酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第38話 君に恋する確率、百パーセントの告白

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 扉のベルの音が消えても、しばらく誰も動かなかった。
 カウンターの内側で、璃音がふっと息を吸う。
 グラスを拭いていた手を止め、奏斗の顔をまっすぐ見た。
 「おかえりなさい」
 いつも通りの言葉。
 けれど、乗っている重さはいつもよりずっと大きい。
 「……ただいま戻りました」
 奏斗は、肩から下げていたバッグをカウンターの内側にそっと置いた。
 ネクタイは少しゆるんでいるが、その表情はきっちりといつものままだ。
 「どうでした?」
 最初に声を出したのは、阿紗美だった。
 言い終わる前に、自分の喉がからからなのに気づいたように、水の入ったグラスに手を伸ばす。
 「結論からお願いします」
 凱理が、カウンター越しに身を乗り出す。
 「先に水を一口だけ飲んでもいいですか」
 「ダメです」
 璃音と花春の声が、きれいに重なった。
 店内に、小さな笑いが生まれる。
 張りつめた空気が、ほんのわずかにほぐれた。
 奏斗は、諦めたように小さく肩をすくめた。
 「分かりました。
 では、結論から」
 視線が、店内を一巡する。
 絵斗も、鍋から手を離してこちらを見ていた。
 「ビルの取り壊しは——」
 ほんの一瞬、言葉がそこで止まる。
 「先送りになりました」
 静かな声だった。
 「正確には、
 最低でも一年、工事は行わないという判断が出ました。
 そのあいだに耐震診断をやり直して、
 再開発の内容も含めて、もう一度計画を練り直すそうです」
 「一年……」
 花春が、ぽつりとつぶやいた。
 「ということは、
 少なくとも一年は、このまま営業できるってことですよね」
 「はい」
 奏斗は、はっきりとうなずいた。
 「ただし、保証されているのはそこまでです。
 一年後にどうなるかは、今日の時点では何も決まっていません」
 「でも、
 『今すぐ閉めなさい』って話じゃなかったんですよね」
 絵斗が、確認するように言う。
 「はい。
 むしろ、
 『この一年でどれだけお客さんに利用してもらえるかを見たい』と
 言われました。
 空きテナントが増えるより、
 灯りがついている方が街としてはいいはずだ、という意見も出て」
 「……商店街のおじさんたち、
 絶対いろいろ言ってくれましたよね」
 凱理が、顔をほころばせる。
 「さっき来てた八百屋さんも、
 『あの店までまとめて潰すなら、うちも野菜並べんのやめるからな』って
 冗談っぽく言ってましたし」
 「冗談じゃなかったかもしれませんね」
 奏斗の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
 「少なくとも、
 『このビルにも、まだ役目がある』と
 主張してくれた人たちがいました」
 その言葉に、
 胸の奥がじんと熱くなる。
     ◇
 「先送り、かあ」
 阿紗美が、天井を仰いだ。
 「嬉しいし、ありがたいけど……
 マラソンで言うと、
 ゴールテープ見えてたのに『もう一周ね』って言われた感じ」
 「分かりやすいんだか分かりにくいんだか」
 絵斗が苦笑する。
 「でもまあ、
 もう一周走れるだけの脚が残ってたってことだよ」
 「そうだね」
 阿紗美は、少しだけ笑った。
 「だったら、
 もう一周分くらい、
 ちゃんと走りたいな」
 「一年、ねえ」
 凱理が、カウンターに肘をついた。
 「『猶予』って言われると、
 なんかテストの追試みたいな気分になるけど」
 「追試じゃないですよ」
 花春が、静かに言う。
 「『もう一年、ここで誰かの一日を受け止めていいですよ』って
 許可をもらった感じじゃないですか」
 その言い方に、
 店内の空気が少し変わる。
 「だったらもう、
 やることは決まってるよね」
 花春が、手を叩いた。
 「一年分、
 最高の思い出を増やすだけ」
 「いきなりハードル上げないでください」
 奏斗が、思わずツッコむ。
 「最高じゃなくていいです。
 『今日も悪くなかったな』くらいの夜を、
 できるだけ増やせれば」
 「そのへんが奏斗さんっぽい」
 璃音が、ふっと笑った。
 「最高って、
 あとから決まるものですしね。
 現場にいるときは、
 とりあえず目の前の皿とグラスを丁寧に出すだけで精一杯で」
 「そうそう」
 絵斗がうなずく。
 「じゃあ、
 この一年は『最高の思い出予備軍』を増やす期間ってことで」
 「予備軍って言い方」
 阿紗美が、吹き出した。
 「でも好き」
     ◇
 「細かい話は、またあとでまとめて共有します」
 ひとしきり笑いが落ち着いたところで、
 奏斗が改めて口を開いた。
 「テナントとしてやるべきことも、いくつか増えました。
 耐震診断の立ち会いとか、
 設備の確認とか、
 書類の提出とか」
 「うわ、絶対大変なやつ」
 凱理が、露骨に顔をしかめる。
 「そのあたりは、
 僕とオーナーで何とかします。
 みんなには、
 これまで通り店を回してもらえれば十分です」
 「じゃあ私たちは、
 いつも以上にいい顔でお客さんを送り出す係ですね」
 花春が、胸を張る。
 「任せてください」
 「厨房も、
 いつも以上に仕込み増やしておきます」
 絵斗が、大きく鍋を振った。
 「一年で太らせたい客、何人かいるし」
 「そんな物騒な目標立てないでください」
 笑いながら、
 璃音はカウンターの上に置かれた小さな白いお皿を見つめた。
 ——君に恋する確率。
 今日一日、その言葉を何度も口にした。
 人の恋の話を聞いて、
 仕事や将来の相談に耳を傾けて、
 「あなたの確率は、今こんな感じかもしれませんね」と
 そっと数字を添えてきた。
 そのたびに、
 胸の奥のどこかが、少しずつざわついていた。
 自分の確率だけが、
 「未計測」のまま置き去りにされていることを思い出すたびに。
     ◇
 「とりあえず、
 今日はここまでにしましょう」
 ひと段落ついたところで、
 花春が腕時計を見た。
 「片づけを終わらせて、
 閉店作業したら解散。
 続きの話は、明日から一年かけてゆっくり」
 「一年が『続き』扱いなの、
 花春さんだけだと思います」
 阿紗美が笑いながら、グラスを運ぶ。
 「じゃ、私はホール片づけ入ります」
 「厨房、ラストの洗い物片付けまーす」
 絵斗と阿紗美、凱理が持ち場に散っていく。
 いつもの「終わりかけ」のルーティンが、
 少しだけ軽くなった足取りで進んでいった。
 やがて、
 最後のお客のグラスが片づき、
 レジが締められる。
 「今日、一日お疲れ様でした」
 花春が、スタッフ全員を見渡して言った。
 「一年のスタートとしては、
 なかなか濃い一日だったんじゃないですか」
 「そうですね」
 璃音が、静かにうなずく。
 「たぶん、
 今日ここで出した確率、全部覚えてます」
 「え、全部?」
 凱理が目を丸くする。
 「覚えちゃうんですよね。
 そういう数字だけは」
 「恋愛と仕事の数字しか覚えないくせに」
 絵斗が、からかうように笑う。
 「仕入れの単価もちゃんと覚えてます」
 璃音が、ぴしゃりと返す。
 笑い声の中で、
 スタッフたちは順番に帰り支度を始めた。
 「じゃあ、お先に失礼します」
 花春が、エプロンを外しながら扉に向かう。
 「奏斗さん、今日は本当にお疲れさま。
 続きの細かい話、また明日聞かせてくださいね」
 「はい。
 資料、まとめておきます」
 「璃音ちゃん」
 出て行く前に、
 花春がふと振り返った。
 「今日くらいは、
 閉店作業ゆっくりでいいからね」
 意味ありげにウインクを残して、
 扉のベルを鳴らして出ていった。
 その意図を、
 分かっているような分かっていないような顔で、
 凱理と阿紗美も続く。
 「じゃ、俺らも上がります」
 「また明日ー」
 賑やかな足音が階段の方へ消えていき、
 店内には、二人分の気配だけが残った。
     ◇
 閉店後の店は、
 同じ照明なのに少し暗く感じる。
 川の音も、
 さっきより近く聞こえる気がした。
 「……改めて、お疲れ様です」
 カウンターの内側で、璃音が頭を下げた。
 「説明会、
 やっぱり大変でした?」
 「数字と資料と、
 もう少しだけ大人の事情が混ざった感じでしたね」
 奏斗は、ネクタイを外しながら苦笑した。
 「でも、
 『この一年をどう使うかは、そちらに任せます』と
 最後に言われたとき、
 少しだけ、
 肩の力が抜けました」
 「『任せます』って、
 いい言葉ですよね」
 璃音は、カウンターに肘をついて、
 窓の外の川を眺めた。
 「プレッシャーもセットですけど」
 「ですね」
 二人の間に、
 静かな間が落ちる。
 いつもなら、
 ここでそのまま「お疲れ様でした」で終わる場面だ。
 でも今日は、
 終わらせたくない気持ちの方が、
 ほんの少しだけ勝っていた。
 「……あの」
 先に沈黙を破ったのは、璃音だった。
 「ひとつ、
 聞いてもいいですか」
 「何でしょう」
 「さっき、
 みんなに結果を話したときの顔、
 少しだけ、
 『未計測』って書いてある顔してました」
 「僕の額にですか」
 「心の中のページに、です」
 璃音は、
 カウンター越しに奏斗を見つめた。
 「前に、
 自分の『君に恋する確率』の欄、
 『未計測』って書いたって言ってましたよね」
 「……盗み見ましたか」
 「見えるところに置いてあるノートが悪いです」
 言いながらも、
 その声はどこかやわらかい。
 「今日一日、
 何回も誰かの確率を出してきて、
 『この店が続いてほしい確率』まで
 数字にしていた人が、
 自分のところだけ『未計測』のままって、
 さすがに不公平だと思うんですよ」
 「不公平……ですか」
 「はい」
 璃音は、まっすぐにうなずいた。
 「だから、
 今日のところで一回だけでいいので、
 『未計測』、
 計ってもらえませんか」
     ◇
 視線が、
 カウンターの端に置かれた黒いノートに向かう。
 表紙の「君に恋する確率」という文字。
 その中の一行だけ、
 空白と「未計測」が並んでいる。
 「……ノートを、
 開きましょうか」
 奏斗が、そっと手を伸ばそうとする。
 その手を、璃音の声が制した。
 「今日は、ノートじゃない方がいいです」
 「ノートじゃない?」
 「はい」
 璃音は、
 両手でマグカップを包むように持ちながら続けた。
 「たしかにあのノート、便利です。
 『確率』っていう言葉を使えば、
 冗談みたいに軽く話せるし、
 数字を間に置くことで距離も保てる」
 「……そうですね」
 「でも、
 今日だけは距離を置かないで聞きたいんです。
 『君に恋する確率』じゃなくて、
 『奏斗さんが、
 璃音っていう一人の人間にどれくらい恋してるか』を」
 名前をはっきり呼ばれて、
 胸の奥がきゅっと縮む。
 「それを、
 ノートじゃなくて。
 数字だけじゃなくて。
 ちゃんと、
 奏斗さんの声で聞きたいんです」
 璃音は、マグカップから視線を上げた。
 「こっちのわがままですけど」
 「……わがままですね」
 思わず、そうこぼれてしまう。
 けれど、
 口調はとてもやわらかかった。
 「今、ここでそれを言うのは、
 かなりずるいですよ」
 「知ってます」
 即答だった。
 「一年の猶予が出た直後で、
 みんながほっとしてて、
 『この店守らなきゃ』って気持ちが
 いちばん強くなってるときに、
 こんな話をするのは、
 ずるいです」
 自覚は、ちゃんとあるらしい。
 「でも、
 ずるいのは分かってて、それでも言ってます。
 この一年をどう使うかって話の中に、
 私たちの気持ちもちゃんと入れておきたいから」
 静かな言葉だった。
 押しつけるでも迫るでもなく、
 ただ正直に置かれた言葉。
 「……ノートを開かないってことは」
 奏斗は、
 ゆっくりと息を吐いた。
 「数値でごまかすこともできない、
 ということですね」
 「はい」
 璃音は、
 かすかに笑った。
 「今日、
 何人ものお客様に言いましたよね。
 『あなたの確率は、今こんな感じかもしれません』って」
 「言いましたね」
 「だったら一回くらい、
 自分にも言ってあげてもいいんじゃないかと思います」
     ◇
 カウンターの外では、
 川の流れる音が聞こえていた。
 グラスも皿も片づけられた店内で、
 明かりに照らされているのは、
 テーブルと椅子と、
 正面の本棚。
 そして、
 カウンターをはさんだ、
 二人分の影。
 「……分かりました」
 静かな声が、空気を震わせた。
 「そこまで言われて、
 まだ『未計測』のままにしておくのは、
 さすがに卑怯ですね」
 奏斗は、
 ノートではなく、
 璃音の方をまっすぐ見た。
 「たぶん、
 僕が最初にこのノートを書き始めたとき、
 『君に恋する確率』ってタイトルをつけたのは、
 自分の気持ちから目をそらすためでした」
 自嘲気味に笑う。
 「数字にしてしまえば、
 仕事の延長みたいに扱えると思って。
 『今は三割くらいだな』とか、
 『今日は少し下がったかもしれない』とか、
 そうやって分析していれば、
 恋に落ちていく自分を
 少しは客観的に見ていられるんじゃないかと」
 「分析、してたんですね」
 璃音が、小さく目を見開く。
 「していました。
 最低ですね」
 「いえ、
 奏斗さんらしいです」
 その言い方に、
 少し救われる。
 「でも、
 途中から気づき始めました。
 数字をいくら並べても、
 さっぱり安心できないって」
 川の音が、
 すこし強くなった気がした。
 「璃音さんが、
 この店で嬉しそうに笑っているとき。
 常連さんの愚痴を、
 全力で受け止めてくれているとき。
 新しいデザートを思いついて、
 目を輝かせて説明してくれるとき。
 ——その全部を見ているうちに、
 『確率』なんて言葉で取り繕うのが、
 だんだん苦しくなってきました」
 言葉にしてしまえば、
 もう元には戻れない。
 それでも、
 ここまで来て引き返すつもりは、
 もうどこにもなかった。
 「だから、
 もう数字じゃなくていいなら」
 胸の奥から、
 言葉をひとつずつ掬い上げる。
 「璃音さんに、
 君に恋する確率を出すとしたら——」
 一拍置いてから、
 はっきりと言った。
 「百パーセントです」
     ◇
 店内の空気が、
 すこしだけ揺れた気がした。
 璃音は、
 マグカップを握る手に力が入らないよう、
 そっと指先に意識を向けた。
 心臓の鼓動がうるさくて、
 自分の呼吸の音さえ聞きづらい。
 「百パーセント、って」
 何とか絞り出せた声は、
 自分でも驚くほどかすれていた。
 「おかしいですか」
 「いえ……」
 璃音は、首を横に振った。
 「おかしくは、ないです。
 ただ、
 すごく奏斗さんらしいなって」
 「らしい、ですか」
 「はい。
 『二百パーセント』とか言わないところが、
 すごく安心します」
 ふっと笑みがこぼれる。
 「これ以上増えないし、
 減らない前提なんだろうなって思って」
 「そのつもりです」
 奏斗は、
 目をそらさずに答えた。
 「この店が一年後どうなっていても、
 再開発がどう進んでも、
 璃音さんに恋していることだけは、
 変わらないままでいたいと思っています」
 言いながら、
 耳まで赤くなっていくのが自分でも分かる。
 恋の言葉を、
 誰かに向かって口にするなんて、
 いつ以来だろう。
 そもそも、
 こんなにも正面から言ったことは
 今まで一度もなかったかもしれない。
 「……ずるいです」
 璃音が、小さくつぶやいた。
 「ずるいのは、
 そちらだと思っていましたが」
 「先に言われちゃったら、
 もうこっちのセリフです」
 マグカップをそっとカウンターに置き、
 璃音は立ち上がった。
 カウンターを回り込み、
 奏斗のすぐ隣に立つ。
 「今日、『百パーセント』って言ってくれなかったら」
 横顔を見上げながら、
 ゆっくりと続けた。
 「私、
 たぶん明日も明後日も、
 『未計測のままでいいですよね』って
 笑ってごまかしてたと思います」
 「……それは、それで助かったかもしれません」
 「助からないです」
 璃音は、首を振った。
 「一年の猶予が出たのに、
 気持ちの方を一年先送りするのは、
 もったいなさすぎます」
 言いながら、
 自分の胸の中の言葉も探す。
 「だから、
 こういうときは、
 ちゃんと揃えた方がいいと思って」
 「揃える?」
 「はい」
 璃音は、
 少しだけ背筋を伸ばした。
 「奏斗さんに、
 君に恋する確率を聞くとしたら。
 璃音が、
 奏斗さんに恋してる確率も」
 一度、
 深く息を吸う。
 「百パーセントです」
 その一言は、
 さっきの告白よりもずっと小さい声だった。
 けれど、
 それでも店中に響き渡ったように感じられた。
     ◇
 沈黙が、
 今度は優しく降りてきた。
 外では川が流れ、
 道路には片づけを終えた屋台の台車の音がかすかに響く。
 店の中には、
 二人分の息づかいだけ。
 「……ありがとうございます」
 最初に口を開いたのは、奏斗だった。
 「告白に、お礼言う人います?」
 「います。ここに」
 即答したあとで、
 自分で少し笑ってしまう。
 「すみません。
 こういう場面に慣れていないもので」
 「私もそんなに慣れてないので、大丈夫です」
 璃音も、ふっと笑った。
 「じゃあ、とりあえず」
 言いかけて、言葉を探す。
 「明日からも、
 仕事はこれまで通りで」
 「はい」
 「ただ、
 これまで通りに見えつつも、
 お互いに、
 『百パーセント』って数字を心の隅に置いたまま、
 皿を出したり、グラスを洗ったりする感じで」
 「分かりづらいです」
 「ですよね」
 二人同時に笑ってしまう。
 「じゃあ、もう少しだけ正確に」
 奏斗は、照れくさそうに頭をかいた。
 「一年後、
 この店がどうなっているかは分かりませんが——
 もし続いていたら、
 そのとき改めて、
 仕事と恋のバランスの取り方を考えましょう」
 「もし続いていなかったら?」
 「そのときは、
 どこか別のカウンターで、
 同じ話を続けられたらいいなと」
 璃音は、その言葉を
 しばらく胸の中で転がしてから、静かにうなずいた。
 「分かりました。
 じゃあ、この一年は」
 窓の外の川をちらりと見る。
 「『川べり文庫で働きながら、
 百パーセントの恋をしている二人』っていう状態で」
 「長い肩書きですね」
 「短くすると、
 『ちょっとだけ特別な店長代行とパティシエ』です」
 「……それなら、
 ぎりぎり名札に入りそうです」
 ふたりの笑い声が、
 静かな店内に溶けていった。
     ◇
 閉店後の照明を少し落として、
 最後の戸締りをする。
 扉に鍵をかける前、
 璃音がふと立ち止まった。
 「ねえ、奏斗さん」
 「はい」
 「この店が一年後どうなってても、
 あのノートの『未計測』の欄だけは、
 ちゃんと書き換えておいてくださいね」
 「もう書き換えましたよ」
 奏斗は、
 カウンターの内側に視線をやった。
 「さっき、『百パーセント』って言ったときに。
 頭の中では、すでに」
 「じゃあ、
 現物も明日確認します」
 「検算までされるとは思いませんでした」
 そんなやり取りを交わしてから、
 ようやく扉の鍵が回された。
 酒の流れる川は、
 相変わらず静かに灯りを映している。
 取り壊しは先送り。
 一年という猶予。
 未来の確率は、
 まだ誰にも分からない。
 それでも——
 君に恋する確率だけは、
 今日、ゼロから百まで
 はっきりと数字になった。
 川面に揺れる灯りを背にして、
 二人は並んで夜道を歩き出した。
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