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第11話 亜矢菜のラジオと「声」
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川沿いの桜が散り始めるころ、雪杜町にも「春の終わり」の空気が漂い始めた。足元には花びらと小石が混ざり合い、九つの場所を歩く人たちの靴底が、かすかなざくざくという音を立てている。
そんなある日、観光案内所のポストに、淡い緑色の封筒が届いた。表には「雪杜FM」のロゴと「雪杜FM制作部」の文字。
「……ラジオ局から?」
封筒を手に取った瑠奈が、思わず声を上げる。颯馬はカウンターの内側から顔を出し、その封筒を覗き込んだ。
「番組表のお知らせとかじゃなくて?」
瑠奈は、そっと封を切った。中から出てきたのは、一枚の便箋と、簡単な企画書のようなプリントだった。
『雪杜FM新番組のご相談』
最初の一行を読んだ瞬間、二人は顔を見合わせた。
「新番組ってことは、もしかして……」
「もしかして、九つの場所、ラジオデビュー?」
期待と不安を抱えながら便箋を読み進める。
『この春から、雪杜FMでは「町の声」をテーマとした新コーナーを企画しています。「9place 雪杜」の取り組みを取材させていただきたく、また可能であれば定期的に九つの場所の様子を伝えるミニコーナーをお願いできればと考えています』
そこまでは想像の範囲内だったが、その次の一文で二人の視線が止まる。
『パーソナリティ候補として、ブログ「雪杜ぐるり歩き」の亜矢菜さんにお声がけできればと思っております』
「……亜矢菜さん、指名だ」
「さすがだなあ。こないだの『九つの場所の歩き方三パターン』の記事、アクセスすごかったもんな」
颯馬は、案内所の片隅に置かれたノートパソコンをちらりと見た。そこには、亜矢菜のブログの管理画面が開かれている。九つの場所をテーマにした記事の一覧には、「散歩の合間に聴くラジオまとめ」も加わっていた。
「ラジオ好きなの、バレてたんだね」
便箋の最後には、雪杜FMの担当者の名前と、連絡先、そして「一度、番組の方向性についてお話させてください」と書き添えられていた。
「……で、これ、どうする?」
「どうするって、亜矢菜さんに見せる以外の選択肢ある?」
「ないな」
*
その日の夕方、亜矢菜はいつものようにノートパソコンとレコーダーを抱えて案内所にやってきた。取材の約束はなかったが、「今日の九つ」のボードを書き換えに来る日でもあった。
「おつかれさまです。今日の九つ、どこ押さえときます?」
「今日は『川沿いと足湯と商店街』かな」
他愛ない会話のタイミングを見計らって、瑠奈が緑色の封筒を差し出した。
「これ、さっき届きました。雪杜FMから」
「ラジオ?」
亜矢菜は、封筒のロゴを見て目を丸くした。彼女は雪杜FMのヘビーリスナーで、番組表はほとんど頭に入っている。封筒の色だけで、どの部署からか分かるほどだった。
「開けても?」
「もちろん。むしろ早く」
便箋を読み始めた亜矢菜の表情が、数秒ごとに少しずつ変わっていく。最初は驚き、その次に困惑、最後に、少しだけ遠くを見つめるような目つきになった。
「……こういうの、漫画の中だけだと思ってた」
便箋を手にしたまま、ぽつりと言う。
「町のラジオ局から、『あなたの声を』って」
「やる?」
颯馬の問いかけに、亜矢菜は即答できなかった。便箋をもう一度読み直し、机の上にそっと置く。
「ラジオ、好きですよ。それに『町の声』ってテーマも、すごくいいと思う」
「けど?」
「……私、書くほうの人間だと思ってたから」
亜矢菜は、自分の指先を見つめた。キーボードのキーとペンの柄以外を握ることに、少しだけ不安を覚えているような手だった。
「ブログは書き直せるけど、ラジオは一度出した声がそのまま流れるでしょ」
「そこが、いいところでもあるけどな」
颯馬が、案内所のスピーカーをちらりと見る。昼間はBGMとして、雪杜FMの放送が小さな音で流れている。ときどき、近所の店の名前が聞こえてくると、お店の人が少し照れくさそうに笑う。
「九つの場所のこと、文章ではもうたくさん伝えてくれてる。今度は、声で伝える番が来たのかもしれない」
「『番』って言われると、逃げ場がないですね」
亜矢菜は、苦笑した。その笑いの中に、不安とわくわくが入り混じっている。
「とりあえず、一回話だけ聞きに行ってみたら? 断るのはそれからでも遅くないし」
彼女は、便箋の一番下に書かれた電話番号を見つめた。
「……電話、今かけてもいいですか」
「もちろん」
瑠奈が、カウンターの中から電話の子機を差し出す。亜矢菜は、深呼吸を一つしてから、番号を押し始めた。
*
数日後、雪杜FMのスタジオに、見慣れた顔ぶれが揃っていた。
「ここが、あの『深夜の雪見ラジオ』やってる場所か」
龍護がガラス越しに中を覗き込む。マイクとヘッドホン、ミキサーが並び、壁には音を吸収する素材が貼られていた。
「昼間に見ると、案外普通だね」
案内役の颯馬と瑠奈に加え、「九つの場所」の関係者として龍護と琉央、数字担当の樹佳も来ていた。
「なんで数字担当まで呼ばれてるのか、まだよく分かってないんだけど」
樹佳が首をかしげる。
「番組の効果測定と、スポンサー資料と、あと単純に心強いから」
「最初の数回は、『あやなと雪杜ナインプレイス』ってタイトルのミニコーナーになるそうです」
雪杜FMのディレクター・柏木が、にこやかに近づいてきた。四十代くらいの男性で、首からスタッフ用のIDカードをぶら下げている。
「今日は、生放送に慣れていただくための『お試し放送』です。リスナーには『プレ番組』として告知済みなので、気楽に」
「気楽に、って言葉ほど難しいものはないですね」
亜矢菜が苦笑すると、柏木は笑いながら頷いた。
「そうですね。でも、ここで流すのは、派手な宣伝ではなくて、『九つの場所を歩く時間』そのものですから。いつものブログの延長線上だと思ってください」
「ブログの延長線上、か」
亜矢菜は、その言葉を何度か心の中で反芻した。
「じゃあ、そろそろ本番前の音声チェック入りましょう」
スタジオのドアが開き、中に入るとマイクが四本並んでいた。
「本番中、話すのは主に亜矢菜さんと颯馬さん。瑠奈さんは時間管理と補足役で」
柏木が笑う。
「龍護さんたちはブースの外から見守ってください」
「マイクテストお願いします」
「えっと……雪杜ナインプレイス案内所ブログ担当の亜矢菜です」
「九つの場所の動線担当、颯馬です」
「ありがとうございます。音、問題なしです」
柏木が親指を立てる。ガラスの向こうで、時計の針が正時に近づいていく。
「では、このあと本番入ります」
*
オープニングテーマとメインパーソナリティの声のあと、「特別コーナーです」という言葉とともにジングルが流れた。
『あやなと雪杜ナインプレイス』
柔らかいピアノの音に乗せて、録音されたタイトルコールが流れる。自分の声が、少しだけ低く、落ち着いたトーンで流れているのを聞いて、亜矢菜は思わず背筋を伸ばした。
「ここからの十分間は、雪杜町の九つの場所を歩く小さな旅、『あやなと雪杜ナインプレイス』の時間です。ご案内するのは――」
「――ブログ『雪杜ぐるり歩き』を書いている亜矢菜です。そして隣には」
「九つの場所で、よく道を間違える颯馬です」
スタジオの外で、小さな笑いが起きる。ガラスの向こうで、龍護が大げさに肩をすくめ、琉央がほんの少しだけ口元を緩めた。
「このコーナーでは、九つの場所を季節ごとの顔と一緒にご紹介します。今日は、川沿いと足湯と商店街。桜が散りかけの、歩きやすい季節です」
話し始めてみると、思ったよりも言葉は出てきた。ブログに書いた文章の断片や歩いたときの匂いが、声のかたちになってマイクに集まっていく。
「歩いている人たちの靴の音も、冬より軽くなった気がします。雪を踏む音から、土と砂利の音に変わって」
「足音って、季節のBGMですよね」
会話の中に、ふとしたところで笑いが混じる。原稿は用意していたものの、その場で湧いてくる言葉も多かった。
「足湯のところでは、近所のおばあちゃんたちが『九つの場所のうち、どこが一番好きか』を話してました」
スタジオの外で、誰かが肩を震わせて笑っているのが見えた。
「商店街では、たきざわ玩具店のシャッターが開く音が、相変わらずいいリズムで響いてます」
いつの間にか、マイクの向こうに町の風景が広がっていたように感じた。
「そして最後に、お知らせがあります」
「このコーナーでは、ラジオを聴いている皆さんからも『あなたの九つの場所』の話を募集します。雪杜に来たことがある人も、まだない人も、『自分の町の九つ』を教えてください」
スタジオの空気が、少しだけ変わった。
「たとえば、『朝一番で立ち寄るパン屋さん』とか、『帰り道に通る公園』とか。九つ全部じゃなくていいです。ひとつでも、その場所のことを話してもらえたら、ここから一緒に九つまで増やしていけたらと思います」
マイクの前で、ゆっくりと言葉を選ぶ。原稿に書いていた文章から、ところどころ逸れながらも、伝えたい芯だけはぶれないように。
「そのとき、『ここが好き』と言うのが照れくさかったら、『歩くとホッとする』とか、『通ると今日もやっていけそうな気がする』とか、そんな言い方でも大丈夫です」
ガラスの向こうで、颯馬が小さく頷いた。
「九つの場所は、誰の毎日の中にもきっとあると思うので、そんな話をラジオの中で探していけたらうれしいです」
最後の一文を言い終えると、スタジオの空気が少し柔らかくなった気がした。
「――というわけで、今日の『あやなと雪杜ナインプレイス』は、ここまでです」
エンディングのジングルが流れ、メインパーソナリティの声が再びスタジオに戻ってくる。コーナーを締めくくる挨拶を終えると、「おつかれさまでした」というディレクターの声がヘッドホンの向こうから聞こえた。
「……終わった」
マイクのランプが消えた瞬間、亜矢菜は大きく息を吐いた。
「初回にしては落ち着いてましたね。九つの場所を歩くときと声のトーンが同じで、きっとリスナーにも伝わったと思います」
「途中でちょっと早口になったところ、ありませんでした?」
「そのあたりは、次回一緒に調整しましょう」
ガラスの向こうでは、龍護が親指を立て、琉央が小さく手を振っている。
「どうだった?」
スタジオを出たところで、颯馬が尋ねる。
「……ブログみたいに『投稿前に戻る』ボタンがないのが、やっぱり怖いです」
「でも、そのぶん届くスピードも速かったと思うよ」
「『ここが好き』って言葉にするの、まだちょっと照れくさいけど」
「それでも、言ってくれたからね」
颯馬が、ふと会話の途中で立ち止まった。
「最後、『九つの場所は雪杜だけのものじゃない』って言ったろ。あれ、たぶん『授業の続き』だった」
「この前来た元先生が、『ここで過ごした時間はどこに行っても勝手についてくる』って言ってたろ。今日のラジオ、そんな時間を他の町にも少し渡したんじゃないかな」
「……そうだといいな」
亜矢菜は、自分の喉のあたりにそっと手を当てた。そこから出た言葉が、まだ会ったことのない誰かの朝や夜に届いていく光景をぼんやりと想像する。
「『声にならない好き』、ちょっとだけ音になりましたかね」
「十分、なってたよ」
スタジオの外の廊下には、まだ番組の余韻が残っている。壁には「あやなと雪杜ナインプレイス」の仮タイトルが書かれた紙が新しく貼られていた。
九つの場所の話が、今日初めて町の外へまとまった「声」として届いた日だった。
そんなある日、観光案内所のポストに、淡い緑色の封筒が届いた。表には「雪杜FM」のロゴと「雪杜FM制作部」の文字。
「……ラジオ局から?」
封筒を手に取った瑠奈が、思わず声を上げる。颯馬はカウンターの内側から顔を出し、その封筒を覗き込んだ。
「番組表のお知らせとかじゃなくて?」
瑠奈は、そっと封を切った。中から出てきたのは、一枚の便箋と、簡単な企画書のようなプリントだった。
『雪杜FM新番組のご相談』
最初の一行を読んだ瞬間、二人は顔を見合わせた。
「新番組ってことは、もしかして……」
「もしかして、九つの場所、ラジオデビュー?」
期待と不安を抱えながら便箋を読み進める。
『この春から、雪杜FMでは「町の声」をテーマとした新コーナーを企画しています。「9place 雪杜」の取り組みを取材させていただきたく、また可能であれば定期的に九つの場所の様子を伝えるミニコーナーをお願いできればと考えています』
そこまでは想像の範囲内だったが、その次の一文で二人の視線が止まる。
『パーソナリティ候補として、ブログ「雪杜ぐるり歩き」の亜矢菜さんにお声がけできればと思っております』
「……亜矢菜さん、指名だ」
「さすがだなあ。こないだの『九つの場所の歩き方三パターン』の記事、アクセスすごかったもんな」
颯馬は、案内所の片隅に置かれたノートパソコンをちらりと見た。そこには、亜矢菜のブログの管理画面が開かれている。九つの場所をテーマにした記事の一覧には、「散歩の合間に聴くラジオまとめ」も加わっていた。
「ラジオ好きなの、バレてたんだね」
便箋の最後には、雪杜FMの担当者の名前と、連絡先、そして「一度、番組の方向性についてお話させてください」と書き添えられていた。
「……で、これ、どうする?」
「どうするって、亜矢菜さんに見せる以外の選択肢ある?」
「ないな」
*
その日の夕方、亜矢菜はいつものようにノートパソコンとレコーダーを抱えて案内所にやってきた。取材の約束はなかったが、「今日の九つ」のボードを書き換えに来る日でもあった。
「おつかれさまです。今日の九つ、どこ押さえときます?」
「今日は『川沿いと足湯と商店街』かな」
他愛ない会話のタイミングを見計らって、瑠奈が緑色の封筒を差し出した。
「これ、さっき届きました。雪杜FMから」
「ラジオ?」
亜矢菜は、封筒のロゴを見て目を丸くした。彼女は雪杜FMのヘビーリスナーで、番組表はほとんど頭に入っている。封筒の色だけで、どの部署からか分かるほどだった。
「開けても?」
「もちろん。むしろ早く」
便箋を読み始めた亜矢菜の表情が、数秒ごとに少しずつ変わっていく。最初は驚き、その次に困惑、最後に、少しだけ遠くを見つめるような目つきになった。
「……こういうの、漫画の中だけだと思ってた」
便箋を手にしたまま、ぽつりと言う。
「町のラジオ局から、『あなたの声を』って」
「やる?」
颯馬の問いかけに、亜矢菜は即答できなかった。便箋をもう一度読み直し、机の上にそっと置く。
「ラジオ、好きですよ。それに『町の声』ってテーマも、すごくいいと思う」
「けど?」
「……私、書くほうの人間だと思ってたから」
亜矢菜は、自分の指先を見つめた。キーボードのキーとペンの柄以外を握ることに、少しだけ不安を覚えているような手だった。
「ブログは書き直せるけど、ラジオは一度出した声がそのまま流れるでしょ」
「そこが、いいところでもあるけどな」
颯馬が、案内所のスピーカーをちらりと見る。昼間はBGMとして、雪杜FMの放送が小さな音で流れている。ときどき、近所の店の名前が聞こえてくると、お店の人が少し照れくさそうに笑う。
「九つの場所のこと、文章ではもうたくさん伝えてくれてる。今度は、声で伝える番が来たのかもしれない」
「『番』って言われると、逃げ場がないですね」
亜矢菜は、苦笑した。その笑いの中に、不安とわくわくが入り混じっている。
「とりあえず、一回話だけ聞きに行ってみたら? 断るのはそれからでも遅くないし」
彼女は、便箋の一番下に書かれた電話番号を見つめた。
「……電話、今かけてもいいですか」
「もちろん」
瑠奈が、カウンターの中から電話の子機を差し出す。亜矢菜は、深呼吸を一つしてから、番号を押し始めた。
*
数日後、雪杜FMのスタジオに、見慣れた顔ぶれが揃っていた。
「ここが、あの『深夜の雪見ラジオ』やってる場所か」
龍護がガラス越しに中を覗き込む。マイクとヘッドホン、ミキサーが並び、壁には音を吸収する素材が貼られていた。
「昼間に見ると、案外普通だね」
案内役の颯馬と瑠奈に加え、「九つの場所」の関係者として龍護と琉央、数字担当の樹佳も来ていた。
「なんで数字担当まで呼ばれてるのか、まだよく分かってないんだけど」
樹佳が首をかしげる。
「番組の効果測定と、スポンサー資料と、あと単純に心強いから」
「最初の数回は、『あやなと雪杜ナインプレイス』ってタイトルのミニコーナーになるそうです」
雪杜FMのディレクター・柏木が、にこやかに近づいてきた。四十代くらいの男性で、首からスタッフ用のIDカードをぶら下げている。
「今日は、生放送に慣れていただくための『お試し放送』です。リスナーには『プレ番組』として告知済みなので、気楽に」
「気楽に、って言葉ほど難しいものはないですね」
亜矢菜が苦笑すると、柏木は笑いながら頷いた。
「そうですね。でも、ここで流すのは、派手な宣伝ではなくて、『九つの場所を歩く時間』そのものですから。いつものブログの延長線上だと思ってください」
「ブログの延長線上、か」
亜矢菜は、その言葉を何度か心の中で反芻した。
「じゃあ、そろそろ本番前の音声チェック入りましょう」
スタジオのドアが開き、中に入るとマイクが四本並んでいた。
「本番中、話すのは主に亜矢菜さんと颯馬さん。瑠奈さんは時間管理と補足役で」
柏木が笑う。
「龍護さんたちはブースの外から見守ってください」
「マイクテストお願いします」
「えっと……雪杜ナインプレイス案内所ブログ担当の亜矢菜です」
「九つの場所の動線担当、颯馬です」
「ありがとうございます。音、問題なしです」
柏木が親指を立てる。ガラスの向こうで、時計の針が正時に近づいていく。
「では、このあと本番入ります」
*
オープニングテーマとメインパーソナリティの声のあと、「特別コーナーです」という言葉とともにジングルが流れた。
『あやなと雪杜ナインプレイス』
柔らかいピアノの音に乗せて、録音されたタイトルコールが流れる。自分の声が、少しだけ低く、落ち着いたトーンで流れているのを聞いて、亜矢菜は思わず背筋を伸ばした。
「ここからの十分間は、雪杜町の九つの場所を歩く小さな旅、『あやなと雪杜ナインプレイス』の時間です。ご案内するのは――」
「――ブログ『雪杜ぐるり歩き』を書いている亜矢菜です。そして隣には」
「九つの場所で、よく道を間違える颯馬です」
スタジオの外で、小さな笑いが起きる。ガラスの向こうで、龍護が大げさに肩をすくめ、琉央がほんの少しだけ口元を緩めた。
「このコーナーでは、九つの場所を季節ごとの顔と一緒にご紹介します。今日は、川沿いと足湯と商店街。桜が散りかけの、歩きやすい季節です」
話し始めてみると、思ったよりも言葉は出てきた。ブログに書いた文章の断片や歩いたときの匂いが、声のかたちになってマイクに集まっていく。
「歩いている人たちの靴の音も、冬より軽くなった気がします。雪を踏む音から、土と砂利の音に変わって」
「足音って、季節のBGMですよね」
会話の中に、ふとしたところで笑いが混じる。原稿は用意していたものの、その場で湧いてくる言葉も多かった。
「足湯のところでは、近所のおばあちゃんたちが『九つの場所のうち、どこが一番好きか』を話してました」
スタジオの外で、誰かが肩を震わせて笑っているのが見えた。
「商店街では、たきざわ玩具店のシャッターが開く音が、相変わらずいいリズムで響いてます」
いつの間にか、マイクの向こうに町の風景が広がっていたように感じた。
「そして最後に、お知らせがあります」
「このコーナーでは、ラジオを聴いている皆さんからも『あなたの九つの場所』の話を募集します。雪杜に来たことがある人も、まだない人も、『自分の町の九つ』を教えてください」
スタジオの空気が、少しだけ変わった。
「たとえば、『朝一番で立ち寄るパン屋さん』とか、『帰り道に通る公園』とか。九つ全部じゃなくていいです。ひとつでも、その場所のことを話してもらえたら、ここから一緒に九つまで増やしていけたらと思います」
マイクの前で、ゆっくりと言葉を選ぶ。原稿に書いていた文章から、ところどころ逸れながらも、伝えたい芯だけはぶれないように。
「そのとき、『ここが好き』と言うのが照れくさかったら、『歩くとホッとする』とか、『通ると今日もやっていけそうな気がする』とか、そんな言い方でも大丈夫です」
ガラスの向こうで、颯馬が小さく頷いた。
「九つの場所は、誰の毎日の中にもきっとあると思うので、そんな話をラジオの中で探していけたらうれしいです」
最後の一文を言い終えると、スタジオの空気が少し柔らかくなった気がした。
「――というわけで、今日の『あやなと雪杜ナインプレイス』は、ここまでです」
エンディングのジングルが流れ、メインパーソナリティの声が再びスタジオに戻ってくる。コーナーを締めくくる挨拶を終えると、「おつかれさまでした」というディレクターの声がヘッドホンの向こうから聞こえた。
「……終わった」
マイクのランプが消えた瞬間、亜矢菜は大きく息を吐いた。
「初回にしては落ち着いてましたね。九つの場所を歩くときと声のトーンが同じで、きっとリスナーにも伝わったと思います」
「途中でちょっと早口になったところ、ありませんでした?」
「そのあたりは、次回一緒に調整しましょう」
ガラスの向こうでは、龍護が親指を立て、琉央が小さく手を振っている。
「どうだった?」
スタジオを出たところで、颯馬が尋ねる。
「……ブログみたいに『投稿前に戻る』ボタンがないのが、やっぱり怖いです」
「でも、そのぶん届くスピードも速かったと思うよ」
「『ここが好き』って言葉にするの、まだちょっと照れくさいけど」
「それでも、言ってくれたからね」
颯馬が、ふと会話の途中で立ち止まった。
「最後、『九つの場所は雪杜だけのものじゃない』って言ったろ。あれ、たぶん『授業の続き』だった」
「この前来た元先生が、『ここで過ごした時間はどこに行っても勝手についてくる』って言ってたろ。今日のラジオ、そんな時間を他の町にも少し渡したんじゃないかな」
「……そうだといいな」
亜矢菜は、自分の喉のあたりにそっと手を当てた。そこから出た言葉が、まだ会ったことのない誰かの朝や夜に届いていく光景をぼんやりと想像する。
「『声にならない好き』、ちょっとだけ音になりましたかね」
「十分、なってたよ」
スタジオの外の廊下には、まだ番組の余韻が残っている。壁には「あやなと雪杜ナインプレイス」の仮タイトルが書かれた紙が新しく貼られていた。
九つの場所の話が、今日初めて町の外へまとまった「声」として届いた日だった。
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