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第2話 瑠奈の案内と九つの候補
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翌朝、目覚ましが鳴るより少し早く、アパートの前でクラクションが一回だけ鳴った。カーテンを開けると、薄いブルーの軽自動車が、フロントガラスにうっすら雪を乗せたまま停まっている。運転席の窓から、瑠奈が大きく手を振った。
「颯馬ー! 予定通り、五分前行動!」
玄関を出ると、彼女はすでにスノーブラシでフロントガラスの雪を払っていた。マフラーの隙間から漏れる白い息は、どこか楽しげだ。
「五分前はわかったから、そのうち腰やられるぞ」
「そのときは足湯で治します。ほら、寒いから早く乗って」
軽自動車の中は、暖房の風でほどよく暖まっていた。ダッシュボードの上には、手帳が見開きのまま乗っている。ページには、今日の予定が色ペンでびっしりと書き込まれていた。
「午前は駅前広場と商店街と雪見社。午後は足湯と酒蔵とりんご園と白波岬と旧小と川沿い。九つ全部、一日で一度顔合わせ」
「顔合わせって言い方するの、お前くらいだ」
アクセルが踏まれ、車は雪を踏みしめながら坂道を下りていく。
最初の目的地は、雪杜駅前広場だった。昨日はホームの上から眺めるだけだった場所に、今度はロータリーの真ん中から立つ。バス停、観光案内所、小さなモニュメント。雪の下に隠れかけたベンチがぽつりぽつりと並んでいる。
「ここが町の『玄関』だよね」
瑠奈が手帳を片手に、くるりとその場で一周した。
「案内所の窓から外を見たとき、どこまで目が届くかもチェックしておかないと」
颯馬は、案内所のガラス越しに外を眺め、ロータリーを一周歩いて時間を計った。歩く人の動線を頭の中で線にして、何度か書き直す。
「ここを出発点にするなら、『今日の九つ』が一目でわかる何かが必要だな。紙を貼るだけじゃなくて、見に来たくなるようなやつ」
「それ、いただき」
瑠奈は「今日の九つ」という言葉を、すかさずメモ帳に書き写した。
次に向かった杉ノ町商店街は、アーケードの下にまだ夜の冷気を残していた。シャッターを下ろしている店も多いが、開いている店からは、パンとコロッケの匂いが混ざり合って流れてくる。
「おはようございまーす!」
歩きながら、瑠奈は開いている店という店に声をかける。パン屋のご主人が片手を挙げ、八百屋のおばちゃんが「雪道気をつけなよー」と叫ぶ。颯馬は邪魔にならない位置を探しながら、通りの幅や段差の高さ、屋根から落ちそうな雪庇をチェックしていった。
「冬は昼間限定かな。夜は屋根の雪がこわい」
「夏は、山車がここ通るんだよ。九つの場所にも、その話入れたいなあ」
商店街を抜けると、昨日の夕方に登った雪見社への石段が見えてきた。今日は、段数と勾配を改めて確認するために登る。
「ここ、何段あるか知ってる?」
「いまから知る」
息を白くしながら段を数え、途中で振り返ると、商店街の屋根の向こうに町が広がって見えた。頂上の鳥居の横には古い案内板が立っている。色あせた文字を見つめながら、颯馬は、ここに新しい看板を立てるならどうするかを考えた。
「上まで来られない人もいるから、下からでも『九つの一つ』だってわかる印がほしいな」
「印、か。……木で作れたらいいね」
瑠奈の何気ないひと言が、後ろの方でひっそりと木工房の男の名前とつながるのを、颯馬はまだ知らない。
午前の最後の訪問先は、湯ノ杜温泉の足湯だった。屋根付きの足湯には、朝から地元の人たちが集まっている。湯気が白く立ちのぼり、笑い声が湯面を揺らしていた。
「ここは、表情が一番変わる場所だと思う」
瑠奈はそう言いながら、靴を脱ぎ、颯馬も促されるまま靴下を脱いだ。足を湯に沈めると、冷え切ったつま先からふくらはぎのあたりまで、一気に血が巡るのが分かる。
「生き返るな……」
思わず漏れた声に、隣のおばあさんが笑った。
「兄ちゃん、観光かい?」
「下見みたいなものです」
「そりゃいい。ここ、散歩の途中に入れてくれたら嬉しいねぇ。ここに座ると、みんなようしゃべるから」
おばあさんは、そう言って膝をさすった。その指の節々は太くなっているのに、湯に浸かった足先は子どものように柔らかそうだ。
「ね? ここ、外せないでしょ」
「足湯の縁がちょっと傷んでるのと、更衣スペースが狭いのは、あとで相談だな」
「だから今日、連れてきたんです」
瑠奈は胸を張り、腕時計を見て立ち上がった。「はい、十分。龍泉行くよ」と声をかけ、おばあさんに頭を下げて足湯をあとにする。
龍泉酒造では、ひんやりとした蔵の空気と、発酵中の米の甘い匂いが二人を迎えた。仕事の途中だった龍護が、温度計を持ったまま顔を出す。
「ここを散歩の途中に入れてもらえるなら、試飲だけしてバスで帰る、みたいな流れは勘弁な」
龍護は半分冗談、半分本気の声で言った。
「せっかく来たなら、誰か一人くらいは足湯に寄るとか、商店街で何か買うとかしてほしい」
率直な願いに、颯馬はメモ帳の余白に小さく「寄り道の動線」と書き込んだ。
午後は、杜の丘りんご園、白波岬、旧・雪杜小学校、川沿いの道を駆け足で回った。冬のりんご園は静かだが、雪をかぶった枝のあちこちに赤い実が残っていて、遠目には小さな灯りのように見える。白波岬の展望台では、強い風に帽子を押さえながら海を見下ろし、「吹雪の日は絶対に中止」と二人で確認した。
旧・雪杜小学校の校庭は一面の雪原で、錆びた鉄棒だけが頭を出している。ここを地域の集会所として使っているという話を聞きながら、颯馬は建物の出入口やスロープの位置をひとつひとつ確かめた。
最後に立ち寄った川沿いの道では、夕方の光が雪に反射して、空が少しだけ桃色に染まっていた。昼間に子どもが走り回ったらしい足跡が、雪の表面にたくさん残っている。
「九つの場所、どう?」
車に戻る途中、瑠奈が息を整えながら尋ねる。
「全部、性格が違うな」
「性格?」
「駅前は玄関で、商店街は廊下で、神社は屋根裏。足湯は居間で、酒蔵は台所。りんご園は庭で、岬は窓。旧小は物置で、川沿いは縁側」
「例えが生活感にあふれてる」
「町の中歩いてもらうんだから、生活感もセットだろ」
そう言いながら、自分の言葉に少し照れた。九つの場所が一つの家のようにつながった感覚が、胸の奥にじんわりと残る。
夕暮れ、足湯の近くを車で通りかかったとき、颯馬は雪の上で何か大きなものを担いで歩く人影に気づいた。長い木のベンチを肩にのせ、反対側を雪の上に引きずっている。
「あ、琉央くんだ」
瑠奈がスピードを落とし、窓を少しだけ開ける。
「琉央くーん、そのベンチどこまで? 手伝おうか?」
呼びかけに、青年は一瞬だけこちらを振り返った。頬にかかった髪が、汗と雪で少し濡れている。
「工房まで。大丈夫、自分でやれるから」
短くそう言って、彼は再び前を向いた。ベンチを引きずる跡が、まっすぐ一本、雪の上に伸びていく。
「いつもああなんだよね」
瑠奈は窓を閉めながら、小さく呟いた。
「誰かが手を貸そうとすると『平気』って。二人で運んだほうが早いのに」
「頼み慣れてないんだろ」
颯馬は、ミラー越しに遠ざかっていく背中を見つめた。ひとりで重いものを運ぶ姿が、町の中で誰かが無言で支えている日常の重さと重なって見えた。
「……ベンチ、川沿いに置くつもりかもな」
「たぶん。今日、昼間に『座る場所少ない』ってぼそっと言ってたから」
フロントガラスの向こうで、雪の舞い方が少しだけ細かくなる。九つの場所は一応そろった。あとは、どうつなぐかだ――そう思いながら、颯馬はレザーバッグの中の手帳に手を伸ばした。
「颯馬ー! 予定通り、五分前行動!」
玄関を出ると、彼女はすでにスノーブラシでフロントガラスの雪を払っていた。マフラーの隙間から漏れる白い息は、どこか楽しげだ。
「五分前はわかったから、そのうち腰やられるぞ」
「そのときは足湯で治します。ほら、寒いから早く乗って」
軽自動車の中は、暖房の風でほどよく暖まっていた。ダッシュボードの上には、手帳が見開きのまま乗っている。ページには、今日の予定が色ペンでびっしりと書き込まれていた。
「午前は駅前広場と商店街と雪見社。午後は足湯と酒蔵とりんご園と白波岬と旧小と川沿い。九つ全部、一日で一度顔合わせ」
「顔合わせって言い方するの、お前くらいだ」
アクセルが踏まれ、車は雪を踏みしめながら坂道を下りていく。
最初の目的地は、雪杜駅前広場だった。昨日はホームの上から眺めるだけだった場所に、今度はロータリーの真ん中から立つ。バス停、観光案内所、小さなモニュメント。雪の下に隠れかけたベンチがぽつりぽつりと並んでいる。
「ここが町の『玄関』だよね」
瑠奈が手帳を片手に、くるりとその場で一周した。
「案内所の窓から外を見たとき、どこまで目が届くかもチェックしておかないと」
颯馬は、案内所のガラス越しに外を眺め、ロータリーを一周歩いて時間を計った。歩く人の動線を頭の中で線にして、何度か書き直す。
「ここを出発点にするなら、『今日の九つ』が一目でわかる何かが必要だな。紙を貼るだけじゃなくて、見に来たくなるようなやつ」
「それ、いただき」
瑠奈は「今日の九つ」という言葉を、すかさずメモ帳に書き写した。
次に向かった杉ノ町商店街は、アーケードの下にまだ夜の冷気を残していた。シャッターを下ろしている店も多いが、開いている店からは、パンとコロッケの匂いが混ざり合って流れてくる。
「おはようございまーす!」
歩きながら、瑠奈は開いている店という店に声をかける。パン屋のご主人が片手を挙げ、八百屋のおばちゃんが「雪道気をつけなよー」と叫ぶ。颯馬は邪魔にならない位置を探しながら、通りの幅や段差の高さ、屋根から落ちそうな雪庇をチェックしていった。
「冬は昼間限定かな。夜は屋根の雪がこわい」
「夏は、山車がここ通るんだよ。九つの場所にも、その話入れたいなあ」
商店街を抜けると、昨日の夕方に登った雪見社への石段が見えてきた。今日は、段数と勾配を改めて確認するために登る。
「ここ、何段あるか知ってる?」
「いまから知る」
息を白くしながら段を数え、途中で振り返ると、商店街の屋根の向こうに町が広がって見えた。頂上の鳥居の横には古い案内板が立っている。色あせた文字を見つめながら、颯馬は、ここに新しい看板を立てるならどうするかを考えた。
「上まで来られない人もいるから、下からでも『九つの一つ』だってわかる印がほしいな」
「印、か。……木で作れたらいいね」
瑠奈の何気ないひと言が、後ろの方でひっそりと木工房の男の名前とつながるのを、颯馬はまだ知らない。
午前の最後の訪問先は、湯ノ杜温泉の足湯だった。屋根付きの足湯には、朝から地元の人たちが集まっている。湯気が白く立ちのぼり、笑い声が湯面を揺らしていた。
「ここは、表情が一番変わる場所だと思う」
瑠奈はそう言いながら、靴を脱ぎ、颯馬も促されるまま靴下を脱いだ。足を湯に沈めると、冷え切ったつま先からふくらはぎのあたりまで、一気に血が巡るのが分かる。
「生き返るな……」
思わず漏れた声に、隣のおばあさんが笑った。
「兄ちゃん、観光かい?」
「下見みたいなものです」
「そりゃいい。ここ、散歩の途中に入れてくれたら嬉しいねぇ。ここに座ると、みんなようしゃべるから」
おばあさんは、そう言って膝をさすった。その指の節々は太くなっているのに、湯に浸かった足先は子どものように柔らかそうだ。
「ね? ここ、外せないでしょ」
「足湯の縁がちょっと傷んでるのと、更衣スペースが狭いのは、あとで相談だな」
「だから今日、連れてきたんです」
瑠奈は胸を張り、腕時計を見て立ち上がった。「はい、十分。龍泉行くよ」と声をかけ、おばあさんに頭を下げて足湯をあとにする。
龍泉酒造では、ひんやりとした蔵の空気と、発酵中の米の甘い匂いが二人を迎えた。仕事の途中だった龍護が、温度計を持ったまま顔を出す。
「ここを散歩の途中に入れてもらえるなら、試飲だけしてバスで帰る、みたいな流れは勘弁な」
龍護は半分冗談、半分本気の声で言った。
「せっかく来たなら、誰か一人くらいは足湯に寄るとか、商店街で何か買うとかしてほしい」
率直な願いに、颯馬はメモ帳の余白に小さく「寄り道の動線」と書き込んだ。
午後は、杜の丘りんご園、白波岬、旧・雪杜小学校、川沿いの道を駆け足で回った。冬のりんご園は静かだが、雪をかぶった枝のあちこちに赤い実が残っていて、遠目には小さな灯りのように見える。白波岬の展望台では、強い風に帽子を押さえながら海を見下ろし、「吹雪の日は絶対に中止」と二人で確認した。
旧・雪杜小学校の校庭は一面の雪原で、錆びた鉄棒だけが頭を出している。ここを地域の集会所として使っているという話を聞きながら、颯馬は建物の出入口やスロープの位置をひとつひとつ確かめた。
最後に立ち寄った川沿いの道では、夕方の光が雪に反射して、空が少しだけ桃色に染まっていた。昼間に子どもが走り回ったらしい足跡が、雪の表面にたくさん残っている。
「九つの場所、どう?」
車に戻る途中、瑠奈が息を整えながら尋ねる。
「全部、性格が違うな」
「性格?」
「駅前は玄関で、商店街は廊下で、神社は屋根裏。足湯は居間で、酒蔵は台所。りんご園は庭で、岬は窓。旧小は物置で、川沿いは縁側」
「例えが生活感にあふれてる」
「町の中歩いてもらうんだから、生活感もセットだろ」
そう言いながら、自分の言葉に少し照れた。九つの場所が一つの家のようにつながった感覚が、胸の奥にじんわりと残る。
夕暮れ、足湯の近くを車で通りかかったとき、颯馬は雪の上で何か大きなものを担いで歩く人影に気づいた。長い木のベンチを肩にのせ、反対側を雪の上に引きずっている。
「あ、琉央くんだ」
瑠奈がスピードを落とし、窓を少しだけ開ける。
「琉央くーん、そのベンチどこまで? 手伝おうか?」
呼びかけに、青年は一瞬だけこちらを振り返った。頬にかかった髪が、汗と雪で少し濡れている。
「工房まで。大丈夫、自分でやれるから」
短くそう言って、彼は再び前を向いた。ベンチを引きずる跡が、まっすぐ一本、雪の上に伸びていく。
「いつもああなんだよね」
瑠奈は窓を閉めながら、小さく呟いた。
「誰かが手を貸そうとすると『平気』って。二人で運んだほうが早いのに」
「頼み慣れてないんだろ」
颯馬は、ミラー越しに遠ざかっていく背中を見つめた。ひとりで重いものを運ぶ姿が、町の中で誰かが無言で支えている日常の重さと重なって見えた。
「……ベンチ、川沿いに置くつもりかもな」
「たぶん。今日、昼間に『座る場所少ない』ってぼそっと言ってたから」
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