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第35話 君に恋する確率、ゼロでもいい
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昼と夜のあいだの時間帯は、いつも少しだけ心細い。
ランチの片づけは終わり、
夜の予約客が来るにはまだ早い。
川べり文庫の中には、
食器が触れ合う音も、
客席の笑い声もなく、
厨房の換気扇だけが静かに回っていた。
「……静かですね」
カウンターの奥で、璃音がぽつりとこぼした。
仕込み用の生地を丸めていた手を止め、
天板の上に置かれたボウルを見下ろす。
「こんなに静かなの、
審議の日の昼だけな気がします」
「気のせいだと思いますよ」
レジ前の棚で在庫の数を確認していた奏斗が、
手元のメモから目を離さずに答える。
「曜日と天気と、
近くの会社の休みが重なっただけです」
「そうやって数字に置き換えるの、
便利ですけど、ちょっと味気ないですよね」
璃音は、丸めた生地をひとつ手に取った。
「『審議の結果待ちの、落ち着かない時間』って書いた方が、
今日っぽいです」
「それは、日誌に書く文章ですか」
「そうですね。
『本日の営業メモ』欄に」
軽口を叩きながらも、
どちらも視線は手元から離れない。
それでも、
「結果待ち」という言葉だけは、
厨房の隅までじんわりと染みていった。
◇
「ところで」
璃音が、ふいに声の調子を変えた。
「もし、本当に
この店がなくなったら、どうします?」
奏斗の手が、
数秒だけ止まる。
レジ横の棚には、
ボトルの影に紛れるようにして一冊のノートが置かれていた。
黒い表紙に、白いペンで細く書かれた文字。
——君に恋する確率。
「仕事の話ですか」
「はい。
次にどこで働くのか、とか」
璃音は、オーブンの予熱温度を確認しながら、
何でもないことのように尋ねた。
「前みたいな会社に戻るんですか?」
「戻れるなら、という前提の質問ですか」
「戻れるでしょう。
あれだけ数字に強くて、
帳簿を見ながら笑っていられる人、
そんなにいません」
「笑ってはいません」
「口角、ちょっと上がってますよ」
即座に返されて、
奏斗は小さく咳払いをした。
「……戻るかどうかは、分かりません」
棚からノートを一冊取り出し、
カウンターに置く。
「数字を見ているだけなら、
きっと前の職場の方が効率はいいです。
でも、
数字の向こうにいる人の顔が、
だんだん見えなくなっていく感覚は、
もう経験済みなので」
表紙を指先でなぞりながら、
静かに続ける。
「川べり文庫みたいな店が、
他にもしあるなら、
そこで働けたらいいとは思いますが……」
「同じ店は、ないですよ」
璃音が、あっさりと言った。
「本と酒と川と、妙に真面目な店長代行が
一緒にいる場所なんて」
「妙に真面目、という表現は修正を求めたいところですが」
「じゃあ、『折り目がつくくらい真面目』にします」
言い直しても、意味はそう変わらない。
奏斗は、小さく息を吐いた。
「璃音さんは、どうするんですか」
「私ですか」
質問を投げ返され、
璃音はボウルに視線を落とした。
「前にいたお店に、
戻ろうと思えば戻れるかもしれません。
でも……」
生地を丸める手の動きが、
ほんの少しだけゆっくりになる。
「『一時間に何皿出たか』ばかり数えて、
『誰がどんな顔で食べたか』をほとんど見られない場所に、
もう一度戻る勇気があるかと言われると、
ちょっと自信ないです」
言葉は柔らかいが、
そこに乗っている重さは軽くない。
「だからといって、
『じゃあ自分で店を出します』っていうほどの体力も、
まだない気がしますし」
「体力と資金は、
急には増えませんからね」
「ですよね」
ふたりの間に、
短い沈黙が落ちた。
オーブンの予熱完了を知らせる電子音だけが、
場違いに明るい。
◇
「……ノート、久しぶりに開きますか」
沈黙を切り裂いたのは、
璃音の一言だった。
「君に恋する確率の」
視線が自然と、
カウンターの黒いノートに向かう。
「最近、
お客様に出してばかりで、
自分たちの分、放置してません?」
「スタッフ用のページは、
まだあまり埋まっていませんね」
奏斗は、ノートを開いた。
最初の方には、
客のニックネームと、
そのときの状況が小さな字で書き込まれている。
「三割くらいだけど、
その三割に全力で賭けたい人」
「確率は五分五分。
でも、どちらに転んでも
ちゃんと自分を好きでいられそうな人」
ページをめくるたび、
カウンター越しに交わした会話が
断片的によみがえる。
やがて、
スタッフ用のページになる。
「阿紗美:
自分より先に、誰かのゴールテープを見届ける確率、高め」
「凱理:
口では逃げ腰でも、
好きになったら時間をかけて向き合う確率、七割」
「絵斗:
『一皿分の気持ち』をちゃんと添えられる確率、かなり高い」
見覚えのある文字が並んでいる。
「……自分で書いておいてなんですが、
少し恥ずかしいですね」
「いいと思いますよ。
ちゃんと言葉にしてもらえるの、
嬉しいはずです」
「そうでしょうか」
「少なくとも私は、
自分の欄、気に入ってます」
璃音は、
自分のページを指差した。
そこには、
こう書かれている。
「璃音:
自分の幸せの配分を、
仕事と誰かのためとで半々にしようとする確率、高い」
「……大ざっぱですね」
「細かく書いたら、
ページ足りなくなりますから」
璃音は、少しだけ笑った。
「で、問題は」
ページの下の方に、
ぽっかりと空いたスペース。
「ここですよね」
そこには、
名前だけが書かれていた。
「奏斗:」
そのあとに続くはずの言葉が、
ずっと空白のままだ。
「いつまで空欄にしておくつもりなんですか」
「誰が書いたんでしたっけ、
その名前」
「阿紗美さんです。
『ここだけ空いてるの、気持ち悪い』って」
情景が目に浮かぶような説明だ。
「それで、
『自分の欄は自分で書け』って言われたまま、
放置してるんですよね」
「仕事に支障はありませんから」
「仕事以外のところで、
だいぶ支障出てますけど」
璃音は、
ノートの空白をじっと見つめた。
「たとえば?」
「たとえば……」
言葉を探すように、
生地の入ったボウルを指先で回す。
「『店がなくなったらどうするか』って話をしても、
そこが空欄だと、
どうしても遠回りになります」
「遠回り?」
「はい。
どこで働くか、
どんな仕事をするか、って話だけじゃなくて。
『どんな人と一緒にいたいのか』って話も、
本当は同じくらい大事なはずなのに」
璃音は、
オーブンに天板を滑り込ませながら続ける。
「ここが空欄のままだと、
その話、永遠に保留になるじゃないですか」
オーブンの扉が、静かに閉まる音がした。
「僕の欄に書くことは、
特にないので」
奏斗は、
自分でも驚くほど淡々とした声で言った。
「確率は、ゼロでいいのかもしれません」
ノートの「奏斗:」の後ろを見つめたまま、
ゆっくりと続ける。
「店がどうなるかも分からない状況で、
自分の恋の確率まで計算に入れる余裕は、
正直ありませんし」
口に出してみると、
思っていた以上に冷たい言葉に聞こえた。
けれど、それが今の自分の正直な感覚でもある。
「仕事に支障が出るより、
そちらをゼロにしておいた方が、
計算は楽です」
ノートを閉じようとした瞬間。
カウンター越しに、
小さな沈黙が落ちた。
◇
いつもなら、
すぐに何かしらの返事が返ってくるはずだった。
軽口でも、
ツッコミでも、
冗談でも。
だが、その一言のあと、
璃音はすぐには何も言わなかった。
オーブンの前で立ち尽くしたまま、
手元のミトンをきゅっと握りしめる。
横顔に、一瞬だけ影が差した。
それは、
ほんの数秒のことだったけれど。
奏斗には、その数秒がやけに長く感じられた。
「……ゼロってことは、ないですよ」
ようやく届いた声は、
いつもより少しだけ低い。
「少なくとも、
この店で働きながら、
ここに来る人たちを見てきた人なら」
璃音は、
オーブンのタイマーを指先で設定しながら続ける。
「『自分の恋の確率はゼロです』って、
本気で言えるわけないと思います」
言葉に棘はない。
責めるというより、
ただ事実を言っている口調だ。
「だって、
人の気持ちの変化をあれだけ見てきてるのに。
自分だけ例外にしようとするの、
かなり無理があります」
「……例外に、しているつもりは」
「あると思います」
即答だった。
璃音は、
オーブンの前から一歩だけ後ろに下がった。
「ゼロでもいい、って言うのは自由ですけど。
少なくとも私は、
『奏斗さんの確率ゼロ』って書かれたページ、
見るの、かなり嫌ですよ」
その言い方は、
冗談ではなかった。
「ゼロじゃないなら、いくつなんですか」と
問い詰めるようなことはしない。
ただ一つだけ、
はっきりと線を引く。
「ゼロってことは、ないですよ」
もう一度だけ、
同じ言葉。
それだけ言うと、
璃音は手元のミトンを取り上げた。
「焼き上がり、見てきます」
背を向ける。
歩き出す前、
ほんの一瞬だけ、
振り返るかどうか迷ったような気配がした。
けれど、
結局振り返らないまま、
厨房の奥へ消えていった。
◇
残されたカウンターに、
黒いノートだけが取り残される。
表紙を閉じることもできず、
開いたままのページ。
「奏斗:」と書かれた行のあとに、
相変わらず何もない。
奏斗は、
指先でその空白のあたりを軽くたたいた。
「……ゼロでもいい、はずだったんですが」
誰にともなくつぶやく。
「ゼロと言い切れない、ということは」
少なくとも、
そこには何かしらの数字が入る余地がある、
ということだ。
それが一体、
どれくらいの数値なのか。
今の自分には、うまく計算できない。
計算式も、
使うべき項目も、
まだ決まっていない。
だからといって、
空欄のまま放置し続ける言い訳にはならない。
ペンを手に取る。
一度、
「0」と書きかけて、
すぐに線を引いて消した。
紙の上に残る、
小さな黒い跡。
そこに、
代わりの文字をゆっくりと書き込む。
「未計測」
それだけ。
数値でも、
パーセントでもない。
「……これくらいが、
今のところの限界ですね」
そうつぶやいて、
ノートを閉じた。
窓の外では、
酒の流れる川が、
何事もなかったような顔でゆっくりと流れている。
審議の結果も、
この店の行く末も、
まだ分からない。
ただ一つだけ、
さっきまで空白だったページに
小さな文字が書き込まれたことだけは、
確かな変化だった。
オーブンのタイマーが鳴り、
厨房から甘い香りが流れてくる。
「焼き上がりましたよー」
璃音の声が、
いつもの調子で店内に響いた。
奏斗は、ノートを棚に戻し、
カウンターから厨房へ向かう。
君に恋する確率。
ゼロと言い張ることは、
もうできない。
それでも、
数字を書くには、まだ少し時間がかかりそうだった。
ランチの片づけは終わり、
夜の予約客が来るにはまだ早い。
川べり文庫の中には、
食器が触れ合う音も、
客席の笑い声もなく、
厨房の換気扇だけが静かに回っていた。
「……静かですね」
カウンターの奥で、璃音がぽつりとこぼした。
仕込み用の生地を丸めていた手を止め、
天板の上に置かれたボウルを見下ろす。
「こんなに静かなの、
審議の日の昼だけな気がします」
「気のせいだと思いますよ」
レジ前の棚で在庫の数を確認していた奏斗が、
手元のメモから目を離さずに答える。
「曜日と天気と、
近くの会社の休みが重なっただけです」
「そうやって数字に置き換えるの、
便利ですけど、ちょっと味気ないですよね」
璃音は、丸めた生地をひとつ手に取った。
「『審議の結果待ちの、落ち着かない時間』って書いた方が、
今日っぽいです」
「それは、日誌に書く文章ですか」
「そうですね。
『本日の営業メモ』欄に」
軽口を叩きながらも、
どちらも視線は手元から離れない。
それでも、
「結果待ち」という言葉だけは、
厨房の隅までじんわりと染みていった。
◇
「ところで」
璃音が、ふいに声の調子を変えた。
「もし、本当に
この店がなくなったら、どうします?」
奏斗の手が、
数秒だけ止まる。
レジ横の棚には、
ボトルの影に紛れるようにして一冊のノートが置かれていた。
黒い表紙に、白いペンで細く書かれた文字。
——君に恋する確率。
「仕事の話ですか」
「はい。
次にどこで働くのか、とか」
璃音は、オーブンの予熱温度を確認しながら、
何でもないことのように尋ねた。
「前みたいな会社に戻るんですか?」
「戻れるなら、という前提の質問ですか」
「戻れるでしょう。
あれだけ数字に強くて、
帳簿を見ながら笑っていられる人、
そんなにいません」
「笑ってはいません」
「口角、ちょっと上がってますよ」
即座に返されて、
奏斗は小さく咳払いをした。
「……戻るかどうかは、分かりません」
棚からノートを一冊取り出し、
カウンターに置く。
「数字を見ているだけなら、
きっと前の職場の方が効率はいいです。
でも、
数字の向こうにいる人の顔が、
だんだん見えなくなっていく感覚は、
もう経験済みなので」
表紙を指先でなぞりながら、
静かに続ける。
「川べり文庫みたいな店が、
他にもしあるなら、
そこで働けたらいいとは思いますが……」
「同じ店は、ないですよ」
璃音が、あっさりと言った。
「本と酒と川と、妙に真面目な店長代行が
一緒にいる場所なんて」
「妙に真面目、という表現は修正を求めたいところですが」
「じゃあ、『折り目がつくくらい真面目』にします」
言い直しても、意味はそう変わらない。
奏斗は、小さく息を吐いた。
「璃音さんは、どうするんですか」
「私ですか」
質問を投げ返され、
璃音はボウルに視線を落とした。
「前にいたお店に、
戻ろうと思えば戻れるかもしれません。
でも……」
生地を丸める手の動きが、
ほんの少しだけゆっくりになる。
「『一時間に何皿出たか』ばかり数えて、
『誰がどんな顔で食べたか』をほとんど見られない場所に、
もう一度戻る勇気があるかと言われると、
ちょっと自信ないです」
言葉は柔らかいが、
そこに乗っている重さは軽くない。
「だからといって、
『じゃあ自分で店を出します』っていうほどの体力も、
まだない気がしますし」
「体力と資金は、
急には増えませんからね」
「ですよね」
ふたりの間に、
短い沈黙が落ちた。
オーブンの予熱完了を知らせる電子音だけが、
場違いに明るい。
◇
「……ノート、久しぶりに開きますか」
沈黙を切り裂いたのは、
璃音の一言だった。
「君に恋する確率の」
視線が自然と、
カウンターの黒いノートに向かう。
「最近、
お客様に出してばかりで、
自分たちの分、放置してません?」
「スタッフ用のページは、
まだあまり埋まっていませんね」
奏斗は、ノートを開いた。
最初の方には、
客のニックネームと、
そのときの状況が小さな字で書き込まれている。
「三割くらいだけど、
その三割に全力で賭けたい人」
「確率は五分五分。
でも、どちらに転んでも
ちゃんと自分を好きでいられそうな人」
ページをめくるたび、
カウンター越しに交わした会話が
断片的によみがえる。
やがて、
スタッフ用のページになる。
「阿紗美:
自分より先に、誰かのゴールテープを見届ける確率、高め」
「凱理:
口では逃げ腰でも、
好きになったら時間をかけて向き合う確率、七割」
「絵斗:
『一皿分の気持ち』をちゃんと添えられる確率、かなり高い」
見覚えのある文字が並んでいる。
「……自分で書いておいてなんですが、
少し恥ずかしいですね」
「いいと思いますよ。
ちゃんと言葉にしてもらえるの、
嬉しいはずです」
「そうでしょうか」
「少なくとも私は、
自分の欄、気に入ってます」
璃音は、
自分のページを指差した。
そこには、
こう書かれている。
「璃音:
自分の幸せの配分を、
仕事と誰かのためとで半々にしようとする確率、高い」
「……大ざっぱですね」
「細かく書いたら、
ページ足りなくなりますから」
璃音は、少しだけ笑った。
「で、問題は」
ページの下の方に、
ぽっかりと空いたスペース。
「ここですよね」
そこには、
名前だけが書かれていた。
「奏斗:」
そのあとに続くはずの言葉が、
ずっと空白のままだ。
「いつまで空欄にしておくつもりなんですか」
「誰が書いたんでしたっけ、
その名前」
「阿紗美さんです。
『ここだけ空いてるの、気持ち悪い』って」
情景が目に浮かぶような説明だ。
「それで、
『自分の欄は自分で書け』って言われたまま、
放置してるんですよね」
「仕事に支障はありませんから」
「仕事以外のところで、
だいぶ支障出てますけど」
璃音は、
ノートの空白をじっと見つめた。
「たとえば?」
「たとえば……」
言葉を探すように、
生地の入ったボウルを指先で回す。
「『店がなくなったらどうするか』って話をしても、
そこが空欄だと、
どうしても遠回りになります」
「遠回り?」
「はい。
どこで働くか、
どんな仕事をするか、って話だけじゃなくて。
『どんな人と一緒にいたいのか』って話も、
本当は同じくらい大事なはずなのに」
璃音は、
オーブンに天板を滑り込ませながら続ける。
「ここが空欄のままだと、
その話、永遠に保留になるじゃないですか」
オーブンの扉が、静かに閉まる音がした。
「僕の欄に書くことは、
特にないので」
奏斗は、
自分でも驚くほど淡々とした声で言った。
「確率は、ゼロでいいのかもしれません」
ノートの「奏斗:」の後ろを見つめたまま、
ゆっくりと続ける。
「店がどうなるかも分からない状況で、
自分の恋の確率まで計算に入れる余裕は、
正直ありませんし」
口に出してみると、
思っていた以上に冷たい言葉に聞こえた。
けれど、それが今の自分の正直な感覚でもある。
「仕事に支障が出るより、
そちらをゼロにしておいた方が、
計算は楽です」
ノートを閉じようとした瞬間。
カウンター越しに、
小さな沈黙が落ちた。
◇
いつもなら、
すぐに何かしらの返事が返ってくるはずだった。
軽口でも、
ツッコミでも、
冗談でも。
だが、その一言のあと、
璃音はすぐには何も言わなかった。
オーブンの前で立ち尽くしたまま、
手元のミトンをきゅっと握りしめる。
横顔に、一瞬だけ影が差した。
それは、
ほんの数秒のことだったけれど。
奏斗には、その数秒がやけに長く感じられた。
「……ゼロってことは、ないですよ」
ようやく届いた声は、
いつもより少しだけ低い。
「少なくとも、
この店で働きながら、
ここに来る人たちを見てきた人なら」
璃音は、
オーブンのタイマーを指先で設定しながら続ける。
「『自分の恋の確率はゼロです』って、
本気で言えるわけないと思います」
言葉に棘はない。
責めるというより、
ただ事実を言っている口調だ。
「だって、
人の気持ちの変化をあれだけ見てきてるのに。
自分だけ例外にしようとするの、
かなり無理があります」
「……例外に、しているつもりは」
「あると思います」
即答だった。
璃音は、
オーブンの前から一歩だけ後ろに下がった。
「ゼロでもいい、って言うのは自由ですけど。
少なくとも私は、
『奏斗さんの確率ゼロ』って書かれたページ、
見るの、かなり嫌ですよ」
その言い方は、
冗談ではなかった。
「ゼロじゃないなら、いくつなんですか」と
問い詰めるようなことはしない。
ただ一つだけ、
はっきりと線を引く。
「ゼロってことは、ないですよ」
もう一度だけ、
同じ言葉。
それだけ言うと、
璃音は手元のミトンを取り上げた。
「焼き上がり、見てきます」
背を向ける。
歩き出す前、
ほんの一瞬だけ、
振り返るかどうか迷ったような気配がした。
けれど、
結局振り返らないまま、
厨房の奥へ消えていった。
◇
残されたカウンターに、
黒いノートだけが取り残される。
表紙を閉じることもできず、
開いたままのページ。
「奏斗:」と書かれた行のあとに、
相変わらず何もない。
奏斗は、
指先でその空白のあたりを軽くたたいた。
「……ゼロでもいい、はずだったんですが」
誰にともなくつぶやく。
「ゼロと言い切れない、ということは」
少なくとも、
そこには何かしらの数字が入る余地がある、
ということだ。
それが一体、
どれくらいの数値なのか。
今の自分には、うまく計算できない。
計算式も、
使うべき項目も、
まだ決まっていない。
だからといって、
空欄のまま放置し続ける言い訳にはならない。
ペンを手に取る。
一度、
「0」と書きかけて、
すぐに線を引いて消した。
紙の上に残る、
小さな黒い跡。
そこに、
代わりの文字をゆっくりと書き込む。
「未計測」
それだけ。
数値でも、
パーセントでもない。
「……これくらいが、
今のところの限界ですね」
そうつぶやいて、
ノートを閉じた。
窓の外では、
酒の流れる川が、
何事もなかったような顔でゆっくりと流れている。
審議の結果も、
この店の行く末も、
まだ分からない。
ただ一つだけ、
さっきまで空白だったページに
小さな文字が書き込まれたことだけは、
確かな変化だった。
オーブンのタイマーが鳴り、
厨房から甘い香りが流れてくる。
「焼き上がりましたよー」
璃音の声が、
いつもの調子で店内に響いた。
奏斗は、ノートを棚に戻し、
カウンターから厨房へ向かう。
君に恋する確率。
ゼロと言い張ることは、
もうできない。
それでも、
数字を書くには、まだ少し時間がかかりそうだった。
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