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第6話 二番目の恋人なんて
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金曜日の夕方、オフィスの空気には、いつもより少しだけアルコールの匂いが混じりはじめていた。
終業のチャイムが鳴る前から、あちこちの席で「お疲れさま」の声が飛び交い、パソコンの画面には次々とシャットダウンのマークが浮かんでいく。
桜子のデスクの上にも、飲み会の集合場所が書かれたメモと、スマホの通知が並んでいた。
「桜子、今日さ、彼氏くるんでしょ?」
背後から顔をのぞかせた同期が、にやにやしながら机をつつく。
「うん、二次会から合流するって」
「リア充だ~。ちゃんと紹介してよ? どんな人か見極めるから」
その言い方に、桜子は笑いながら肩をすくめた。
「面接官なの?」
定時を数分過ぎると、一行はぞろぞろとエレベーターに乗り込んだ。
向かう先は、駅前のビルの六階にある、チェーン系の居酒屋。
入口には、大きな写真付きメニューと、「インスタ映え!」と書かれたポップが林立している。
「ここ、写真きれいに撮れるんだよね」
先頭を歩く後輩が、うれしそうに振り返る。
「この前、タワーみたいなポテト頼んでさ、いいねめっちゃついた」
その言葉に、周りから「わかる~」という共感の声が上がる。
店内に入ると、壁一面に派手なポスターが貼られ、テーブルの上にはすでにお通しと大きなピッチャーが置かれていた。
桜子は、壁側の席に押し込まれるように腰を下ろす。
正面の席は、ひとつ空けてある。
そこだけが、まだ誰にも占領されていない空間だった。
乾杯の声がひと段落したころ、店の入口のほうで見慣れたシルエットが手を振った。
「ごめん、おまたせ」
紺のジャケットに白いシャツ。ネクタイはゆるく結びなおされている。
桜子の恋人・凌が、少し息を弾ませながら席に近づいてきた。
「りょーくん、こっちこっち」
桜子の隣の席が、すぐに誰かに引かれて空けられる。
凌は、手に持ったビニール傘をテーブルの下に立てかけ、軽く周囲に会釈した。
「いつも桜子がお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ」
場慣れした挨拶に、テーブルの空気が少し和らぐ。
「とりあえず、なんか映えるやつ頼もうよ」
メニューを開いた凌が、笑いながら言った。
「この刺身の舟盛り、ライト当てたら絶対きれい。ほら見て、氷も乗ってるし」
「さすが、写真好き」
桜子は、メニューを覗き込みながら笑う。
凌のスマホのアルバムには、これまで一緒に行った店の写真がぎっしり詰まっている。
プレートに書かれたメッセージ、キャンドルの光、グラス越しの夜景。
そのどれもが、きちんと構図を計算された一枚だ。
「そういえばさ」
グラスがひと段落したころ、隣の席の同僚が身を乗り出してきた。
「桜子、最近『定食屋さん』通ってるって言ってたよね」
「ああ、うん」
話題が急にそちらに向かったことに、桜子は少し背筋を伸ばした。
「会社の近くの商店街にある、みつよ食堂っていうお店で」
「今日も行ってたの?」
「今日はさすがに時間なかったけど……」
言い終える前に、別の同僚が興味津々といった顔で口を挟む。
「なにそれ、どんな店? おしゃれなの?」
「おしゃれっていうより、落ち着く感じ」
桜子は、言葉を探しながらグラスを指でなぞった。
「木のカウンターで、日替わりの『シンデレラ定食』っていうのがあってね。『今日だけ主役になりたい理由』を書くカードが――」
「カード?」
凌が、初めてその話題にしっかりと顔を向けた。
「へえ、なんか占いみたいだね」
「占いっていうか……」
桜子は苦笑する。
「『昇進したい』とか『怒られたけど、気持ちを切り替えたい』とか、そういうのを書いて、定食にちょっとしたメッセージがついてくるの」
「へえ」
凌は、手元のグラスを回しながら、ふんわりと相槌を打った。
「でもさ、せっかくならそういうアイデア、もっとおしゃれな内装の店でやればいいのにね。写真撮ったら映えそうじゃない?」
その言葉は、悪意のない感想だということはわかっていた。
けれど、桜子の心のどこかで、小さな音を立てて何かがずれた。
「……うん、まあ」
うまく言葉が見つからず、曖昧な返事をする。
頭の中には、湯気で少し曇ったみつよ食堂のガラスと、手書きのホワイトボードが浮かんでいた。
「その定食屋の人、どんな感じなの?」
向かいの席の後輩が、目を輝かせて質問してきた。
「年上? イケメン?」
「えっと……」
咄嗟に答えに詰まり、桜子は箸を持ち直した。
「すごく気が利くっていうか、よく見てくれてるというか」
「お、危ない発言」
誰かがすかさず茶々を入れる。
「最近さ、会社でも噂になってるよ?」
ビールをあおっていた別の同期が、面白がるように声を潜めた。
「桜子の『二番目の恋人』は商店街の定食屋さんだって」
「ちょっと」
グラスを持つ手が、ぴたりと止まる。
「誰がそんなこと言い出したの」
「だってさあ」
同期は、わざとらしく指を折りながら数え始めた。
「一週間に何回も通ってるでしょ?」
「通ってるってほどじゃないよ」
「カードとか書いてもらってるんでしょ?」
「……書いて『もらってる』わけじゃ」
「しかも、最近やたら機嫌いいし」
最後の一言に、テーブルのあちこちから笑いがこぼれた。
「そんなことないって」
桜子は、慌てて首を振る。
「ただのごはん屋さんだよ」
「ただのごはん屋さんって顔じゃなかったけどな~」
からかうような声が飛ぶ。
「二番目の恋人なんて。ね、凌さん?」
同期に振られて、凌が何とも言えない苦笑いを浮かべた。
「いやいや」
凌は、グラスを置いて両手をひらひらさせる。
「二番目も三番目もいらないでしょ。ね?」
「……うん」
桜子は、笑顔を貼り付けたまま返事をした。
その笑顔が、グラスの水面にゆがんで映る。
「でもさ」
話題を変えようとするように、凌がメニューを指で示した。
「今度の記念日、せっかくだからもっと特別な店行かない? この前ネットで見つけたフレンチさ、カウンターにキャンドル立っててさ。外観もめちゃくちゃおしゃれだったんだよね」
「へえ」
同僚たちが一斉に身を乗り出す。
「写真見せてくださいよ」
「いいね、それ。絶対行ったほうがいいって」
スマホの画面をみんなが覗き込むあいだ、桜子の箸はほとんど進まなかった。
目の前の唐揚げは、きれいに盛り付けられ、レモンもきちんと添えられている。
それなのに、昨日のみつよ食堂の唐揚げのほうが、ずっと味がはっきりしていたような気がした。
骨に近いところまで、しっかりと噛んで食べた感触が、舌の奥に残っている。
一次会が終わるころには、テーブルの上は空いたグラスと皿でいっぱいだった。
店の外に出ると、夜風が頬にあたる。
「二次会どうする?」
「カラオケ行きたい」
「わたし、今日はやめときます」
桜子は、少しだけ声を張って言った。
「明日も朝から資料作らなきゃだし」
「えー、彼氏置いて帰るの?」
誰かがからかう。
「いや、俺もそろそろ」
凌が、腕時計をちらりと見て言った。
「来週も飲みあるし、今日はこのくらいでいいでしょ」
「じゃあ、駅まで一緒に行こっか」
自分からそう言いながら、桜子の胸の奥は、どこか落ち着かなかった。
駅までの道は、人とネオンでにぎやかだった。
足元を行き交う靴の音と、遠くから聞こえる電車のブレーキ音。
凌は、スマホを片手に次の予定を確認している。
「来週の金曜さ、また飲み会なんだよね。二次会で前に話したバー行こうって」
「そうなんだ」
「桜子もくれば? あそこ、写真めっちゃきれいに撮れるし」
その誘いに、桜子はうなずくことも、首を振ることもできなかった。
「じゃ、ここで」
駅前の横断歩道の手前で、凌が足を止めた。
「今日はありがとね。皆さんにもよろしく」
「うん。また」
形式的な挨拶を交わし、軽く手を振る。
凌が人混みに紛れていくのを見届けても、桜子はすぐには駅に向かえなかった。
足は自然と、駅とは反対の方向へ向かっていた。
ビル街を抜けると、さっきまでのネオンは少しずつ少なくなり、街灯の光だけが路地を照らす。
商店街のアーケードに入ると、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かになった。
「……開いてるわけないのに」
口の中で小さくつぶやく。
壁の時計はもう午後十時を回っている頃合いだ。
みつよ食堂の昼の暖簾は、とうにしまわれているはずだった。
それでも、体はまっすぐあの赤いひさしを目指していた。
揚げ物屋のシャッター、薬局の暗いガラス、閉店後の八百屋の空のコンテナ。
そのひとつひとつを通り過ぎるたびに、胸の奥で「やめときなよ」という声と、「せめて前を通るだけ」という声がぶつかり合う。
みつよ食堂の前にたどり着くと、案の定、シャッターは最後まできっちり下ろされていた。
昼間は風に揺れていた暖簾もなく、赤いひさしだけがぼんやりと街灯の光を受けている。
ホワイトボードは店内に片づけられ、「本日も、シンデレラ定食あります」の文字は見えなかった。
桜子は、少しだけ迷ったあと、そっとシャッターに手を伸ばした。
ひんやりとした鉄の感触が、掌に広がる。
昼間、カウンターの木目に触れていたときとは違う温度。
自分の指先のささくれが、ガリっと小さな音を立ててシャッターの凹凸に引っかかった。
二番目の恋人なんて。
さっき聞いたばかりの言葉が、頭の中で反芻される。
奪うとか奪われるとか、そんな大それた話じゃない。
ただ、ここでごはんを食べているときの自分が、少しだけ「ちゃんと主役だ」と思えてしまうだけだ。
「……二番目の恋人なんかじゃないから」
誰にともなくつぶやく。
シャッターに当てた手に、少しだけ力がこもった。
指先がじんとするほど握りしめてから、ゆっくりと手を離す。
その動作を、店の中から見ている人はいない。
けれど、シャッターの向こう側には、明日の仕込みのために並べられた野菜や、洗ったばかりの鍋が静かに眠っているはずだった。
カウンターの上には、空のカード立て。
今日一日の「理由」が片づけられたあとに残る、わずかな余白。
桜子は、引き戸の取っ手があるあたりを一度見つめ、それから黙って背を向けた。
靴音が、商店街の静けさに溶けていく。
シャッターにそっと「手」を当ててから、何も言わずにその場を離れる。
その背中は、会社で見せるどの笑顔よりも、少しだけ丸く見えた。
駅へ向かう道すがら、スマホが震えた。
画面には、凌からのメッセージが一件。
『さっきの店の写真、送るね。今度二人だけで行こう』
添付された写真には、さっきまでの賑やかなテーブルと、自分の笑顔が映っていた。
桜子は、その写真を一度だけ見てから、そっと画面を閉じた。
ポケットの中で、指先が小さく丸くなる。
頭のどこかで、「明日はちゃんとお腹が空くだろうか」と、誰にも聞こえない問いが浮かんだ。
終業のチャイムが鳴る前から、あちこちの席で「お疲れさま」の声が飛び交い、パソコンの画面には次々とシャットダウンのマークが浮かんでいく。
桜子のデスクの上にも、飲み会の集合場所が書かれたメモと、スマホの通知が並んでいた。
「桜子、今日さ、彼氏くるんでしょ?」
背後から顔をのぞかせた同期が、にやにやしながら机をつつく。
「うん、二次会から合流するって」
「リア充だ~。ちゃんと紹介してよ? どんな人か見極めるから」
その言い方に、桜子は笑いながら肩をすくめた。
「面接官なの?」
定時を数分過ぎると、一行はぞろぞろとエレベーターに乗り込んだ。
向かう先は、駅前のビルの六階にある、チェーン系の居酒屋。
入口には、大きな写真付きメニューと、「インスタ映え!」と書かれたポップが林立している。
「ここ、写真きれいに撮れるんだよね」
先頭を歩く後輩が、うれしそうに振り返る。
「この前、タワーみたいなポテト頼んでさ、いいねめっちゃついた」
その言葉に、周りから「わかる~」という共感の声が上がる。
店内に入ると、壁一面に派手なポスターが貼られ、テーブルの上にはすでにお通しと大きなピッチャーが置かれていた。
桜子は、壁側の席に押し込まれるように腰を下ろす。
正面の席は、ひとつ空けてある。
そこだけが、まだ誰にも占領されていない空間だった。
乾杯の声がひと段落したころ、店の入口のほうで見慣れたシルエットが手を振った。
「ごめん、おまたせ」
紺のジャケットに白いシャツ。ネクタイはゆるく結びなおされている。
桜子の恋人・凌が、少し息を弾ませながら席に近づいてきた。
「りょーくん、こっちこっち」
桜子の隣の席が、すぐに誰かに引かれて空けられる。
凌は、手に持ったビニール傘をテーブルの下に立てかけ、軽く周囲に会釈した。
「いつも桜子がお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ」
場慣れした挨拶に、テーブルの空気が少し和らぐ。
「とりあえず、なんか映えるやつ頼もうよ」
メニューを開いた凌が、笑いながら言った。
「この刺身の舟盛り、ライト当てたら絶対きれい。ほら見て、氷も乗ってるし」
「さすが、写真好き」
桜子は、メニューを覗き込みながら笑う。
凌のスマホのアルバムには、これまで一緒に行った店の写真がぎっしり詰まっている。
プレートに書かれたメッセージ、キャンドルの光、グラス越しの夜景。
そのどれもが、きちんと構図を計算された一枚だ。
「そういえばさ」
グラスがひと段落したころ、隣の席の同僚が身を乗り出してきた。
「桜子、最近『定食屋さん』通ってるって言ってたよね」
「ああ、うん」
話題が急にそちらに向かったことに、桜子は少し背筋を伸ばした。
「会社の近くの商店街にある、みつよ食堂っていうお店で」
「今日も行ってたの?」
「今日はさすがに時間なかったけど……」
言い終える前に、別の同僚が興味津々といった顔で口を挟む。
「なにそれ、どんな店? おしゃれなの?」
「おしゃれっていうより、落ち着く感じ」
桜子は、言葉を探しながらグラスを指でなぞった。
「木のカウンターで、日替わりの『シンデレラ定食』っていうのがあってね。『今日だけ主役になりたい理由』を書くカードが――」
「カード?」
凌が、初めてその話題にしっかりと顔を向けた。
「へえ、なんか占いみたいだね」
「占いっていうか……」
桜子は苦笑する。
「『昇進したい』とか『怒られたけど、気持ちを切り替えたい』とか、そういうのを書いて、定食にちょっとしたメッセージがついてくるの」
「へえ」
凌は、手元のグラスを回しながら、ふんわりと相槌を打った。
「でもさ、せっかくならそういうアイデア、もっとおしゃれな内装の店でやればいいのにね。写真撮ったら映えそうじゃない?」
その言葉は、悪意のない感想だということはわかっていた。
けれど、桜子の心のどこかで、小さな音を立てて何かがずれた。
「……うん、まあ」
うまく言葉が見つからず、曖昧な返事をする。
頭の中には、湯気で少し曇ったみつよ食堂のガラスと、手書きのホワイトボードが浮かんでいた。
「その定食屋の人、どんな感じなの?」
向かいの席の後輩が、目を輝かせて質問してきた。
「年上? イケメン?」
「えっと……」
咄嗟に答えに詰まり、桜子は箸を持ち直した。
「すごく気が利くっていうか、よく見てくれてるというか」
「お、危ない発言」
誰かがすかさず茶々を入れる。
「最近さ、会社でも噂になってるよ?」
ビールをあおっていた別の同期が、面白がるように声を潜めた。
「桜子の『二番目の恋人』は商店街の定食屋さんだって」
「ちょっと」
グラスを持つ手が、ぴたりと止まる。
「誰がそんなこと言い出したの」
「だってさあ」
同期は、わざとらしく指を折りながら数え始めた。
「一週間に何回も通ってるでしょ?」
「通ってるってほどじゃないよ」
「カードとか書いてもらってるんでしょ?」
「……書いて『もらってる』わけじゃ」
「しかも、最近やたら機嫌いいし」
最後の一言に、テーブルのあちこちから笑いがこぼれた。
「そんなことないって」
桜子は、慌てて首を振る。
「ただのごはん屋さんだよ」
「ただのごはん屋さんって顔じゃなかったけどな~」
からかうような声が飛ぶ。
「二番目の恋人なんて。ね、凌さん?」
同期に振られて、凌が何とも言えない苦笑いを浮かべた。
「いやいや」
凌は、グラスを置いて両手をひらひらさせる。
「二番目も三番目もいらないでしょ。ね?」
「……うん」
桜子は、笑顔を貼り付けたまま返事をした。
その笑顔が、グラスの水面にゆがんで映る。
「でもさ」
話題を変えようとするように、凌がメニューを指で示した。
「今度の記念日、せっかくだからもっと特別な店行かない? この前ネットで見つけたフレンチさ、カウンターにキャンドル立っててさ。外観もめちゃくちゃおしゃれだったんだよね」
「へえ」
同僚たちが一斉に身を乗り出す。
「写真見せてくださいよ」
「いいね、それ。絶対行ったほうがいいって」
スマホの画面をみんなが覗き込むあいだ、桜子の箸はほとんど進まなかった。
目の前の唐揚げは、きれいに盛り付けられ、レモンもきちんと添えられている。
それなのに、昨日のみつよ食堂の唐揚げのほうが、ずっと味がはっきりしていたような気がした。
骨に近いところまで、しっかりと噛んで食べた感触が、舌の奥に残っている。
一次会が終わるころには、テーブルの上は空いたグラスと皿でいっぱいだった。
店の外に出ると、夜風が頬にあたる。
「二次会どうする?」
「カラオケ行きたい」
「わたし、今日はやめときます」
桜子は、少しだけ声を張って言った。
「明日も朝から資料作らなきゃだし」
「えー、彼氏置いて帰るの?」
誰かがからかう。
「いや、俺もそろそろ」
凌が、腕時計をちらりと見て言った。
「来週も飲みあるし、今日はこのくらいでいいでしょ」
「じゃあ、駅まで一緒に行こっか」
自分からそう言いながら、桜子の胸の奥は、どこか落ち着かなかった。
駅までの道は、人とネオンでにぎやかだった。
足元を行き交う靴の音と、遠くから聞こえる電車のブレーキ音。
凌は、スマホを片手に次の予定を確認している。
「来週の金曜さ、また飲み会なんだよね。二次会で前に話したバー行こうって」
「そうなんだ」
「桜子もくれば? あそこ、写真めっちゃきれいに撮れるし」
その誘いに、桜子はうなずくことも、首を振ることもできなかった。
「じゃ、ここで」
駅前の横断歩道の手前で、凌が足を止めた。
「今日はありがとね。皆さんにもよろしく」
「うん。また」
形式的な挨拶を交わし、軽く手を振る。
凌が人混みに紛れていくのを見届けても、桜子はすぐには駅に向かえなかった。
足は自然と、駅とは反対の方向へ向かっていた。
ビル街を抜けると、さっきまでのネオンは少しずつ少なくなり、街灯の光だけが路地を照らす。
商店街のアーケードに入ると、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かになった。
「……開いてるわけないのに」
口の中で小さくつぶやく。
壁の時計はもう午後十時を回っている頃合いだ。
みつよ食堂の昼の暖簾は、とうにしまわれているはずだった。
それでも、体はまっすぐあの赤いひさしを目指していた。
揚げ物屋のシャッター、薬局の暗いガラス、閉店後の八百屋の空のコンテナ。
そのひとつひとつを通り過ぎるたびに、胸の奥で「やめときなよ」という声と、「せめて前を通るだけ」という声がぶつかり合う。
みつよ食堂の前にたどり着くと、案の定、シャッターは最後まできっちり下ろされていた。
昼間は風に揺れていた暖簾もなく、赤いひさしだけがぼんやりと街灯の光を受けている。
ホワイトボードは店内に片づけられ、「本日も、シンデレラ定食あります」の文字は見えなかった。
桜子は、少しだけ迷ったあと、そっとシャッターに手を伸ばした。
ひんやりとした鉄の感触が、掌に広がる。
昼間、カウンターの木目に触れていたときとは違う温度。
自分の指先のささくれが、ガリっと小さな音を立ててシャッターの凹凸に引っかかった。
二番目の恋人なんて。
さっき聞いたばかりの言葉が、頭の中で反芻される。
奪うとか奪われるとか、そんな大それた話じゃない。
ただ、ここでごはんを食べているときの自分が、少しだけ「ちゃんと主役だ」と思えてしまうだけだ。
「……二番目の恋人なんかじゃないから」
誰にともなくつぶやく。
シャッターに当てた手に、少しだけ力がこもった。
指先がじんとするほど握りしめてから、ゆっくりと手を離す。
その動作を、店の中から見ている人はいない。
けれど、シャッターの向こう側には、明日の仕込みのために並べられた野菜や、洗ったばかりの鍋が静かに眠っているはずだった。
カウンターの上には、空のカード立て。
今日一日の「理由」が片づけられたあとに残る、わずかな余白。
桜子は、引き戸の取っ手があるあたりを一度見つめ、それから黙って背を向けた。
靴音が、商店街の静けさに溶けていく。
シャッターにそっと「手」を当ててから、何も言わずにその場を離れる。
その背中は、会社で見せるどの笑顔よりも、少しだけ丸く見えた。
駅へ向かう道すがら、スマホが震えた。
画面には、凌からのメッセージが一件。
『さっきの店の写真、送るね。今度二人だけで行こう』
添付された写真には、さっきまでの賑やかなテーブルと、自分の笑顔が映っていた。
桜子は、その写真を一度だけ見てから、そっと画面を閉じた。
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