39 / 40
第39話 それでも明日は仕込みがある
しおりを挟む
翌朝の「川べり文庫」は、いつもどおり、パンッという軽い音で始まった。
まだシャッターを開ける前の店内。
薄暗い照明の下、カウンターの奥から乾いた音が規則的に響いている。
グラスを布で拭いて、軽く指で弾く。
透き通った音が、静かな店内にすっと広がって消えていく。
奏斗は、その音をひとつ聞くたびに、
頭の中の何かを並べ替えているような気がしていた。
(今日から一年。
ここで、仕事を続ける一年)
ビルの取り壊しは先送り。
最低でも一年は、この場所で皿を出し、酒を注ぎ、本を棚に戻せる。
その一年の始まりの朝に、
いつもと違うのは——
しばらくしてから聞こえてきた、階段を降りてくる足音だ。
「おはようございまーす」
明るい声と一緒に、璃音が姿を見せる。
いつものように髪を後ろでまとめ、
エプロンを片手に持ちながら、カウンターの前でぴたりと足を止めた。
そこで、一秒。
ほんの一秒だけ、昨夜の帰り道が頭をかすめる。
川べりの灯り。
「百パーセントです」という言葉。
「百パーセントです」と返ってきた声。
それから——
「……おはようございます」
いつもより、半音だけ柔らかい声で、奏斗が返した。
璃音は、ほんの少し口角を上げて、
「失礼します」とカウンターの内側に入ってくる。
並んでグラスのラックに手を伸ばした瞬間、
ふたりの手の甲がかすかに触れた。
ほんの一瞬。
それだけのことに、心臓が思いのほか元気よく主張してくる。
「……グラス、替えますね」
璃音が、何事もなかったように小さく言った。
ただ、耳の先がすこしだけ赤い。
「お願いします」
奏斗も、何事もなかったように返す。
ただ、さっきまでより丁寧にグラスを拭いている。
グラスの数は、いつもどおり。
手順も、いつもどおり。
違うのは、自分の心臓と、
隣で同じようにグラスを拭いている人の存在の、温度くらいだ。
◇
「今日の仕込み、昨日の続きからで大丈夫ですか?」
冷蔵庫の中をのぞき込みながら、璃音が確認する。
「はい。
パスタソースのベースと、
『君に恋する確率』用のチョコレート、
それから、春野菜のキッシュの具材ですね。
あとは——」
言いかけて、ふと口をつぐむ。
璃音が、首をかしげた。
「『あとは』?」
「いえ、その……」
奏斗は一拍置いてから、
冷蔵庫の最上段に置いたボウルをそっと指さした。
「昨日、帰る前に仕込んでおいたものがありまして」
「え」
璃音が、ボウルのふたを開ける。
中には、見慣れない色合いのマリネ液が入っていた。
柑橘の香りと、白ワインの香り。
そこに、ほんのりと甘い香りが混ざっている。
「新作ですか?」
「はい。
昨日、
説明会に行く前に、すこしだけ下ごしらえをしておきました。
正式な名前はまだ決めていませんが」
言ってから、少しだけ視線をそらす。
「仮の呼び名としては……」
璃音が、じっと待つ。
「『百パーセントマリネ』にしてあります」
冷蔵庫の冷気よりも、
自分の耳の方が赤くなっている気がした。
璃音は、一瞬だけ目を丸くして——
次の瞬間、ふっと笑いをこぼした。
「百パーセント……」
ボウルの中身を、スプーンでそっとすくって味見する。
爽やかな酸味と、やさしい甘さ。
最後に、少しだけピリッとしたスパイスが追いかけてくる。
「……ずるいです」
「味がですか」
「名前がです」
璃音は、スプーンを口から離しながら、
少しだけ視線を上に向けた。
「でも、おいしいです」
「ありがとうございます」
その一言に、
仕込みの疲れが少しだけ軽くなる。
「じゃあこのマリネ、
今日の『君に恋する確率』の前菜に、
こっそり混ぜましょうか」
「こっそり、ですか」
「はい。
説明書きには『本日のマリネ』ってだけ書いておいて、
意味に気づいた人だけニヤニヤする感じで」
「……悪い顔してますね」
「ほめ言葉として受け取っておきます」
そんな会話をしているところへ、
階段を降りてくるどたどたとした足音が響いた。
◇
「おはようございまーす!」
勢いよく扉が開いて、凱理が顔を出す。
その後ろから、エコバッグを抱えた阿紗美も続いた。
「……ん?」
ふたりは、入り口でぴたりと足を止めた。
カウンターの内側では、
奏斗と璃音が、冷蔵庫の前に並んで立っている。
距離は、いつもどおり。
表情も、いつもどおり。
——のはずなのだが。
「……おはようございます」
奏斗が振り向いて、丁寧に挨拶をする。
「おはようございます」
璃音も続いて頭を下げた。
その、一拍のズレ。
ふたりの顔に浮かんだ、
ごく小さなタイムラグ付きの照れ笑い。
それだけで、
凱理と阿紗美には十分だった。
「はいストップ」
凱理が、店内に片足を踏み入れたまま手を挙げる。
「今の『おはようございます』、
今まで出会った『おはようございます』の中で
いちばん甘かった気がします」
「測定不能ですけどね」
阿紗美も、腕を組んでうなずいた。
「ねえ奏斗さん、
昨日、川沿いで何かあった?」
「何か、とは」
「たとえば、
川が増水して逃げ帰る羽目になったとかさ」
「そういう災害級の出来事は起きていません」
奏斗は、慣れていない「とぼける役」を
けなげに演じようとして、
あっさり失敗した。
表情に、
隠し事をしている人特有の固さがあらわれてしまう。
「ね、璃音ちゃん」
阿紗美が、くるりと視線を向ける。
「昨日の帰り道、
何か『百パーセント』とか言ってなかった?」
「っ」
璃音の手から、
スプーンが危うく滑り落ちそうになる。
「ど、どうして、その言葉が……」
「今、冷蔵庫の中から甘酸っぱい匂いがしてきて。
名前当てゲーム、当たっただけ」
凱理の勘の鋭さは、
こういう場面で余計な仕事をする。
「……たぶん、
今日の『本日のマリネ』は、
そういう味だと思います」
阿紗美が、ニヤニヤを隠そうともせずに言った。
「ね? 店長代行」
「その呼び方のときだけ、
妙に圧が強いのはやめてください」
奏斗が、額を押さえる。
(昨日、『百パーセントです』と口にしたときよりも、
今の方が心臓に悪い気がする)
内心でそうつぶやきながらも、
どこかで否定しきれない温かさがある。
「……まあ、その話は、あとでまとめて聞きますとして」
凱理が、手のひらをぱんと打った。
「ひとまず、いつもどおり開店準備しましょうか。
『恋愛報告会』は、
仕込みがひと段落してから」
「そんな会議を予定した覚えはありません」
奏斗の抗議は、
あっさりと流された。
◇
開店前の仕込みは、
結局ほぼいつも通りの順番で進んでいった。
絵斗が到着すると、
まずパスタソースの火加減を確認し、
次にキッシュの生地をのばす。
「……なんか、今日の厨房、
空気が甘くないですか」
オーブンの前でしゃがみ込みながら、絵斗がぼそりと言う。
「料理用語で言うと『湿度が高い』ですね」
「湿度で片づけられた」
阿紗美が笑いながら、
客席の椅子をひとつずつ整えていく。
花春もやってきて、テーブルにランチョンマットを並べ始めた。
「今日の川、穏やかですね」
窓の外をちらりと見た花春が、
何気ないようでいて、明らかに意味ありげな声で言う。
「昨日の夜、
いいもの流してくれたんだろうなあ」
「花春さんまで、その調子なんですね」
璃音が、苦笑混じりにため息をついた。
「そりゃそうですよ。
ここまで長く一緒に働いてて、
店長代行と璃音ちゃんの空気が変わったら、
気づかない方がおかしいです」
「そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすいですよ。
ほら、奏斗さん」
花春が、カウンターの向こうに向かって声をかける。
「今日のレジ締め、
いつもの三倍くらい丁寧にやる予感がします」
「そんなに変わりません」
「でも、
誤差ひと円も許さない顔してます」
「それはいつもです」
そんなくだらないやり取りが、
かえって緊張をほどいてくれる。
からかわれているのに、
悪くない。
むしろ、
こうやって笑いに変えてもらえることが、
どれだけありがたいか。
(告白したあと、
店の空気が重くなったらどうしようと
少しだけ心配していたけれど)
今のところ、その心配は杞憂で済んでいるらしい。
◇
昼営業が始まると、
店内はいつものにぎやかさを取り戻した。
まち歩きの翌日ということもあり、
昨日来たばかりの客が早くも再訪してくれている。
「昨日の『未練を流す確率』、
おかげさまで七割くらいは流れました」
そんな報告をしてくれる人もいる。
「残り三割は?」
「それはもう、
この店に置いて帰ります」
そんな会話に笑いながら、
璃音は「君に恋する確率」の小皿を一枚ずつ丁寧に出していく。
今日から、
その小皿にさりげなく添えられるマリネ。
酸味と甘さのバランスが、
心の中の「百パーセント」という数字に
こっそりリンクしている。
カウンターの向こうでは、
奏斗が、いつもよりわずかに柔らかい表情で客の話を聞いていた。
「転職の話、進みそうですか」
「ええ、まあ……」
仕事の相談をしている会社員。
「昨日の彼、
ちゃんとごめんなさい言ってくれました?」
「それがですね、
想像の斜め上から謝ってきて……」
恋の話を続報してくれる常連。
どの話も、
ここにいる限り「確率」の言葉で受け止められる。
ただひとつ違うのは——
話を聞いている自分の胸の奥にも、
はっきりとした「百パーセント」が
静かに座っている、という事実だ。
◇
昼営業が落ち着いたころ、
凱理が、カウンターの端を陣取った。
「よし。
そろそろ、お昼休みの時間を使って、
『恋と仕事の両立について語る会』を開催したいと思います」
「そんな会合、いつ決まりましたか」
奏斗が、トングを持ったまま眉をひそめる。
「さっきです」
凱理は、堂々と胸を張った。
「まず第一議題。
『店内での呼び方をどうするか』問題」
「問題にしないでいただけますか」
璃音が苦笑しながらも、
少しだけ気になっている自分に気づいている。
「例えばさ。
営業中は今までどおり『奏斗さん』『璃音さん』でいいとして。
閉店後とか、
商店街の買い出しとか、
そういうときはどうするの?」
「どうするの、と言われましても」
奏斗が言葉に詰まる。
たしかに、そこまで考えてはいなかった。
「いきなり名前で呼び捨てとか、
奏斗さんの心臓が持たなそうだし」
阿紗美が、やけに的確な心配をする。
「かといって、
『店長代行』って呼び続けるのも、
ちょっと距離を感じるし」
「『店長代行』で恋人同士って、
なんか書類みたいですね」
絵斗の例えは、
どうにも現実味がある。
「……じゃあ、こういうのはどうでしょう」
珍しく、璃音の方から提案が出た。
「営業中は今までどおり。
閉店後とか、
仕事以外の用事のときだけ、
心の中で勝手に名前で呼ぶ、ということで」
「それ、外から分からないですけど」
「だからいいんです。
誰にも見えないところで、
こっそり一歩だけ距離を縮める感じで」
その案に、
スタッフ一同「らしいな……」と言いたげな顔になる。
「……聞いておいてなんですが」
凱理が、真顔に戻った。
「今の案、
地味に最高な気がしてきました」
「ね」
花春も、嬉しそうにうなずく。
「そういう『こっそりルール』、
ここらしいと思う」
「じゃあ、議題一はそれで決定ということで」
阿紗美が、勝手にまとめる。
「議題二。
『ケンカしたとき、仕事に持ち込まないための対策』」
「それは……」
奏斗と璃音の顔が、そろって強張る。
「店の前のベンチを使いましょう」
花春が、即座に答えを出した。
「ここで働いているあいだは、
仕事の話とお客さんの話だけ。
それ以外の話は、
店の前のベンチに座ってからにする、とか」
「ベンチに気持ちの仕切りを押しつけてくスタイルですね」
絵斗が、口元をゆるめる。
「でも、分かりやすくていいかも。
『この話はベンチでするやつだな』って
お互いに分かってれば、
仕事中に変な空気出さなくて済むし」
「……ベンチ、
いつの間にか重要な役割を担うことになりましたね」
奏斗は、心の中で
「ベンチ修理費」という項目をレジの脳内メモに書き足した。
◇
そんなふうに、
仕事と恋のルールを半分遊びながら決めていく。
外から見れば、
いつも通りの「川べり文庫」。
中にいる人たちにとってだけ、
少しだけ意味の増えた椅子やベンチ、ノートやマリネ。
川は今日も淡々と流れ、
店は今日も、
ランチと夜のあいだの仕込みで忙しい。
グラスを磨く手。
野菜を刻む包丁の音。
鍋から立ちのぼる湯気。
どれもこれも、
昨日までと変わらない。
それでも——
君に恋する確率が、
ゼロから百になった翌日にも、
やっぱり明日の仕込みは待っている。
「奏斗さん」
冷蔵庫から材料を取り出しながら、璃音が呼びかけた。
「一年後のこと、
また不安になったら」
「はい」
「そのときは、
『明日の仕込み』を一個増やしましょう」
「……一個?」
「はい。
そのとき不安に思ってることを、
何か形にしてレシピにしちゃうんです。
『取り壊しが怖いキッシュ』とか、
『将来が見えないグラタン』とか」
「名前がひどいですね」
「中身はちゃんとおいしくします」
璃音は笑って続けた。
「そうやって、
不安の数だけ仕込みを増やしていったら——
きっと一年後には、
ここに『最高の思い出予備軍』が山ほど並んでると思うから」
その言葉に、
奏斗も笑って頷いた。
「では、レシピ名は
もう少しだけマイルドに調整してから、
メニュー候補に入れておきます」
「了解です」
仕事と恋が、
同じカウンターの上で少しずつ混ざり合う。
一年という猶予も、
百パーセントという数字も、
すべては、
明日の仕込みの延長線上にある。
川の音を背中に聞きながら、
「川べり文庫」の一日は、
今日も続いていった。
まだシャッターを開ける前の店内。
薄暗い照明の下、カウンターの奥から乾いた音が規則的に響いている。
グラスを布で拭いて、軽く指で弾く。
透き通った音が、静かな店内にすっと広がって消えていく。
奏斗は、その音をひとつ聞くたびに、
頭の中の何かを並べ替えているような気がしていた。
(今日から一年。
ここで、仕事を続ける一年)
ビルの取り壊しは先送り。
最低でも一年は、この場所で皿を出し、酒を注ぎ、本を棚に戻せる。
その一年の始まりの朝に、
いつもと違うのは——
しばらくしてから聞こえてきた、階段を降りてくる足音だ。
「おはようございまーす」
明るい声と一緒に、璃音が姿を見せる。
いつものように髪を後ろでまとめ、
エプロンを片手に持ちながら、カウンターの前でぴたりと足を止めた。
そこで、一秒。
ほんの一秒だけ、昨夜の帰り道が頭をかすめる。
川べりの灯り。
「百パーセントです」という言葉。
「百パーセントです」と返ってきた声。
それから——
「……おはようございます」
いつもより、半音だけ柔らかい声で、奏斗が返した。
璃音は、ほんの少し口角を上げて、
「失礼します」とカウンターの内側に入ってくる。
並んでグラスのラックに手を伸ばした瞬間、
ふたりの手の甲がかすかに触れた。
ほんの一瞬。
それだけのことに、心臓が思いのほか元気よく主張してくる。
「……グラス、替えますね」
璃音が、何事もなかったように小さく言った。
ただ、耳の先がすこしだけ赤い。
「お願いします」
奏斗も、何事もなかったように返す。
ただ、さっきまでより丁寧にグラスを拭いている。
グラスの数は、いつもどおり。
手順も、いつもどおり。
違うのは、自分の心臓と、
隣で同じようにグラスを拭いている人の存在の、温度くらいだ。
◇
「今日の仕込み、昨日の続きからで大丈夫ですか?」
冷蔵庫の中をのぞき込みながら、璃音が確認する。
「はい。
パスタソースのベースと、
『君に恋する確率』用のチョコレート、
それから、春野菜のキッシュの具材ですね。
あとは——」
言いかけて、ふと口をつぐむ。
璃音が、首をかしげた。
「『あとは』?」
「いえ、その……」
奏斗は一拍置いてから、
冷蔵庫の最上段に置いたボウルをそっと指さした。
「昨日、帰る前に仕込んでおいたものがありまして」
「え」
璃音が、ボウルのふたを開ける。
中には、見慣れない色合いのマリネ液が入っていた。
柑橘の香りと、白ワインの香り。
そこに、ほんのりと甘い香りが混ざっている。
「新作ですか?」
「はい。
昨日、
説明会に行く前に、すこしだけ下ごしらえをしておきました。
正式な名前はまだ決めていませんが」
言ってから、少しだけ視線をそらす。
「仮の呼び名としては……」
璃音が、じっと待つ。
「『百パーセントマリネ』にしてあります」
冷蔵庫の冷気よりも、
自分の耳の方が赤くなっている気がした。
璃音は、一瞬だけ目を丸くして——
次の瞬間、ふっと笑いをこぼした。
「百パーセント……」
ボウルの中身を、スプーンでそっとすくって味見する。
爽やかな酸味と、やさしい甘さ。
最後に、少しだけピリッとしたスパイスが追いかけてくる。
「……ずるいです」
「味がですか」
「名前がです」
璃音は、スプーンを口から離しながら、
少しだけ視線を上に向けた。
「でも、おいしいです」
「ありがとうございます」
その一言に、
仕込みの疲れが少しだけ軽くなる。
「じゃあこのマリネ、
今日の『君に恋する確率』の前菜に、
こっそり混ぜましょうか」
「こっそり、ですか」
「はい。
説明書きには『本日のマリネ』ってだけ書いておいて、
意味に気づいた人だけニヤニヤする感じで」
「……悪い顔してますね」
「ほめ言葉として受け取っておきます」
そんな会話をしているところへ、
階段を降りてくるどたどたとした足音が響いた。
◇
「おはようございまーす!」
勢いよく扉が開いて、凱理が顔を出す。
その後ろから、エコバッグを抱えた阿紗美も続いた。
「……ん?」
ふたりは、入り口でぴたりと足を止めた。
カウンターの内側では、
奏斗と璃音が、冷蔵庫の前に並んで立っている。
距離は、いつもどおり。
表情も、いつもどおり。
——のはずなのだが。
「……おはようございます」
奏斗が振り向いて、丁寧に挨拶をする。
「おはようございます」
璃音も続いて頭を下げた。
その、一拍のズレ。
ふたりの顔に浮かんだ、
ごく小さなタイムラグ付きの照れ笑い。
それだけで、
凱理と阿紗美には十分だった。
「はいストップ」
凱理が、店内に片足を踏み入れたまま手を挙げる。
「今の『おはようございます』、
今まで出会った『おはようございます』の中で
いちばん甘かった気がします」
「測定不能ですけどね」
阿紗美も、腕を組んでうなずいた。
「ねえ奏斗さん、
昨日、川沿いで何かあった?」
「何か、とは」
「たとえば、
川が増水して逃げ帰る羽目になったとかさ」
「そういう災害級の出来事は起きていません」
奏斗は、慣れていない「とぼける役」を
けなげに演じようとして、
あっさり失敗した。
表情に、
隠し事をしている人特有の固さがあらわれてしまう。
「ね、璃音ちゃん」
阿紗美が、くるりと視線を向ける。
「昨日の帰り道、
何か『百パーセント』とか言ってなかった?」
「っ」
璃音の手から、
スプーンが危うく滑り落ちそうになる。
「ど、どうして、その言葉が……」
「今、冷蔵庫の中から甘酸っぱい匂いがしてきて。
名前当てゲーム、当たっただけ」
凱理の勘の鋭さは、
こういう場面で余計な仕事をする。
「……たぶん、
今日の『本日のマリネ』は、
そういう味だと思います」
阿紗美が、ニヤニヤを隠そうともせずに言った。
「ね? 店長代行」
「その呼び方のときだけ、
妙に圧が強いのはやめてください」
奏斗が、額を押さえる。
(昨日、『百パーセントです』と口にしたときよりも、
今の方が心臓に悪い気がする)
内心でそうつぶやきながらも、
どこかで否定しきれない温かさがある。
「……まあ、その話は、あとでまとめて聞きますとして」
凱理が、手のひらをぱんと打った。
「ひとまず、いつもどおり開店準備しましょうか。
『恋愛報告会』は、
仕込みがひと段落してから」
「そんな会議を予定した覚えはありません」
奏斗の抗議は、
あっさりと流された。
◇
開店前の仕込みは、
結局ほぼいつも通りの順番で進んでいった。
絵斗が到着すると、
まずパスタソースの火加減を確認し、
次にキッシュの生地をのばす。
「……なんか、今日の厨房、
空気が甘くないですか」
オーブンの前でしゃがみ込みながら、絵斗がぼそりと言う。
「料理用語で言うと『湿度が高い』ですね」
「湿度で片づけられた」
阿紗美が笑いながら、
客席の椅子をひとつずつ整えていく。
花春もやってきて、テーブルにランチョンマットを並べ始めた。
「今日の川、穏やかですね」
窓の外をちらりと見た花春が、
何気ないようでいて、明らかに意味ありげな声で言う。
「昨日の夜、
いいもの流してくれたんだろうなあ」
「花春さんまで、その調子なんですね」
璃音が、苦笑混じりにため息をついた。
「そりゃそうですよ。
ここまで長く一緒に働いてて、
店長代行と璃音ちゃんの空気が変わったら、
気づかない方がおかしいです」
「そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすいですよ。
ほら、奏斗さん」
花春が、カウンターの向こうに向かって声をかける。
「今日のレジ締め、
いつもの三倍くらい丁寧にやる予感がします」
「そんなに変わりません」
「でも、
誤差ひと円も許さない顔してます」
「それはいつもです」
そんなくだらないやり取りが、
かえって緊張をほどいてくれる。
からかわれているのに、
悪くない。
むしろ、
こうやって笑いに変えてもらえることが、
どれだけありがたいか。
(告白したあと、
店の空気が重くなったらどうしようと
少しだけ心配していたけれど)
今のところ、その心配は杞憂で済んでいるらしい。
◇
昼営業が始まると、
店内はいつものにぎやかさを取り戻した。
まち歩きの翌日ということもあり、
昨日来たばかりの客が早くも再訪してくれている。
「昨日の『未練を流す確率』、
おかげさまで七割くらいは流れました」
そんな報告をしてくれる人もいる。
「残り三割は?」
「それはもう、
この店に置いて帰ります」
そんな会話に笑いながら、
璃音は「君に恋する確率」の小皿を一枚ずつ丁寧に出していく。
今日から、
その小皿にさりげなく添えられるマリネ。
酸味と甘さのバランスが、
心の中の「百パーセント」という数字に
こっそりリンクしている。
カウンターの向こうでは、
奏斗が、いつもよりわずかに柔らかい表情で客の話を聞いていた。
「転職の話、進みそうですか」
「ええ、まあ……」
仕事の相談をしている会社員。
「昨日の彼、
ちゃんとごめんなさい言ってくれました?」
「それがですね、
想像の斜め上から謝ってきて……」
恋の話を続報してくれる常連。
どの話も、
ここにいる限り「確率」の言葉で受け止められる。
ただひとつ違うのは——
話を聞いている自分の胸の奥にも、
はっきりとした「百パーセント」が
静かに座っている、という事実だ。
◇
昼営業が落ち着いたころ、
凱理が、カウンターの端を陣取った。
「よし。
そろそろ、お昼休みの時間を使って、
『恋と仕事の両立について語る会』を開催したいと思います」
「そんな会合、いつ決まりましたか」
奏斗が、トングを持ったまま眉をひそめる。
「さっきです」
凱理は、堂々と胸を張った。
「まず第一議題。
『店内での呼び方をどうするか』問題」
「問題にしないでいただけますか」
璃音が苦笑しながらも、
少しだけ気になっている自分に気づいている。
「例えばさ。
営業中は今までどおり『奏斗さん』『璃音さん』でいいとして。
閉店後とか、
商店街の買い出しとか、
そういうときはどうするの?」
「どうするの、と言われましても」
奏斗が言葉に詰まる。
たしかに、そこまで考えてはいなかった。
「いきなり名前で呼び捨てとか、
奏斗さんの心臓が持たなそうだし」
阿紗美が、やけに的確な心配をする。
「かといって、
『店長代行』って呼び続けるのも、
ちょっと距離を感じるし」
「『店長代行』で恋人同士って、
なんか書類みたいですね」
絵斗の例えは、
どうにも現実味がある。
「……じゃあ、こういうのはどうでしょう」
珍しく、璃音の方から提案が出た。
「営業中は今までどおり。
閉店後とか、
仕事以外の用事のときだけ、
心の中で勝手に名前で呼ぶ、ということで」
「それ、外から分からないですけど」
「だからいいんです。
誰にも見えないところで、
こっそり一歩だけ距離を縮める感じで」
その案に、
スタッフ一同「らしいな……」と言いたげな顔になる。
「……聞いておいてなんですが」
凱理が、真顔に戻った。
「今の案、
地味に最高な気がしてきました」
「ね」
花春も、嬉しそうにうなずく。
「そういう『こっそりルール』、
ここらしいと思う」
「じゃあ、議題一はそれで決定ということで」
阿紗美が、勝手にまとめる。
「議題二。
『ケンカしたとき、仕事に持ち込まないための対策』」
「それは……」
奏斗と璃音の顔が、そろって強張る。
「店の前のベンチを使いましょう」
花春が、即座に答えを出した。
「ここで働いているあいだは、
仕事の話とお客さんの話だけ。
それ以外の話は、
店の前のベンチに座ってからにする、とか」
「ベンチに気持ちの仕切りを押しつけてくスタイルですね」
絵斗が、口元をゆるめる。
「でも、分かりやすくていいかも。
『この話はベンチでするやつだな』って
お互いに分かってれば、
仕事中に変な空気出さなくて済むし」
「……ベンチ、
いつの間にか重要な役割を担うことになりましたね」
奏斗は、心の中で
「ベンチ修理費」という項目をレジの脳内メモに書き足した。
◇
そんなふうに、
仕事と恋のルールを半分遊びながら決めていく。
外から見れば、
いつも通りの「川べり文庫」。
中にいる人たちにとってだけ、
少しだけ意味の増えた椅子やベンチ、ノートやマリネ。
川は今日も淡々と流れ、
店は今日も、
ランチと夜のあいだの仕込みで忙しい。
グラスを磨く手。
野菜を刻む包丁の音。
鍋から立ちのぼる湯気。
どれもこれも、
昨日までと変わらない。
それでも——
君に恋する確率が、
ゼロから百になった翌日にも、
やっぱり明日の仕込みは待っている。
「奏斗さん」
冷蔵庫から材料を取り出しながら、璃音が呼びかけた。
「一年後のこと、
また不安になったら」
「はい」
「そのときは、
『明日の仕込み』を一個増やしましょう」
「……一個?」
「はい。
そのとき不安に思ってることを、
何か形にしてレシピにしちゃうんです。
『取り壊しが怖いキッシュ』とか、
『将来が見えないグラタン』とか」
「名前がひどいですね」
「中身はちゃんとおいしくします」
璃音は笑って続けた。
「そうやって、
不安の数だけ仕込みを増やしていったら——
きっと一年後には、
ここに『最高の思い出予備軍』が山ほど並んでると思うから」
その言葉に、
奏斗も笑って頷いた。
「では、レシピ名は
もう少しだけマイルドに調整してから、
メニュー候補に入れておきます」
「了解です」
仕事と恋が、
同じカウンターの上で少しずつ混ざり合う。
一年という猶予も、
百パーセントという数字も、
すべては、
明日の仕込みの延長線上にある。
川の音を背中に聞きながら、
「川べり文庫」の一日は、
今日も続いていった。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる