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第33話 飲食店スタッフとして働く理由
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審議の当日の夕方。
昼営業を終えた「川べり文庫」は、いったん静かになっていた。
テーブルの上には、さっきまで常連が書いてくれていた小さなカードが山になっている。
「あなたの『川べり文庫』での最高の思い出を教えてください」
花春が用意したそのカードには、
それぞれの夜と、ささやかな一行が詰まっていた。
「まかない食べながら読むの、
けっこうお腹に来ますね……いろんな意味で」
凱理が、箸を止めてため息をつく。
テーブルの真ん中には、大きめの皿に盛られたパスタとサラダ。
厨房から漂う香りはいつも通りなのに、
カードに書かれた文字を目で追うと、
どこか胸のあたりがざわざわしてくる。
「ほらこれ、『ここでバイトしてた子が、将来どこで働いても幸せだといいなと思いながら飲んでます』だって」
絵斗が一枚抜き取って読み上げる。
「うわー、それ、プレッシャーですね」
「プレッシャーというより、
妙な責任感、かな」
花春が、笑いながら水を口に含んだ。
「『給料も安いし、休みも不規則なのに、
どうしてこんなに楽しそうに働けるんだろうって不思議になります』って書いてあるのもありますよ」
璃音が、別のカードをそっと掲げる。
「給料の話をカードに書くの、
なかなか攻めてますね」
「でも事実だからなあ」
阿紗美が、肩をすくめた。
「忙しいし、理不尽なお客さんもたまにいるし、
休みの予定も直前まで読めなかったりするし」
「やめてください、列挙すると急に現実が押し寄せてくるんで」
凱理が、耳を塞ぐふりをする。
「……で、ですよ」
阿紗美は、少し真面目な顔になった。
「それでも続けてるんだよね、私たち」
その一言に、
テーブルの空気が、そっと姿勢を正した。
「ねえ」
花春が、カードの束を指先で整えながら言う。
「どうして、飲食の仕事、やってるんだろうね、私たち」
「うわ、急に人生相談だ」
「いやでも、
今聞かないと、いつまでも聞かない気がして」
花春は、微笑みながらも目は真剣だ。
「さっきのカード読んでたらね、
お客さんの方が真面目にこっちの未来心配してるように見えてきちゃって」
「確かに」
璃音が、カードを一枚ひっくり返した。
「『ここで働いている人たちが、
この先も笑っていられますように』って書いてありました」
その一行が、
テーブルの真ん中にぽん、と置かれる。
誰もすぐには言葉を重ねられなかった。
◇
「じゃあさ」
沈黙を破ったのは、なぜか凱理だった。
「こういうの、順番に言ってみません?
『なんで飲食店で働いてるか』」
「自分で言い出しておいてなんだけど、
いちばん逃げそうな人が言いましたね、今」
絵斗が、じとっとした目を向ける。
「ほら、
こういうのって最初に言い出した人が一番逃げづらいじゃないですか」
「策士だな」
奏斗が、思わず口元を緩めた。
「じゃあ、言い出しっぺからどうぞ」
「えっ、僕からですか」
「順番って、そういうものです」
璃音にじっと見られ、
凱理は視線をテーブルに落とした。
「……最初は、
正直、家から近いからって理由でしたけど」
「知ってた」
全員の心の声が揃った気がした。
「終電にも間に合いやすいし、
まかないも出るし、
時給もまあまあ悪くないし。
『飲食で働きたい』っていうより、
『条件のいいバイト先がたまたま飲食だった』って感じで」
そこまで言って、
自分で苦笑する。
「でも、
気づいたらけっこう真面目に続けてるんですよね、ここ」
「気づいたら、ではないと思いますけど」
花春が、優しくツッコむ。
「この前、カードで『人の背中をそっと押す係』って書いたの、
本気でしたからね」
「……あれ、
けっこう効いてるんですよ、実は」
凱理は、耳の後ろをかいた。
「飲み物持っていくときとか、
注文取るときとか、
『今この人、ちょっとだけ背中押されたそうにしてるかな』って、
つい見ちゃうんですよね。
ちょっとだけトーン変えてみたり、
冗談挟んでみたり」
「最近やたらと、
『明日もなんとかなると思いますよ』って言ってますもんね」
絵斗が笑った。
「それ、聞いてるこっちもだいぶ救われてるから」
「……たぶんですけど」
凱理は、少し照れたように肩をすくめる。
「飲食の仕事続けてる理由、
『ご飯が好き』とか『人が好き』ってのもあるんですけど、
いちばん大きいのは、
『自分のひと言で、誰かの今日がちょっとマシになる瞬間があるから』かもしれないです」
言い終えてから、
自分で「ちょっとかっこつけました」と付け足した。
「でも、
けっこう本気です」
その言葉に、
誰も笑い飛ばさなかった。
◇
「じゃあ、次は」
凱理の視線が、自然と阿紗美に向く。
「阿紗美さんは?
どうして、飲食で走り回ってるんですか」
「走り回ってるって言い方」
阿紗美は、箸を置いて考えるように空を見る。
「うーん……
きっかけは、足を怪我して、
陸上の選手続けられなくなったときかな」
その場の空気が、少しだけ静まる。
「走る場所を失ったとき、
『じゃあどこで走るんだろう』って思って。
公園でもいいし、
家の近くの坂でもいいし、
いろいろ試したんだけど」
阿紗美は、ホールと厨房を結ぶ細い通路の方を見た。
「この店で初めてまかない手伝った日、
オーダーの声が飛んできて、
お皿持って、狭い通路を何往復もしたんだよね」
そのときの感覚を確かめるように、
彼女は自分の足首を軽くさする。
「なんかさ、
『ゴールテープに向かって走る』んじゃなくて、
『誰かの一日のために走る』って感じがして、
すごくおもしろかった」
言葉を選びながら、
阿紗美は軽く笑った。
「飲食って、忙しいし、
理不尽なこと言われることもあるし、
足も腰も肩も全部つかれるけど。
それでも続けてるのは、
『今日ここで走った分だけ、
誰かのゴールがちょっと楽になるかもしれない』って思えるからかも」
「誰かのゴール、ですか」
「うん。
仕事帰りの人の『今日終わった』って一息とか、
就活中の子の『とりあえず一段落』とか、
夫婦で『まだ続いてるねえ』って笑う時間とか。
そういう日替わりのゴールテープの近くにいられるのって、
けっこう贅沢だなあって」
「……その言い方、ずるいな」
絵斗が、感心したように頷いた。
「じゃあ、次は僕ですかね」
◇
「飲食で働いてる理由?」
絵斗は、フォークを皿に置いて腕を組んだ。
「最初は、
『自分の店持つための修業』って割と単純な理由でしたよ。
キッチン仕切れるところ、
新メニューやらせてもらえるところ、
ちゃんと数字が見えるところ。
そういう条件で選んだら、
ここだった」
「条件って言った」
「正直者でしょ」
そう言いながらも、
彼は少し真面目な顔になる。
「でも、続けてる理由は、
ちょっと変わってきたかもしれないです」
厨房の方を振り返る。
「この店って、
『作った料理が、誰の一日をどう変えたか』が、
割とすぐ見えるじゃないですか」
「確率メニューとか、
コメントカードとかで?」
璃音が問いかける。
「そうそう。
大手のチェーンで仕事してたときはさ、
『何食分出たか』っていう数字は分かっても、
『誰がどんな顔で食べたか』までは、
なかなか想像しづらかったんですよ」
絵斗は、指先でテーブルをとんとんと叩いた。
「ここだと、
カウンターから川を見てぼーっとしてた人が、
一口食べてちょっとだけ表情変わるのが分かる。
『あ、今日の一皿で、
この人の帰り道の重さが少し軽くなってるかもしれない』って
思える瞬間が、
けっこう好きなんですよね」
「絵斗さん、
かなりロマンチストですよね」
「そうかな」
肩をすくめて笑う。
「飲食で働いてる理由、
言い換えるとしたら——
『自分の作ったものが、
誰かの一日の中でちゃんと居場所を持ってる感じがするから』かな」
その言葉は、
さっきまでカードから読み取っていた気持ちと
どこか重なっていた。
◇
「じゃあ、次は私ですね」
花春が、箸を置いて背筋を伸ばした。
「私は……
飲食にこだわってたというより、
『人と人の間に立つ仕事』がしたかったのかもしれません」
「間に、ですか」
「うん。
お客さんとお客さんの間だったり、
スタッフ同士の間だったり、
店と商店街の間だったり。
誰かと誰かの間で、
言葉をちょっとだけ柔らかくしたり、
空気を整えたりするのが、自分に向いてる気がして」
そう言って、
花春は少し照れたように笑う。
「でも、その『間』って、
目に見えないし、
評価されにくいじゃないですか。
前の職場では、
『もっと自分を出したら?』ってよく言われてました」
「想像つきます」
絵斗が、即答する。
「でも、この店だと、
『間を整える人』がちゃんと必要とされるんですよね。
スタッフがぶつかりそうになったら、
少し離して並ばせてみたり。
お客さんの気持ちが行き違いそうになったら、
間に一言挟んでみたり。
その積み重ねが、
川べり文庫の空気を作ってるのかなって、
ちょっとだけ思えるから」
花春は、カードの束を胸元に抱き寄せた。
「だから、飲食で働いてる理由は……
『誰かの間で、いい空気を作る練習を、
毎日させてもらってるから』
かもしれません」
「それ、
飲食じゃなくてもできそうですけど」
凱理が、ぽつりと言う。
「うん。
たぶん、どこでもできると思う。
でも、
ここでやれるうちは、
ここでやりたいなって思うんだよね」
その言い方は、
「ここじゃなきゃ嫌だ」と言い切るよりも、
ずっと強く聞こえた。
◇
「じゃあ、残りは二人ですね」
視線が、
自然と璃音と奏斗に向く。
「私は……」
璃音は、テーブルの端に置かれたカードを一枚引き寄せた。
『今日も甘いものに助けられました。
ここで食べるデザートは、
心の電池をちょっとだけ充電してくれます。』
「大手のチェーンで働いていたときは、
こういう言葉、
なかなか直接もらえなかったんですよね」
璃音は、遠くを見るような目をした。
「効率も大事だし、回転率も大事で。
『このデザートは一時間に何皿出るか』っていう数字は、
毎日のように見てました。
でも、『このデザートで誰がどんな顔になったか』は、
ほとんど知る機会がなくて」
その言葉に、
絵斗が静かにうなずく。
「ここに来てからは、
注文を受けて、作って、運んで、
食べ終わったお皿が戻ってくるまでの間に、
その人の表情や、
テーブルの空気がちょっとずつ変わっていくのが見えるんです」
璃音は、カードを指先で軽く弾いた。
「飲食で働いてる理由は、
たぶんその変化を見るのが好きだから、かもしれません。
『今日の一皿で、この人の表情がマイナスからゼロになった』とか、
『ゼロからちょっとだけプラスになった』とか。
そういう小さい変化を、
ちゃんと見届けられる場所で仕事したかったんだと思います」
そして、少しだけ声を落とした。
「前の職場に戻れるって言われたとしても、
今の自分は、
やっぱりここを選ぶだろうなって」
その言葉に、
誰かが小さく息を呑んだ。
◇
「……じゃあ、最後は僕ですか」
全員の視線を受けて、
奏斗は、少しだけ居心地悪そうに背筋を伸ばした。
「前の仕事は、
数字と向き合う仕事でした」
それは、これまでも何度か話したことだ。
「売上や利益、
達成率や前年比。
数字が悪ければ怒られて、
良ければ褒められて。
でも、
その数字の向こうにいる人の顔は、
だんだん見えなくなっていきました」
奏斗は、カウンター越しの川を見た。
「ここに来て、
また数字を見る仕事を任されて。
売上も客数も、
人気メニューの順位も、
やっぱり毎日気になるし、
ノートにもきっちり書きます」
そのノートの存在は、
スタッフ全員が知っている。
「でも、
ここで数字を見るのが苦じゃないのは——」
言葉を探して、
少し間を置く。
「数字の一つひとつに、
『今日ここで過ごした誰か』の顔が
うっすらでも見えるからかもしれません」
奏斗は、自分でも驚くくらい素直に続けた。
「飲食で働いている理由を、
もし一言でまとめるなら。
『数字の向こうにいる人の顔を、
できるだけ忘れないでいられる場所だから』
かもしれません」
言い終えたあと、
彼は自分の言葉を心の中で噛みしめるように黙り込んだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて——。
「……なんか」
凱理が、ぽつりと言った。
「給料の安さとか、
シフトの不規則さとか、
さっきまで文句っぽく言ってたの、
ちょっとだけ言いづらくなりましたね」
「言っていいんですよ」
花春が、笑いながら肩を叩く。
「それでも不安だし、
それでも理不尽なことはあるし。
それでもここにいる理由を、
ちゃんと自分で持ってるってことだから」
◇
時計は、夜の営業開始の少し前を指していた。
「そろそろ、準備に戻りますか」
奏斗が立ち上がると、
椅子がいくつか同時にきしむ音がした。
「ねえ」
花春が、ふと思いついたように言う。
「今話したこと、
全部じゃなくていいから、
どこかに一行だけ書いておきませんか」
「一行?」
「うん。
『飲食店スタッフとして働く理由』ってタイトルで、
ノートの隅とか、
キッチンの裏とかに」
「落書きじゃないですか」
「落書きみたいなものでも、
たぶん後で見返したときに効いてくると思うよ」
そう言って、
花春はペンを一本ずつ配っていく。
「じゃあ私は……
『人と人の間で、いい空気を作る練習ができるから』」
最初の一行が、ノートの端に刻まれた。
「じゃあ俺は、
『自分の一皿が、誰かの一日の居場所になってる気がするから』」
「私は、
『日替わりのゴールテープの近くで走れるから』」
「『ひと言で、誰かの今日がちょっとマシになる瞬間があるから』」
「『マイナスをゼロに、ゼロを少しだけプラスにできる気がするから』」
そして、最後に。
「『数字の向こうにいる顔を、忘れずにいられる場所だから』」
奏斗の一行が書き加えられたところで、
ノートはそっと閉じられた。
窓の外では、
酒の流れる川が、夕暮れの色をゆっくりと変えている。
前の職場に戻れるとしても、
今の自分はここを選ぶだろうか。
その問いの答えは、
まだ完全には形になっていない。
けれど、夜営業が始まる頃には、
それぞれの胸の中で、小さな答えが確かに芽を出し始めていた。
扉のベルが鳴り、
最初のお客さんが入ってくる。
いつもの掛け声とともに、
いつも通りの夜が始まった。
ただひとつ違うのは——
その夜を迎える自分たちが、
少しだけ、自分のことを知っているということだった。
昼営業を終えた「川べり文庫」は、いったん静かになっていた。
テーブルの上には、さっきまで常連が書いてくれていた小さなカードが山になっている。
「あなたの『川べり文庫』での最高の思い出を教えてください」
花春が用意したそのカードには、
それぞれの夜と、ささやかな一行が詰まっていた。
「まかない食べながら読むの、
けっこうお腹に来ますね……いろんな意味で」
凱理が、箸を止めてため息をつく。
テーブルの真ん中には、大きめの皿に盛られたパスタとサラダ。
厨房から漂う香りはいつも通りなのに、
カードに書かれた文字を目で追うと、
どこか胸のあたりがざわざわしてくる。
「ほらこれ、『ここでバイトしてた子が、将来どこで働いても幸せだといいなと思いながら飲んでます』だって」
絵斗が一枚抜き取って読み上げる。
「うわー、それ、プレッシャーですね」
「プレッシャーというより、
妙な責任感、かな」
花春が、笑いながら水を口に含んだ。
「『給料も安いし、休みも不規則なのに、
どうしてこんなに楽しそうに働けるんだろうって不思議になります』って書いてあるのもありますよ」
璃音が、別のカードをそっと掲げる。
「給料の話をカードに書くの、
なかなか攻めてますね」
「でも事実だからなあ」
阿紗美が、肩をすくめた。
「忙しいし、理不尽なお客さんもたまにいるし、
休みの予定も直前まで読めなかったりするし」
「やめてください、列挙すると急に現実が押し寄せてくるんで」
凱理が、耳を塞ぐふりをする。
「……で、ですよ」
阿紗美は、少し真面目な顔になった。
「それでも続けてるんだよね、私たち」
その一言に、
テーブルの空気が、そっと姿勢を正した。
「ねえ」
花春が、カードの束を指先で整えながら言う。
「どうして、飲食の仕事、やってるんだろうね、私たち」
「うわ、急に人生相談だ」
「いやでも、
今聞かないと、いつまでも聞かない気がして」
花春は、微笑みながらも目は真剣だ。
「さっきのカード読んでたらね、
お客さんの方が真面目にこっちの未来心配してるように見えてきちゃって」
「確かに」
璃音が、カードを一枚ひっくり返した。
「『ここで働いている人たちが、
この先も笑っていられますように』って書いてありました」
その一行が、
テーブルの真ん中にぽん、と置かれる。
誰もすぐには言葉を重ねられなかった。
◇
「じゃあさ」
沈黙を破ったのは、なぜか凱理だった。
「こういうの、順番に言ってみません?
『なんで飲食店で働いてるか』」
「自分で言い出しておいてなんだけど、
いちばん逃げそうな人が言いましたね、今」
絵斗が、じとっとした目を向ける。
「ほら、
こういうのって最初に言い出した人が一番逃げづらいじゃないですか」
「策士だな」
奏斗が、思わず口元を緩めた。
「じゃあ、言い出しっぺからどうぞ」
「えっ、僕からですか」
「順番って、そういうものです」
璃音にじっと見られ、
凱理は視線をテーブルに落とした。
「……最初は、
正直、家から近いからって理由でしたけど」
「知ってた」
全員の心の声が揃った気がした。
「終電にも間に合いやすいし、
まかないも出るし、
時給もまあまあ悪くないし。
『飲食で働きたい』っていうより、
『条件のいいバイト先がたまたま飲食だった』って感じで」
そこまで言って、
自分で苦笑する。
「でも、
気づいたらけっこう真面目に続けてるんですよね、ここ」
「気づいたら、ではないと思いますけど」
花春が、優しくツッコむ。
「この前、カードで『人の背中をそっと押す係』って書いたの、
本気でしたからね」
「……あれ、
けっこう効いてるんですよ、実は」
凱理は、耳の後ろをかいた。
「飲み物持っていくときとか、
注文取るときとか、
『今この人、ちょっとだけ背中押されたそうにしてるかな』って、
つい見ちゃうんですよね。
ちょっとだけトーン変えてみたり、
冗談挟んでみたり」
「最近やたらと、
『明日もなんとかなると思いますよ』って言ってますもんね」
絵斗が笑った。
「それ、聞いてるこっちもだいぶ救われてるから」
「……たぶんですけど」
凱理は、少し照れたように肩をすくめる。
「飲食の仕事続けてる理由、
『ご飯が好き』とか『人が好き』ってのもあるんですけど、
いちばん大きいのは、
『自分のひと言で、誰かの今日がちょっとマシになる瞬間があるから』かもしれないです」
言い終えてから、
自分で「ちょっとかっこつけました」と付け足した。
「でも、
けっこう本気です」
その言葉に、
誰も笑い飛ばさなかった。
◇
「じゃあ、次は」
凱理の視線が、自然と阿紗美に向く。
「阿紗美さんは?
どうして、飲食で走り回ってるんですか」
「走り回ってるって言い方」
阿紗美は、箸を置いて考えるように空を見る。
「うーん……
きっかけは、足を怪我して、
陸上の選手続けられなくなったときかな」
その場の空気が、少しだけ静まる。
「走る場所を失ったとき、
『じゃあどこで走るんだろう』って思って。
公園でもいいし、
家の近くの坂でもいいし、
いろいろ試したんだけど」
阿紗美は、ホールと厨房を結ぶ細い通路の方を見た。
「この店で初めてまかない手伝った日、
オーダーの声が飛んできて、
お皿持って、狭い通路を何往復もしたんだよね」
そのときの感覚を確かめるように、
彼女は自分の足首を軽くさする。
「なんかさ、
『ゴールテープに向かって走る』んじゃなくて、
『誰かの一日のために走る』って感じがして、
すごくおもしろかった」
言葉を選びながら、
阿紗美は軽く笑った。
「飲食って、忙しいし、
理不尽なこと言われることもあるし、
足も腰も肩も全部つかれるけど。
それでも続けてるのは、
『今日ここで走った分だけ、
誰かのゴールがちょっと楽になるかもしれない』って思えるからかも」
「誰かのゴール、ですか」
「うん。
仕事帰りの人の『今日終わった』って一息とか、
就活中の子の『とりあえず一段落』とか、
夫婦で『まだ続いてるねえ』って笑う時間とか。
そういう日替わりのゴールテープの近くにいられるのって、
けっこう贅沢だなあって」
「……その言い方、ずるいな」
絵斗が、感心したように頷いた。
「じゃあ、次は僕ですかね」
◇
「飲食で働いてる理由?」
絵斗は、フォークを皿に置いて腕を組んだ。
「最初は、
『自分の店持つための修業』って割と単純な理由でしたよ。
キッチン仕切れるところ、
新メニューやらせてもらえるところ、
ちゃんと数字が見えるところ。
そういう条件で選んだら、
ここだった」
「条件って言った」
「正直者でしょ」
そう言いながらも、
彼は少し真面目な顔になる。
「でも、続けてる理由は、
ちょっと変わってきたかもしれないです」
厨房の方を振り返る。
「この店って、
『作った料理が、誰の一日をどう変えたか』が、
割とすぐ見えるじゃないですか」
「確率メニューとか、
コメントカードとかで?」
璃音が問いかける。
「そうそう。
大手のチェーンで仕事してたときはさ、
『何食分出たか』っていう数字は分かっても、
『誰がどんな顔で食べたか』までは、
なかなか想像しづらかったんですよ」
絵斗は、指先でテーブルをとんとんと叩いた。
「ここだと、
カウンターから川を見てぼーっとしてた人が、
一口食べてちょっとだけ表情変わるのが分かる。
『あ、今日の一皿で、
この人の帰り道の重さが少し軽くなってるかもしれない』って
思える瞬間が、
けっこう好きなんですよね」
「絵斗さん、
かなりロマンチストですよね」
「そうかな」
肩をすくめて笑う。
「飲食で働いてる理由、
言い換えるとしたら——
『自分の作ったものが、
誰かの一日の中でちゃんと居場所を持ってる感じがするから』かな」
その言葉は、
さっきまでカードから読み取っていた気持ちと
どこか重なっていた。
◇
「じゃあ、次は私ですね」
花春が、箸を置いて背筋を伸ばした。
「私は……
飲食にこだわってたというより、
『人と人の間に立つ仕事』がしたかったのかもしれません」
「間に、ですか」
「うん。
お客さんとお客さんの間だったり、
スタッフ同士の間だったり、
店と商店街の間だったり。
誰かと誰かの間で、
言葉をちょっとだけ柔らかくしたり、
空気を整えたりするのが、自分に向いてる気がして」
そう言って、
花春は少し照れたように笑う。
「でも、その『間』って、
目に見えないし、
評価されにくいじゃないですか。
前の職場では、
『もっと自分を出したら?』ってよく言われてました」
「想像つきます」
絵斗が、即答する。
「でも、この店だと、
『間を整える人』がちゃんと必要とされるんですよね。
スタッフがぶつかりそうになったら、
少し離して並ばせてみたり。
お客さんの気持ちが行き違いそうになったら、
間に一言挟んでみたり。
その積み重ねが、
川べり文庫の空気を作ってるのかなって、
ちょっとだけ思えるから」
花春は、カードの束を胸元に抱き寄せた。
「だから、飲食で働いてる理由は……
『誰かの間で、いい空気を作る練習を、
毎日させてもらってるから』
かもしれません」
「それ、
飲食じゃなくてもできそうですけど」
凱理が、ぽつりと言う。
「うん。
たぶん、どこでもできると思う。
でも、
ここでやれるうちは、
ここでやりたいなって思うんだよね」
その言い方は、
「ここじゃなきゃ嫌だ」と言い切るよりも、
ずっと強く聞こえた。
◇
「じゃあ、残りは二人ですね」
視線が、
自然と璃音と奏斗に向く。
「私は……」
璃音は、テーブルの端に置かれたカードを一枚引き寄せた。
『今日も甘いものに助けられました。
ここで食べるデザートは、
心の電池をちょっとだけ充電してくれます。』
「大手のチェーンで働いていたときは、
こういう言葉、
なかなか直接もらえなかったんですよね」
璃音は、遠くを見るような目をした。
「効率も大事だし、回転率も大事で。
『このデザートは一時間に何皿出るか』っていう数字は、
毎日のように見てました。
でも、『このデザートで誰がどんな顔になったか』は、
ほとんど知る機会がなくて」
その言葉に、
絵斗が静かにうなずく。
「ここに来てからは、
注文を受けて、作って、運んで、
食べ終わったお皿が戻ってくるまでの間に、
その人の表情や、
テーブルの空気がちょっとずつ変わっていくのが見えるんです」
璃音は、カードを指先で軽く弾いた。
「飲食で働いてる理由は、
たぶんその変化を見るのが好きだから、かもしれません。
『今日の一皿で、この人の表情がマイナスからゼロになった』とか、
『ゼロからちょっとだけプラスになった』とか。
そういう小さい変化を、
ちゃんと見届けられる場所で仕事したかったんだと思います」
そして、少しだけ声を落とした。
「前の職場に戻れるって言われたとしても、
今の自分は、
やっぱりここを選ぶだろうなって」
その言葉に、
誰かが小さく息を呑んだ。
◇
「……じゃあ、最後は僕ですか」
全員の視線を受けて、
奏斗は、少しだけ居心地悪そうに背筋を伸ばした。
「前の仕事は、
数字と向き合う仕事でした」
それは、これまでも何度か話したことだ。
「売上や利益、
達成率や前年比。
数字が悪ければ怒られて、
良ければ褒められて。
でも、
その数字の向こうにいる人の顔は、
だんだん見えなくなっていきました」
奏斗は、カウンター越しの川を見た。
「ここに来て、
また数字を見る仕事を任されて。
売上も客数も、
人気メニューの順位も、
やっぱり毎日気になるし、
ノートにもきっちり書きます」
そのノートの存在は、
スタッフ全員が知っている。
「でも、
ここで数字を見るのが苦じゃないのは——」
言葉を探して、
少し間を置く。
「数字の一つひとつに、
『今日ここで過ごした誰か』の顔が
うっすらでも見えるからかもしれません」
奏斗は、自分でも驚くくらい素直に続けた。
「飲食で働いている理由を、
もし一言でまとめるなら。
『数字の向こうにいる人の顔を、
できるだけ忘れないでいられる場所だから』
かもしれません」
言い終えたあと、
彼は自分の言葉を心の中で噛みしめるように黙り込んだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて——。
「……なんか」
凱理が、ぽつりと言った。
「給料の安さとか、
シフトの不規則さとか、
さっきまで文句っぽく言ってたの、
ちょっとだけ言いづらくなりましたね」
「言っていいんですよ」
花春が、笑いながら肩を叩く。
「それでも不安だし、
それでも理不尽なことはあるし。
それでもここにいる理由を、
ちゃんと自分で持ってるってことだから」
◇
時計は、夜の営業開始の少し前を指していた。
「そろそろ、準備に戻りますか」
奏斗が立ち上がると、
椅子がいくつか同時にきしむ音がした。
「ねえ」
花春が、ふと思いついたように言う。
「今話したこと、
全部じゃなくていいから、
どこかに一行だけ書いておきませんか」
「一行?」
「うん。
『飲食店スタッフとして働く理由』ってタイトルで、
ノートの隅とか、
キッチンの裏とかに」
「落書きじゃないですか」
「落書きみたいなものでも、
たぶん後で見返したときに効いてくると思うよ」
そう言って、
花春はペンを一本ずつ配っていく。
「じゃあ私は……
『人と人の間で、いい空気を作る練習ができるから』」
最初の一行が、ノートの端に刻まれた。
「じゃあ俺は、
『自分の一皿が、誰かの一日の居場所になってる気がするから』」
「私は、
『日替わりのゴールテープの近くで走れるから』」
「『ひと言で、誰かの今日がちょっとマシになる瞬間があるから』」
「『マイナスをゼロに、ゼロを少しだけプラスにできる気がするから』」
そして、最後に。
「『数字の向こうにいる顔を、忘れずにいられる場所だから』」
奏斗の一行が書き加えられたところで、
ノートはそっと閉じられた。
窓の外では、
酒の流れる川が、夕暮れの色をゆっくりと変えている。
前の職場に戻れるとしても、
今の自分はここを選ぶだろうか。
その問いの答えは、
まだ完全には形になっていない。
けれど、夜営業が始まる頃には、
それぞれの胸の中で、小さな答えが確かに芽を出し始めていた。
扉のベルが鳴り、
最初のお客さんが入ってくる。
いつもの掛け声とともに、
いつも通りの夜が始まった。
ただひとつ違うのは——
その夜を迎える自分たちが、
少しだけ、自分のことを知っているということだった。
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冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
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言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
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