雪杜ナインプレイス 〜キミと雪見酒と、声にならない好き〜

乾為天女

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第17話 夏の山車と浴衣の夜

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 朝から、商店街のアスファルトの上に、白い線がいくつも引かれていた。

 「ここが山車の車輪の通り道で……こっちが観光客用の待機スペース」

 瑠奈がガムテープの芯を片手に、しゃがみ込んだまま説明する。黄色のビニールテープが、縁石の段差の上にぴしりと貼られていた。手の甲には、すでに細かい擦り傷がいくつもできている。

 「貼りすぎじゃないか?」

 颯馬は、額の汗を手の甲でぬぐいながら苦笑した。まだ午前中だというのに、山あいの町の空気は湿気を含み、Tシャツの背中に汗が張り付いている。

 「山車が通る車輪の幅と、商店街の段差の高さを全部メモしたら、こうなりました」

 瑠奈は、ポケットから折り畳まれたメモを取り出した。四角で囲まれた「段差注意」の文字と、手書きの矢印がびっしり並んでいる。

 「安全第一、ね」

 「今日こそ、転びかける人をゼロにしたいんです」

 その言葉に、颯馬は小さく頷いた。春のツアーで老人が足を滑らせそうになった坂道の光景が、ふと頭をよぎる。

 商店街の端では、琉央が太い綱を手のひらでさすっていた。綱を結ぶ木製の棒には、昨夜のうちに彫り込まれた「九」の印が小さく光っている。

 「その印、何個彫った?」

 颯馬が声をかけると、琉央は目線だけをこちらに向けた。

 「四十」

 「多くない?」

 「足りないより、まし」

 ぶっきらぼうな返事のわりに、綱の表面をなでる指先は丁寧だった。摩耗してささくれた部分には、透明なテープが巻かれている。

 「手、痛くなると引くのやめちゃうから」

 ぽつりと付け足す声には、誰かの掌を思い浮かべたような響きがあった。

 昼前になると、浴衣姿の人々がぽつりぽつりと商店街に現れ始めた。駅のほうから歩いてくる家族連れ、宿を出てくる観光客、地元の中学生グループ。

 「受付はこちらでーす! 九つの場所・夏祭り特別ルートの整理札、お配りしてます!」

 亜矢菜が、案内所前のテーブルの上で木札をしゃらりと鳴らした。木札の片面には、「9place 夏の山車コース」と焼き印が押されている。反対側には、小さな空欄があった。

 「この空欄、何を書くんですか?」

 浴衣を着た少女が首をかしげる。

 「今日、一番『また通りたい』って思った場所の名前を書いてね」

 亜矢菜が笑って答えると、少女は「ひとつだけ?」と迷った顔をした。

 「二つでも三つでもいいよ。裏側にも書けるから」

 「よかった」

 安堵したように笑う表情が、浴衣の帯の色よりも鮮やかに見えた。

 鐘の音が、商店街の奥から鳴り響いた。どん、と太鼓の低い音が続き、山車の木枠がゆっくりと角を曲がってくる。飾り付けられた提灯が揺れ、その下で、子どもたちが綱を握りしめながら跳ね回っていた。

 「山車、来ます! テープの内側に下がってくださーい!」

 瑠奈の声が、商店街に広がるざわめきの上を滑っていく。彼女は黄色いテープ沿いに駆けながら、一人ひとりの立ち位置をさっと確認していく。段差の手前では、さりげなく腕を広げて子どもの進行方向を変え、ベビーカーの車輪の向きもそっと直した。

 「綱、引けそうな人ー!」

 颯馬は、山車の前に立って声を張り上げた。目の前には、浴衣を着た観光客のグループや、半袖短パンの子どもたちが集まっている。

 「この綱、重そうに見えるけど、みんなで引くと案外いけます。途中で手が疲れたら、後ろの人と交代してください」

 そう言って、自分も綱の一端を握る。掌に伝わる麻のざらつきと、ゆっくりと動き出す手応え。後ろから、「せーの」という掛け声が何重にも重なる。

 山車が商店街の真ん中を進むにつれ、軒先から人がせり出してきた。八百屋の店主は段ボール箱をいったん下ろし、「よっ」と短く声を上げて綱の一部を肩に担ぐ。理髪店の親父は、まだ半分しか刈っていない客の頭にタオルをぽんと乗せ、「ちょっと待ってて」と外へ出てきた。

 「おいおい、大丈夫か、その頭」

 龍護が酒蔵前で笑いながら声をかける。横には、樽酒の試飲コーナーが設けられ、冷えたぐい呑みがいくつも並んでいた。

 「お客さん、山車が一回通るあいだだけ中断しますからねー。続きはすぐやります!」

 理髪店の中から、奥さんの声が飛ぶ。椅子に座ったままの男性は、鏡越しに外を眺めて「この町の散髪、豪快だな」と笑った。

 山車が酒蔵の前に差しかかると、龍護が木札の箱を胸の高さまで持ち上げた。

 「ここでひと区切り! 綱から手を離す人は、木札に丸を一つつけていってください。『山車の前でへばったポイント』の印になります」

 「そんな印、いります?」

 瑠奈が呆れたように眉を寄せる。

 「いるだろ。『ここまで頑張った』の証だから」

 龍護は悪びれもせず、丸いスタンプを勢いよく押した。木札の端に、インクの赤い輪が増えていく。

 「じゃあ、ここから先まで引いた人には、二重丸で」

 颯馬が冗談めかして言うと、子どもたちが一斉に「二重丸!」と叫んだ。綱を握る手に、もうひと踏ん張り分の力が宿るのがわかる。

 午後になると、陽射しはさらに強くなった。商店街のアーケードの影から一歩出るだけで、足元の熱がはっきりと増す。

 「水分補給ポイント、ここに追加しました」

 瑠奈が、雪見社へ向かう坂道の手前で、急ごしらえのテーブルを指さした。紙コップと麦茶の入ったポットが並び、横には「自由にどうぞ」と手書きの紙が貼られている。

 「この先、坂道きついですからね。山車は別ルートで行きますけど、人間のほうが息切れするので」

  「言い方」

 笑いが起きる中、坂道の上から太鼓の音が聞こえてきた。山車は、観光客とは違う裏道を使って先回りしている。決められた時間に、雪見社の鳥居前で合流するためだ。

 「時間、押してない?」

 颯馬は腕時計をちらりと見た。予定表には、細かく書き込まれた通過時刻が赤いペンで並んでいる。

 「予定より、三分遅れです」

 瑠奈が即答する。

 「でも、坂道の途中で『ここからの眺め、写真撮ったほうがいい』って言ったの、颯馬さんですよね」

 「……あれは、つい」

 「つい、で増えた三分は、大事な三分ですから」

 そう言って、瑠奈は予定表の端に小さく「写真三分」と書き加えた。

 雪見社の境内に着いたときには、汗ばむ額に風鈴の音が心地よく響いた。木陰の下には、地元の小学生たちが並んで座り、ペットボトルを抱えている。

 「ここから先、山車の綱は子どもたち中心で引きます」

 案内所から頼まれていたのだろう、学年ごとに色の違う手ぬぐいを首に巻いた子どもたちが、綱の前に立った。そこへ、先ほどまで綱を引いていた観光客たちが自然と後ろに回る。

 「前の子たちが歩きやすいように、段差のところで一声かけてもらえると助かります」

 瑠奈が小声で頼むと、浴衣姿の女性が「任せてください」と微笑んだ。

 鳥居をくぐり、坂を下り、足湯の前を通って、山車の一行は川沿いへ向かう。夕方が近づくと、空の色が少しずつ変わり始めた。

 川辺では、龍護が昼からせっせと運んでいた提灯が、列になって並んでいた。白い紙の面には、町内会の名前や、個人の名前が墨で書かれている。その中に、見慣れない文字が混じっていた。

 「『いつかの九つ』?」

 颯馬が首をかしげると、横から琉央が「それ」と短く指さした。

 「誰の名前?」

 「名前じゃない。さっき、受付で迷ってた人がいた」

 琉央は、昼間の木札のことを思い出すように言う。

  「『一番好きな場所が決められない』って。どうしても一個に絞れないから、代わりにこれ、って」

 墨の線は、少し震えていた。慣れない筆を握った手の跡が、そのまま残っている。

 川面に灯りが映り始めたころ、商店街のほうから最後の太鼓の音が届いた。山車の列はゆっくりと解散し、綱を離した人たちの手のひらには、赤い跡と汗の感触が残る。

 「おつかれさまでしたー!」

 瑠奈が、最後の木札を回収しながら頭を下げていく。木札の空欄には、「足湯」「雪見社の石段」「八百屋の前」「理髪店の椅子」「川沿いの橋の上」など、さまざまな文字が書き込まれていた。

 「『麦茶のおかわり』って書いてるの、誰ですか」

 亜矢菜が笑いをこらえながら木札をひっくり返す。

 「読み上げ禁止」

 龍護が額の汗をタオルでぬぐいながら制した。

 空がすっかり群青色になった頃、川沿いの灯りが一斉に落とされた。ざわめきが小さくなり、代わりに水の音がはっきりと耳に届く。

 「それでは、川灯りを点けます」

 町内会長の声が響き、提灯の灯りが一つ、また一つと灯っていく。川面に映る光の筋が、ゆっくりと伸び、揺れた。

 「これ、全部合わせると……」

 颯馬は、川に沿って並ぶ灯りの列を眺めた。駅前広場、商店街、雪見社、足湯、酒蔵、りんご園、白波岬、旧・雪杜小学校、川沿い――九つの場所の名前が、それぞれどこかで灯りの中に紛れ込んでいる。

 「町の形、かな」

 隣で、瑠奈がぽつりと呟いた。

 「昼間に歩いてきた線が、夜になると灯りの線になる感じがします」

 「線というより、輪っかかも」

 亜矢菜が、スマホの画面を川面に向けて構える。

 「どこから見てもつながっているから。写真に撮るとき、全部入りきらないのがもったいないくらい」

 琉央は、黙ったまま綱の端を握り直した。誰も引いていない綱の先が、川辺の暗がりでゆらりと揺れる。

 「どうした?」

 颯馬が尋ねると、琉央は少しだけ綱を持ち上げた。

 「今日、綱を引いた人、全部合わせたら、何人いたんだろうなって」

 「さあな。でも、綱のほうは覚えてるかもよ」

 「綱が?」

  「同じ綱でも、引く人によって重さが違うから」

 颯馬は、昼間に感じた手応えを思い出しながら言った。最初に握ったときの頼りなさ、途中で増えた子どもの手の軽さ、坂道で踏ん張った大人たちの重さ。

 「この町の夏、ってこういう重さなんだろうな」

 口に出してみると、その言葉が夜風に乗って川面の上を滑っていくような気がした。

 少し離れた場所で、浴衣姿の四人組が、川に向かってそっと頭を下げた。手には、今日一日で鉛筆の跡でいっぱいになった木札が握られている。

 「また、来ようね」

 誰かの小さな声がした。その声は、太鼓の音も花火の音もない静かな夜に、すっと溶け込んでいく。

 颯馬はポケットに手を入れ、玩具店でもらった古いキーホルダーを指先でなぞった。金属の冷たさの向こうに、今日一日で増えた「また来たい」が、いくつもぶら下がっているように思えた。

 「……来年も、やるか」

 つぶやきに、隣の瑠奈が振り向く。

 「もちろんです。来年は、テープ貼りをもう少し効率よくできる方法、考えておきます」

 「そこ?」

 「そこからです」

 笑い合いながら、二人は川面に映る灯りをもう一度眺めた。九つの場所を結ぶ光の筋が、静かな夏の夜に、はっきりとした輪郭を描いていた。

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