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第7話 初めての案内と転んだ足
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その週末、雪杜駅の改札前には、いつもより少しだけ賑やかな空気が漂っていた。掲示板の横には、瑠奈が徹夜気味で仕上げた「九つの場所めぐり 雪杜ナインプレイス 初回ご案内」の手描きポスターが貼られている。雪だるまと小さな駅舎、簡単な地図と、丸を九つ並べた図。その下には、控えめな文字で「ゆっくり歩く一日です」と添えてある。
「……ちゃんと『ゆっくり』って書いた?」
颯馬がポスターを見上げながら尋ねると、隣で手袋を外していた瑠奈が、胸を張って頷いた。
「書いた。しかも二回」
「二回はしつこくないか?」
「最初だから、安全第一。ほら、今日の参加者さん、そろそろ来る頃だよ」
駅の自動ドアが開き、白い息を吐きながら三人の姿が現れた。首からカメラを下げた白髪の男性、その腕を軽くつかんで歩く小柄な女性、それからリュックを背負った高校生くらいの男の子だ。男の子のリュックには、小さな鉄道会社のピンバッジがいくつもついている。
「おはようございます。本日のご案内を担当します、雪杜町観光係の瑠奈と……」
「動線と小言担当の颯馬です」
「小言って自分で言わないで」
瑠奈が慌てて肘でつつくと、老夫婦がくすりと笑った。高校生は、少し照れたように視線を足元に落とし、それから駅のホーム側へちらりと目をやる。
「写真がお好きなお客さまと、鉄道がお好きなお客さま、と伺っています」
瑠奈がそう言うと、白髪の男性が「ええまあ」とカメラを軽く持ち上げた。
「線路のある町は、つい撮りたくなってね。妻は、私が止まらないからブレーキ役だ」
「私は、足が止まる役です」と、老婦人が冗談めかして肩をすくめる。
高校生は、少し間を置いてから口を開いた。
「この終点駅、前から来てみたかったんです。ダイヤも外観も、好きな感じで」
「ダイヤが好きな感じって、どういう感じだ」
颯馬が素直な疑問を口にすると、彼は「あ、すみません」と慌てて首を振った。
「すみません、語り出すと止まらないので……自重します」
「止めなくて大丈夫ですよ。歩きながら、少しずつ聞かせてください」
瑠奈が、さらりと言葉を添える。彼女の声には、時間配分と同じくらい、人の話を聞く配分へのこだわりがにじんでいた。
「では、まずこちらを」
颯馬は、小さなカードを三人に配った。名刺の半分ほどの厚紙に、九つの丸と、それぞれの場所の名前が印刷されている。丸の横には、小さなスタンプ欄がある。
「今日一日で、九つ全部を巡ります。どの場所も、ここで暮らす人たちの顔ごと味わってもらえると嬉しいです。スタンプは、おまけですが」
「旅はおまけが楽しみなの」と老婦人が笑い、カードを手帳のポケットに大事そうにしまった。
最初の一歩は、駅前広場から始まった。雪の積もったベンチ、ロータリーの真ん中に立つ雪だるまモニュメント、バス停。颯馬は、案内所の窓を指さしながら説明を続ける。
「ここが、今日の『家の玄関』です。これから歩く九つの場所を、朝と夕方、二回見てほしい」
「同じ場所でも、光が違うと表情が変わりますからね」
白髪の男性は、早くもカメラを構え、駅舎の屋根と雪空の境目を何枚か切り取っていた。シャッター音のリズムに、緊張していた空気が少しだけほどける。
杉ノ町商店街へ向かう途中、道の端には昨夜の除雪で寄せられた雪山がいくつも連なっていた。高校生が、その雪山の向こう側に伸びている線路の方向を、ちらちらと気にしている。
「気になるなら、一本だけ回り道しようか」
颯馬がそう声をかけると、彼は慌てて手を振った。
「いえ、あの、迷惑でなければ……」
「迷惑かどうかは、時間担当に聞いてくれ」
「迷惑なんて思わないよ。『線路の見える寄り道』、今後の候補になるかもしれないし」
瑠奈が、手帳の片隅に小さく丸を描き、「線路の見える場所」と書き込む。高校生は、照れ笑いを浮かべながらも、その丸をちらりと見ていた。
商店街では、パン屋のご主人が焼き上がったばかりの食パンを棚に並べていた。老夫婦は、パンの香りに引き寄せられるように店先へ足を向ける。
「こちら、ルートの途中で使わせてもらっているパン屋さんです。よかったら、お昼用に」
「じゃあ、二人で半分こできる大きさのを」
老婦人がそう言うと、ご主人は「じゃあ、耳までおいしいやつね」と笑い、少し小さめの食パンを袋に入れた。
順調に見えた足取りが、最初に揺らいだのは、そのあと雪見社へ向かう坂道だった。朝のうちに凍りかけた雪が、昼前の気温でわずかに緩み、表面だけが滑りやすくなっている。
「ここからは、ゆっくり息を合わせていきましょう」
階段の手前で、颯馬は一度立ち止まり、足元を指さした。
「上りはまだいいんですけど、下りで気を抜くと、転んだ足が一日ずっと機嫌を直してくれません」
「転んだ足が機嫌……」
老婦人が思わず笑ったその瞬間、ほんの小さな段差で彼女の靴底がつるりと滑った。
「あっ」
足が横に流れかけたところで、颯馬は反射的に手を伸ばし、老婦人の腕をがしっと支えた。膝が雪をかすめる程度で、なんとか体勢は持ち直す。
「大丈夫ですか」
「ええ……ちょっと、びっくりしただけ」
老婦人は胸に手を当て、小さく息を整えた。隣の老紳士は、「大丈夫か」と何度も肩をさする。
「ここですね」
颯馬は、階段の脇に立つ手すりを見上げた。古い木の手すりは、ところどころささくれが出ている。
「今日の反省会で、『手すりの整備』を一番上に書きます。あと、ここに一つ、立ち止まりポイントを増やしましょう」
「立ち止まりポイント?」
「『息を整える場所』って書いた札を立てるんです。ここまで来られたら、それだけで一つ目のご褒美、みたいな」
「ご褒美って、何がもらえるの?」
高校生が思わず尋ねると、颯馬は少し考えたあと、肩をすくめた。
「たとえば、雪杜の冬の空の色を、ちょっと違う高さから見られるとか」
曇り空の切れ目から、わずかに薄青い光が差し込む。老婦人は、ゆっくりと一段一段足を運びながら、「それなら、もうもらったかもしれないわね」と笑った。
雪見社での参拝を終え、足湯に向かう頃には、空から細かい雪がちらちらと舞い始めていた。湯気に混じる雪片を見て、白髪の男性がカメラのシャッターを夢中で切る。
「おじいちゃん、そんなに撮って、帰ってから整理しきれる?」
「そのときは、そのときだ」
そのやりとりに、足湯の常連のおばあさんが「写真の整理は若い人のお仕事よ」と笑い、いつの間にか全員で足を湯に沈めることになった。
「本当は、ここでゆっくり三十分……と言いたいところなんですが」
瑠奈が腕時計をちらりと見て、申し訳なさそうに言う。
「今日は初回なので、少し短めにしますね。代わりに、帰り道でもう一回だけ寄り道しますから」
「寄り道付きか。贅沢だねえ」
老婦人が足をぱしゃりと動かし、その水しぶきが高校生の膝にかかった。彼は「あ、冷たい」と笑いながらジーンズをさすった。
龍泉酒造では、龍護が奥から顔を出した。
「初回のお客さんか。ようこそ雪杜へ。……あ、スタンプ、入口に置くって言ってたの、まだやってないな」
言いながら、彼は額を叩いた。
「すみません。スタンプカード、ここで押すはずだったんですけど」
颯馬が頭を下げると、老紳士が首を振った。
「いいですよ。こういうのは、完璧すぎないほうが旅らしい」
「でも、せっかくなので」
龍護は、レジの引き出しからスタンプを取り出し、自分の手のひらに試し押ししたあと、カードに「龍泉」の印を押した。インクが少し濃すぎて、文字がにじむ。
「初回仕様ってことで」
「試作品のラベルみたいですね」
高校生がぽつりとこぼすと、龍護は「あ、それいい」と目を輝かせた。
「九つ全部押し終わったカードを見せてくれた人には、試作品のラベル見せてもいいかもな」
「約束しましたからね」と瑠奈がすかさず念を押す。龍護は「やっべ」と小声で言いながらも、にやにやしていた。
午後、りんご園と白波岬を回る頃には、雪はやんで空が明るくなっていた。白波岬の展望台では、海と空の境目にうっすらと陽が差し、老紳士が黙ってシャッターを切り続ける。
「こんな景色、何枚撮っても足りないねえ」と老婦人が隣で呟き、高校生は欄干にもたれながら、遠くの線路のカーブをじっと見つめていた。
「ここから線路見えるんだな」
「わずかにですけどね。冬は雪で隠れやすいけど」と颯馬が答えると、彼は小さく頷いた。
「夏にも来てみたいです。緑の中を走るところも、見てみたいので」
旧・雪杜小学校では、体育館の床板のきしむ音を聞きながら、昔の話を少しだけする。川沿いの道では、昼間に工房から運び出された新しいベンチが、雪を払われて静かに置かれていた。
「あれ、昨日まではグラグラだったのに」
老婦人が腰をかけてみて驚くと、颯馬は視線だけで琉央を探した。川の少し下流のほうで、琉央が雪かきをしている背中が見える。
「ここ、座りやすくなりましたね」
高校生がそう言うと、琉央はちらりとだけこちらを見て、「座面の角、丸めただけ」と短く答えた。
「それが大事なんだよ」と老紳士が笑い、三人並んでベンチに腰を下ろす。
川沿いから駅前に戻る道すがら、日が傾き、町の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めた。九つの場所を一日で回った足は、ほどよく疲れている。
「本日の九つ、これで全部です」
駅前広場のベンチに腰を下ろしながら、颯馬は深く息を吐いた。
「急ぎ足になったところもありましたが、歩きづらい場所や、もう少し工夫したいところは、今日の分だけでも十箇所以上見つかりました」
「十箇所以上って、ちょっと多く聞こえるね」
瑠奈が苦笑する。
「でも、そのぶんだけ、これから良くなるってことでしょ」
老紳士がそう言って、スタンプカードを眺めた。九つの丸は、ぎこちない判子の跡とともに、なんとか全部埋まっている。
「スタンプが少し曲がっているのも、いい味出してます」と高校生が笑う。
老婦人はカードをしまおうとして、ふと空を見上げた。群青色の空の向こうに、ホームの灯りがぽつりと浮かんでいる。
「また、別の季節にも来たいわね」
その一言に、颯馬の胸の奥で、何かが小さく跳ねた。数字でもアンケートでもない、たった一つの「また来たい」という声。その重みが、資料の束よりもずっと大きく感じられる。
「ぜひ。春は桜、夏は山車、秋はりんごです」
颯馬がそう返すと、老紳士が「じゃあ、四回分の切符を買う必要があるな」と笑った。
ホームへ向かう三人の背中が小さくなるまで見送ってから、颯馬はやっと肩の力を抜いた。隣で瑠奈が、手帳のページをぱらぱらとめくる。
「転んだ足、どうにか機嫌直してくれてるといいね」
「今日のところは、許してもらえたと思う」
颯馬は、自分の足先を軽く動かしてみる。筋肉の張りと一緒に、「もっと良くしたい」という欲もじんわりと湧いてくる。
「次は、もっと転びにくい道にしよ」
「うん。『転びそうになった場所』の地図、作ろうか」
二人の言葉が、冷たい空気の中に白く溶けていく。その足元に、小さな足跡が九つぶん、静かに刻まれていた。
「……ちゃんと『ゆっくり』って書いた?」
颯馬がポスターを見上げながら尋ねると、隣で手袋を外していた瑠奈が、胸を張って頷いた。
「書いた。しかも二回」
「二回はしつこくないか?」
「最初だから、安全第一。ほら、今日の参加者さん、そろそろ来る頃だよ」
駅の自動ドアが開き、白い息を吐きながら三人の姿が現れた。首からカメラを下げた白髪の男性、その腕を軽くつかんで歩く小柄な女性、それからリュックを背負った高校生くらいの男の子だ。男の子のリュックには、小さな鉄道会社のピンバッジがいくつもついている。
「おはようございます。本日のご案内を担当します、雪杜町観光係の瑠奈と……」
「動線と小言担当の颯馬です」
「小言って自分で言わないで」
瑠奈が慌てて肘でつつくと、老夫婦がくすりと笑った。高校生は、少し照れたように視線を足元に落とし、それから駅のホーム側へちらりと目をやる。
「写真がお好きなお客さまと、鉄道がお好きなお客さま、と伺っています」
瑠奈がそう言うと、白髪の男性が「ええまあ」とカメラを軽く持ち上げた。
「線路のある町は、つい撮りたくなってね。妻は、私が止まらないからブレーキ役だ」
「私は、足が止まる役です」と、老婦人が冗談めかして肩をすくめる。
高校生は、少し間を置いてから口を開いた。
「この終点駅、前から来てみたかったんです。ダイヤも外観も、好きな感じで」
「ダイヤが好きな感じって、どういう感じだ」
颯馬が素直な疑問を口にすると、彼は「あ、すみません」と慌てて首を振った。
「すみません、語り出すと止まらないので……自重します」
「止めなくて大丈夫ですよ。歩きながら、少しずつ聞かせてください」
瑠奈が、さらりと言葉を添える。彼女の声には、時間配分と同じくらい、人の話を聞く配分へのこだわりがにじんでいた。
「では、まずこちらを」
颯馬は、小さなカードを三人に配った。名刺の半分ほどの厚紙に、九つの丸と、それぞれの場所の名前が印刷されている。丸の横には、小さなスタンプ欄がある。
「今日一日で、九つ全部を巡ります。どの場所も、ここで暮らす人たちの顔ごと味わってもらえると嬉しいです。スタンプは、おまけですが」
「旅はおまけが楽しみなの」と老婦人が笑い、カードを手帳のポケットに大事そうにしまった。
最初の一歩は、駅前広場から始まった。雪の積もったベンチ、ロータリーの真ん中に立つ雪だるまモニュメント、バス停。颯馬は、案内所の窓を指さしながら説明を続ける。
「ここが、今日の『家の玄関』です。これから歩く九つの場所を、朝と夕方、二回見てほしい」
「同じ場所でも、光が違うと表情が変わりますからね」
白髪の男性は、早くもカメラを構え、駅舎の屋根と雪空の境目を何枚か切り取っていた。シャッター音のリズムに、緊張していた空気が少しだけほどける。
杉ノ町商店街へ向かう途中、道の端には昨夜の除雪で寄せられた雪山がいくつも連なっていた。高校生が、その雪山の向こう側に伸びている線路の方向を、ちらちらと気にしている。
「気になるなら、一本だけ回り道しようか」
颯馬がそう声をかけると、彼は慌てて手を振った。
「いえ、あの、迷惑でなければ……」
「迷惑かどうかは、時間担当に聞いてくれ」
「迷惑なんて思わないよ。『線路の見える寄り道』、今後の候補になるかもしれないし」
瑠奈が、手帳の片隅に小さく丸を描き、「線路の見える場所」と書き込む。高校生は、照れ笑いを浮かべながらも、その丸をちらりと見ていた。
商店街では、パン屋のご主人が焼き上がったばかりの食パンを棚に並べていた。老夫婦は、パンの香りに引き寄せられるように店先へ足を向ける。
「こちら、ルートの途中で使わせてもらっているパン屋さんです。よかったら、お昼用に」
「じゃあ、二人で半分こできる大きさのを」
老婦人がそう言うと、ご主人は「じゃあ、耳までおいしいやつね」と笑い、少し小さめの食パンを袋に入れた。
順調に見えた足取りが、最初に揺らいだのは、そのあと雪見社へ向かう坂道だった。朝のうちに凍りかけた雪が、昼前の気温でわずかに緩み、表面だけが滑りやすくなっている。
「ここからは、ゆっくり息を合わせていきましょう」
階段の手前で、颯馬は一度立ち止まり、足元を指さした。
「上りはまだいいんですけど、下りで気を抜くと、転んだ足が一日ずっと機嫌を直してくれません」
「転んだ足が機嫌……」
老婦人が思わず笑ったその瞬間、ほんの小さな段差で彼女の靴底がつるりと滑った。
「あっ」
足が横に流れかけたところで、颯馬は反射的に手を伸ばし、老婦人の腕をがしっと支えた。膝が雪をかすめる程度で、なんとか体勢は持ち直す。
「大丈夫ですか」
「ええ……ちょっと、びっくりしただけ」
老婦人は胸に手を当て、小さく息を整えた。隣の老紳士は、「大丈夫か」と何度も肩をさする。
「ここですね」
颯馬は、階段の脇に立つ手すりを見上げた。古い木の手すりは、ところどころささくれが出ている。
「今日の反省会で、『手すりの整備』を一番上に書きます。あと、ここに一つ、立ち止まりポイントを増やしましょう」
「立ち止まりポイント?」
「『息を整える場所』って書いた札を立てるんです。ここまで来られたら、それだけで一つ目のご褒美、みたいな」
「ご褒美って、何がもらえるの?」
高校生が思わず尋ねると、颯馬は少し考えたあと、肩をすくめた。
「たとえば、雪杜の冬の空の色を、ちょっと違う高さから見られるとか」
曇り空の切れ目から、わずかに薄青い光が差し込む。老婦人は、ゆっくりと一段一段足を運びながら、「それなら、もうもらったかもしれないわね」と笑った。
雪見社での参拝を終え、足湯に向かう頃には、空から細かい雪がちらちらと舞い始めていた。湯気に混じる雪片を見て、白髪の男性がカメラのシャッターを夢中で切る。
「おじいちゃん、そんなに撮って、帰ってから整理しきれる?」
「そのときは、そのときだ」
そのやりとりに、足湯の常連のおばあさんが「写真の整理は若い人のお仕事よ」と笑い、いつの間にか全員で足を湯に沈めることになった。
「本当は、ここでゆっくり三十分……と言いたいところなんですが」
瑠奈が腕時計をちらりと見て、申し訳なさそうに言う。
「今日は初回なので、少し短めにしますね。代わりに、帰り道でもう一回だけ寄り道しますから」
「寄り道付きか。贅沢だねえ」
老婦人が足をぱしゃりと動かし、その水しぶきが高校生の膝にかかった。彼は「あ、冷たい」と笑いながらジーンズをさすった。
龍泉酒造では、龍護が奥から顔を出した。
「初回のお客さんか。ようこそ雪杜へ。……あ、スタンプ、入口に置くって言ってたの、まだやってないな」
言いながら、彼は額を叩いた。
「すみません。スタンプカード、ここで押すはずだったんですけど」
颯馬が頭を下げると、老紳士が首を振った。
「いいですよ。こういうのは、完璧すぎないほうが旅らしい」
「でも、せっかくなので」
龍護は、レジの引き出しからスタンプを取り出し、自分の手のひらに試し押ししたあと、カードに「龍泉」の印を押した。インクが少し濃すぎて、文字がにじむ。
「初回仕様ってことで」
「試作品のラベルみたいですね」
高校生がぽつりとこぼすと、龍護は「あ、それいい」と目を輝かせた。
「九つ全部押し終わったカードを見せてくれた人には、試作品のラベル見せてもいいかもな」
「約束しましたからね」と瑠奈がすかさず念を押す。龍護は「やっべ」と小声で言いながらも、にやにやしていた。
午後、りんご園と白波岬を回る頃には、雪はやんで空が明るくなっていた。白波岬の展望台では、海と空の境目にうっすらと陽が差し、老紳士が黙ってシャッターを切り続ける。
「こんな景色、何枚撮っても足りないねえ」と老婦人が隣で呟き、高校生は欄干にもたれながら、遠くの線路のカーブをじっと見つめていた。
「ここから線路見えるんだな」
「わずかにですけどね。冬は雪で隠れやすいけど」と颯馬が答えると、彼は小さく頷いた。
「夏にも来てみたいです。緑の中を走るところも、見てみたいので」
旧・雪杜小学校では、体育館の床板のきしむ音を聞きながら、昔の話を少しだけする。川沿いの道では、昼間に工房から運び出された新しいベンチが、雪を払われて静かに置かれていた。
「あれ、昨日まではグラグラだったのに」
老婦人が腰をかけてみて驚くと、颯馬は視線だけで琉央を探した。川の少し下流のほうで、琉央が雪かきをしている背中が見える。
「ここ、座りやすくなりましたね」
高校生がそう言うと、琉央はちらりとだけこちらを見て、「座面の角、丸めただけ」と短く答えた。
「それが大事なんだよ」と老紳士が笑い、三人並んでベンチに腰を下ろす。
川沿いから駅前に戻る道すがら、日が傾き、町の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めた。九つの場所を一日で回った足は、ほどよく疲れている。
「本日の九つ、これで全部です」
駅前広場のベンチに腰を下ろしながら、颯馬は深く息を吐いた。
「急ぎ足になったところもありましたが、歩きづらい場所や、もう少し工夫したいところは、今日の分だけでも十箇所以上見つかりました」
「十箇所以上って、ちょっと多く聞こえるね」
瑠奈が苦笑する。
「でも、そのぶんだけ、これから良くなるってことでしょ」
老紳士がそう言って、スタンプカードを眺めた。九つの丸は、ぎこちない判子の跡とともに、なんとか全部埋まっている。
「スタンプが少し曲がっているのも、いい味出してます」と高校生が笑う。
老婦人はカードをしまおうとして、ふと空を見上げた。群青色の空の向こうに、ホームの灯りがぽつりと浮かんでいる。
「また、別の季節にも来たいわね」
その一言に、颯馬の胸の奥で、何かが小さく跳ねた。数字でもアンケートでもない、たった一つの「また来たい」という声。その重みが、資料の束よりもずっと大きく感じられる。
「ぜひ。春は桜、夏は山車、秋はりんごです」
颯馬がそう返すと、老紳士が「じゃあ、四回分の切符を買う必要があるな」と笑った。
ホームへ向かう三人の背中が小さくなるまで見送ってから、颯馬はやっと肩の力を抜いた。隣で瑠奈が、手帳のページをぱらぱらとめくる。
「転んだ足、どうにか機嫌直してくれてるといいね」
「今日のところは、許してもらえたと思う」
颯馬は、自分の足先を軽く動かしてみる。筋肉の張りと一緒に、「もっと良くしたい」という欲もじんわりと湧いてくる。
「次は、もっと転びにくい道にしよ」
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