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第29話 琉央の看板
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十月の終わり、川沿いの風が少しだけ冷たくなったころ。
「駅前に、一目でわかる看板が欲しいんだ」
市役所の小さな打ち合わせ室で、部長がそう言った。ホワイトボードには、颯馬が描いた九つの場所の簡易地図が残っている。
「今はパンフレットを配っているけれど、ふらっと降りた人が、『ここ、何がある町なんだろう』って一目でわかるようなものがあったほうがいい」
「駅前広場に、木製の大きな案内板を置く案が出ています」
樹佳が、資料をめくりながら補足した。
「九つの場所の名前と、おおまかな位置。それから、歩く時間の目安も入れられたら」
「木なら、外に置いてもいいやつ、うちに在庫がある」
打ち合わせに顔を出していた琉央が、ぽつりと言った。
「丸投げする気はないけどな。『九つの場所』って名前が入るなら、ちゃんとしたやつにしたい」
部長が頷き、視線が自然と琉央に集まる。
「……担当、やる」
少し間を置いてから、琉央がはっきりと口にした。
「これは、自分の仕事だ」
その言葉の重さに、部屋の空気がわずかに引き締まった。
*
数日後。工房の前を通りかかった颯馬は、思わず足を止めた。
「でか……」
工房の扉は全開になっており、中には人の背丈をゆうに超える大きさの板が立てかけられていた。太い木の香りが、通りまで漂ってくる。
「思ったより、でかくなった」
琉央が、板の横で鉛筆をくわえながら言った。顔には細かい木くずがついている。
「駅前広場の奥に置くから、少し離れても見えるようにしたいって言われて」
板の表面には、まだ薄い線だけだが、山の稜線や川の流れが描かれていた。九つの場所を示す丸印も、仮の位置に鉛筆で打たれている。
「ここが駅で、ここが商店街。ここが足湯で、ここが酒蔵」
琉央が、指先でなぞる。
「雪見社と白波岬は、山と海の方向が一目でわかるように、少しだけ大げさに描く」
「いいな、それ」
颯馬は、板の前に立ってみた。自分の背より高い木の面に、まだ見ぬ地図が浮かび上がろうとしている。
「手伝うこと、あったら言えよ」
ごく自然に口から出た言葉に、琉央は短く首を振った。
「これは、自分でやる」
いつもより少し強い声だった。
「九つの場所の看板だし。誰かに『あの板、誰が作ったの?』って聞かれたら、『ここで作ってる人です』って言いたい」
その言葉の奥に、今までの仕事への積み重ねと、小さな意地が透けて見えた。
「……わかった」
颯馬は、それ以上何も言わず、工房をあとにした。
*
十月の夜は早い。
「さつまさん、さっき工房の前、通りました?」
駅前案内所で閉店作業をしていた瑠奈が、ふと顔を上げた。
「うん。さっき通ったとき、まだ灯りついてた」
颯馬は、ホワイトボードのペンを片付けながら答える。時計の針は、すでに九時を過ぎている。
「今日、一日中でしたよ。朝も通りすがりに見たとき、もう開いてましたし」
「さすがに詰め込みすぎじゃないか」
龍護も眉をひそめた。酒蔵の片付けを終え、案内所に寄ってきたところだった。
「材料も足りないって言ってたしな。板、ひとりで持ち上げるのもきついサイズだったぞ」
「差し入れでも持って、様子見に行きます?」
瑠奈が、視線をみんなに向ける。
「行こう」
迷いはなかった。
*
工房の扉は、夜になっても半分開いたままだった。中からは、ノミの小さな音と、紙やすりが木をこするざらざらという音が聞こえる。
「こんばんはー」
瑠奈が、遠慮がちに声をかけると、しばらくしてから琉央が顔を出した。
「……何」
目の下には薄くクマができている。作業着の袖は、木の粉でうっすら白くなっていた。
「様子見と、差し入れです」
瑠奈が紙袋を掲げる。中には、おにぎりと温かいお茶、そして龍護が持ってきた酒粕入りのクッキーが入っていた。
「忙しいなら、扉のところに置いておくだけでも」
そう言いかけたところで、工房の中が目に入った。
「……わ」
板の半分ほどには、すでに彫り込みが始まっていた。山の線は少しずつ立体になり、川の流れには細い筋が入っている。九つの丸印のうち、いくつかは小さな模様に変わりつつあった。
「雪見社は、こんな感じで」
琉央が、まだ途中の部分を指さす。そこには、小さな鳥居と階段のシルエットが彫りかけになっていた。
「足湯は桶。酒蔵は樽。りんご園は……りんご、そのままだと面白くないから、半分切って中の模様も入れる」
「すごい……」
思わず、瑠奈の声が漏れる。
「でも、まだ半分」
琉央は、板の上部を見上げた。そこには、まだ鉛筆の線が細く残っているだけだ。
「木目が硬いところにあたって、彫刻刀が全然進まない。おまけに、予定してた支柱の材が一本、節だらけで使えなかった」
言葉は淡々としているが、肩は明らかに重く落ちている。
「手伝っても、いいか?」
颯馬が静かに言った。
「ノミとか、ちゃんと教えてもらえれば、へんなところには力入れないから」
「私、やすり掛けならできます。昔、図工好きだったので」
瑠奈も続ける。
龍護は、工房の奥に置かれた板材の束を見てから、口を開いた。
「支柱用の材、足りないなら、うちにも一本ある。酒蔵の改装で余ってるやつ。明日、持ってくる」
「……」
琉央は、しばらく唇を噛んでいた。工房の中の空気が、静かに揺れる。
「これは、自分の仕事だって言った」
ぽつりと、さっきと同じ言葉を繰り返す。
「けど」
言葉がそこで途切れた。指先が、作業台の角をぎゅっと握る。
「……手」
かすれた声で、もう一度口を開く。
「手、貸してくれ」
それは、少し照れたような、でも確かな頼み方だった。
「合点承知」
龍護が、わざとらしく声を張る。
「じゃあ今日は、徹夜はさせねえ。区切りつくところまで一緒にやって、あとは明日の朝から続きだ」
颯馬も頷き、袖をまくった。
*
工房の夜は、いつもの静けさとは少し違う騒がしさで満たされた。
「そこ、力入れすぎ。木目に沿って」
琉央が、颯馬の手元を見ながら指示を出す。
「こう?」
「もう少し、刃を寝かせる」
ぎこちない手つきでノミを動かす颯馬の横で、瑠奈は紙やすりを握り、彫り終わった部分の角をそっと丸くしていく。
「ここ、触ってみて」
やすり掛けを終えた部分に、彼女はそっと指を滑らせた。
「角、立ってないですよね。子どもが触っても大丈夫なように」
「……悪くない」
琉央は、その部分をじっと見てから短く言った。
「じゃあ、次の場所もお願いします」
瑠奈が笑う。
工房の端では、龍護が支柱用の材を削っていた。
「この板、表だけきれいでもダメだからな。ちゃんと支えないと、風で倒れる」
「さすが酒蔵。重いものに慣れてる」
颯馬が感心すると、「樽と同じだ」と龍護が鼻で笑った。
時計の針は、あっという間に深夜を回った。
「休憩しよ」
瑠奈が、差し入れのおにぎりを広げる。味噌と梅と鮭。どれも、夜の工房にやさしい匂いを漂わせた。
「こんな時間に食べる炭水化物、うまいな」
龍護が幸せそうに言う。
「睡魔との戦いの燃料ですから」
颯馬も笑いながら頬張った。
琉央は、少しだけ遅れて、おにぎりを手に取った。
「……悪くない」
その一言に、全員が顔を見合わせて笑った。
*
やがて、工房の窓の外が、ほんの少しだけ青くなり始めた。
「そろそろ、朝になるな」
龍護が、窓の外を見ながら言う。
看板の正面には、九つの場所を示す模様がほぼ出そろっていた。雪見社の鳥居、足湯の桶、酒蔵の樽、りんごの断面、川沿いの欄干。旧・雪杜小学校には小さな黒板、白波岬には波と灯台の影。駅前広場の位置には、小さな列車のシルエットが彫られている。
「最後の一つは?」
瑠奈が尋ねる。
「ここ」
琉央が、まだ何も彫られていない小さな丸を指さした。九つのうち、駅近くにある商店街の位置だ。
「商店街、これっていう形、決めきれなかった」
「アーケードの屋根とか?」
颯馬が提案する。
「それもいいけど……」
琉央は、しばらく考えてから、鉛筆を手に取った。
「『九つの場所の、真ん中』って感じも出したい」
鉛筆の先が、丸の中に小さな点を打つ。そこから、細い線が四方に伸びていく。
「商店街を、九つの場所をつなぐ交差点みたいに描く」
「いいですね、それ」
瑠奈が、嬉しそうに声を上げる。
「ここを歩けば、どこにでも行ける感じがします」
「じゃあ、彫るぞ」
琉央が、最後の模様にノミを当てた。
カリ、カリ、と木を削る音が静かに続く。
ノミを離したとき、窓の外には朝焼けの光が差し込んできていた。工房の中に、柔らかな橙色の光が広がる。
「……できた」
誰ともなく、そうつぶやいた。
看板の表面には、九つの場所の名前と小さな模様、その間をつなぐ川や道の線が彫り込まれている。彫り跡には、夜通しの作業の痕跡が、静かに光っていた。
「正面から見て」
琉央が言い、三人は板の前に並んだ。
「うん」
颯馬は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。九つの場所を歩いた記憶が、木の板の上で一枚の絵になっている。
「駅前の階段を降りてきた人が、最初に見るのがこれって、いいな」
瑠奈も、小さく頷いた。
「ここを見て、『どれから行こうか』って迷ってもらえたら嬉しいです」
龍護は、支柱の金具を確認しながら、ぽつりと言った。
「これ、誰が作ったって聞かれたら、なんて答える?」
問いかけに、琉央は少しだけ考えてから、答えた。
「ここで作ったって言う」
そして、工具だらけの工房を見回す。
「……みんなで」
その一言に、颯馬は笑った。
「いいな、それ」
窓の外で、鳥の声が聞こえ始めた。工房の夜は終わり、新しい朝が始まる。
九つの場所を一目で示す木製の看板は、まだ工房の中に立てかけられたままだ。しかし、その板の中にはもう、たくさんの足音と笑い声が刻み込まれている。
それは、これから駅前広場に立ち、何度も何度も「どこから歩いてみますか」と静かに問いかけ続けるための、最初の朝だった。
「駅前に、一目でわかる看板が欲しいんだ」
市役所の小さな打ち合わせ室で、部長がそう言った。ホワイトボードには、颯馬が描いた九つの場所の簡易地図が残っている。
「今はパンフレットを配っているけれど、ふらっと降りた人が、『ここ、何がある町なんだろう』って一目でわかるようなものがあったほうがいい」
「駅前広場に、木製の大きな案内板を置く案が出ています」
樹佳が、資料をめくりながら補足した。
「九つの場所の名前と、おおまかな位置。それから、歩く時間の目安も入れられたら」
「木なら、外に置いてもいいやつ、うちに在庫がある」
打ち合わせに顔を出していた琉央が、ぽつりと言った。
「丸投げする気はないけどな。『九つの場所』って名前が入るなら、ちゃんとしたやつにしたい」
部長が頷き、視線が自然と琉央に集まる。
「……担当、やる」
少し間を置いてから、琉央がはっきりと口にした。
「これは、自分の仕事だ」
その言葉の重さに、部屋の空気がわずかに引き締まった。
*
数日後。工房の前を通りかかった颯馬は、思わず足を止めた。
「でか……」
工房の扉は全開になっており、中には人の背丈をゆうに超える大きさの板が立てかけられていた。太い木の香りが、通りまで漂ってくる。
「思ったより、でかくなった」
琉央が、板の横で鉛筆をくわえながら言った。顔には細かい木くずがついている。
「駅前広場の奥に置くから、少し離れても見えるようにしたいって言われて」
板の表面には、まだ薄い線だけだが、山の稜線や川の流れが描かれていた。九つの場所を示す丸印も、仮の位置に鉛筆で打たれている。
「ここが駅で、ここが商店街。ここが足湯で、ここが酒蔵」
琉央が、指先でなぞる。
「雪見社と白波岬は、山と海の方向が一目でわかるように、少しだけ大げさに描く」
「いいな、それ」
颯馬は、板の前に立ってみた。自分の背より高い木の面に、まだ見ぬ地図が浮かび上がろうとしている。
「手伝うこと、あったら言えよ」
ごく自然に口から出た言葉に、琉央は短く首を振った。
「これは、自分でやる」
いつもより少し強い声だった。
「九つの場所の看板だし。誰かに『あの板、誰が作ったの?』って聞かれたら、『ここで作ってる人です』って言いたい」
その言葉の奥に、今までの仕事への積み重ねと、小さな意地が透けて見えた。
「……わかった」
颯馬は、それ以上何も言わず、工房をあとにした。
*
十月の夜は早い。
「さつまさん、さっき工房の前、通りました?」
駅前案内所で閉店作業をしていた瑠奈が、ふと顔を上げた。
「うん。さっき通ったとき、まだ灯りついてた」
颯馬は、ホワイトボードのペンを片付けながら答える。時計の針は、すでに九時を過ぎている。
「今日、一日中でしたよ。朝も通りすがりに見たとき、もう開いてましたし」
「さすがに詰め込みすぎじゃないか」
龍護も眉をひそめた。酒蔵の片付けを終え、案内所に寄ってきたところだった。
「材料も足りないって言ってたしな。板、ひとりで持ち上げるのもきついサイズだったぞ」
「差し入れでも持って、様子見に行きます?」
瑠奈が、視線をみんなに向ける。
「行こう」
迷いはなかった。
*
工房の扉は、夜になっても半分開いたままだった。中からは、ノミの小さな音と、紙やすりが木をこするざらざらという音が聞こえる。
「こんばんはー」
瑠奈が、遠慮がちに声をかけると、しばらくしてから琉央が顔を出した。
「……何」
目の下には薄くクマができている。作業着の袖は、木の粉でうっすら白くなっていた。
「様子見と、差し入れです」
瑠奈が紙袋を掲げる。中には、おにぎりと温かいお茶、そして龍護が持ってきた酒粕入りのクッキーが入っていた。
「忙しいなら、扉のところに置いておくだけでも」
そう言いかけたところで、工房の中が目に入った。
「……わ」
板の半分ほどには、すでに彫り込みが始まっていた。山の線は少しずつ立体になり、川の流れには細い筋が入っている。九つの丸印のうち、いくつかは小さな模様に変わりつつあった。
「雪見社は、こんな感じで」
琉央が、まだ途中の部分を指さす。そこには、小さな鳥居と階段のシルエットが彫りかけになっていた。
「足湯は桶。酒蔵は樽。りんご園は……りんご、そのままだと面白くないから、半分切って中の模様も入れる」
「すごい……」
思わず、瑠奈の声が漏れる。
「でも、まだ半分」
琉央は、板の上部を見上げた。そこには、まだ鉛筆の線が細く残っているだけだ。
「木目が硬いところにあたって、彫刻刀が全然進まない。おまけに、予定してた支柱の材が一本、節だらけで使えなかった」
言葉は淡々としているが、肩は明らかに重く落ちている。
「手伝っても、いいか?」
颯馬が静かに言った。
「ノミとか、ちゃんと教えてもらえれば、へんなところには力入れないから」
「私、やすり掛けならできます。昔、図工好きだったので」
瑠奈も続ける。
龍護は、工房の奥に置かれた板材の束を見てから、口を開いた。
「支柱用の材、足りないなら、うちにも一本ある。酒蔵の改装で余ってるやつ。明日、持ってくる」
「……」
琉央は、しばらく唇を噛んでいた。工房の中の空気が、静かに揺れる。
「これは、自分の仕事だって言った」
ぽつりと、さっきと同じ言葉を繰り返す。
「けど」
言葉がそこで途切れた。指先が、作業台の角をぎゅっと握る。
「……手」
かすれた声で、もう一度口を開く。
「手、貸してくれ」
それは、少し照れたような、でも確かな頼み方だった。
「合点承知」
龍護が、わざとらしく声を張る。
「じゃあ今日は、徹夜はさせねえ。区切りつくところまで一緒にやって、あとは明日の朝から続きだ」
颯馬も頷き、袖をまくった。
*
工房の夜は、いつもの静けさとは少し違う騒がしさで満たされた。
「そこ、力入れすぎ。木目に沿って」
琉央が、颯馬の手元を見ながら指示を出す。
「こう?」
「もう少し、刃を寝かせる」
ぎこちない手つきでノミを動かす颯馬の横で、瑠奈は紙やすりを握り、彫り終わった部分の角をそっと丸くしていく。
「ここ、触ってみて」
やすり掛けを終えた部分に、彼女はそっと指を滑らせた。
「角、立ってないですよね。子どもが触っても大丈夫なように」
「……悪くない」
琉央は、その部分をじっと見てから短く言った。
「じゃあ、次の場所もお願いします」
瑠奈が笑う。
工房の端では、龍護が支柱用の材を削っていた。
「この板、表だけきれいでもダメだからな。ちゃんと支えないと、風で倒れる」
「さすが酒蔵。重いものに慣れてる」
颯馬が感心すると、「樽と同じだ」と龍護が鼻で笑った。
時計の針は、あっという間に深夜を回った。
「休憩しよ」
瑠奈が、差し入れのおにぎりを広げる。味噌と梅と鮭。どれも、夜の工房にやさしい匂いを漂わせた。
「こんな時間に食べる炭水化物、うまいな」
龍護が幸せそうに言う。
「睡魔との戦いの燃料ですから」
颯馬も笑いながら頬張った。
琉央は、少しだけ遅れて、おにぎりを手に取った。
「……悪くない」
その一言に、全員が顔を見合わせて笑った。
*
やがて、工房の窓の外が、ほんの少しだけ青くなり始めた。
「そろそろ、朝になるな」
龍護が、窓の外を見ながら言う。
看板の正面には、九つの場所を示す模様がほぼ出そろっていた。雪見社の鳥居、足湯の桶、酒蔵の樽、りんごの断面、川沿いの欄干。旧・雪杜小学校には小さな黒板、白波岬には波と灯台の影。駅前広場の位置には、小さな列車のシルエットが彫られている。
「最後の一つは?」
瑠奈が尋ねる。
「ここ」
琉央が、まだ何も彫られていない小さな丸を指さした。九つのうち、駅近くにある商店街の位置だ。
「商店街、これっていう形、決めきれなかった」
「アーケードの屋根とか?」
颯馬が提案する。
「それもいいけど……」
琉央は、しばらく考えてから、鉛筆を手に取った。
「『九つの場所の、真ん中』って感じも出したい」
鉛筆の先が、丸の中に小さな点を打つ。そこから、細い線が四方に伸びていく。
「商店街を、九つの場所をつなぐ交差点みたいに描く」
「いいですね、それ」
瑠奈が、嬉しそうに声を上げる。
「ここを歩けば、どこにでも行ける感じがします」
「じゃあ、彫るぞ」
琉央が、最後の模様にノミを当てた。
カリ、カリ、と木を削る音が静かに続く。
ノミを離したとき、窓の外には朝焼けの光が差し込んできていた。工房の中に、柔らかな橙色の光が広がる。
「……できた」
誰ともなく、そうつぶやいた。
看板の表面には、九つの場所の名前と小さな模様、その間をつなぐ川や道の線が彫り込まれている。彫り跡には、夜通しの作業の痕跡が、静かに光っていた。
「正面から見て」
琉央が言い、三人は板の前に並んだ。
「うん」
颯馬は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。九つの場所を歩いた記憶が、木の板の上で一枚の絵になっている。
「駅前の階段を降りてきた人が、最初に見るのがこれって、いいな」
瑠奈も、小さく頷いた。
「ここを見て、『どれから行こうか』って迷ってもらえたら嬉しいです」
龍護は、支柱の金具を確認しながら、ぽつりと言った。
「これ、誰が作ったって聞かれたら、なんて答える?」
問いかけに、琉央は少しだけ考えてから、答えた。
「ここで作ったって言う」
そして、工具だらけの工房を見回す。
「……みんなで」
その一言に、颯馬は笑った。
「いいな、それ」
窓の外で、鳥の声が聞こえ始めた。工房の夜は終わり、新しい朝が始まる。
九つの場所を一目で示す木製の看板は、まだ工房の中に立てかけられたままだ。しかし、その板の中にはもう、たくさんの足音と笑い声が刻み込まれている。
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