雪杜ナインプレイス 〜キミと雪見酒と、声にならない好き〜

乾為天女

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第12話 マダム同士の戦い・朝ごはん頂上決戦

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 朝の駅前広場に、味噌汁の匂いがした。

 雪杜の空は少しだけ薄曇りで、山のほうには朝もやがからんでいる。けれど広場の真ん中だけはやたらとにぎやかだった。長机が二列に並び、その上には湯気を立てるお椀や焼き魚の皿がずらりと並んでいる。

 「……いつもの駅前、じゃないよね」

 観光案内所のドアを開けた瑠奈が、思わず呟いた。颯馬も、手に持っていた鍵を握ったまま固まる。

 「今日は、誰の責任でこうなってる?」

 「えーと、たぶん――」

 案内所の前で腕を組んでいる二人の女将に、視線が吸い寄せられる。

 一人は、山側の温泉宿「雪椿」の女将・美津子。淡い藤色の着物に、腰まで届きそうなエプロンを重ねている。もう一人は、海沿いの民宿「海灯」の女将・早苗。紺の割烹着の袖をきゅっとまくり、白い三角巾できっちり髪をまとめていた。

 「颯馬さん、おはようございます」

 先に口を開いたのは、美津子だった。にこやかに会釈しながらも、視線だけはぴしっと隣を意識している。

 「今日の『朝ごはん頂上決戦』、準備は万端ですから」

 「頂上決戦って、正式名称だったんですね」

 瑠奈が、手元のメモをめくる。そこには、昨日の夕方、美津子と早苗が揃って案内所に押しかけてきたときの走り書きが残っている。

 『ルート地図の宿の写真、大きさ調整希望』
 『お客様の朝ごはん評価を反映させる案』
 『雪椿と海灯、どちらが「九つの朝」の代表か決めたい』

 その結果が、今の長机と湯気の正体だ。

 「だって、そちらの地図、宿の欄、写真枠が限られているじゃありませんか」

 早苗が、模造紙を指さした。駅前の案内板用に新しく作った「九つの場所+泊まれるところ」マップだ。雪椿と海灯は同じくらいの大きさで並んでいるが、その並び順をめぐって昨夜ひと悶着あった。

 「だったら、うちの朝ごはんで勝負しましょうって、そちらが」

 「言い出しっぺは早苗さんですよ」

 二人の間に、見えない火花が散る。

 「で、どうして駅前なんですか」

 颯馬が恐る恐る尋ねると、美津子は「あら」と笑った。

 「公平を期すためですわ。山側の宿でやると海灯さんに不利ですし、海側でやると雪椿が不利。駅前なら、どちらからも同じ距離でしょう?」

 「それに、ここなら通りかかった観光客の方にも参加してもらえますしね」

 早苗が、焼き網の魚をひっくり返しながら言う。じゅっ、と脂が音を立てた。

 「観光客……参加?」

 「ええ。『九つの場所モーニング投票』です」

 美津子が胸ポケットから、小さな投票カードを取り出した。表には、雪椿と海灯のロゴが並び、その下に「美味しかったほうに〇を」と印刷されている。

 「それ、いつの間に作ったんですか」

 「昨日の夜、琉央くんに木札を頼みに行ったついでに印刷所に寄りまして」

 「木札って、まさか」

 駅前広場の端には、小さな看板が立っていた。

 『本日限定 マダム同士の戦い・朝ごはん頂上決戦
 雪椿 vs 海灯 投票された方には、九つの場所オリジナル木札をプレゼント』

 看板の横には、見覚えのある丸い木札が籠に入っている。片面には九つの場所の小さな印、もう片面にはスプーンと箸が交差したマークが焼き付けられていた。

 「完全に巻き込まれてる……」

 颯馬は、額を押さえた。

 「龍護さん、知ってます?」

 「当然知ってる。うちの酒粕も献上してるからな」

 いつの間にか、龍護がエコバッグを肩に掛けて立っていた。袋の中から顔を出しているのは、酒粕のパックと甘酒の瓶だ。

 「『朝ごはんに合う甘酒対決』も同時開催だ」

 「勝手に増やすのやめてもらっていいですか」

 「お客さんの楽しみは多いほうがいいだろ」

 そんなやりとりをしているうちに、駅前には少しずつ人が集まり始めた。早めにチェックアウトした観光客、通勤前に立ち寄った町の人、そして――

 「ラジオの皆さんも、いらっしゃいました」

 瑠奈が指さした先から、見慣れた顔ぶれが近づいてくる。雪杜FMのディレクター・柏木と、スタッフ数名。そして、その中に、ヘッドホンではなくエプロンをつけた亜矢菜の姿もあった。

 「おはようございます。『あやなと雪杜ナインプレイス』特別編、朝からお邪魔します」

 「おはようございます。今日はマイクじゃなくて箸持ってるね」

 颯馬が笑うと、亜矢菜は「本番ですから」と箸を掲げてみせた。

 「ラジオで紹介するには、ちゃんと自分の舌で確かめないといけませんから」

 「……すっかりパーソナリティだな」

 柏木は、笑いながら録音用の小型マイクを確認している。

 「今日は、リスナーからも『朝の九つの場所』の話がたくさん届いていまして。その流れで、雪椿さんと海灯さんの『朝ごはん頂上決戦』を中継させていただければと」

 「もちろん大歓迎ですわ」

 美津子が即答する。

 「うちの焼き鮭の皮のパリパリ具合、全国に届けてくださいませ」

 「うちは、海藻たっぷりのお味噌汁で勝負しますから」

 早苗も負けていない。

 「では、ルールを確認させてください」

 瑠奈が、事前に聞き取っておいた内容を読み上げた。

 「一、お客様は雪椿か海灯、どちらかの朝ごはんセットを一人前試食できます。
 二、味、見た目、朝の気分に合うかどうかを総合的に判断し、投票カードに〇をつけてください。
 三、投票してくださった方には、九つの場所オリジナル木札を一枚プレゼント。
 四、結果の集計は樹佳さんが行います」

 「任された」

 樹佳が、小さな携帯用の集計表を掲げた。彼女の指には、すでに鉛筆の跡が薄くついている。

 「……で、俺の役割は?」

 琉央が、いつの間にか木札の補充用の箱を抱えて立っていた。昨夜遅くまで作業していたらしく、指先には細かい木粉が残っている。

 「木札の説明と、行列整理と、たまに味見」

 「最後のだけ多くない?」

 「文句があるなら、先に並んでください」

 そうこうしているうちに、「始めますよー」という早苗の声が響いた。雪椿と海灯、それぞれのテーブルの前に、きちんと列が伸びる。

 雪椿のテーブルには、艶やかな白米と、脂の乗った焼き鮭、卵焼き、漬物、小さな温泉卵。海灯のテーブルには、炊き込みご飯と、干物を香ばしく焼いた皿、海藻たっぷりの味噌汁に、自家製の塩辛。

 「こっちは、山の朝ごはんって感じだね」

 「こっちは、海の匂いがする」

 列に並ぶ観光客たちは、どちらも気になって仕方ない様子だ。中には、「両方食べられませんか」と真顔で聞いてくる人もいる。

 「そこは、心を鬼にしてどちらか一方でお願いします」

 瑠奈が苦笑しながら答える。

 「ただし、チェックアウトを二泊三日に伸ばしていただければ、明日は逆側を」

 「危ない商売の匂いがするな」

 颯馬が小声で突っ込んだ。

 試食が始まると、広場の空気が一段と温かくなった。箸の動く音、味噌汁をすする音、焼き魚の皮がパリッと割れる音。ときどき、「おいしい……」という素直な感嘆が漏れる。

 「すみません、この大根おろし、どうしてこんなに水っぽくないんですか」

 「朝一番でおろして、水を切りすぎないようにしているからですわ」

 美津子は、質問に一つずつ丁寧に答えながら、手元の盛り付けを決して乱さない。海灯の早苗は、味噌汁のお椀を絶妙なタイミングで補充しながら、「今日はワカメ多めですからね」と笑っている。

 「うわ、どっちも甲乙つけがたい……」

 ラジオのスタッフが、小声で唸った。亜矢菜は、メモ帳に感想を書き込みながら、一口ずつじっくり味わっている。

 「ラジオ用に、『今日の一品』を選ぶとしたら?」

 柏木が尋ねると、亜矢菜は少し考えて答えた。

 「一品だけなら、雪椿さんの温泉卵と、海灯さんの味噌汁です」

 「二品選んでるじゃないか」

 「朝は欲張りでも許される時間なんです」

 マイク越しに、そのやりとりが町中に流れていく。

    *

 午前十時を回るころには、投票箱の中はカードでいっぱいになっていた。木札も、ほとんど底をつきかけている。

 「そろそろ、集計に入ります」

 樹佳が、投票箱からカードを取り出し始めた。雪椿と海灯、それぞれの欄に入った〇の数を、淡々と数えていく。

 「……どっちが多い?」

 見守る頬に、うっすらと緊張が走る。美津子と早苗も、無言で互いの横顔をうかがっている。

 「雪椿が……四十八。海灯が……四十六」

 「二票差?」

 頬をかすめるような数字だった。

 「ただし」

 樹佳が、カードの束の端を持ち上げた。

 「どちらにも〇が二つついているカードが、数枚あります」

 「ルール違反……だけど、完全に気持ちは分かる」

 颯馬が苦笑する。

 「そのカードは、九つの場所としてはどう扱う?」

 「『どっちも好き』ってことですよね」

 亜矢菜が、静かに口を開いた。

 「九つの場所の話をしていると、『ここも好きだけど、あっちも捨てがたい』って声、よく出てきます。そういうのって、本当はどちらかを切り捨てる話じゃないと思うんです」

 「じゃあ、そのカードは?」

 「今日は、引き分けにしてもいいんじゃないでしょうか」

 その提案に、場の空気が少しだけ揺れた。数字の上では、わずかに雪椿が上回っている。けれど、カードに残された迷いと欲張りな〇印は、確かに「どちらもこの町の朝」と言っているようだった。

 「結果は、引き分けとします」

 樹佳が、静かに宣言した。

 「九つの場所の朝ごはん代表は、山と海、両方です」

 美津子と早苗は、一瞬だけ顔を見合わせたあと、ふっと笑った。

 「………まあ、そう来ると思ってましたわ」

 「最初から、そうなる予感はしてたけどね」

 早苗が、肩の力を抜いて言う。

 「でも、これで胸を張って言えますね」

 「何を?」

 「『雪杜の朝ごはんは、一回じゃ決まらない』って」

 その言葉に、周りから笑い声がこぼれた。

 「ラジオでは、どう紹介しましょうか」

 柏木がマイクを構えながら尋ねる。

 「『マダム同士の戦いは毎回引き分けです』って」

 亜矢菜が即答した。

 「そのかわり、『今日はどちらから攻めるか』をリスナーに選んでもらう、っていうのはどうでしょう」

 「『攻める』って言い方、朝ごはんにしては物騒ねえ」

 美津子が笑う。

 「じゃあ、『今日はどちらから箸をつけるか』にしましょうか」

 「それなら、許可します」

 女将二人のやりとりに、また笑いが起きた。

 その日の夕方、「あやなと雪杜ナインプレイス」では、朝の中継のダイジェストとともに、「マダム同士の戦い・朝ごはん頂上決戦」が紹介された。リスナーからはさっそく、「私は山派です」「海の味噌汁が気になる」といったメッセージが届き始める。

 「九つの場所の朝は、一つじゃありません」

 ラジオの向こうで、亜矢菜の声が静かに続ける。

 「山の宿で湯気に包まれる朝もあれば、海の宿で潮の匂いに目を覚ます朝もある。雪杜に来るたび、違う朝ごはんから一日を始めてみてください」

 駅前広場の長机は、夕方には片づけられた。けれど、あの朝の湯気と笑い声は、しばらくのあいだ雪杜のあちこちで話題に上ることになる。

 マダム同士の戦いは、勝ち負けではなく、「どちらから箸をつけるか」を悩むための楽しい迷いとして、九つの場所の新しい名物になっていった。

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