雪杜ナインプレイス 〜キミと雪見酒と、声にならない好き〜

乾為天女

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第34話 キミと雪見酒、本番の夜

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 雪見社の石段を、白い息がゆっくりと上っていく。満月に近い丸い月が、境内の雪をうす青く照らしていた。昼のあいだに積もった雪を、町内会の人たちが丁寧に踏み固めてくれたおかげで、参道には細い一本の道がすうっと伸びている。道の両脇には、小さな雪灯ろうがずらりと並び、そのひとつひとつの中で、ろうそくの火が揺れていた。

 「……おお」

 石段を登り切った颯馬は、思わず声を漏らした。

 雪見社の拝殿の横に、手作りの立ち飲みカウンターが並んでいる。板を組み合わせた素朴な台の上には、小さな徳利と湯呑みが整列していた。端には「雪見社特製・あったか甘酒」「地酒・雪見ささやき 一合」と書かれた札が立ち、もう一方の端には「ホットりんごジュース」「しょうが湯」と、アルコールが飲めない人用の札も並ぶ。

 「看板、いい感じですね」

 後ろから上がってきた瑠奈が、カウンターの端に提げられた布看板を指さした。白い布地に、墨で大きく「キミと雪見酒」と書かれている。その下には、小さな字で「雪杜・雪見社立ち飲み夜」と添えられていた。

 「字、龍護さんですよね」

 「うん。『雪見社に並んだ徳利の写真をラベルにする』って最初に言い出したのも龍護さんだしな」

 颯馬は笑いながら、布看板の端を整えた。昨日のうちに蔵で刷ってきたというラベルが、もう徳利の側面に貼られている。雪をかぶった雪見社の屋根と、そこに立つ小さな人影。その下に、控えめに「君と飲む一本」と印字されていた。

 「『君』の字、ひらがなじゃなくて漢字なんですね」

 「そこは龍護さんのこだわりらしい。『この一杯を誰と飲むかは、飲む人が決める』んだって」

 「かっこつけ方、蔵元ですね」

 瑠奈がくすっと笑う。その頬には、外に出てきてからの冷気で、うっすらと赤みがさしていた。

 やがて、階段の下から途切れなく人の気配が上がってくる。仕事終わりの夫婦、友だち同士のグループ、親子三人連れ。みんなマフラーに顔をうずめながら、雪灯ろうの光を目で追い、境内の立ち飲みカウンターへと足を止める。

 「こちら、一合どうぞ。足元、滑りやすいので気をつけてくださいね」

 龍護が、慣れた手つきで徳利を傾ける。その隣で、琉央が湯せんしている鍋の温度をこまめに確かめていた。甘酒用の鍋からは、ふわりと米麹の香りが立ち上り、りんごジュースの鍋からは、シナモンの香りがかすかに漂ってくる。

 「ホットりんごジュース、お願いします」

 「はーい。今日は特別に、りんごの角切り入りです」

 亜矢菜が、紙コップにジュースを注ぎながら、いつものラジオの声より少しだけ大きな声で案内する。その足元のケーブルは、雪がかぶらないように板の上を通され、端には小さなマイクが固定されていた。今夜の様子は、録音して明日の朝の番組で流す予定だ。

 「颯馬さん、そろそろ持ち場交代ですよ」

 カウンターの端で案内係をしていた颯馬に、瑠奈が声をかけた。

 「十五分、一緒に飲む時間って言ってましたよね。亜矢菜さん」

 「言った言った。せっかく名前に『キミと』って付けたんだから、スタッフ同士もちゃんと並んで飲みなさい」

 亜矢菜が、マイクを胸元に下げたまま親指を立てる。

 「じゃあ、甘酒と地酒で」

 颯馬は、カウンターの内側にまわっていた龍護から、湯呑みを二つ受け取った。ひとつはうっすらと琥珀色の地酒、もうひとつは白く濁った甘酒だ。

 「どっちがどっちを持ちます?」

 「運転あるから、私が甘酒です。颯馬さんは、今日くらい地酒でいいですよ」

 「じゃあ、お言葉に甘えて」

 二人は湯呑みを持って、少しだけカウンターから離れた。雪灯ろうが並ぶ参道の脇、古い杉の木の下に、雪を踏み固めた小さなスペースが作られている。そこから見上げると、雪見社の屋根と、満ちかけた月がちょうど重なって見えた。

 「……静かですね」

 瑠奈が、小さく息を吐いた。吐く息が白い靄になり、すぐに夜空に溶けていく。

 「さっきまであんなに『あったまるー!』って声がしてたのに」

 「みんな、今は黙って飲んでるからな」

 遠くから、盃と盃が触れ合う小さな音が聞こえる。雪を踏む音も、笑い声も、全部が厚い雪の層に柔らかく吸い込まれていくようだった。

 湯呑みを口元に運ぶと、地酒の香りが鼻の奥に広がる。冷えた指先に、じんわりと熱が戻ってくる。

 「どうですか、『雪見ささやき』」

 「……名前どおり、静かな味がします」

 冗談のような、本気のようなことを言うと、瑠奈が肩を震わせて笑った。

 そのとき、不意に風向きが変わった。

 「わっ」

 杉の枝に積もっていた雪が、ばさりと音を立てて落ちてくる。細かな粉雪になって、二人の肩や髪にふわふわと積もった。

 「大丈夫ですか」

 頬に乗った雪を払おうとして、颯馬は反射的に手を伸ばした。指先が、瑠奈の頬に触れる。冷たいはずの雪の下から、思ったよりも温かい肌の感触が伝わってきた。

 「……っ」

 指先がびくりと震え、そのまま湯呑みを持っていた手首まで一緒に動いてしまう。

 「ちょ、こぼれるこぼれる!」

 瑠奈が慌てて自分の湯呑みを引っ込め、代わりに颯馬の手首を掴んだ。

 「ご、ごめん!」

 「私のほうこそ。反射で掴んじゃいました」

 二人の湯呑みの中で、液面が小さく揺れる。かろうじて地面にはこぼれずに済んだが、二人とも妙な体勢で固まってしまった。

 「……今の、さっきの雪より冷えましたね」

 ふいに瑠奈が、頬に残った雪を指先でつまみながら言った。

 「どっちに?」

 「こっちに決まってるじゃないですか」

 胸のあたりを指さしてみせる。その動きにつられて、颯馬の胸も、少しだけ高鳴った。

 「それ、甘酒の飲み過ぎじゃない?」

 「だったら、颯馬さんのほうが先に真っ赤になってますよ」

 顔を覗き込まれて、颯馬は慌てて湯呑みを口元に運んだ。地酒の熱が喉を通り過ぎていくのと同時に、耳までじんわりと熱くなる。

 境内のどこかで、木の棚がきしむ音がした。龍護が樽を動かしているのだろう。亜矢菜の笑い声がマイクを通して小さく響き、「雪見社から、今夜の様子をお届けしています」と明るい声が続いた。

 「『キミと雪見酒』って、最初は完全に名前だけ先に決めましたけど……」

 瑠奈が、湯呑みを両手で包み込みながら言う。

 「こうやって見ると、本当に『誰と飲むか』で、全部違って見えますね」

 「同じ雪、同じお酒でも?」

 「はい。同じ雪でも、さっきの雪はちょっと特別でしたし」

 そう言って、瑠奈は指先で自分の頬を軽く触った。さっき颯馬の指が触れた場所だ。

 「それ、やっぱり甘酒のせいじゃ……」

 「しつこいですよ」

 つい笑ってしまい、二人の声が雪灯ろうの光の中に溶けていく。

 参道では、親子連れが並んで湯呑みを持ち上げていた。母親は甘酒、子どもはホットりんごジュース。少し離れたところでは、仕事帰りの同僚同士が、肩を並べて地酒を飲んでいる。そのひとりが冗談半分に、「来年も同じメンバーで来れたらいいな」と言った。

 「来年も……」

 その言葉を聞きながら、颯馬は空を見上げた。満ちかけた月の周りには、うっすらと白い輪がかかっている。

 「来年も、ここで『キミと雪見酒』をやれたらいいな」

 独り言のように漏らすと、隣で瑠奈が小さく頷いた。

 「そのときは、また今日のことを思い出しますね」

 「雪が落ちてきたこと?」

 「それも含めて、全部です」

 そう言って笑う横顔を見ながら、颯馬は湯呑みをもう一度口に運んだ。地酒の温かさと、頬に残る雪の冷たさ。その両方が、今夜の記憶として胸の奥にゆっくりと積もっていく。

 「じゃ、そろそろ持ち場に戻りますか」

 瑠奈が湯呑みを空にして、軽く伸びをする。

 「うん。『キミと雪見酒』、まだまだ続きがあるからな」

 二人は並んでカウンターへと戻っていく。その背中の上に、雪灯ろうの光がぽつぽつと落ち、境内に集う人たちの笑い声が静かな夜に重なっていった。

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