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第10話 シンデレラの零時は閉店時間
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金曜日の夜、オフィスの照明は、蛍光灯の白さから、残業モードの青白さに変わっていた。
定時をとうに過ぎているのに、パソコンの画面だけが一面に光っているフロアは、どこか無人の駅のホームみたいに心細い。
桜子のデスクの上には、資料の束と、付箋で色だらけになった企画書が広がっていた。
マグカップの底には、冷めたコーヒーが少しだけ残っている。香りはもう消えていて、黒い液体だけが、疲れを映す鏡みたいに沈んでいた。
「桜子、もう帰らない?」
向かいの席から、同期の麻衣が声をかけてきた。
「さすがに、そろそろ限界なんだけど」
「うん、わたしも……」
そう言いながら、桜子は手元の時計を見る。
針は、もうじき二十二時を指そうとしていた。
「今日、飲み、行くんじゃなかったっけ?」
「そのはずだったんだけどね」
スマホの画面には、「ごめん、今日は先に帰る」「また今度ゆっくり話そう」というメッセージが並んでいる。
凌から送られてきたそれを、桜子はさっきから何度も見返していた。
「向こうも忙しいし、仕方ないよ」
自分に言い聞かせるように口にしてみても、胸の中に残る寂しさは、なかなか薄くならない。
「じゃあ、先に上がるね」
麻衣が上着を羽織って席を立つ。
「途中まで一緒に帰る?」
「わたし、もうちょっとだけやってく」
「無理しないでよ。倒れたら元も子もないから」
「うん」
麻衣の背中を見送りながら、桜子は深く息を吐いた。
再びモニターに向き直る。
グラフと文章と、赤入れされたコメントが、画面の中でノイズみたいに踊っている。
カーソルを動かしながら、ふと、自分の「手」が止まった。
気づけば、時計の針は二十二時半を少し過ぎていた。
商店街の閉店時間を頭の中で逆算してみる。
電車に飛び乗って、駅から早足で歩けば――ぎりぎり、間に合うかもしれない。
「……今日の分は、ここまで」
桜子は、ファイルを上書き保存してパソコンを閉じた。
机の上の付箋に、「続きは月曜」と書いてペンを置く。
椅子から立ち上がるとき、腿のあたりがじんと重かった。長時間座りっぱなしだった身体が、ようやく自分の重さを思い出したみたいだった。
*
電車を降りて商店街に向かう道は、いつもと違う空気をまとっていた。
ネオン看板の半分はもう消えていて、シャッターを下ろし始めている店も多い。
夜風は少し冷たく、コートの襟元からすべり込んでくる空気に、肩がすぼまる。
アーケードの中に入ると、昼間の喧騒が嘘みたいだった。
八百屋はすでに真っ暗で、惣菜屋も、ガラスケースを拭きながら残りのコロッケを片づけているところだった。
それでも、奥のほうから、かすかに出汁の匂いが漂ってくる。
みつよ食堂の前にたどり着くと、暖簾はまだ出ていた。
けれど、「営業中」の札は、裏返しにされかけている。
美津代が、引き戸の向こう側で札に手を伸ばしたところだった。
「あっ」
思わず声が出る。
「すみません、まだ……大丈夫ですか?」
美津代が、札にかけていた「手」を止めた。
引き戸が少しだけ開いて、隙間から顔がのぞく。
「おや。ギリギリのシンデレラさん、いらっしゃい」
「ごめんなさい、閉店時間、過ぎてます?」
「うちの時計では、まだ『ラストオーダー五分前』ってことにしとくわ」
にやりと笑うと、美津代は札を元通り「営業中」に戻した。
「一人?」
「はい」
「じゃあ、特別に、本日の最終シンデレラ、受け付けます」
そう言って、暖簾を指でちょんと持ち上げてくれる。
桜子は、ほっと胸を撫で下ろしながら中へ足を踏み入れた。
店内には、客が一人もいなかった。
カウンターの上には、さっきまで使われていた湯のみが二つ置かれているだけで、テーブル席はすでに片づけが終わっている。
時計の針は、二十三時に届く少し前をさしていた。
「いらっしゃいませ」
奥から、琉叶の声がする。
エプロンの紐をほどきかけていたのか、腰のあたりで手が止まったまま、こちらを見た。
「間に合いましたね」
「駆け込み、セーフですか?」
「ギリギリ、アウトにしようかなと思ったんですけど」
一拍置いて、琉叶は口元をゆるめる。
「うちの零時は、ラストオーダーにしてるんで」
「零時、ですか」
「はい。世間の零時より、ちょっと早めですけど」
壁時計の針をちらりと見て、肩をすくめる。
「それまでに飛び込んできた人は、全員シンデレラ扱い」
「じゃあ、今日はギリギリ、シンデレラってことで」
桜子は、カウンターの真ん中の席に腰を下ろした。
座った瞬間、背中から疲れがじわっと広がる。
それを隠すように、鞄を足元に置いて、コートを畳んだ。
「今日は、どんな理由ですか」
琉叶が、ペン立てからボールペンを一本抜く。
カウンターの上には、いつもの「今日だけ主役になりたい理由」と書かれたカードが一枚、ぽんと置かれた。
「……今日は」
桜子は、カードを見つめたまま、少しだけ黙り込む。
頭の中には、「残業」「キャンセルされた約束」「冷めたコーヒー」といった言葉が並ぶけれど、どれも、そのまま書くには少し味気ない。
ペン先をカードの上に置いて、手を止める。
深呼吸を一つしてから、ゆっくりと文字を走らせた。
『今日くらい、時間に追い出されずに座っていたいです』
書き終えたカードを、スタンドに立てる。
琉叶は、それを一度だけ目で追い、何も言わずに小さくうなずいた。
「かしこまりました」
その一言だけ残して、奥へと引っ込む。
厨房からは、水の音と、鍋が火にかかる音が聞こえてきた。
*
店内は、外の世界から切り離されたみたいに静かだった。
ガラス戸の向こうを、人影がときどき通り過ぎるが、その足音はここまで届かない。
聞こえるのは、換気扇の低い唸りと、厨房の中のリズムだけ。
ふと、カウンターの向こうを見ると、美津代が帳簿を閉じて立ち上がるところだった。
「わたしは、ちょっと裏で支度してくるから」
「はい」
「ゆっくりしてきなよ」
桜子に向かってそう言うと、美津代は奥の小さな扉の向こうへ消えていった。
カウンターと厨房のあいだに、琉叶と桜子だけが残る。
なんとも言えない沈黙が落ちて、それを破るように、鍋の中で湯が小さく踊り始めた。
「今日は、重いのと軽いの、どっちがいいですか」
湯気の向こうから、琉叶の声がする。
「重いのと軽いの?」
「お腹に、です」
「……軽めでお願いします」
即答すると、琉叶がくすりと笑った。
「ですよね」
切り分けられる野菜の音、卵を割る音、フライパンに油をひく音。
耳を澄ませていると、ひとつひとつの音に、今日捨ててきた言葉の代わりが詰まっているような気がした。
しばらくして、カウンターの上に、湯気をまとったお盆がそっと置かれる。
大きめの丼に、たっぷりのとろみのついた卵あん。
その下には、白いごはんが隠れている。
隣には、小さなサラダと、澄んだスープ。
「本日のシンデレラ定食、閉店間際バージョンです」
琉叶が、少し照れくさそうに言った。
「卵あんかけごはん。胃に優しくて、早く食べられて、でもちゃんと『食べた』って感じがするやつ」
「……おいしそう」
桜子は、湯気の向こうで目を細めた。
卵の黄色と、上に散らされた小口ネギの緑が、夜の店内でやけにあざやかに見える。
「うちの零時、ほんとは二十三時なんですけど」
琉叶が、お盆の端に箸をそっと添える。
「今日は、シンデレラが駆け込んできたんで、少し延長しました」
「延長料金、取られます?」
「取るとしたら……そうですね」
琉叶は、少しだけ考えるふりをした。
「一口ごとに、『おいしい』って日本語で言ってもらうとか」
「それ、結構高いですね」
思わず笑ってしまう。
「じゃあ、まとめて言うのもありにしときます」
「まとめ払い」
「はい」
「いただきます」
桜子は、手を合わせてから、卵あんをひとすくい口に運んだ。
ふわりと軽い卵の甘さと、出汁のやさしい塩気が、舌の上で一度にほどける。
そのあとから、あたたかさが喉を通って、胃のあたりまでじんわりと降りていく。
一口、また一口と食べ進めるうちに、胸の奥に張り詰めていたものが、少しずつ溶けていく。
さっきまでの残業の時間が、遠い昔の出来事みたいに感じられる。
「……今日、」
丼の半分くらいを食べたころ、桜子は箸を止めた。
「ここに来るかどうか、迷ったんです」
「そうなんですか」
「まっすぐ帰って、お風呂入って、寝ちゃったほうがいいかなって」
「それも、正解だと思います」
「ですよね」
小さく笑ってから、続ける。
「でも、今日みたいな日こそ、ここに来なかったら、きっと何かが終わっちゃう気がして」
「何か、ですか」
「うまく言えないんですけど」
視線を丼の縁に落とす。
「『ちゃんとした大人』の時間に追い出されてるみたいな感じが、最近ずっとしてて」
「ちゃんとした大人」
「仕事も、恋人との予定も、全部、『この時間までに』『この日までに』って枠で動いてて。
その枠からちょっとでもはみ出すと、『だめな社会人』って言われそうで」
口にしてみると、自分でも驚くくらい素直な言葉だった。
誰に聞かせるつもりもなかった本音が、卵あんのあたたかさに押し出されるみたいに、ぽつぽつとこぼれていく。
「ここは?」
琉叶が、静かに尋ねる。
「ここにいるときは、どうですか」
「ここにいるときだけは」
桜子は、丼の上で、ゆっくりと箸を組み替えた。
「時間に追い出されずに、自分から『そろそろ帰ろう』って決められる気がするんです。
誰かの予定とか、世間の『零時』じゃなくて」
その言葉を聞いた瞬間、琉叶の目が、ほんの少しだけ丸くなった。
驚きというよりは、「ああ、やっぱり」と納得しているような表情だった。
「……じゃあ、うちの零時、もうちょっとだけ伸ばしておきましょうか」
「え?」
「常連さんの申請があったので」
冗談めかして言うと、桜子が吹き出した。
「そんなの、どこに申請すればいいんですか」
「カウンター越しに、口頭で」
「じゃあ、いまので、申請完了ってことで」
「承認しときます」
笑い声が、小さな店内にやわらかく広がる。
時計の針は、静かに二十三時を指したところだった。
「……ここにいるときだけ、素でいられる気がします」
ふと、桜子がぽつりとこぼした。
自分で言ってから、顔が少し赤くなる。
「会社でも、彼氏の前でも、ちゃんとした自分を演じてるなあって思うことが多くて。
ここだと、コロッケ落としそうになっても笑ってくれるし、カードの字がぐちゃぐちゃでも読んでくれるし」
「コロッケ落としそうになったのは、僕ですけどね」
「そうでした」
思い出して、二人同時に笑う。
「素でいられるなら、何よりです」
琉叶は、カウンターの内側で手を組んだ。
「うち、そういう人のために、零時をちょっとだけずらしてるのかもしれないので」
「それ、メニューに書いたほうがいいですよ」
「『素でいられる人限定、閉店時間延長』って?」
「絶対、常連増えます」
「その代わり、厨房の人間の体力が持つかどうか問題が」
「そこは、ちゃんと休んでください」
「がんばります」
「そこは、『がんばります』じゃなくて、『がんばりすぎません』って言ってほしいんですけど」
「……検討します」
二人の会話は、些細な言葉遊びみたいに続いていった。
*
卵あんかけごはんを食べ終え、スープまで飲み干したころには、桜子の表情から、ほとんどの疲れが抜けていた。
もちろん、仕事の課題が解決したわけではない。
凌との距離が勝手に縮まってくれるわけでもない。
でも、「明日もなんとかやれそうだ」と思えるくらいには、心が温まっていた。
「ごちそうさまでした」
深く頭を下げると、髪がさらりと肩に落ちる。
その動きに合わせて、うっすらとコロンの香りが揺れた。
「いってらっしゃい」
琉叶は、いつものようにそう言いかけてから、少しだけ言い直した。
「……おやすみなさい、かな。今日は」
「ですね」
桜子は、笑いながら頷いた。
「おやすみなさい」
コートを羽織り、鞄を肩にかける。
引き戸に「手」をかけたところで、ふと振り返った。
カウンターの向こうには、琉叶が立っている。
その背後の厨房には、まだ片づけていない鍋やまな板が並んでいた。
「また、来てもいいですか」
自分でも不思議なくらい素直な言葉が、するりと口からこぼれた。
「閉店間際に」
「大歓迎です」
琉叶は、ためらいなく答える。
「ただし、零時を過ぎたら、かぼちゃに変えます」
「それ、かぼちゃの煮つけとかなら、逆に嬉しいかもしれないです」
「じゃあ、メニューに入れておきます」
そんなやりとりを最後に、桜子は店を後にした。
外に出ると、商店街の空気はひんやりしている。
アーケードの外れから見上げる空には、うっすらと星がにじんでいた。
背中のほうで、ガラリ、と引き戸の閉まる音がする。
続いて、「営業中」の札が裏返される小さな音。
みつよ食堂の零時が、静かに訪れた。
*
厨房では、美津代が、さっき閉じた帳簿をもう一度開いていた。
今日の売上、常連の顔ぶれ、仕入れのメモ。
ページの端に、ボールペンで小さく書き足す。
『シンデレラ定食、ちゃんと看板にすること』
その文字を見つめながら、美津代は小さくうなずいた。
「そろそろ、あの子たちの『物語』、外にも出していっていい頃だね」
誰にともなくつぶやき、ペンを置く。
隣では、琉叶が最後の鍋を洗い終え、手を拭きながらあくびをかみ殺している。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
「ねえ、琉叶」
「はい?」
「今度、商店街の連中が、面白い企画をやろうって言ってるんだけどね」
そう切り出したところで、美津代は一度言葉を切った。
「……その話は、また明日。
今日は、ちゃんと『がんばりすぎません』ってやつ、守っときな」
「はい」
琉叶は、さっき桜子に言われた言葉を思い出しながら、素直にうなずいた。
自分の「手」を見下ろす。
少し荒れている指先を、タオルでそっと包んだ。
店の明かりがひとつずつ消えていく。
最後に残ったカウンターの小さな照明が落ち、みつよ食堂は夜の中に溶け込んだ。
外では、風に揺れる赤いひさしだけが、かすかな余熱を覚えていた。
定時をとうに過ぎているのに、パソコンの画面だけが一面に光っているフロアは、どこか無人の駅のホームみたいに心細い。
桜子のデスクの上には、資料の束と、付箋で色だらけになった企画書が広がっていた。
マグカップの底には、冷めたコーヒーが少しだけ残っている。香りはもう消えていて、黒い液体だけが、疲れを映す鏡みたいに沈んでいた。
「桜子、もう帰らない?」
向かいの席から、同期の麻衣が声をかけてきた。
「さすがに、そろそろ限界なんだけど」
「うん、わたしも……」
そう言いながら、桜子は手元の時計を見る。
針は、もうじき二十二時を指そうとしていた。
「今日、飲み、行くんじゃなかったっけ?」
「そのはずだったんだけどね」
スマホの画面には、「ごめん、今日は先に帰る」「また今度ゆっくり話そう」というメッセージが並んでいる。
凌から送られてきたそれを、桜子はさっきから何度も見返していた。
「向こうも忙しいし、仕方ないよ」
自分に言い聞かせるように口にしてみても、胸の中に残る寂しさは、なかなか薄くならない。
「じゃあ、先に上がるね」
麻衣が上着を羽織って席を立つ。
「途中まで一緒に帰る?」
「わたし、もうちょっとだけやってく」
「無理しないでよ。倒れたら元も子もないから」
「うん」
麻衣の背中を見送りながら、桜子は深く息を吐いた。
再びモニターに向き直る。
グラフと文章と、赤入れされたコメントが、画面の中でノイズみたいに踊っている。
カーソルを動かしながら、ふと、自分の「手」が止まった。
気づけば、時計の針は二十二時半を少し過ぎていた。
商店街の閉店時間を頭の中で逆算してみる。
電車に飛び乗って、駅から早足で歩けば――ぎりぎり、間に合うかもしれない。
「……今日の分は、ここまで」
桜子は、ファイルを上書き保存してパソコンを閉じた。
机の上の付箋に、「続きは月曜」と書いてペンを置く。
椅子から立ち上がるとき、腿のあたりがじんと重かった。長時間座りっぱなしだった身体が、ようやく自分の重さを思い出したみたいだった。
*
電車を降りて商店街に向かう道は、いつもと違う空気をまとっていた。
ネオン看板の半分はもう消えていて、シャッターを下ろし始めている店も多い。
夜風は少し冷たく、コートの襟元からすべり込んでくる空気に、肩がすぼまる。
アーケードの中に入ると、昼間の喧騒が嘘みたいだった。
八百屋はすでに真っ暗で、惣菜屋も、ガラスケースを拭きながら残りのコロッケを片づけているところだった。
それでも、奥のほうから、かすかに出汁の匂いが漂ってくる。
みつよ食堂の前にたどり着くと、暖簾はまだ出ていた。
けれど、「営業中」の札は、裏返しにされかけている。
美津代が、引き戸の向こう側で札に手を伸ばしたところだった。
「あっ」
思わず声が出る。
「すみません、まだ……大丈夫ですか?」
美津代が、札にかけていた「手」を止めた。
引き戸が少しだけ開いて、隙間から顔がのぞく。
「おや。ギリギリのシンデレラさん、いらっしゃい」
「ごめんなさい、閉店時間、過ぎてます?」
「うちの時計では、まだ『ラストオーダー五分前』ってことにしとくわ」
にやりと笑うと、美津代は札を元通り「営業中」に戻した。
「一人?」
「はい」
「じゃあ、特別に、本日の最終シンデレラ、受け付けます」
そう言って、暖簾を指でちょんと持ち上げてくれる。
桜子は、ほっと胸を撫で下ろしながら中へ足を踏み入れた。
店内には、客が一人もいなかった。
カウンターの上には、さっきまで使われていた湯のみが二つ置かれているだけで、テーブル席はすでに片づけが終わっている。
時計の針は、二十三時に届く少し前をさしていた。
「いらっしゃいませ」
奥から、琉叶の声がする。
エプロンの紐をほどきかけていたのか、腰のあたりで手が止まったまま、こちらを見た。
「間に合いましたね」
「駆け込み、セーフですか?」
「ギリギリ、アウトにしようかなと思ったんですけど」
一拍置いて、琉叶は口元をゆるめる。
「うちの零時は、ラストオーダーにしてるんで」
「零時、ですか」
「はい。世間の零時より、ちょっと早めですけど」
壁時計の針をちらりと見て、肩をすくめる。
「それまでに飛び込んできた人は、全員シンデレラ扱い」
「じゃあ、今日はギリギリ、シンデレラってことで」
桜子は、カウンターの真ん中の席に腰を下ろした。
座った瞬間、背中から疲れがじわっと広がる。
それを隠すように、鞄を足元に置いて、コートを畳んだ。
「今日は、どんな理由ですか」
琉叶が、ペン立てからボールペンを一本抜く。
カウンターの上には、いつもの「今日だけ主役になりたい理由」と書かれたカードが一枚、ぽんと置かれた。
「……今日は」
桜子は、カードを見つめたまま、少しだけ黙り込む。
頭の中には、「残業」「キャンセルされた約束」「冷めたコーヒー」といった言葉が並ぶけれど、どれも、そのまま書くには少し味気ない。
ペン先をカードの上に置いて、手を止める。
深呼吸を一つしてから、ゆっくりと文字を走らせた。
『今日くらい、時間に追い出されずに座っていたいです』
書き終えたカードを、スタンドに立てる。
琉叶は、それを一度だけ目で追い、何も言わずに小さくうなずいた。
「かしこまりました」
その一言だけ残して、奥へと引っ込む。
厨房からは、水の音と、鍋が火にかかる音が聞こえてきた。
*
店内は、外の世界から切り離されたみたいに静かだった。
ガラス戸の向こうを、人影がときどき通り過ぎるが、その足音はここまで届かない。
聞こえるのは、換気扇の低い唸りと、厨房の中のリズムだけ。
ふと、カウンターの向こうを見ると、美津代が帳簿を閉じて立ち上がるところだった。
「わたしは、ちょっと裏で支度してくるから」
「はい」
「ゆっくりしてきなよ」
桜子に向かってそう言うと、美津代は奥の小さな扉の向こうへ消えていった。
カウンターと厨房のあいだに、琉叶と桜子だけが残る。
なんとも言えない沈黙が落ちて、それを破るように、鍋の中で湯が小さく踊り始めた。
「今日は、重いのと軽いの、どっちがいいですか」
湯気の向こうから、琉叶の声がする。
「重いのと軽いの?」
「お腹に、です」
「……軽めでお願いします」
即答すると、琉叶がくすりと笑った。
「ですよね」
切り分けられる野菜の音、卵を割る音、フライパンに油をひく音。
耳を澄ませていると、ひとつひとつの音に、今日捨ててきた言葉の代わりが詰まっているような気がした。
しばらくして、カウンターの上に、湯気をまとったお盆がそっと置かれる。
大きめの丼に、たっぷりのとろみのついた卵あん。
その下には、白いごはんが隠れている。
隣には、小さなサラダと、澄んだスープ。
「本日のシンデレラ定食、閉店間際バージョンです」
琉叶が、少し照れくさそうに言った。
「卵あんかけごはん。胃に優しくて、早く食べられて、でもちゃんと『食べた』って感じがするやつ」
「……おいしそう」
桜子は、湯気の向こうで目を細めた。
卵の黄色と、上に散らされた小口ネギの緑が、夜の店内でやけにあざやかに見える。
「うちの零時、ほんとは二十三時なんですけど」
琉叶が、お盆の端に箸をそっと添える。
「今日は、シンデレラが駆け込んできたんで、少し延長しました」
「延長料金、取られます?」
「取るとしたら……そうですね」
琉叶は、少しだけ考えるふりをした。
「一口ごとに、『おいしい』って日本語で言ってもらうとか」
「それ、結構高いですね」
思わず笑ってしまう。
「じゃあ、まとめて言うのもありにしときます」
「まとめ払い」
「はい」
「いただきます」
桜子は、手を合わせてから、卵あんをひとすくい口に運んだ。
ふわりと軽い卵の甘さと、出汁のやさしい塩気が、舌の上で一度にほどける。
そのあとから、あたたかさが喉を通って、胃のあたりまでじんわりと降りていく。
一口、また一口と食べ進めるうちに、胸の奥に張り詰めていたものが、少しずつ溶けていく。
さっきまでの残業の時間が、遠い昔の出来事みたいに感じられる。
「……今日、」
丼の半分くらいを食べたころ、桜子は箸を止めた。
「ここに来るかどうか、迷ったんです」
「そうなんですか」
「まっすぐ帰って、お風呂入って、寝ちゃったほうがいいかなって」
「それも、正解だと思います」
「ですよね」
小さく笑ってから、続ける。
「でも、今日みたいな日こそ、ここに来なかったら、きっと何かが終わっちゃう気がして」
「何か、ですか」
「うまく言えないんですけど」
視線を丼の縁に落とす。
「『ちゃんとした大人』の時間に追い出されてるみたいな感じが、最近ずっとしてて」
「ちゃんとした大人」
「仕事も、恋人との予定も、全部、『この時間までに』『この日までに』って枠で動いてて。
その枠からちょっとでもはみ出すと、『だめな社会人』って言われそうで」
口にしてみると、自分でも驚くくらい素直な言葉だった。
誰に聞かせるつもりもなかった本音が、卵あんのあたたかさに押し出されるみたいに、ぽつぽつとこぼれていく。
「ここは?」
琉叶が、静かに尋ねる。
「ここにいるときは、どうですか」
「ここにいるときだけは」
桜子は、丼の上で、ゆっくりと箸を組み替えた。
「時間に追い出されずに、自分から『そろそろ帰ろう』って決められる気がするんです。
誰かの予定とか、世間の『零時』じゃなくて」
その言葉を聞いた瞬間、琉叶の目が、ほんの少しだけ丸くなった。
驚きというよりは、「ああ、やっぱり」と納得しているような表情だった。
「……じゃあ、うちの零時、もうちょっとだけ伸ばしておきましょうか」
「え?」
「常連さんの申請があったので」
冗談めかして言うと、桜子が吹き出した。
「そんなの、どこに申請すればいいんですか」
「カウンター越しに、口頭で」
「じゃあ、いまので、申請完了ってことで」
「承認しときます」
笑い声が、小さな店内にやわらかく広がる。
時計の針は、静かに二十三時を指したところだった。
「……ここにいるときだけ、素でいられる気がします」
ふと、桜子がぽつりとこぼした。
自分で言ってから、顔が少し赤くなる。
「会社でも、彼氏の前でも、ちゃんとした自分を演じてるなあって思うことが多くて。
ここだと、コロッケ落としそうになっても笑ってくれるし、カードの字がぐちゃぐちゃでも読んでくれるし」
「コロッケ落としそうになったのは、僕ですけどね」
「そうでした」
思い出して、二人同時に笑う。
「素でいられるなら、何よりです」
琉叶は、カウンターの内側で手を組んだ。
「うち、そういう人のために、零時をちょっとだけずらしてるのかもしれないので」
「それ、メニューに書いたほうがいいですよ」
「『素でいられる人限定、閉店時間延長』って?」
「絶対、常連増えます」
「その代わり、厨房の人間の体力が持つかどうか問題が」
「そこは、ちゃんと休んでください」
「がんばります」
「そこは、『がんばります』じゃなくて、『がんばりすぎません』って言ってほしいんですけど」
「……検討します」
二人の会話は、些細な言葉遊びみたいに続いていった。
*
卵あんかけごはんを食べ終え、スープまで飲み干したころには、桜子の表情から、ほとんどの疲れが抜けていた。
もちろん、仕事の課題が解決したわけではない。
凌との距離が勝手に縮まってくれるわけでもない。
でも、「明日もなんとかやれそうだ」と思えるくらいには、心が温まっていた。
「ごちそうさまでした」
深く頭を下げると、髪がさらりと肩に落ちる。
その動きに合わせて、うっすらとコロンの香りが揺れた。
「いってらっしゃい」
琉叶は、いつものようにそう言いかけてから、少しだけ言い直した。
「……おやすみなさい、かな。今日は」
「ですね」
桜子は、笑いながら頷いた。
「おやすみなさい」
コートを羽織り、鞄を肩にかける。
引き戸に「手」をかけたところで、ふと振り返った。
カウンターの向こうには、琉叶が立っている。
その背後の厨房には、まだ片づけていない鍋やまな板が並んでいた。
「また、来てもいいですか」
自分でも不思議なくらい素直な言葉が、するりと口からこぼれた。
「閉店間際に」
「大歓迎です」
琉叶は、ためらいなく答える。
「ただし、零時を過ぎたら、かぼちゃに変えます」
「それ、かぼちゃの煮つけとかなら、逆に嬉しいかもしれないです」
「じゃあ、メニューに入れておきます」
そんなやりとりを最後に、桜子は店を後にした。
外に出ると、商店街の空気はひんやりしている。
アーケードの外れから見上げる空には、うっすらと星がにじんでいた。
背中のほうで、ガラリ、と引き戸の閉まる音がする。
続いて、「営業中」の札が裏返される小さな音。
みつよ食堂の零時が、静かに訪れた。
*
厨房では、美津代が、さっき閉じた帳簿をもう一度開いていた。
今日の売上、常連の顔ぶれ、仕入れのメモ。
ページの端に、ボールペンで小さく書き足す。
『シンデレラ定食、ちゃんと看板にすること』
その文字を見つめながら、美津代は小さくうなずいた。
「そろそろ、あの子たちの『物語』、外にも出していっていい頃だね」
誰にともなくつぶやき、ペンを置く。
隣では、琉叶が最後の鍋を洗い終え、手を拭きながらあくびをかみ殺している。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
「ねえ、琉叶」
「はい?」
「今度、商店街の連中が、面白い企画をやろうって言ってるんだけどね」
そう切り出したところで、美津代は一度言葉を切った。
「……その話は、また明日。
今日は、ちゃんと『がんばりすぎません』ってやつ、守っときな」
「はい」
琉叶は、さっき桜子に言われた言葉を思い出しながら、素直にうなずいた。
自分の「手」を見下ろす。
少し荒れている指先を、タオルでそっと包んだ。
店の明かりがひとつずつ消えていく。
最後に残ったカウンターの小さな照明が落ち、みつよ食堂は夜の中に溶け込んだ。
外では、風に揺れる赤いひさしだけが、かすかな余熱を覚えていた。
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彼女はこれより少し前、嫁ぎ先の侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。彼女はそれを否定し、この裁判に於いて自身の無実を証明しようとしているのだ。
次々に積み重ねられていく証言に次第に追い込まれていく侯爵家。明らかになっていく真実を傍聴席の貴族達は息を飲んで見守る。
裁判の最後、彼女は傍聴席に向かって訴えかけた。
「王命って何ですか?」と。
✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。
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※全11話 2万字程度の話です。
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