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第10話 琉央、ひとりで抱え込む
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春の観光シーズンが、本格的に動き始めた。
雪解け水で少し濁った川が勢いよく流れ、川沿いの桜は先週の「咲きかけ」から八分咲きへと進んでいた。九つの場所を歩く人影も、冬より増えている。その朝、観光案内所のカウンターの上には木札の山ができていた。赤い紐がついた形の違う木製のプレート。駅、神社、酒蔵、足湯……九つの場所をかたどったオリジナルキーホルダーだ。
「えっと……在庫表、ここまで減ってるの?」
瑠奈が、電卓片手に目を瞬かせる。
「昨日だけで『川沿い』が七個、『旧小』が五個、『白波岬』が六個。『酒蔵』は『さっき補充したのにもうない』って龍護さんが三回言ってる」
「いいことなんだよな、これは」
颯馬は、売り場の棚を見ながら苦笑した。透明なケースの中で、木のキーホルダーが心許なく揺れている。
「ただ……」
「ただ?」
「作ってるの、基本的に琉央ひとりなんだよな」
カウンターの隅には、昨夜届いたメモが置いてあった。
『駅前十五/神社十/足湯十/酒蔵二十/りんご園十/岬十五/旧小十/川沿い十五 近日中に補充 琉央』
短い字でびっしりと書かれ、最後に「可能なぶんから」と付け足してある。
「これ、全部ひとりで?」
瑠奈がメモを見て眉をひそめた。
「昨日、工房の前通ったとき、まだ明かりついてたよ。夜の十時過ぎ」
「えっ」
「休日返上ってやつじゃない?」
「休日返上っていうか、睡眠返上では」
二人で視線を交わしていると、案内所のドアが開き、龍護が顔を出した。
「おはよう。スタンプカードの試作品、これで合ってるか?」
「あ、ありがとうございます。……って、その目の下のクマ、もしかして」
「え、俺?」
龍護は自分の目の下を指で触った。
「いや、俺は蔵のほうが忙しいだけ。クマなら、工房のほうに本物がいるぞ」
「本物?」
「昨日、閉店後に様子見に行ったらな。琉央、やすり片手に半分寝てた。木を削る音が、ときどき途切れるの。つるつる……しーん……ガリッ……って」
「ガリッはまずいでしょ」
「何個かは、試飲用ってことにしてくれ」
冗談めかして笑うものの、龍護の表情には、少しだけ心配の色が浮かんでいた。
「今日の午後、ツアーのない時間帯に、様子見に行ってきてくれないか。あいつ、頼られるのは平気なくせに、頼るのは下手だから」
「それ、すごく分かる」
瑠奈と颯馬が、同時に頷いた。
*
午後三時過ぎ、九つの場所の半日コースを終えたあと、颯馬と瑠奈は案内所の「準備中」の札を裏返し、川沿いを抜けて木工房へ向かった。
住宅街を一本曲がった先に、琉央の工房はある。古い倉庫を改装した建物で、扉の隙間から削り木の匂いと細かな粉を含んだ光が漏れている。
「おじゃまします」
引き戸を開けると、室内の空気がふわりと流れ出た。木の粉、オイル、少し焦げた木の匂い。作業台の前に、琉央が背を向けて立っている。前の机には木の板がいくつも並び、足元には削りくずが山のように積もっていた。
「……何個、作ってるの?」
思わず出た瑠奈の声に、琉央は振り向かずに答えた。
「今日の分、三十六。明日の分、二十四。予備で十」
「合計七十?」
「必要だから」
短く言って、彼は再びノコギリを握る。その動きは正確で、無駄がない。だが、肩のあたりにうっすらと疲労の影が見えた。
「琉央」
颯馬は、作業台の横に回り込んで彼の顔を覗き込んだ。目の下には、さすがに薄い影がある。髪の間からこぼれた木の粉が頬に貼り付いていた。
「もしかして、最近ずっとこのペース?」
「普通」
「寝てる?」
「たぶん」
「『たぶん』って単語でごまかすの禁止」
瑠奈が、工房の隅にあった丸椅子を引き寄せ、強引に彼の背中を押して座らせた。琉央は抵抗しかけて、途中で諦めたように腰を下ろす。
「キーホルダー、好評なんだって」
颯馬が、作業台に並んだ完成品の一つを手に取る。駅をかたどった正方形の木片の上に、小さな雪だるまが焼き付けられている。角は丁寧に丸められ、指先になじむ。
「……売れてるなら、作るしかない」
「『作るしかない』って顔で、全部ひとりでやらなくてもいいでしょ」
瑠奈が、ため息混じりに言う。
「九つの場所のキーホルダーなんだから、九人で作っても、誰も文句言わないよ」
「九人もいない」
「じゃあ、六人で」
「中途半端」
言い合いのような会話に見えながら、声の色はどこか柔らかい。琉央は、手の中のやすりをじっと見つめた。
「でも……誰かがやすり失敗したら」
「そのときは『初めて一緒に作った跡』って言おう」
「長い」
短い返事の中に、かすかな揺らぎが混じる。
「琉央」
瑠奈が、まっすぐ彼を見る。
「九つの場所を歩いた人たちが、『このキーホルダーを見るたびに今日を思い出す』って言ってくれるの、すごくうれしいよ。でもそれは、作った人が倒れない前提の話だから」
「倒れてない」
「今はね」
工房の柱時計が、四時を告げた。
「ねえ、相談があります」
瑠奈は、ポケットからスマホを取り出した。
「これから一時間後、ここを『木の教室』にさせて」
「教室?」
「キーホルダー作りたい人、集めます。案内所チームと、酒蔵チームと、ラジオチームと、数字チーム」
「チームって言い換えても、やることは同じだろ」
颯馬が苦笑する。
「でも、言い方って大事だから」
瑠奈は、スマホのグループチャットを開き、手早くメッセージを打ち始めた。
『琉木の工房でキーホルダー制作講座。本日十七時~ 参加できる人は「行く」と返事ください。差し入れ歓迎』
「講座って書いた」
「講座って書いた時点で、教室じゃないか」
「そのほうが、琉央も『教える』って形で手を抜きやすいでしょ」
半ば強引な理屈だったが、どこか説得力もあった。
「……別に、教えるほどのことじゃない」
「じゃあ、『一緒にやる』でもいい」
その一言に、工房の空気が少しだけ揺れた。
*
一時間後。
木工房の前には、見慣れた顔が一列に並んでいた。
「講師の先生、こちらでよろしいですか」
龍護が、コンビニの袋を片手に、わざとらしく丁寧なお辞儀をする。袋の中には、おにぎりがぎっしり詰まっていた。
「お腹が空いてると、手元が狂うからな。まずは腹ごしらえ講座からだ」
「講座って言えば何でも許されると思ってない?」
亜矢菜が呆れたように笑いながら、ノートパソコンの入ったバッグを肩から下ろした。彼女の後ろには、分厚いファイルを抱えた樹佳が続く。
「数字チーム、参上。作業効率と原価と講師へのお礼を計算する」
琉央は、工房の入り口でその様子を見ていた。いつも作業用にまくっているシャツの袖を、そのままにしている手が、少しだけ落ち着かない。
「本当に、来た」
「呼んだから」
瑠奈は胸を張った。
「今日は九つの場所キーホルダー製作・入門編。講師は琉央。受講料は自分用の一本」
「受講料っていうか、報酬では」
「細かいことは数字チームが後で調整します」
樹佳は「はいはい」と言いながら、工房の隅に小さなメモ用テーブルを作った。
「じゃあ、始めようか」
颯馬が、作業台の周りに折り畳み椅子を並べる。「まず、これ」
琉央は無地の木片を一つ持ち上げた。
「角を落として、表面をならす。ここまでは、誰がやってもいい。でも、形を切り抜くところと、焼き印をつけるところは、最初は俺がやる」
「安全講習、的な?」
「間違えて指に焼き印つけると、九つの場所じゃ足りなくなる」
「指の数ってこと?」
「半分冗談」
それでも、その言葉の奥に、彼なりの配慮がにじんでいた。
実演が始まると、工房の中には木を削る音に、くしゃみと笑い声とおにぎりの包みを破る音が混じった。亜矢菜は「作りながらラジオ収録もいけるかも」と言い出し、レコーダーを机の端に置いた。
「やすりは、押すときじゃなくて、引くときに力入れて」
「力入れすぎると、角が変な形になる」
「変な形も味じゃない?」
「味と失敗は違う」
言い切る声は、いつもより少しだけよく通った。
「ここ、こう持って」
今度は瑠奈のやすりを持つ手を、後ろからそっと握って角度を直す。木の粉が、二人の指のあいだに少し溜まった。
「うわ、指先がつるつるになってきた」
「冬のささくれには効く」
ささやかな冗談が飛ぶたびに、工房の空気がやわらかくなっていく。
龍護は「酒蔵バージョン」の木片を選んだ。
「ここに煙突描いていい?」
「煙突は最初から付いてる」
「じゃあ、湯気だけ描く」
「湯気は酒蔵から出ない」
「心の湯気だよ」
そのやりとりに、亜矢菜が笑いをこらえながらカメラのシャッターを切る。
「木粉まみれの『九つの場所会議』、いい写真撮れそう」
「会議っていうより、放課後の工作クラブです」
「放課後、か」
「放課後にこんなに人来たら、顧問の先生、喜ぶかな」
「喜ぶでしょ。きっと『掃除までやってくれたら完璧』って言う」
「じゃあ、最後に掃除までセットで」
樹佳が、工房の隅に立てかけてあったほうきを手に取った。
「私、掃除担当でもいいよ。数字の入力作業とあんまり変わらないから」
「変わるでしょ」
そう言って、彼女は床に積もった削りくずを、一定のリズムで掃き集め始めた。
しばらくすると、作業台の上に小さな木片の山ができた。角が丸くなり、触ると指先にやさしい手触りが返ってくる。
「今日のぶん、これで半分くらい?」
颯馬が尋ねると、琉央は木片の数を目で数えた。
「……そうだな」
その声が、少しだけ軽くなっていた。
「残り半分は、明日の昼までにやる。ひとりで」
「ひとりで?」
瑠奈が眉を上げる。
「それなら、私たちが手伝っても、結局同じじゃない?」
「違う」
琉央は、ゆっくりと言葉を続けた。
「今日みたいに皆でやった分は、『皆で作ったぶん』として残る。残りは、俺が『いつものペース』で確認しながらやる。それなら、全部ちゃんと見届けられる」
それは、ひとりで抱え込む癖と、誰かに任せる勇気の、ちょうど真ん中を探した答えのようだった。
「……それなら、いい」
瑠奈は、少し考えてから頷いた。
「じゃあ今日から、『九つの場所キーホルダーは、皆で作って琉央が仕上げる』ってことにしよう」
「仕上げ担当、か」
琉央は、小さく笑った。
「責任重くなった気がする」
「今までと変わらない。ただ途中が少しにぎやかになるだけ」
工房の外では、夕暮れの色が少しずつ濃くなっていた。
「そろそろ、おにぎり休憩にしませんか」
龍護がコンビニ袋を開け、机の上に三角形の包みを並べる。鮭、梅、昆布。
「木を削ったあとのおにぎりって、なんでこんなにうまいんだろうな」
「手が疲れてるから」
笑いながら、おにぎりを頬張る。塩気と米の甘さが、じんわりと体に染みていく。
「……九つの場所が増えたら、どうするんだろうな」
琉央が呟いた。
「たとえば、新しいベンチがもう一個できたらとか。りんご園の奥に、秋だけ開くカフェができたらとか」
「そのときは、その場所の形の木片を足そう」
颯馬が答える。
「全部いっぺんに作らなくてもいい。『まだ木が足りない場所』があるのも、きっと悪くない」
「宿題、ってやつだね」
「九つの場所の宿題が終わったころには、たぶん『次の九つ』が見えてくるんだろうな」
工房の時計が、六時を指した。作業台の上には、新しいキーホルダーの元が並んでいる。
ひとりで抱え込んでいた木の山が、少しだけ軽くなった夜だった。
雪解け水で少し濁った川が勢いよく流れ、川沿いの桜は先週の「咲きかけ」から八分咲きへと進んでいた。九つの場所を歩く人影も、冬より増えている。その朝、観光案内所のカウンターの上には木札の山ができていた。赤い紐がついた形の違う木製のプレート。駅、神社、酒蔵、足湯……九つの場所をかたどったオリジナルキーホルダーだ。
「えっと……在庫表、ここまで減ってるの?」
瑠奈が、電卓片手に目を瞬かせる。
「昨日だけで『川沿い』が七個、『旧小』が五個、『白波岬』が六個。『酒蔵』は『さっき補充したのにもうない』って龍護さんが三回言ってる」
「いいことなんだよな、これは」
颯馬は、売り場の棚を見ながら苦笑した。透明なケースの中で、木のキーホルダーが心許なく揺れている。
「ただ……」
「ただ?」
「作ってるの、基本的に琉央ひとりなんだよな」
カウンターの隅には、昨夜届いたメモが置いてあった。
『駅前十五/神社十/足湯十/酒蔵二十/りんご園十/岬十五/旧小十/川沿い十五 近日中に補充 琉央』
短い字でびっしりと書かれ、最後に「可能なぶんから」と付け足してある。
「これ、全部ひとりで?」
瑠奈がメモを見て眉をひそめた。
「昨日、工房の前通ったとき、まだ明かりついてたよ。夜の十時過ぎ」
「えっ」
「休日返上ってやつじゃない?」
「休日返上っていうか、睡眠返上では」
二人で視線を交わしていると、案内所のドアが開き、龍護が顔を出した。
「おはよう。スタンプカードの試作品、これで合ってるか?」
「あ、ありがとうございます。……って、その目の下のクマ、もしかして」
「え、俺?」
龍護は自分の目の下を指で触った。
「いや、俺は蔵のほうが忙しいだけ。クマなら、工房のほうに本物がいるぞ」
「本物?」
「昨日、閉店後に様子見に行ったらな。琉央、やすり片手に半分寝てた。木を削る音が、ときどき途切れるの。つるつる……しーん……ガリッ……って」
「ガリッはまずいでしょ」
「何個かは、試飲用ってことにしてくれ」
冗談めかして笑うものの、龍護の表情には、少しだけ心配の色が浮かんでいた。
「今日の午後、ツアーのない時間帯に、様子見に行ってきてくれないか。あいつ、頼られるのは平気なくせに、頼るのは下手だから」
「それ、すごく分かる」
瑠奈と颯馬が、同時に頷いた。
*
午後三時過ぎ、九つの場所の半日コースを終えたあと、颯馬と瑠奈は案内所の「準備中」の札を裏返し、川沿いを抜けて木工房へ向かった。
住宅街を一本曲がった先に、琉央の工房はある。古い倉庫を改装した建物で、扉の隙間から削り木の匂いと細かな粉を含んだ光が漏れている。
「おじゃまします」
引き戸を開けると、室内の空気がふわりと流れ出た。木の粉、オイル、少し焦げた木の匂い。作業台の前に、琉央が背を向けて立っている。前の机には木の板がいくつも並び、足元には削りくずが山のように積もっていた。
「……何個、作ってるの?」
思わず出た瑠奈の声に、琉央は振り向かずに答えた。
「今日の分、三十六。明日の分、二十四。予備で十」
「合計七十?」
「必要だから」
短く言って、彼は再びノコギリを握る。その動きは正確で、無駄がない。だが、肩のあたりにうっすらと疲労の影が見えた。
「琉央」
颯馬は、作業台の横に回り込んで彼の顔を覗き込んだ。目の下には、さすがに薄い影がある。髪の間からこぼれた木の粉が頬に貼り付いていた。
「もしかして、最近ずっとこのペース?」
「普通」
「寝てる?」
「たぶん」
「『たぶん』って単語でごまかすの禁止」
瑠奈が、工房の隅にあった丸椅子を引き寄せ、強引に彼の背中を押して座らせた。琉央は抵抗しかけて、途中で諦めたように腰を下ろす。
「キーホルダー、好評なんだって」
颯馬が、作業台に並んだ完成品の一つを手に取る。駅をかたどった正方形の木片の上に、小さな雪だるまが焼き付けられている。角は丁寧に丸められ、指先になじむ。
「……売れてるなら、作るしかない」
「『作るしかない』って顔で、全部ひとりでやらなくてもいいでしょ」
瑠奈が、ため息混じりに言う。
「九つの場所のキーホルダーなんだから、九人で作っても、誰も文句言わないよ」
「九人もいない」
「じゃあ、六人で」
「中途半端」
言い合いのような会話に見えながら、声の色はどこか柔らかい。琉央は、手の中のやすりをじっと見つめた。
「でも……誰かがやすり失敗したら」
「そのときは『初めて一緒に作った跡』って言おう」
「長い」
短い返事の中に、かすかな揺らぎが混じる。
「琉央」
瑠奈が、まっすぐ彼を見る。
「九つの場所を歩いた人たちが、『このキーホルダーを見るたびに今日を思い出す』って言ってくれるの、すごくうれしいよ。でもそれは、作った人が倒れない前提の話だから」
「倒れてない」
「今はね」
工房の柱時計が、四時を告げた。
「ねえ、相談があります」
瑠奈は、ポケットからスマホを取り出した。
「これから一時間後、ここを『木の教室』にさせて」
「教室?」
「キーホルダー作りたい人、集めます。案内所チームと、酒蔵チームと、ラジオチームと、数字チーム」
「チームって言い換えても、やることは同じだろ」
颯馬が苦笑する。
「でも、言い方って大事だから」
瑠奈は、スマホのグループチャットを開き、手早くメッセージを打ち始めた。
『琉木の工房でキーホルダー制作講座。本日十七時~ 参加できる人は「行く」と返事ください。差し入れ歓迎』
「講座って書いた」
「講座って書いた時点で、教室じゃないか」
「そのほうが、琉央も『教える』って形で手を抜きやすいでしょ」
半ば強引な理屈だったが、どこか説得力もあった。
「……別に、教えるほどのことじゃない」
「じゃあ、『一緒にやる』でもいい」
その一言に、工房の空気が少しだけ揺れた。
*
一時間後。
木工房の前には、見慣れた顔が一列に並んでいた。
「講師の先生、こちらでよろしいですか」
龍護が、コンビニの袋を片手に、わざとらしく丁寧なお辞儀をする。袋の中には、おにぎりがぎっしり詰まっていた。
「お腹が空いてると、手元が狂うからな。まずは腹ごしらえ講座からだ」
「講座って言えば何でも許されると思ってない?」
亜矢菜が呆れたように笑いながら、ノートパソコンの入ったバッグを肩から下ろした。彼女の後ろには、分厚いファイルを抱えた樹佳が続く。
「数字チーム、参上。作業効率と原価と講師へのお礼を計算する」
琉央は、工房の入り口でその様子を見ていた。いつも作業用にまくっているシャツの袖を、そのままにしている手が、少しだけ落ち着かない。
「本当に、来た」
「呼んだから」
瑠奈は胸を張った。
「今日は九つの場所キーホルダー製作・入門編。講師は琉央。受講料は自分用の一本」
「受講料っていうか、報酬では」
「細かいことは数字チームが後で調整します」
樹佳は「はいはい」と言いながら、工房の隅に小さなメモ用テーブルを作った。
「じゃあ、始めようか」
颯馬が、作業台の周りに折り畳み椅子を並べる。「まず、これ」
琉央は無地の木片を一つ持ち上げた。
「角を落として、表面をならす。ここまでは、誰がやってもいい。でも、形を切り抜くところと、焼き印をつけるところは、最初は俺がやる」
「安全講習、的な?」
「間違えて指に焼き印つけると、九つの場所じゃ足りなくなる」
「指の数ってこと?」
「半分冗談」
それでも、その言葉の奥に、彼なりの配慮がにじんでいた。
実演が始まると、工房の中には木を削る音に、くしゃみと笑い声とおにぎりの包みを破る音が混じった。亜矢菜は「作りながらラジオ収録もいけるかも」と言い出し、レコーダーを机の端に置いた。
「やすりは、押すときじゃなくて、引くときに力入れて」
「力入れすぎると、角が変な形になる」
「変な形も味じゃない?」
「味と失敗は違う」
言い切る声は、いつもより少しだけよく通った。
「ここ、こう持って」
今度は瑠奈のやすりを持つ手を、後ろからそっと握って角度を直す。木の粉が、二人の指のあいだに少し溜まった。
「うわ、指先がつるつるになってきた」
「冬のささくれには効く」
ささやかな冗談が飛ぶたびに、工房の空気がやわらかくなっていく。
龍護は「酒蔵バージョン」の木片を選んだ。
「ここに煙突描いていい?」
「煙突は最初から付いてる」
「じゃあ、湯気だけ描く」
「湯気は酒蔵から出ない」
「心の湯気だよ」
そのやりとりに、亜矢菜が笑いをこらえながらカメラのシャッターを切る。
「木粉まみれの『九つの場所会議』、いい写真撮れそう」
「会議っていうより、放課後の工作クラブです」
「放課後、か」
「放課後にこんなに人来たら、顧問の先生、喜ぶかな」
「喜ぶでしょ。きっと『掃除までやってくれたら完璧』って言う」
「じゃあ、最後に掃除までセットで」
樹佳が、工房の隅に立てかけてあったほうきを手に取った。
「私、掃除担当でもいいよ。数字の入力作業とあんまり変わらないから」
「変わるでしょ」
そう言って、彼女は床に積もった削りくずを、一定のリズムで掃き集め始めた。
しばらくすると、作業台の上に小さな木片の山ができた。角が丸くなり、触ると指先にやさしい手触りが返ってくる。
「今日のぶん、これで半分くらい?」
颯馬が尋ねると、琉央は木片の数を目で数えた。
「……そうだな」
その声が、少しだけ軽くなっていた。
「残り半分は、明日の昼までにやる。ひとりで」
「ひとりで?」
瑠奈が眉を上げる。
「それなら、私たちが手伝っても、結局同じじゃない?」
「違う」
琉央は、ゆっくりと言葉を続けた。
「今日みたいに皆でやった分は、『皆で作ったぶん』として残る。残りは、俺が『いつものペース』で確認しながらやる。それなら、全部ちゃんと見届けられる」
それは、ひとりで抱え込む癖と、誰かに任せる勇気の、ちょうど真ん中を探した答えのようだった。
「……それなら、いい」
瑠奈は、少し考えてから頷いた。
「じゃあ今日から、『九つの場所キーホルダーは、皆で作って琉央が仕上げる』ってことにしよう」
「仕上げ担当、か」
琉央は、小さく笑った。
「責任重くなった気がする」
「今までと変わらない。ただ途中が少しにぎやかになるだけ」
工房の外では、夕暮れの色が少しずつ濃くなっていた。
「そろそろ、おにぎり休憩にしませんか」
龍護がコンビニ袋を開け、机の上に三角形の包みを並べる。鮭、梅、昆布。
「木を削ったあとのおにぎりって、なんでこんなにうまいんだろうな」
「手が疲れてるから」
笑いながら、おにぎりを頬張る。塩気と米の甘さが、じんわりと体に染みていく。
「……九つの場所が増えたら、どうするんだろうな」
琉央が呟いた。
「たとえば、新しいベンチがもう一個できたらとか。りんご園の奥に、秋だけ開くカフェができたらとか」
「そのときは、その場所の形の木片を足そう」
颯馬が答える。
「全部いっぺんに作らなくてもいい。『まだ木が足りない場所』があるのも、きっと悪くない」
「宿題、ってやつだね」
「九つの場所の宿題が終わったころには、たぶん『次の九つ』が見えてくるんだろうな」
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※医学描写はすべて架空です。
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