雪杜ナインプレイス 〜キミと雪見酒と、声にならない好き〜

乾為天女

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第30話 その頬に触れさせて

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 紅葉の季節になると、雪見社から足湯へと続く裏道の坂は、町の中でいちばん色づく。

 「ここ、地図には『近道』って書いてあるけど、実際には『寄り道』ですよね」

 坂道の上で、瑠奈が笑いながら振り返った。九つの場所の新しい木製看板には、この坂が小さな点線で描き足されている。「ゆっくり歩きたい人向けの、こっそりルートです」と添え書きまである。

 「でも、こっちのほうが好きな人、きっと多いと思う」

 颯馬は、落ち葉を踏みしめる音を聞きながら答えた。橙色と黄色が混ざった葉が、風に乗って舞い、石畳の上にふわりと落ちる。そのたびに、参加者たちの足音が少しだけ柔らかく聞こえた。

 今日の九つの場所めぐりは、雪見社からの帰りにこの坂を通る特別コースだった。平日の昼間、参加者は十人ほど。ゆっくり歩きたい人たちが集まった、小さなグループだ。

 「ここから見ると、川沿いも少し見えるんですね」

 列の後ろのほうから、年配の女性の声がした。灰色のコートに、赤いストール。髪には白いものが混じっているが、目の奥には子どもみたいな好奇心がきらりと光っている。

 「そうなんです。坂の途中で振り返ると、九つの場所のいくつかがまとめて見えるんですよ」

 瑠奈が、女性の隣に並んで歩調を合わせる。

 「さっき、駅前の大きな看板も見ました。あれ、すごくわかりやすいですねえ」

 「ありがとうございます。工房のみんなが、寝不足になりながら作ってくれた自慢の一枚です」

 そんな会話を交わしながら、列はゆっくりと坂を下っていった。

    *

 その瞬間は、本当に一瞬だった。

 小さな石が、坂の真ん中あたりでころんと転がる。

 「あ」

 年配の女性が、少しだけ足を取られた。次の瞬間、体が前に傾き、バランスを崩す。

 「危ない」

 颯馬は、反射的に駆け出した。けれど間に合わない。女性は、そのまま尻もちをつくように、どさりと地面に座り込んだ。

 「大丈夫ですか?」

 坂道の空気が、一瞬で張りつめる。近くにいた参加者たちが立ち止まり、息を飲んだ。

 「いったた……」

 女性は、顔をしかめながらも、ゆっくりと息を吐いた。

 「腰は……」

 颯馬は、女性のすぐそばにしゃがみこんだ。

 「足をねじった感じはありますか? 頭、どこかぶってませんか」

 問いかけながら、視線を全身に走らせる。そのとき、頬に小さな赤い線が入っているのが目に入った。細い枝が、倒れるときにかすめたのだろう。

 「頬も、少し擦ってしまってます」

 「え、本当?」

 女性は、片手で頬に触れようとした。

 その仕草を見て、颯馬の口から、自然に言葉が出た。

 「もしよかったら、その頬に触れさせて、傷がないか見てもいいですか」

 自分でも驚くほど、静かな声だった。

 坂の上にいた人たちまで、その言葉に息を止めたように見えた。

 女性は、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにふっと笑った。

 「そんなふうに言われるの、久しぶりだわ」

 そう言ってから、ゆっくりと頷いた。

 「お願いします」

 「失礼します」

 颯馬は、ポケットから小さな救急ポーチを取り出した。アルコール綿の袋を破り、指先で包む。

 「少し冷たいかもしれません」

 そっと、彼女の頬に触れる。アルコールのひやりとした感触と、指先に伝わる肌の温かさ。そのあいだを、紅葉の間を抜けてきた冷たい風が通り抜けた。

 「ここが少し擦りむけてます。でも、深くはないので、大きな傷にはなっていません」

 そう言いながら、絆創膏を取り出し、小さく丸めて傷の上に貼る。

 「これで、しみる風からは守れます」

 女性は、指先で絆創膏の端をそっと押さえた。

 「こんなに優しく扱われたのは久しぶりだわ」

 ぽつりとこぼれた言葉に、坂道にいた全員の緊張が、ふっとほどけた。

 後ろのほうで見守っていた龍護が、「店で転んだら、こんなふうに言われねえからな」と冗談を言う。

 「酒樽は現場で転がっても自力で立ち上がりますからね」

 瑠奈もすかさず乗っかる。

 「おい、誰が酒樽だ」

 龍護がくらっと肩をすくめると、参加者たちから笑い声が広がった。

    *

 「立てそうですか」

 颯馬が声をかけると、女性は少し試すように足を動かした。

 「ええ。腰は大丈夫みたい。少しびっくりしただけね」

 「念のため、ゆっくり起き上がりましょう」

 颯馬は、女性の手を取り、反対側から瑠奈が背中を支える。二人が同時に「せーの」と声を合わせると、女性は無事に立ち上がった。

 その瞬間、坂のあちこちから小さな拍手が起こる。

 「お疲れさまでした」

 瑠奈が、まるで一つのアトラクションを終えたかのように微笑む。

 「転ばない散策もいいですけど、転んだあとにちゃんと起き上がれる散策っていうのも、悪くないですよね」

 「縁起でもないこと言わないの」

 そう言いながらも、女性は楽しそうに笑った。

 「せっかくなので、ここで少し休憩にしましょう」

 颯馬が提案すると、「賛成」という声がいくつも上がった。

 坂道の途中にある小さな踊り場に、全員が腰を下ろす。石畳の冷たさを避けるように、誰かがカバンから折りたたみの座布団を配り、別の誰かが水筒のお茶を回し始めた。

 「これ、りんご園で買ったやつなんです」

 さっきまで前を歩いていた若い男性が、紙コップにりんごジュースを注ぐ。

 「さっきの前菜対決のラジオを聞いて、どうしても飲んでみたくて」

 「あら、私も同じジュース持ってるわ」

 別の参加者が、自分のリュックから同じラベルの紙パックを取り出した。

 「九つの場所を歩いてると、持ち物まで似てきますね」

 瑠奈の一言に、周りからまた笑いが起こる。さっきまで「大丈夫かしら」と心配そうに見ていた通りすがりの地元の人も、遠巻きに様子を見ながら笑顔を見せた。

    *

 ひと息ついたあと、列は再び歩き出した。今度は、さっきよりも少しだけ歩幅が揃っているように感じる。

 「さつまさん」

 坂の下に近づいたころ、さきほどの女性が颯馬の横に並んだ。頬の絆創膏が、紅葉の色と一緒になって柔らかく光っている。

 「はい」

 「さっきは、本当にありがとうございました」

 女性は、ゆっくりと頭を下げた。

 「いえ。こちらこそ、驚かせてしまってすみません」

 「いいえ」

 顔を上げた女性は、少しだけ照れたように笑った。

 「転んだときって、申し訳なさとか、恥ずかしさとか、いろんな気持ちがごちゃごちゃになるのよね」

 「わかります」

 「けど、『その頬に触れさせて』なんて言われたら、なんだか『転んだ自分』も、大事にされてる気がして」

 言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

 「尻もちついた自分ごと、受け止めてもらえたみたいで、少し泣きそうになりました」

 颯馬は、何か返そうとして、うまく言葉が出てこなかった。代わりに、「こちらこそ」ともう一度だけ言う。

 坂の下に着くころ、女性はほんの少し声を落としてつぶやいた。

 「この町が好きになったわ」

 それは、誰に聞かせるでもない、小さな一言だった。

 けれど、風の向きがちょうど良かったのか、その声は颯馬の耳にだけ、はっきりと届いた。

 (忘れたくないな)

 彼は、胸ポケットのキーホルダーにそっと触れた。九つの場所をかたどった輪の内側に、今の一言を刻み込むように。

 坂を下りきると、視界が一気に広がった。前方には、川沿いの道と、その向こうに見える酒蔵の屋根。駅前へと続く道の先には、昨日立てたばかりの大きな木製看板が、小さくこちらを向いて立っている。

 「この坂道も、あの看板のどこかに描かれてるんでしょう?」

 女性が尋ねる。

 「はい。点線で」

 颯馬は、笑いながら答えた。

 「『転んでも起き上がれた坂道』って、書き足しておきたいくらいです」

 「それ、いいわね」

 女性は、絆創膏を指先でそっと押さえた。

 坂道で生まれた小さな一言は、やがて九つの場所のどこかで、別の誰かの心をあたためる言葉になるかもしれない。

 そう思いながら、颯馬は参加者たちを川沿いの道へと案内した。紅葉の坂を振り返ると、さっきの転んだ場所だけ、ほんの少しだけ光が強く見えた。

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