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第9話 春、観光客第一号
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川沿いの雪が消えたあと、土の色が少しずつ濃くなっていった。冷たい風の中に、ほんの少しだけ柔らかい匂いが混じり始める。雪杜町に遅い春が近づいている証拠だった。
その朝、颯馬はいつもより早く観光案内所の鍵を開けた。シャッターを上げると、ガラス越しに淡い桃色が目に飛び込んでくる。川沿いの桜並木が、枝先だけ先走るように色づき始めていた。
「……今日か」
カウンターの上には、昨日から何度も確認した予約票が置かれている。手書きの名簿の一番上に、「九つの場所めぐり・半日コース 一名」と書かれていた。申し込みの欄には、「年齢六十代・男性/元教師」とある。
元教師、という言葉の横に、小さく「歩行ペースゆっくり」「川沿いの桜を楽しみにしている」と書き添えられていた。電話を受けた瑠奈が、聞き取ったまま丁寧にメモしたものだ。
「緊張してる?」
背後から声がして振り向くと、瑠奈がマフラーを外しながら案内所に入ってきた。手には、いつもの手帳と、桜のシールで飾られたバインダーが抱えられている。
「春用の九つの資料、完成しました」
バインダーをぱらりと開くと、中には冬とは違う写真が並んでいた。雪の代わりに、濡れた土の香りが立ちのぼるりんご園。白波岬の海の色は、冬より少し薄く、柔らかい水色になっている。
「今日のルートは、川沿いと旧小と商店街だな」
「うん。桜と、黒板と、買い食い」
「最後のだけ、急に現実的だな」
「お腹が空いたら、景色どころじゃなくなるでしょ」
そんな会話をしていると、駅のホームから列車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。ほどなくして、自動ドアが開き、一人の男性が改札を抜けてくる。
背筋の伸びた六十代くらいの男性だった。紺色のコートに、くたびれた革のショルダーバッグ。手には、小さなデジカメと折りたたみの帽子が握られている。髪には白いものが混じっているが、目の奥は子どものように好奇心で光っていた。
「おはようございます。雪杜ナインプレイスの……案内所はここでよろしいのかな」
「はい。ご予約ありがとうございます」
颯馬はカウンターから一歩踏み出し、軽く頭を下げた。
「本日ご案内を担当する颯馬です。こちら、時間配分と安全確認担当の瑠奈です」
「安全確認担当?」
男性が目を丸くすると、瑠奈は「初めての春ルートなので」と笑った。
「足元と坂道の確認、しっかりやらせてください」
「それは心強い。坂道でこけると、授業の続きができなくなってしまう」
「授業の続き、ですか」
思わず聞き返すと、男性は少し照れたように笑った。
「つい、昔の癖でね。私は、小学校で長く教壇に立っていたんだ。十年前に退職してから、全国の小さな町をのんびり回っていてね。雪杜という名前は、前に教えた子の年賀状にたびたび出てきて、ずっと気になっていた」
「教え子さんが、この町の出身なんですか」
「そう。あだ名が『雪ダルマ』の子でね。冬になると毎回、雪の写真を送ってくるものだから、どんな町か見ておきたいと思って」
話しながら、男性は案内所の壁に貼られた模造紙に目を向けた。「準備中の地図」と書かれたその紙には、「9place 雪杜」と大きく記され、九つの場所を示す木の印と色分けされた線が走っている。
「これが、例の九つか」
「はい。今日は、その中から『学校と川沿い』を中心に歩くコースをご案内します」
颯馬は、カードサイズの地図を差し出した。九つの丸のうち、旧・雪杜小学校と川沿いに印が少し濃くついている。
「では、さっそく出発しましょう」
案内所を出ると、駅前広場の空気はまだ少し冷たかったが、風の中に混じる匂いが冬とは違っていた。遠くで、カラスの鳴き声の代わりに、どこかの庭先からラジオの音が聞こえてくる。
「この町、思ったより静かですね」
男性は、広場をゆっくりと見回しながら歩く。
「観光地というより、暮らしている人の町、という感じがする」
「観光だけでは回らないので」
颯馬が苦笑すると、男性は「それはどこも同じさ」と頷いた。
「教室もね、授業だけでは回らない。掃除も給食も、休み時間の喧嘩も含めて、ようやく一日が終わる」
その言い方があまりに自然だったので、颯馬は「授業の続き」という言葉の意味を少しだけ理解した気がした。
最初の目的地は、旧・雪杜小学校だった。校舎のまわりの雪はすっかり消え、かわりに土の匂いと去年の落ち葉の名残が地面を覆っている。校庭の隅の桜の木々は、まだつぼみが固いが、枝の先端がうっすらと色づき始めていた。
「ここが、今は集会所として使われている旧小学校です」
門をくぐると、正面に二階建ての木造校舎が現れる。窓ガラスには、去年の夏に子どもたちが描いたらしい絵が、薄く残っていた。
「おお……」
男性は足を止め、しばらく何も言わずに校舎を見上げた。頬のあたりに、小さな笑い皺が寄る。
「黒板、まだあるかな」
「体育館のほうに、残ってます」
「黒板を見ると、どうしてもチョークを持ちたくなるんだよ」
呟くように言いながら、男性は校舎の廊下に足を踏み入れた。床板がきしみ、その音が遠い昔のざわめきを呼び戻す。
体育館に入ると、壁際に立てかけられた黒板が一枚、静かに佇んでいた。誰かが最後に書いたのだろうか、「ありがとう 雪杜小」とチョークの文字がうっすら残っている。
「ここ、今は地域の会議で使ってるんですが……」
そう説明しようとしたとき、男性はそっと黒板消しを手に取った。粉の匂いが、ほこりと一緒に舞い上がる。
「すみません、一つだけ」
彼は黒板の片隅を軽く消すと、白いチョークを手にした。
「『ここで学んだことは、町じゅうで続いていく』」
ゆっくりと、丁寧な字で書き込む。文字の一画一画に、教壇に立ち続けた年数の重みがにじんでいた。
「授業の続き、って、こういうことなんですね」
瑠奈が、小さな声で呟く。
「教室で終わらないことを、外で続けている人がいる。それを見に来る旅なんですか」
「かっこよく言えば、そうなるかもしれないね」
男性は、チョークを黒板消しの上にそっと置いた。
「本当はね、退職したあともずっと、『あのときもっとこう教えられたんじゃないか』って反省ばかりしていたんだ」
体育館の窓から射し込む光が、床に長く伸びる。その光の中で、男性は少しだけ目を細めた。
「でも、こうしていろんな町を歩いてみると、教室で使った言葉や時間が、知らないところでまだ続いている気がしてね。さっきの案内所の地図を見たときも、『誰かが黒板を持って町中を歩いている』みたいだと思ったんだ」
「黒板は重いので、模造紙で勘弁してください」
颯馬が思わず口を挟むと、男性は「それは正しい判断だ」と笑った。
旧小学校をあとにし、商店街へ向かう途中、桜並木のほうから子どもたちの声が聞こえてきた。まだ花は七分咲きにもなっていないが、川沿いの遊歩道には、遠足らしき小学生の列が見える。
「おお、あれは……」
男性の歩幅が、自然と少しだけ早くなる。遊歩道に下りると、川沿いの桜の枝が、頭のすぐ上を通り過ぎていく。つぼみの間から、小さな花びらがいくつかだけ開いていた。
「まだ咲きかけですけど」
「咲きかけがいいんだよ」
男性は、川面に映る桜の影を眺めながら言った。
「満開より、授業の途中みたいでね。『続きはまた明日』って、言いたくなる」
小学生たちの列が近づいてくる。先生らしい女性が先頭を歩き、子どもたちがわいわいとおしゃべりをしていた。すれ違うとき、ひとりの男の子が男性のカメラを見て「写真の人だ」と小声で囁く。その言葉に、男性の口元がほころんだ。
「先生をやめても、先生みたいに扱われちゃうんですね」
「姿勢が変わらないのかもしれないね」
川沿いのベンチに腰を下ろすと、風が少しだけ強くなった。冬のあいだに琉央が直した座面は、相変わらずしっかりと支えてくれる。
「ここで、少し休憩しましょう」
瑠奈が小さなポットから紙コップに温かいお茶を注ぎ、颯馬は商店街のパン屋で買ってきた小さなあんぱんを配った。
「町の普通のお茶と、普通のあんぱんです」
「それが一番ありがたい」
男性は、あんぱんを半分に割り、川面を眺めながらゆっくりと口に運んだ。
「昔、教室でもよく言っていたんだ。特別なことより、毎日続く普通のことのほうが、あとから効いてくるって」
「それ、案内所の壁に書きたいです」
瑠奈がペンを取り出し、手帳にその言葉を書き写す。颯馬は、桜のつぼみを見上げながら、心の中で同じ言葉をなぞった。
川沿いから商店街へ戻る道すがら、男性は店先を一つひとつ眺めて歩いた。八百屋の白菜、文具店のボールペン、たきざわ玩具店のシャッター。
「この玩具店、まだやっているのかな」
「昼間は、孫の子が店番してます。譲ってもらったおもちゃを、一つひとつ磨いて並べてる」
「いいねえ。授業が続いてる」
「授業、ですか」
「うん。『物を大事にする』って、どの教科書にも書いてあるけど、それを本当にやる場所は、案外少ない。こういう店こそ、教科書の横に載せたいくらいだ」
たきざわ玩具店のシャッターには、小さな紙が貼られていた。「本日午後三時から開けます」とミオの字で書かれている。
「今日は、授業の午後の部から、だな」
男性の言葉に、颯馬は少し笑った。
半日のコースが終わるころ、駅前広場には夕方の光が落ち始めていた。案内所の前で立ち止まり、颯馬は最後の説明を終える。
「本日は、半日のご参加ありがとうございました。九つの場所のうち、今日は三つだけでしたが……」
「十分だよ」
男性は首を横に振った。
「全部を一日で回るより、少しだけ余白があったほうがいい。『続きはまた今度』って言えるからね」
スタンプカードには、旧小学校と川沿いと商店街の印が押されている。まだ六つ分の丸が、白いまま残っていた。
「この白いところは、宿題だな」
「宿題、ですか」
「そう。私にとっても、この町にとっても。『また来る理由』ってやつだ」
改札へ向かう前に、男性はふと立ち止まった。
「そういえば、さっきの川沿いのベンチのところでね」
「はい」
「授業のときに言いそびれた言葉を、一つ思い出したんだ」
颯馬と瑠奈が、思わず姿勢を正す。
「『ここで過ごした時間は、あなたがどこに行っても、勝手についてくる』」
男性は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「教室で言っておけばよかったのにね。今さらだけど、ここで言っておく。九つの場所で過ごす時間も、きっとそうなる」
その言葉は、案内所の窓ガラスをかすめて、駅舎の屋根の向こうへと静かに伸びていくように聞こえた。
改札を抜ける直前、男性は振り返った。
「この町には、まだ授業の続きがありそうだ」
それだけ言い残し、彼はホームへ向かって歩いていった。列車のドアが閉まる音が響き、やがて車体が少しずつ動き出す。窓の向こうで小さく手を振るシルエットが、夕方の光の中に溶けていった。
ホームの灯りがともり始めたころ、颯馬は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。今日一日で受け取った言葉を、忘れないうちに書き留めるためだ。
「授業の続き」「咲きかけの桜」「白いスタンプの丸=宿題」。
書き込んだ文字の横に、小さな九つの丸を描く。その丸のうち三つだけを塗りつぶし、残り六つはそのままにしておいた。
「続きはまた今度、か」
呟いた声は、誰にも聞かれないまま、案内所の天井に吸い込まれていく。けれど、その余白は悪くない、と颯馬は思った。
九つの場所の地図の片隅に、小さな印がひとつ増えた日。春の川沿いに咲きかけの桜が揺れ、まだ続きのある授業のように、町の時間が静かにめくられていく。
その朝、颯馬はいつもより早く観光案内所の鍵を開けた。シャッターを上げると、ガラス越しに淡い桃色が目に飛び込んでくる。川沿いの桜並木が、枝先だけ先走るように色づき始めていた。
「……今日か」
カウンターの上には、昨日から何度も確認した予約票が置かれている。手書きの名簿の一番上に、「九つの場所めぐり・半日コース 一名」と書かれていた。申し込みの欄には、「年齢六十代・男性/元教師」とある。
元教師、という言葉の横に、小さく「歩行ペースゆっくり」「川沿いの桜を楽しみにしている」と書き添えられていた。電話を受けた瑠奈が、聞き取ったまま丁寧にメモしたものだ。
「緊張してる?」
背後から声がして振り向くと、瑠奈がマフラーを外しながら案内所に入ってきた。手には、いつもの手帳と、桜のシールで飾られたバインダーが抱えられている。
「春用の九つの資料、完成しました」
バインダーをぱらりと開くと、中には冬とは違う写真が並んでいた。雪の代わりに、濡れた土の香りが立ちのぼるりんご園。白波岬の海の色は、冬より少し薄く、柔らかい水色になっている。
「今日のルートは、川沿いと旧小と商店街だな」
「うん。桜と、黒板と、買い食い」
「最後のだけ、急に現実的だな」
「お腹が空いたら、景色どころじゃなくなるでしょ」
そんな会話をしていると、駅のホームから列車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。ほどなくして、自動ドアが開き、一人の男性が改札を抜けてくる。
背筋の伸びた六十代くらいの男性だった。紺色のコートに、くたびれた革のショルダーバッグ。手には、小さなデジカメと折りたたみの帽子が握られている。髪には白いものが混じっているが、目の奥は子どものように好奇心で光っていた。
「おはようございます。雪杜ナインプレイスの……案内所はここでよろしいのかな」
「はい。ご予約ありがとうございます」
颯馬はカウンターから一歩踏み出し、軽く頭を下げた。
「本日ご案内を担当する颯馬です。こちら、時間配分と安全確認担当の瑠奈です」
「安全確認担当?」
男性が目を丸くすると、瑠奈は「初めての春ルートなので」と笑った。
「足元と坂道の確認、しっかりやらせてください」
「それは心強い。坂道でこけると、授業の続きができなくなってしまう」
「授業の続き、ですか」
思わず聞き返すと、男性は少し照れたように笑った。
「つい、昔の癖でね。私は、小学校で長く教壇に立っていたんだ。十年前に退職してから、全国の小さな町をのんびり回っていてね。雪杜という名前は、前に教えた子の年賀状にたびたび出てきて、ずっと気になっていた」
「教え子さんが、この町の出身なんですか」
「そう。あだ名が『雪ダルマ』の子でね。冬になると毎回、雪の写真を送ってくるものだから、どんな町か見ておきたいと思って」
話しながら、男性は案内所の壁に貼られた模造紙に目を向けた。「準備中の地図」と書かれたその紙には、「9place 雪杜」と大きく記され、九つの場所を示す木の印と色分けされた線が走っている。
「これが、例の九つか」
「はい。今日は、その中から『学校と川沿い』を中心に歩くコースをご案内します」
颯馬は、カードサイズの地図を差し出した。九つの丸のうち、旧・雪杜小学校と川沿いに印が少し濃くついている。
「では、さっそく出発しましょう」
案内所を出ると、駅前広場の空気はまだ少し冷たかったが、風の中に混じる匂いが冬とは違っていた。遠くで、カラスの鳴き声の代わりに、どこかの庭先からラジオの音が聞こえてくる。
「この町、思ったより静かですね」
男性は、広場をゆっくりと見回しながら歩く。
「観光地というより、暮らしている人の町、という感じがする」
「観光だけでは回らないので」
颯馬が苦笑すると、男性は「それはどこも同じさ」と頷いた。
「教室もね、授業だけでは回らない。掃除も給食も、休み時間の喧嘩も含めて、ようやく一日が終わる」
その言い方があまりに自然だったので、颯馬は「授業の続き」という言葉の意味を少しだけ理解した気がした。
最初の目的地は、旧・雪杜小学校だった。校舎のまわりの雪はすっかり消え、かわりに土の匂いと去年の落ち葉の名残が地面を覆っている。校庭の隅の桜の木々は、まだつぼみが固いが、枝の先端がうっすらと色づき始めていた。
「ここが、今は集会所として使われている旧小学校です」
門をくぐると、正面に二階建ての木造校舎が現れる。窓ガラスには、去年の夏に子どもたちが描いたらしい絵が、薄く残っていた。
「おお……」
男性は足を止め、しばらく何も言わずに校舎を見上げた。頬のあたりに、小さな笑い皺が寄る。
「黒板、まだあるかな」
「体育館のほうに、残ってます」
「黒板を見ると、どうしてもチョークを持ちたくなるんだよ」
呟くように言いながら、男性は校舎の廊下に足を踏み入れた。床板がきしみ、その音が遠い昔のざわめきを呼び戻す。
体育館に入ると、壁際に立てかけられた黒板が一枚、静かに佇んでいた。誰かが最後に書いたのだろうか、「ありがとう 雪杜小」とチョークの文字がうっすら残っている。
「ここ、今は地域の会議で使ってるんですが……」
そう説明しようとしたとき、男性はそっと黒板消しを手に取った。粉の匂いが、ほこりと一緒に舞い上がる。
「すみません、一つだけ」
彼は黒板の片隅を軽く消すと、白いチョークを手にした。
「『ここで学んだことは、町じゅうで続いていく』」
ゆっくりと、丁寧な字で書き込む。文字の一画一画に、教壇に立ち続けた年数の重みがにじんでいた。
「授業の続き、って、こういうことなんですね」
瑠奈が、小さな声で呟く。
「教室で終わらないことを、外で続けている人がいる。それを見に来る旅なんですか」
「かっこよく言えば、そうなるかもしれないね」
男性は、チョークを黒板消しの上にそっと置いた。
「本当はね、退職したあともずっと、『あのときもっとこう教えられたんじゃないか』って反省ばかりしていたんだ」
体育館の窓から射し込む光が、床に長く伸びる。その光の中で、男性は少しだけ目を細めた。
「でも、こうしていろんな町を歩いてみると、教室で使った言葉や時間が、知らないところでまだ続いている気がしてね。さっきの案内所の地図を見たときも、『誰かが黒板を持って町中を歩いている』みたいだと思ったんだ」
「黒板は重いので、模造紙で勘弁してください」
颯馬が思わず口を挟むと、男性は「それは正しい判断だ」と笑った。
旧小学校をあとにし、商店街へ向かう途中、桜並木のほうから子どもたちの声が聞こえてきた。まだ花は七分咲きにもなっていないが、川沿いの遊歩道には、遠足らしき小学生の列が見える。
「おお、あれは……」
男性の歩幅が、自然と少しだけ早くなる。遊歩道に下りると、川沿いの桜の枝が、頭のすぐ上を通り過ぎていく。つぼみの間から、小さな花びらがいくつかだけ開いていた。
「まだ咲きかけですけど」
「咲きかけがいいんだよ」
男性は、川面に映る桜の影を眺めながら言った。
「満開より、授業の途中みたいでね。『続きはまた明日』って、言いたくなる」
小学生たちの列が近づいてくる。先生らしい女性が先頭を歩き、子どもたちがわいわいとおしゃべりをしていた。すれ違うとき、ひとりの男の子が男性のカメラを見て「写真の人だ」と小声で囁く。その言葉に、男性の口元がほころんだ。
「先生をやめても、先生みたいに扱われちゃうんですね」
「姿勢が変わらないのかもしれないね」
川沿いのベンチに腰を下ろすと、風が少しだけ強くなった。冬のあいだに琉央が直した座面は、相変わらずしっかりと支えてくれる。
「ここで、少し休憩しましょう」
瑠奈が小さなポットから紙コップに温かいお茶を注ぎ、颯馬は商店街のパン屋で買ってきた小さなあんぱんを配った。
「町の普通のお茶と、普通のあんぱんです」
「それが一番ありがたい」
男性は、あんぱんを半分に割り、川面を眺めながらゆっくりと口に運んだ。
「昔、教室でもよく言っていたんだ。特別なことより、毎日続く普通のことのほうが、あとから効いてくるって」
「それ、案内所の壁に書きたいです」
瑠奈がペンを取り出し、手帳にその言葉を書き写す。颯馬は、桜のつぼみを見上げながら、心の中で同じ言葉をなぞった。
川沿いから商店街へ戻る道すがら、男性は店先を一つひとつ眺めて歩いた。八百屋の白菜、文具店のボールペン、たきざわ玩具店のシャッター。
「この玩具店、まだやっているのかな」
「昼間は、孫の子が店番してます。譲ってもらったおもちゃを、一つひとつ磨いて並べてる」
「いいねえ。授業が続いてる」
「授業、ですか」
「うん。『物を大事にする』って、どの教科書にも書いてあるけど、それを本当にやる場所は、案外少ない。こういう店こそ、教科書の横に載せたいくらいだ」
たきざわ玩具店のシャッターには、小さな紙が貼られていた。「本日午後三時から開けます」とミオの字で書かれている。
「今日は、授業の午後の部から、だな」
男性の言葉に、颯馬は少し笑った。
半日のコースが終わるころ、駅前広場には夕方の光が落ち始めていた。案内所の前で立ち止まり、颯馬は最後の説明を終える。
「本日は、半日のご参加ありがとうございました。九つの場所のうち、今日は三つだけでしたが……」
「十分だよ」
男性は首を横に振った。
「全部を一日で回るより、少しだけ余白があったほうがいい。『続きはまた今度』って言えるからね」
スタンプカードには、旧小学校と川沿いと商店街の印が押されている。まだ六つ分の丸が、白いまま残っていた。
「この白いところは、宿題だな」
「宿題、ですか」
「そう。私にとっても、この町にとっても。『また来る理由』ってやつだ」
改札へ向かう前に、男性はふと立ち止まった。
「そういえば、さっきの川沿いのベンチのところでね」
「はい」
「授業のときに言いそびれた言葉を、一つ思い出したんだ」
颯馬と瑠奈が、思わず姿勢を正す。
「『ここで過ごした時間は、あなたがどこに行っても、勝手についてくる』」
男性は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「教室で言っておけばよかったのにね。今さらだけど、ここで言っておく。九つの場所で過ごす時間も、きっとそうなる」
その言葉は、案内所の窓ガラスをかすめて、駅舎の屋根の向こうへと静かに伸びていくように聞こえた。
改札を抜ける直前、男性は振り返った。
「この町には、まだ授業の続きがありそうだ」
それだけ言い残し、彼はホームへ向かって歩いていった。列車のドアが閉まる音が響き、やがて車体が少しずつ動き出す。窓の向こうで小さく手を振るシルエットが、夕方の光の中に溶けていった。
ホームの灯りがともり始めたころ、颯馬は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。今日一日で受け取った言葉を、忘れないうちに書き留めるためだ。
「授業の続き」「咲きかけの桜」「白いスタンプの丸=宿題」。
書き込んだ文字の横に、小さな九つの丸を描く。その丸のうち三つだけを塗りつぶし、残り六つはそのままにしておいた。
「続きはまた今度、か」
呟いた声は、誰にも聞かれないまま、案内所の天井に吸い込まれていく。けれど、その余白は悪くない、と颯馬は思った。
九つの場所の地図の片隅に、小さな印がひとつ増えた日。春の川沿いに咲きかけの桜が揺れ、まだ続きのある授業のように、町の時間が静かにめくられていく。
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