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第8話 においでわかる本音
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月曜日の朝のオフィスは、コーヒーとコピー用紙と、少しだけ焦げたトーストの匂いが混ざっていた。
誰かがデスクで齧ったパンの匂いが、エアコンの風に乗って列をなぞる。
パソコンの起動音と、プリンターの唸り声と、電話のベルが、同時多発的に鳴り始める時間帯だった。
桜子のデスクの上には、資料のファイルと、今日のタスクを書き出したメモが山になっていた。
そのいちばん上に、赤い付箋が一枚、妙に存在感を放っている。
『午前中までに再作成。部長レビュー必須』
ボールペンで書かれた文字は、昨日の日付のままだった。
金曜日の夜、ざっくりと指摘だけ受けて持ち帰った企画書。
週末の間、開きかけては閉じ、開きかけては閉じを繰り返したファイルだった。
コロンの小瓶のふたを開けて、いつもの量を迷いなく手首に落とす。
けれど、今日に限って、その動きが途中で止まった。
「……ちょっと、控えめにしよ」
自分に聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいて、瓶をそっと置く。
代わりに、ハンドクリームを多めに伸ばした。
柑橘の匂いは、どこか心細く、その日の自分の防御力の薄さを自覚させる。
*
「で、ここがねえ」
午前十一時過ぎ。会議室の空気は、冷房が効いているのに、どこか息苦しかった。
部長の指先が、モニターに映るグラフの一角をとん、と軽く叩く。
「数字の根拠が甘いんだよね」
「すみません」
桜子は、椅子に座ったまま深く頭を下げる。
「甘いっていうかさ」
部長は、椅子の背にもたれ、腕を組み直した。
「『雰囲気』で書いてない? ここ」
という言葉に、隣の先輩が気まずそうに視線を逸らした。
「とりあえず『頑張ります』って言う前に、具体的にどこをどう直すのか、自分で言ってみて」
いつのまにか、「ここがこうで」と説明するはずの立場が、「どこが駄目か答えてみて」に変わっている。
桜子の喉の奥で、言葉がひっかかった。
「……ターゲットの設定がぼやけていたので、セグメントを細かく見直して、数字を――」
「ほらね」
部長は、ため息混じりに笑う。
「セグメントって言葉を使う前にさ、『誰に』って、日本語で言おうか」
「……はい」
ホワイトボードに映る自分の資料が、急に薄っぺらく感じた。
昨夜、自宅でパソコンに向かっていたときは、それなりに筋が通っていると思っていたのに。
上司の数十秒の言葉で、その「それなり」が、簡単に剝がされていく。
「午後の会議までに、出し直せる?」
「……やってみます」
「やってみます、じゃなくて、やるの」
部長の声が、最後に少しだけきつくなる。
「間に合わなかったら、今回の案件自体、別チームに回すから」
誰かが「はい」と返事をする。
自分の声なのか、隣の先輩の声なのか、一瞬わからなかった。
*
会議室を出るとき、書類を抱えた「手」がじんわりと汗ばむのを感じた。
コピー用紙の端が、指先に細かい傷をつける。
その小さな痛みが、やけに鮮明だった。
「桜子、大丈夫?」
廊下で待っていた同期の麻衣が、気まずそうに笑う。
「けっこう言われてたね……」
「うん。まあ、いつものやつ」
そう言って笑ってみせるけれど、頬の筋肉がうまく動いてくれない。
「お昼、一緒に行く?」
「ごめん。ちょっと……」
胸のあたりを押さえるようにして言う。
「先に資料、直しちゃいたくて」
「そっか。無理しないでね」
麻衣は、何か言いたげに唇を結んでから、別のグループのほうへ歩いて行った。
自分の席に戻ってパソコンを開いても、さっきの部長の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
『セグメントって言葉を使う前にさ』
『日本語で言おうか』
「日本語で言おうか」
つぶやいてみると、自分の声が少し震えているのがわかった。
カタカナばかり並べた資料より、自分のほうがよほど薄っぺらく見える。
時計は、もうすぐ十二時半を指そうとしていた。
オフィスのあちこちで、椅子の立つ音と、「行きますか」の声が交差する。
桜子の胃は、きゅうっと小さく縮こまったままだった。
「……今日は、ちゃんとお腹空いてるはずなんだけどな」
午前中、まともに何も口にしていない。
それなのに、「お昼を食べる」という行為が、妙に遠く感じられた。
机の上の赤い付箋を一度見てから、桜子はそっと立ち上がった。
資料のファイルではなく、財布とスマホだけを持って。
「ごめんなさい、三十分だけ」
誰にともなく心の中で言い訳して、オフィスを出た。
*
商店街のアーケードに入ると、外の陽射しより少しだけ涼しい空気が頬を撫でた。
揚げ物屋から流れてくる油とソースの匂い、八百屋の青い匂い、パン屋の甘い香り。
いろんな匂いが混ざり合って、昼のざわめきを形にしている。
みつよ食堂の前まで来ると、暖簾がふわりと揺れた。
その隙間から、出汁の香りが細く漏れ出してくる。
「……」
何も考える前に、手が引き戸の取っ手をつかんでいた。
ガラリ、と音がして、中の空気が一気に流れ込む。
湯気と一緒に、昆布と鰹の香りが鼻をくすぐった。
さっきまで胸の奥に張り詰めていた何かが、その匂いに触れた途端、少しだけ緩む。
「いらっしゃいませ」
いつもの声が聞こえた。
カウンターの向こうで、琉叶がエプロンの裾で手を拭きながら、こちらを見ている。
その視線が、ほんの一瞬だけ、いつもより長く桜子の顔に留まった気がした。
「……ひとり、いいですか」
「どうぞ」
琉叶は、カウンターの真ん中あたりを指し示した。
そこは、ホワイトボードの文字がいちばんよく見える位置だった。
今日の日替わりには、「鶏と野菜の黒酢炒め」「冷やしおろしうどん」の文字。
でも、そのどちらにも目が行かなかった。
桜子の視線は、ホワイトボードの端に小さく書かれた文字に吸い寄せられる。
『本日、シンデレラ定食あります』
手書きのその文字を見た瞬間、喉の奥で何かがつかえた。
「今日だけ主役になりたい理由」を書くカード。
今の自分は、そのカードに何と書くのか。
カウンターの上に置かれたペン立てから、ボールペンを一本抜く。
小さなカードの上で、手がほんの少しだけ震えた。
さっきまで部長の前で震えていた「手」と、同じ場所がじんわりと熱い。
『日本語でうまく言えません』
結局、そう書いた。
他にも書きたいことは山ほどあった。
「怒られた」「悔しい」「もうやめたい」「でもやめたくない」。
いろんな言葉が渋滞して、どれもカードの上に並べることができなかった。
カードをスタンドに立てると、琉叶がさりげなくそこに目をやった。
そして、何も言わずに「わかりました」と小さくうなずく。
その仕草に、桜子は少しだけほっとした。
「少し、お待ちくださいね」
琉叶は、いつものように奥へ引っ込む……かと思いきや、一歩だけこちらに戻ってきた。
「……あ、暑いもの、大丈夫ですか?」
「え?」
「今日、いつもよりコロンの匂い、控えめだから」
ぽつり、と落とされた言葉に、桜子の時間が止まった。
「え、ちょっと待って」
思わず声が裏返る。
「なんで、わかるんですか」
「え?」
一瞬だけきょとんとしてから、琉叶は「あ」と気まずそうに笑った。
「あの、いつも、ここに座る前に、ふわっと香るんです」
彼は、自分の鼻先を指で軽くさした。
「今日は、それが少しだけ薄かったから」
「……それだけで?」
「それだけで」
琉叶は、当たり前みたいにうなずく。
「あと、ハンドクリームの匂い、いつもより強いです」
「うわ」
桜子は、思わず両手を引っ込めた。
さっきまで資料の束を抱えていた手を、自分で見下ろす。
「嫌な匂いじゃないですよ」
慌ててフォローするように、琉叶が付け足した。
「ただ、『守りに入ってるなあ』って」
「守りに……」
「はい」
彼は、少し考えながら言葉を選んだ。
「自分を守るときって、匂い、変わる気がして」
その言い方があまりにも真顔で、桜子は笑うタイミングを見失った。
代わりに、胸の奥がじわりと温かくなる。
守りに入っている自分に、ちゃんと気づかれている感じがして。
「じゃあ、今日は」
琉叶は、厨房のほうへ向き直りながら続けた。
「出汁、いつもより、少しだけ強めにしますね」
「え」
「ちゃんと日本語で元気出せるように」
ふっと笑いながら、そう言い残して奥へ消えていった。
*
しばらくすると、カウンター越しに湯気の塊が近づいてきた。
大きめの丼に、たっぷりのうどん。
透き通りかけた出汁の上に、刻んだネギと、とろりとした卵。
そして、その隣に、衣がざくざくと音を立てそうな、大きな海老天が一本。
「シンデレラ定食、本日の主役はうどんです」
琉叶が、そっと丼を置く。
「天ぷら、別添えにしてます。出汁に浸すか、サクサクのままかは、お好みで」
「……いただきます」
桜子は、丼の上で手を合わせた。
箸を入れる前から、出汁の匂いだけで、喉の奥がじんわりと緩む。
一口、汁をすくって口に含むと、昆布と鰹の旨味が、ぱらぱらとほどけていく。
「……あ」
思わず声が漏れた。
さっきまで胸の奥で固まっていた言葉たちが、スープの熱で少しだけ溶けていくような感覚。
「美味しい」と「悔しい」が、同じ場所で混ざり合う。
うどんを一本すするたびに、鼻に抜ける出汁の香りが、心の中のざわつきを洗っていった。
海老天をひと口齧ると、衣がざくりと音を立てる。
その音が、書類の端で指先を切ったときの「チクリ」と違って、妙に心地よかった。
「……どうですか」
琉叶の声に、桜子は顔を上げた。
「日本語で言うと」
「おいしいです」
即答した。
それしか浮かばない。
でも、その「おいしい」は、さっき部長に言われた「甘い」とは違って、ちゃんと自分の言葉だと思えた。
「よかった」
琉叶は、ほっとしたように笑う。
「なんか、今日は難しい顔してたから」
「そんなに、わかりやすい顔してました?」
「してました」
「もう」
そう言いながら、桜子はうどんをもう一口すすった。
「さっきのカード」
琉叶が、カウンターの端のカード立てに目をやる。
「『日本語でうまく言えません』って」
「見ました?」
「見ますよ。シンデレラ定食の注文ですから」
少し照れくさそうに笑ってから、彼は続けた。
「でも、言えないからって、なくなってるわけじゃないですよね」
「……はい」
桜子は、丼の上でもう一度小さくうなずく。
うどんの湯気が、視界を曇らせた。
「そういうときって、だいたい、匂いでわかる気がします」
「匂いで?」
「はい」
琉叶は、カウンター越しに手を組んだ。
「今日みたいに、コロンが控えめで、ハンドクリームが強い日とか」
「それ、さっきの話」
「あと、ほら。緊張してるときって、湯気の匂いを嗅ぐ回数、増えるんですよ」
そう言われて、桜子は自分のさっきの動きを思い返した。
確かに、最初のひと口を飲む前に、何度も丼の湯気を吸い込んでいた。
「……なんか、丸裸にされてる気分です」
「そんなつもりないですよ」
琉叶は、慌てて手を振る。
「ただ、ここで食べてる人の『匂い』くらい、ちゃんと覚えてたいなって」
「覚えてたい?」
「はい」
彼は、少し視線を泳がせてから、小さな声で続けた。
「いつ頑張ってて、いつしんどくなってるか、わかるように」
その言葉に、胸の奥がじん、と痛くなった。
誰かにそんなふうに思われたことがあっただろうか。
「頑張れ」と言われることはあっても、「頑張ってるときの匂いを覚えてたい」とまで言われたことはなかった。
「ねえ」
気づけば、桜子の口が先に動いていた。
「今日の、わたしの匂いは?」
「え?」
「日本語で言うと、どんな匂いですか」
自分で聞いておいて、顔が熱くなる。
琉叶は、ほんの少しだけ考えてから、静かに答えた。
「……いつも頑張ってる人の匂いです」
その言葉は、まるで湯気と一緒にふわりと落ちてきたみたいだった。
「だから、今日は、ちゃんと休憩してから戻ったほうがいいと思います」
「休憩」
「はい。匂いが、張り詰めてるので」
琉叶は、冗談めかして笑う。
「部長さんの匂いに負けないくらい、出汁、強めにしておきました」
思わず吹き出してしまった。
部長の匂いがどんなものかは知らないけれど、その言い方が可笑しくて、涙と笑いが混ざった。
「……なんですか、それ」
「応援、です」
「匂いで応援されるの、初めてです」
「うち、そういう店なんで」
胸を張って言うその姿に、桜子は肩の力が抜けていくのを感じた。
*
丼の底が見えるころには、胸の中の言葉の渋滞も、少しだけ整理されていた。
全部を日本語でうまく説明することは、まだできない。
でも、「悔しい」と「もう一回やってみたい」が、同じ場所に並んでいることだけははっきりしていた。
「ごちそうさまでした」
深く頭を下げると、出汁の匂いが髪にうっすらとまとわりつく気がした。
「いってらっしゃい」
琉叶が、いつものようにそう言う。
「匂い、変わったら、また来てください」
「変わらなくても、来ていいですか」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「もちろん」
琉叶は、少し驚いたように目を見開いてから、柔らかく笑った。
「そのときは、その日の匂いのままのシンデレラ定食、作ります」
店を出て、商店街の空気に触れると、さっきまでよりも少しだけ世界が明るく見えた。
出汁と油と八百屋の青い香り。
そのすべてに、自分の匂いがすこしだけ混ざっているような気がして、桜子はそっと胸いっぱいに息を吸い込んだ。
誰かがデスクで齧ったパンの匂いが、エアコンの風に乗って列をなぞる。
パソコンの起動音と、プリンターの唸り声と、電話のベルが、同時多発的に鳴り始める時間帯だった。
桜子のデスクの上には、資料のファイルと、今日のタスクを書き出したメモが山になっていた。
そのいちばん上に、赤い付箋が一枚、妙に存在感を放っている。
『午前中までに再作成。部長レビュー必須』
ボールペンで書かれた文字は、昨日の日付のままだった。
金曜日の夜、ざっくりと指摘だけ受けて持ち帰った企画書。
週末の間、開きかけては閉じ、開きかけては閉じを繰り返したファイルだった。
コロンの小瓶のふたを開けて、いつもの量を迷いなく手首に落とす。
けれど、今日に限って、その動きが途中で止まった。
「……ちょっと、控えめにしよ」
自分に聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいて、瓶をそっと置く。
代わりに、ハンドクリームを多めに伸ばした。
柑橘の匂いは、どこか心細く、その日の自分の防御力の薄さを自覚させる。
*
「で、ここがねえ」
午前十一時過ぎ。会議室の空気は、冷房が効いているのに、どこか息苦しかった。
部長の指先が、モニターに映るグラフの一角をとん、と軽く叩く。
「数字の根拠が甘いんだよね」
「すみません」
桜子は、椅子に座ったまま深く頭を下げる。
「甘いっていうかさ」
部長は、椅子の背にもたれ、腕を組み直した。
「『雰囲気』で書いてない? ここ」
という言葉に、隣の先輩が気まずそうに視線を逸らした。
「とりあえず『頑張ります』って言う前に、具体的にどこをどう直すのか、自分で言ってみて」
いつのまにか、「ここがこうで」と説明するはずの立場が、「どこが駄目か答えてみて」に変わっている。
桜子の喉の奥で、言葉がひっかかった。
「……ターゲットの設定がぼやけていたので、セグメントを細かく見直して、数字を――」
「ほらね」
部長は、ため息混じりに笑う。
「セグメントって言葉を使う前にさ、『誰に』って、日本語で言おうか」
「……はい」
ホワイトボードに映る自分の資料が、急に薄っぺらく感じた。
昨夜、自宅でパソコンに向かっていたときは、それなりに筋が通っていると思っていたのに。
上司の数十秒の言葉で、その「それなり」が、簡単に剝がされていく。
「午後の会議までに、出し直せる?」
「……やってみます」
「やってみます、じゃなくて、やるの」
部長の声が、最後に少しだけきつくなる。
「間に合わなかったら、今回の案件自体、別チームに回すから」
誰かが「はい」と返事をする。
自分の声なのか、隣の先輩の声なのか、一瞬わからなかった。
*
会議室を出るとき、書類を抱えた「手」がじんわりと汗ばむのを感じた。
コピー用紙の端が、指先に細かい傷をつける。
その小さな痛みが、やけに鮮明だった。
「桜子、大丈夫?」
廊下で待っていた同期の麻衣が、気まずそうに笑う。
「けっこう言われてたね……」
「うん。まあ、いつものやつ」
そう言って笑ってみせるけれど、頬の筋肉がうまく動いてくれない。
「お昼、一緒に行く?」
「ごめん。ちょっと……」
胸のあたりを押さえるようにして言う。
「先に資料、直しちゃいたくて」
「そっか。無理しないでね」
麻衣は、何か言いたげに唇を結んでから、別のグループのほうへ歩いて行った。
自分の席に戻ってパソコンを開いても、さっきの部長の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
『セグメントって言葉を使う前にさ』
『日本語で言おうか』
「日本語で言おうか」
つぶやいてみると、自分の声が少し震えているのがわかった。
カタカナばかり並べた資料より、自分のほうがよほど薄っぺらく見える。
時計は、もうすぐ十二時半を指そうとしていた。
オフィスのあちこちで、椅子の立つ音と、「行きますか」の声が交差する。
桜子の胃は、きゅうっと小さく縮こまったままだった。
「……今日は、ちゃんとお腹空いてるはずなんだけどな」
午前中、まともに何も口にしていない。
それなのに、「お昼を食べる」という行為が、妙に遠く感じられた。
机の上の赤い付箋を一度見てから、桜子はそっと立ち上がった。
資料のファイルではなく、財布とスマホだけを持って。
「ごめんなさい、三十分だけ」
誰にともなく心の中で言い訳して、オフィスを出た。
*
商店街のアーケードに入ると、外の陽射しより少しだけ涼しい空気が頬を撫でた。
揚げ物屋から流れてくる油とソースの匂い、八百屋の青い匂い、パン屋の甘い香り。
いろんな匂いが混ざり合って、昼のざわめきを形にしている。
みつよ食堂の前まで来ると、暖簾がふわりと揺れた。
その隙間から、出汁の香りが細く漏れ出してくる。
「……」
何も考える前に、手が引き戸の取っ手をつかんでいた。
ガラリ、と音がして、中の空気が一気に流れ込む。
湯気と一緒に、昆布と鰹の香りが鼻をくすぐった。
さっきまで胸の奥に張り詰めていた何かが、その匂いに触れた途端、少しだけ緩む。
「いらっしゃいませ」
いつもの声が聞こえた。
カウンターの向こうで、琉叶がエプロンの裾で手を拭きながら、こちらを見ている。
その視線が、ほんの一瞬だけ、いつもより長く桜子の顔に留まった気がした。
「……ひとり、いいですか」
「どうぞ」
琉叶は、カウンターの真ん中あたりを指し示した。
そこは、ホワイトボードの文字がいちばんよく見える位置だった。
今日の日替わりには、「鶏と野菜の黒酢炒め」「冷やしおろしうどん」の文字。
でも、そのどちらにも目が行かなかった。
桜子の視線は、ホワイトボードの端に小さく書かれた文字に吸い寄せられる。
『本日、シンデレラ定食あります』
手書きのその文字を見た瞬間、喉の奥で何かがつかえた。
「今日だけ主役になりたい理由」を書くカード。
今の自分は、そのカードに何と書くのか。
カウンターの上に置かれたペン立てから、ボールペンを一本抜く。
小さなカードの上で、手がほんの少しだけ震えた。
さっきまで部長の前で震えていた「手」と、同じ場所がじんわりと熱い。
『日本語でうまく言えません』
結局、そう書いた。
他にも書きたいことは山ほどあった。
「怒られた」「悔しい」「もうやめたい」「でもやめたくない」。
いろんな言葉が渋滞して、どれもカードの上に並べることができなかった。
カードをスタンドに立てると、琉叶がさりげなくそこに目をやった。
そして、何も言わずに「わかりました」と小さくうなずく。
その仕草に、桜子は少しだけほっとした。
「少し、お待ちくださいね」
琉叶は、いつものように奥へ引っ込む……かと思いきや、一歩だけこちらに戻ってきた。
「……あ、暑いもの、大丈夫ですか?」
「え?」
「今日、いつもよりコロンの匂い、控えめだから」
ぽつり、と落とされた言葉に、桜子の時間が止まった。
「え、ちょっと待って」
思わず声が裏返る。
「なんで、わかるんですか」
「え?」
一瞬だけきょとんとしてから、琉叶は「あ」と気まずそうに笑った。
「あの、いつも、ここに座る前に、ふわっと香るんです」
彼は、自分の鼻先を指で軽くさした。
「今日は、それが少しだけ薄かったから」
「……それだけで?」
「それだけで」
琉叶は、当たり前みたいにうなずく。
「あと、ハンドクリームの匂い、いつもより強いです」
「うわ」
桜子は、思わず両手を引っ込めた。
さっきまで資料の束を抱えていた手を、自分で見下ろす。
「嫌な匂いじゃないですよ」
慌ててフォローするように、琉叶が付け足した。
「ただ、『守りに入ってるなあ』って」
「守りに……」
「はい」
彼は、少し考えながら言葉を選んだ。
「自分を守るときって、匂い、変わる気がして」
その言い方があまりにも真顔で、桜子は笑うタイミングを見失った。
代わりに、胸の奥がじわりと温かくなる。
守りに入っている自分に、ちゃんと気づかれている感じがして。
「じゃあ、今日は」
琉叶は、厨房のほうへ向き直りながら続けた。
「出汁、いつもより、少しだけ強めにしますね」
「え」
「ちゃんと日本語で元気出せるように」
ふっと笑いながら、そう言い残して奥へ消えていった。
*
しばらくすると、カウンター越しに湯気の塊が近づいてきた。
大きめの丼に、たっぷりのうどん。
透き通りかけた出汁の上に、刻んだネギと、とろりとした卵。
そして、その隣に、衣がざくざくと音を立てそうな、大きな海老天が一本。
「シンデレラ定食、本日の主役はうどんです」
琉叶が、そっと丼を置く。
「天ぷら、別添えにしてます。出汁に浸すか、サクサクのままかは、お好みで」
「……いただきます」
桜子は、丼の上で手を合わせた。
箸を入れる前から、出汁の匂いだけで、喉の奥がじんわりと緩む。
一口、汁をすくって口に含むと、昆布と鰹の旨味が、ぱらぱらとほどけていく。
「……あ」
思わず声が漏れた。
さっきまで胸の奥で固まっていた言葉たちが、スープの熱で少しだけ溶けていくような感覚。
「美味しい」と「悔しい」が、同じ場所で混ざり合う。
うどんを一本すするたびに、鼻に抜ける出汁の香りが、心の中のざわつきを洗っていった。
海老天をひと口齧ると、衣がざくりと音を立てる。
その音が、書類の端で指先を切ったときの「チクリ」と違って、妙に心地よかった。
「……どうですか」
琉叶の声に、桜子は顔を上げた。
「日本語で言うと」
「おいしいです」
即答した。
それしか浮かばない。
でも、その「おいしい」は、さっき部長に言われた「甘い」とは違って、ちゃんと自分の言葉だと思えた。
「よかった」
琉叶は、ほっとしたように笑う。
「なんか、今日は難しい顔してたから」
「そんなに、わかりやすい顔してました?」
「してました」
「もう」
そう言いながら、桜子はうどんをもう一口すすった。
「さっきのカード」
琉叶が、カウンターの端のカード立てに目をやる。
「『日本語でうまく言えません』って」
「見ました?」
「見ますよ。シンデレラ定食の注文ですから」
少し照れくさそうに笑ってから、彼は続けた。
「でも、言えないからって、なくなってるわけじゃないですよね」
「……はい」
桜子は、丼の上でもう一度小さくうなずく。
うどんの湯気が、視界を曇らせた。
「そういうときって、だいたい、匂いでわかる気がします」
「匂いで?」
「はい」
琉叶は、カウンター越しに手を組んだ。
「今日みたいに、コロンが控えめで、ハンドクリームが強い日とか」
「それ、さっきの話」
「あと、ほら。緊張してるときって、湯気の匂いを嗅ぐ回数、増えるんですよ」
そう言われて、桜子は自分のさっきの動きを思い返した。
確かに、最初のひと口を飲む前に、何度も丼の湯気を吸い込んでいた。
「……なんか、丸裸にされてる気分です」
「そんなつもりないですよ」
琉叶は、慌てて手を振る。
「ただ、ここで食べてる人の『匂い』くらい、ちゃんと覚えてたいなって」
「覚えてたい?」
「はい」
彼は、少し視線を泳がせてから、小さな声で続けた。
「いつ頑張ってて、いつしんどくなってるか、わかるように」
その言葉に、胸の奥がじん、と痛くなった。
誰かにそんなふうに思われたことがあっただろうか。
「頑張れ」と言われることはあっても、「頑張ってるときの匂いを覚えてたい」とまで言われたことはなかった。
「ねえ」
気づけば、桜子の口が先に動いていた。
「今日の、わたしの匂いは?」
「え?」
「日本語で言うと、どんな匂いですか」
自分で聞いておいて、顔が熱くなる。
琉叶は、ほんの少しだけ考えてから、静かに答えた。
「……いつも頑張ってる人の匂いです」
その言葉は、まるで湯気と一緒にふわりと落ちてきたみたいだった。
「だから、今日は、ちゃんと休憩してから戻ったほうがいいと思います」
「休憩」
「はい。匂いが、張り詰めてるので」
琉叶は、冗談めかして笑う。
「部長さんの匂いに負けないくらい、出汁、強めにしておきました」
思わず吹き出してしまった。
部長の匂いがどんなものかは知らないけれど、その言い方が可笑しくて、涙と笑いが混ざった。
「……なんですか、それ」
「応援、です」
「匂いで応援されるの、初めてです」
「うち、そういう店なんで」
胸を張って言うその姿に、桜子は肩の力が抜けていくのを感じた。
*
丼の底が見えるころには、胸の中の言葉の渋滞も、少しだけ整理されていた。
全部を日本語でうまく説明することは、まだできない。
でも、「悔しい」と「もう一回やってみたい」が、同じ場所に並んでいることだけははっきりしていた。
「ごちそうさまでした」
深く頭を下げると、出汁の匂いが髪にうっすらとまとわりつく気がした。
「いってらっしゃい」
琉叶が、いつものようにそう言う。
「匂い、変わったら、また来てください」
「変わらなくても、来ていいですか」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「もちろん」
琉叶は、少し驚いたように目を見開いてから、柔らかく笑った。
「そのときは、その日の匂いのままのシンデレラ定食、作ります」
店を出て、商店街の空気に触れると、さっきまでよりも少しだけ世界が明るく見えた。
出汁と油と八百屋の青い香り。
そのすべてに、自分の匂いがすこしだけ混ざっているような気がして、桜子はそっと胸いっぱいに息を吸い込んだ。
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