆっくりと入ってきたのは、
「焼きそば事件」の夫婦だった。
川沿いの花火大会の夜に、
昔の思い出話をしてくれた二人だ。
「さっき、会議室の前まで様子見に行ったんですよ」
夫が、腰を下ろしながら言う。
「反対してる人もいれば、賛成してる人もいてねえ。
ああいうの見ちゃうと、『どっちが正しい』って簡単には言えないなあって」
「でもね」
妻がそっと夫のグラスに水を注ぐ。
「帰り道に、『やっぱり一杯だけ寄ろうか』ってなって」
「閉店したら、夏の花火のあと寄る場所がなくなるからね」
夫は、照れくさそうに笑った。
「結婚五十年目の記念日、
ここで乾杯しようって決めてるんですよ」
「え、まだ何年も先じゃないですか」
凱理が目を丸くする。
「だからこそ、
『それまで続いててね』って、
図々しくお願いしに来たの」
妻は、そう言って照れたように笑った。
「ここで、二人で一杯だけ飲んで、
『よう続いたねえ』って言うのが、
今のところの最高の思い出の更新予定なの」
「予定」という言葉に、
店の空気がふっと明るくなる。
「じゃあ、その日までに、
グラスが割れないように気をつけないといけませんね」
奏斗が、真顔で言った。
「それと、焼きそばを落とさないように」
「それはもう大丈夫よ」
妻が、夫を肘でつつく。
「この人、ここではちゃんとお皿両手で持つもの」
ささやかな笑い声が、
川沿いの午後に溶けていった。
◇
また別の日——ではなく、同じ日の少しあと。
扉のベルが鳴るたび、
スタッフは顔を見合わせる。
「次は誰だろうね」
「こうなってくると、来てない常連さんの顔が逆に浮かびますね」
花春が言ったちょうどそのとき、
小走りで入ってきた女子大生が一人。
「すみません! まだ大丈夫ですか!?」
息を切らせている。
「大丈夫です。
お席どうぞ」
璃音が、水を運びながら微笑む。
女子大生は、席に座るなりバッグから封筒を取り出した。
大学名と、企業名のロゴが並んでいる。
「内定……ですか」
「はい!」
嬉しさを隠しきれない顔で、彼女は封筒を差し出した。
「ここでエントリーシート書いて、
ここで面接の練習して、
ここで落ちたときに慰めてもらって、
で、受かったら、
絶対最初にここに報告しようって決めてて」
「一番は、ご家族に報告した方が」
奏斗が言いかけると、
彼女はぶんぶん首を振った。
「家族にはもうしました!
でも、『第一志望受かったよ』って 真っ先に伝えたい場所は、
なんかここで」
そう言って、
彼女は「君に恋する確率セット」のメニューを指さした。
「初めてこれ頼んだ日に、
『就活うまくいく確率』みたいなの出してもらったじゃないですか」
「覚えています」
璃音が、ふっと笑う。
「『三割くらい』って言われて、
『高いのか低いのか分からない』って半泣きになってましたね」
「でも、そのあと
『三割を本命に全部賭けるか、七割の方で妥協するかは、
あなたが決めていいんですよ』って言われて」
女子大生は、コップの水をひと口飲んだ。
「三割の方に賭けてみようって、
ここで決めたんです」
だから、今日ここに来た。
「最高の思い出」は、
まだ増えたばかりの現在進行形だ。
◇
気づけば、陽はだいぶ傾いていた。
ホールの片隅には、
花春が用意した小さなボードが立てかけられている。
『よろしければ、
あなたの「川べり文庫」での最高の思い出を教えてください』
その下には、小さなカードとペン。
来店した常連が、一言ずつ書き残していく。
『退職届を書き直した夜。
ここがなかったら、きっと出せなかった。』
『愚痴を三つまでしか聞いてくれなかったおかげで、
四つ目から前向きになれた。』
『焼きそばを落とした話を、何回も笑ってくれてありがとう。
次は結婚五十年目の乾杯をしに来ます。』
『三割に全部賭けてみようかな、って思えた場所。
結果は、合格でした。』
カードを手に取っていた凱理が、
いつの間にか黙り込んでいる。
「どうしました」
奏斗が声をかけると、
彼はカードを一枚差し出した。
「……これ、
『最高の思い出』の話なのに、
読んでるこっちが試されてる気がしてきました」
差し出されたカードには、
こんな一文が書かれていた。
『ここがなくなっても、
きっと生きていけます。
でも、ここで過ごした時間を忘れたくはありません。』
「強いなあ、その人」
阿紗美が、感心したように笑う。
「『なくても生きていけるけど、あった方がいい』って、
一番贅沢な存在感だよね」
「店としては、
『なくなったら死ぬ』と言われるより、
健全な気もしますね」
奏斗は、カードの文字を見つめた。
「依存ではなく、選択としてここを選んでいただいている、ということですから」
「言い方がちょっと固いですけど、
いいこと言ってるのは分かります」
凱理が苦笑した。
◇
陽が完全に落ちる頃。
窓の外の川には、また提灯の灯りが映り始めた。
朝と同じ光景のはずなのに、
昼間聞いた話が重なって見える。
退職届を握りしめてここへ来た夜。
愚痴を三つまで数えながらグラスを空けた夜。
焼きそばを落として泣いた子どもが、大人になって微笑む夜。
エントリーシートに震える手でサインをした夜。
それぞれの夜に、
この小さな店が少しだけ顔を出している。
「……ねえ」
花春が、手元のカードの束を抱えながら言った。
「もし、審議の結果がどう転んでもさ」
「はい」
「このカード、全部、
ノートに貼って残しておきませんか」
「賛成です」
璃音が、すぐに頷く。
「『君に恋する確率』のページとは別に、
『川べり文庫で過ごした確率』みたいなページを作って」
「確率にしなくてもいいんじゃないですか」
奏斗が、少しだけ笑った。
「これは、もう起こったことですから。
起こったことに確率は要りません」
そう言って、
ノートの新しいページを開く。
上の方に、ゆっくりと書き込んだ。
『川べり文庫で過ごした時間たち』
その下に、
カードから一文ずつ写していく。
『退職届を書き直した夜。』
『愚痴を三つまで数えた夜。』
『焼きそばを落として、笑い話になった夜。』
『三割に賭けて、合格した夜。』
ペン先が、紙の上を滑っていく音だけが、
しばらく店内に響いていた。
酒の流れる川のほとりで、
「最高の思い出」は誰のものかと問われれば、
きっと答えは一つではない。
それでも今、この店に立つ誰もが、
同じことを思っていた。
(ああ、本当に)
(この店は、誰かの人生の一部なんだ)
審議の結果は、まだ届かない。
けれどその前に、
「川べり文庫」がすでにたくさんの夜に刻まれていることだけは、
揺るぎなくそこにあった。
昼営業を終えた「川べり文庫」は、いったん「準備中」の札を下げていた。
ホールの椅子はテーブルの上に上げられ、床にはモップの水がまだうっすら残っている。
厨房では、夜の仕込み用の鍋が静かに火にかけられ、玉ねぎの甘い匂いが漂っていた。
「……始まってる頃かな」
レジの横に立った凱理が、時計を見上げながら言う。
市役所の会議室で、まさに今、再開発の取り壊し審議が行われているはずだった。
オーナーは朝からそちらへ向かい、店には報告待ちのスタッフだけが残っている。
「開始時間は、たしか十四時」
奏斗が、帳簿を閉じて言った。
「今は、その少し前ですね」
「始まる前から、こっちがそわそわしてどうするんですか」
阿紗美が、モップをバケツに入れながら苦笑する。
「走ってどうにかなるなら、会議室まで走ってるけどね」
「審議の会場で全力疾走するのは、やめてくださいね」
冷静に釘を刺したのは璃音だった。
「走るより、ここを整える方が、今の私たちにできることだと思います」
「そうだね」
花春が、窓際の席のテーブルを丁寧に拭きながら頷く。
「審議がどう転んでも、
『今日の夜にここへ来るかもしれない人』のための準備は、いつも通りやっとかないと」
そのときだった。
カラン、と軽い音がして、入口のベルが鳴った。
「え?」
全員の視線が、一斉に扉の方へ向く。
「準備中」の札が下がっているのに、そっと扉を開けて顔を出したのは——常連の葵だった。
「すみません、今って、入っちゃダメですよね?」
申し訳なさそうに、扉の隙間からひょこっと頭を出す。
「いえ、どうぞ」
奏斗が、すぐに札を「営業中」に裏返した。
「まだ仕込みの途中ですが、
お飲み物くらいならお出しできます」
「よかった……」
葵は、ほっと胸に手を当てた。
「どうしても、今日ここに寄りたくて」
◇
「取り壊しの審議、今日なんですよね」
窓際の席に腰を下ろし、運ばれてきたアイスコーヒーを前に、葵が切り出した。
「さっき、商店街の掲示板見てきて。
『いよいよか』って思ったら、仕事戻る前にどうしても一杯飲みたくなって」
「ありがとうございます」
奏斗が、静かに頭を下げる。
「閉店したら困るので。
本当に」
葵は、ストローをくるくる回した。
「最初にここに来た日、覚えてます?」
「覚えています」
即答に、葵が少し驚いたように目を丸くする。
「雨の日でした。
窓の外を見ながら、『今日で退職届出してきました』とおっしゃってました」
「あ、そんなことまで覚えてるんですか」
葵は、照れくさそうに笑う。
「会社辞めたその日に、真っ直ぐ家に帰るのが怖くて。
『どこかでワンクッション置かないと、現実に飲み込まれそう』って思って、
ふらっと入ったのがここで」
あの日のことを思い出すように、
指先でコースターの縁をなぞる。
「ここでアイスコーヒー飲みながら、退職届のコピーをもう一回読み返したんですよ。
『本当に出してよかったのかな』って、泣きそうになりながら」
「そのとき、『とりあえず今日のところは、仕事を辞めた人としてコーヒーを一杯飲んでください』とお伝えしました」
奏斗の言葉に、葵は吹き出した。
「そうそう、それ。
あの一言で、だいぶ救われたんですよね」
ストローをひと口吸って、
彼女は柔らかく笑った。
「ここがなかったら、
多分あの日、退職届取り返しに戻ってました。
だから、
閉店したら困ります」
最後の一言だけ、
冗談半分、というより本気が多めだった。
◇
葵が帰っていくと、
間をあけずに次のベルが鳴った。
「失礼しまーす」
入ってきたのは、「終電前の一杯チーム」の三人組だった。
今日は珍しく、全員スーツ姿のまま、しかも昼間だ。
「……まだ終電、かなり先ですけど」
凱理がツッコむと、
三人のうち一人が「あー」と頭をかいた。
「いや、なんか今日、そわそわしてさ」
「会議の資料まとめ終わってないのに、
気づいたらここに向かってたんですよね」
「それはそれで問題では」
奏斗が、小さくため息をつく。
「コーヒーと、おつまみちょっとでいいので。
仕事戻る前に、一回『いつもの席』に座っておきたくて」
三人は、カウンターのいつもの位置に滑り込んだ。
「閉店したら困るよなあ」
ひとりが、ぽつりと言う。
「この店で、何回『愚痴禁止令』出されたか分からないもん」
「愚痴禁止令?」
凱理が目を瞬かせると、
別のひとりが笑いながら説明した。
「仕事の愚痴ばっか言ってたら、
ある日この人に止められたんだよ」
そう言って顎で示したのは——奏斗だ。
「『愚痴は一人一日三つまでです』ってさ」
「そんなルール、ありましたっけ」
「ありましたよ」
三人は口を揃えた。
「四つ目の愚痴を言ったら、『明日の目標を一個追加してください』って言われたんです」
「……記憶にあります」
奏斗は、少しだけ視線をそらした。
「あれきっかけで、
うちらも愚痴のあとに『じゃあどうするか』って話をするようになったんですよ」
「うっかり前向きになったよね」
「ほんと、『うっかり』だったよね」
三人は顔を見合わせて笑った。
「だからさ、閉店したら困るんだよ。
愚痴だけで終わらないで帰れる店、
他にあんまりないから」
そこだけ、少し真面目な声になった。
◇
そのあとも、「準備中」の札は出たり引っ込んだりを繰り返した。
「お邪魔します」
ゆっくりと入ってきたのは、
「焼きそば事件」の夫婦だった。
川沿いの花火大会の夜に、
昔の思い出話をしてくれた二人だ。
「さっき、会議室の前まで様子見に行ったんですよ」
夫が、腰を下ろしながら言う。
「反対してる人もいれば、賛成してる人もいてねえ。
ああいうの見ちゃうと、『どっちが正しい』って簡単には言えないなあって」
「でもね」
妻がそっと夫のグラスに水を注ぐ。
「帰り道に、『やっぱり一杯だけ寄ろうか』ってなって」
「閉店したら、夏の花火のあと寄る場所がなくなるからね」
夫は、照れくさそうに笑った。
「結婚五十年目の記念日、
ここで乾杯しようって決めてるんですよ」
「え、まだ何年も先じゃないですか」
凱理が目を丸くする。
「だからこそ、
『それまで続いててね』って、
図々しくお願いしに来たの」
妻は、そう言って照れたように笑った。
「ここで、二人で一杯だけ飲んで、
『よう続いたねえ』って言うのが、
今のところの最高の思い出の更新予定なの」
「予定」という言葉に、
店の空気がふっと明るくなる。
「じゃあ、その日までに、
グラスが割れないように気をつけないといけませんね」
奏斗が、真顔で言った。
「それと、焼きそばを落とさないように」
「それはもう大丈夫よ」
妻が、夫を肘でつつく。
「この人、ここではちゃんとお皿両手で持つもの」
ささやかな笑い声が、
川沿いの午後に溶けていった。
◇
また別の日——ではなく、同じ日の少しあと。
扉のベルが鳴るたび、
スタッフは顔を見合わせる。
「次は誰だろうね」
「こうなってくると、来てない常連さんの顔が逆に浮かびますね」
花春が言ったちょうどそのとき、
小走りで入ってきた女子大生が一人。
「すみません! まだ大丈夫ですか!?」
息を切らせている。
「大丈夫です。
お席どうぞ」
璃音が、水を運びながら微笑む。
女子大生は、席に座るなりバッグから封筒を取り出した。
大学名と、企業名のロゴが並んでいる。
「内定……ですか」
「はい!」
嬉しさを隠しきれない顔で、彼女は封筒を差し出した。
「ここでエントリーシート書いて、
ここで面接の練習して、
ここで落ちたときに慰めてもらって、
で、受かったら、
絶対最初にここに報告しようって決めてて」
「一番は、ご家族に報告した方が」
奏斗が言いかけると、
彼女はぶんぶん首を振った。
「家族にはもうしました!
でも、『第一志望受かったよ』って 真っ先に伝えたい場所は、
なんかここで」
そう言って、
彼女は「君に恋する確率セット」のメニューを指さした。
「初めてこれ頼んだ日に、
『就活うまくいく確率』みたいなの出してもらったじゃないですか」
「覚えています」
璃音が、ふっと笑う。
「『三割くらい』って言われて、
『高いのか低いのか分からない』って半泣きになってましたね」
「でも、そのあと
『三割を本命に全部賭けるか、七割の方で妥協するかは、
あなたが決めていいんですよ』って言われて」
女子大生は、コップの水をひと口飲んだ。
「三割の方に賭けてみようって、
ここで決めたんです」
だから、今日ここに来た。
「最高の思い出」は、
まだ増えたばかりの現在進行形だ。
◇
気づけば、陽はだいぶ傾いていた。
ホールの片隅には、
花春が用意した小さなボードが立てかけられている。
『よろしければ、
あなたの「川べり文庫」での最高の思い出を教えてください』
その下には、小さなカードとペン。
来店した常連が、一言ずつ書き残していく。
『退職届を書き直した夜。
ここがなかったら、きっと出せなかった。』
『愚痴を三つまでしか聞いてくれなかったおかげで、
四つ目から前向きになれた。』
『焼きそばを落とした話を、何回も笑ってくれてありがとう。
次は結婚五十年目の乾杯をしに来ます。』
『三割に全部賭けてみようかな、って思えた場所。
結果は、合格でした。』
カードを手に取っていた凱理が、
いつの間にか黙り込んでいる。
「どうしました」
奏斗が声をかけると、
彼はカードを一枚差し出した。
「……これ、
『最高の思い出』の話なのに、
読んでるこっちが試されてる気がしてきました」
差し出されたカードには、
こんな一文が書かれていた。
『ここがなくなっても、
きっと生きていけます。
でも、ここで過ごした時間を忘れたくはありません。』
「強いなあ、その人」
阿紗美が、感心したように笑う。
「『なくても生きていけるけど、あった方がいい』って、
一番贅沢な存在感だよね」
「店としては、
『なくなったら死ぬ』と言われるより、
健全な気もしますね」
奏斗は、カードの文字を見つめた。
「依存ではなく、選択としてここを選んでいただいている、ということですから」
「言い方がちょっと固いですけど、
いいこと言ってるのは分かります」
凱理が苦笑した。
◇
陽が完全に落ちる頃。
窓の外の川には、また提灯の灯りが映り始めた。
朝と同じ光景のはずなのに、
昼間聞いた話が重なって見える。
退職届を握りしめてここへ来た夜。
愚痴を三つまで数えながらグラスを空けた夜。
焼きそばを落として泣いた子どもが、大人になって微笑む夜。
エントリーシートに震える手でサインをした夜。
それぞれの夜に、
この小さな店が少しだけ顔を出している。
「……ねえ」
花春が、手元のカードの束を抱えながら言った。
「もし、審議の結果がどう転んでもさ」
「はい」
「このカード、全部、
ノートに貼って残しておきませんか」
「賛成です」
璃音が、すぐに頷く。
「『君に恋する確率』のページとは別に、
『川べり文庫で過ごした確率』みたいなページを作って」
「確率にしなくてもいいんじゃないですか」
奏斗が、少しだけ笑った。
「これは、もう起こったことですから。
起こったことに確率は要りません」
そう言って、
ノートの新しいページを開く。
上の方に、ゆっくりと書き込んだ。
『川べり文庫で過ごした時間たち』
その下に、
カードから一文ずつ写していく。
『退職届を書き直した夜。』
『愚痴を三つまで数えた夜。』
『焼きそばを落として、笑い話になった夜。』
『三割に賭けて、合格した夜。』
ペン先が、紙の上を滑っていく音だけが、
しばらく店内に響いていた。
酒の流れる川のほとりで、
「最高の思い出」は誰のものかと問われれば、
きっと答えは一つではない。
それでも今、この店に立つ誰もが、
同じことを思っていた。
(ああ、本当に)
(この店は、誰かの人生の一部なんだ)
審議の結果は、まだ届かない。
けれどその前に、
「川べり文庫」がすでにたくさんの夜に刻まれていることだけは、
揺るぎなくそこにあった。
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偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
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優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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