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第37話 マダムたちの素顔
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吹雪の翌朝、雪杜の空は、何事もなかったような青さを取り戻していた。
「昨日のあれ、本当に『ついでに寄ってください』ってレベルじゃなかったですよね」
駅前案内所で、瑠奈が苦笑する。
「雪椿と海灯のロビーが、完全に避難所になってましたからね」
颯馬も、まだ少し眠そうな顔で頷いた。夜更けまで続いたあの騒ぎから、一晩明けただけなのに、町はもう日常の顔に戻りつつある。
ただ一つだけ違うのは、案内所の片隅のホワイトボードに、「昨日お世話になりました」「あの夜の灯り、忘れません」といった言葉が、びっしりと貼られていることだった。
「で、今日は?」
龍護が、段ボールを抱えて入ってくる。箱の中には、湯飲みや紙コップが雑然と詰め込まれていた。
「とりあえず、借りっぱなしの湯飲みを返しに行く」
颯馬は、箱の中を覗き込みながら答えた。
「それと、雪椿と海灯に、『昨日の話』を聞かせてもらえないかお願いしてみようと思ってます」
「昨日の話?」
「吹雪の夜、あの二つの宿が、どうやってあそこまで開いたのか」
颯馬は、案内所の窓から雪椿と海灯の方向を眺めた。
「『マダム同士の戦い』の看板の裏側が、気になってしょうがないんですよ」
*
昼前。雪椿の台所は、いつもの仕込みの匂いと、いつもより少し多めの笑い声に満ちていた。
「じゃあ、ここに機材置かせてもらいますね」
亜矢菜が、小さなレコーダーをテーブルの端にそっと置く。コードの先には、ふわふわしたマイクカバーが付いている。
「そんな立派なものじゃないかもしれないけど……」
雪椿の女将・雪乃が、やや照れくさそうに笑った。
「昨日の話、聞かせてもらえませんか」
颯馬がそう頭を下げると、向かい側に座っていた海灯の女将・沙織が、穏やかな目を細めた。
「吹雪の話と、その前の話、どちらからにしましょう」
「前の話?」
「若い頃のことだよ」
雪乃が、まな板の上の野菜を手際よく刻みながら言う。
「ここと海灯の前に、二人とも同じ宿で働いてたんだ」
「えっ」
知らなかった事実に、颯馬と瑠奈は同時に声を上げた。
*
雪乃と沙織は、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「二十代のころね。まだ『マダム』なんて呼ばれるには遠かった時期」
「雪見社に一番近い、あの古い旅館で一緒に働いてましたの」
沙織は、包丁を置き、湯気の立つ急須を手に取る。湯飲みに注がれたお茶の香りが、台所にやわらかく広がった。
「最初は、同じ寮の二段ベッドでね。私は上の段、沙織は下」
「夜、電気を消したあとに、お客さまの愚痴をこそこそ話してましたわね」
「愚痴だけじゃないでしょ。『いつか自分の宿を持って、こんなごはんを出したい』って、レシピ帳見せ合いながら話したじゃない」
雪乃の言葉に、沙織も微笑む。
「ええ。あの頃は、『一緒に一つの宿をやる』つもりでいました」
「……いました?」
瑠奈が思わず聞き返す。
「途中で、道が分かれちゃったんだよ」
雪乃は、切り終えた人参を鍋に入れながら、ぽつりと続けた。
「小さな行き違いが重なってね。あっちが忙しいときに、こっちも手がまわらなくて、ちょっとした一言で傷ついたりして」
「『どうして手伝いに来てくれなかったの』とか」
「『そっちばかり優先するのね』とか」
二人は、同時に同じような言葉を口にした。
「それで、別々の宿に?」
「そう。私が、あの旅館を出て雪椿に来て」
「私は、海灯に嫁ぎました」
沙織は、お茶を一口飲んだ。
「一度、距離ができてしまうと、戻り方がわからなくなるのね。お互い、忙しさに紛れて、『まあ、いいか』って思おうとして」
「『あの子、変わっちゃった』なんて、勝手に決めつけたりしてさ」
雪乃は、自分で自分を笑った。
「そんなだから、何年もロクに話さないまま、町の中で『別の宿の女将同士』としてだけ会ってた」
「でも、この町は狭いから、完全に避けて生きるなんて無理でしょう?」
沙織が、少しだけ首をかしげる。
「だから、『マダム同士の戦い』なんて看板を貼って、冗談みたいにからかい合ってごまかしてきたんだと思いますわ」
「……照れ隠し、ですか?」
瑠奈が尋ねると、二人は顔を見合わせて笑った。
「照れ隠し以上、喧嘩未満、ってところかしらね」
*
「じゃあ、昨日の吹雪の夜は?」
颯馬の問いに、雪乃がふっと表情を和らげた。
「正直言うと、最初は『うちで全部受け止めてやる』くらいのつもりだったのよ」
「『マダム同士の戦い・雪の夜編』みたいな感じで」
沙織が続ける。
「でも、ロビーが人でいっぱいになってきたときに、ふと昔の寮の部屋を思い出しましたの」
「二段ベッドの下から、『ねえ、起きてる?』って声が聞こえてきたやつな」
雪乃は、ネギを刻みながら微笑む。
「それで、海灯に電話したんです。『そっち、どう?』って」
「電話、鳴ったとき、すぐにわかりましたわ。『ああ、あの頃みたいに、本音を話したいんだな』って」
沙織は、そのときのことを思い出すように、湯気の向こうを見つめた。
「『うちも、こっちも無理しなさんな。できること、半分こしよう』って言ってくれて」
「そしたら、スイッチ入っちゃってさ」
雪乃は、笑いながら肩をすくめる。
「『そっち、何人いる?』『こっちは何人』『じゃあ、うちの車で三往復する』『そっちはロビーの座布団全部出して』って。気がついたら、昔みたいに『一つの宿を回す』みたいな声の出し方しててね」
「『マダム同士の戦い』どころか、『マダム同士の共同作戦』になってましたわね」
沙織の言葉に、亜矢菜がたまらず口を挟んだ。
「ちょっと待ってください、それ最高です。タイトル、今のままじゃもったいない」
「あなた、すぐタイトル変えたがるわね」
二人の女将が同時に笑う。
*
レコーダーの赤いランプが、小さく点滅していた。
「……全部、流してもいいですか」
録音が一段落したところで、亜矢菜が尋ねる。
「もちろん恥ずかしかったら、編集で……」
「恥ずかしいのは、今さらよ」
雪乃が、包丁を置いて手を拭いた。
「何年も本音を言えなかったほうが、ずっと恥ずかしいもの」
「そうね」
沙織も、静かに頷く。
「『マダム同士の戦い』って看板が、誰かを楽しませるためだけじゃなくて、自分たちの照れ隠しでもあったってこと。ちゃんと自分たちの口で言っておきたいですわ」
「それにね」
雪乃は、窓から見える雪景色に目を向けた。
「昨日みたいな夜がまた来たとき、『あの二人、どうせまた一緒に何かやるだろ』って思ってもらえたほうがいいじゃない」
「戦いの看板だけ見て、『本当に仲悪いのかな』って心配されるよりもね」
沙織の言葉に、みんなが笑った。
*
帰り道、颯馬は雪椿と海灯のあいだの坂道で立ち止まった。
「どうしました?」
瑠奈が振り返る。
「いや」
颯馬は、二つの宿の屋根を見比べた。どちらの屋根にも、昨日の夜と同じように雪が積もっている。
「九つの場所の地図には、宿は一つひとつ別の丸で描いてるけど」
ゆっくりと言葉を続ける。
「中で働いてる人たちの『好き』は、きっと同じところに重なってるんだなと思って」
「『この町が好き』ってところですか」
「そう」
吹雪の夜、開いたロビーの灯り。その灯りをともし続けた二人の背中。
「『マダム同士の戦い』って看板も悪くないけど」
颯馬は、少しだけ笑った。
「その裏で、本当はずっと『マダム同士の味方』だったんだなって思ったら、急に愛しくなってきました」
「ラジオでそれ言ってくださいよ」
「いや、それは亜矢菜さんの仕事だから」
そう言いながら、二人は並んで坂を下りていった。
雪椿と海灯の屋根の上には、同じ雪が同じように積もっていた。
「昨日のあれ、本当に『ついでに寄ってください』ってレベルじゃなかったですよね」
駅前案内所で、瑠奈が苦笑する。
「雪椿と海灯のロビーが、完全に避難所になってましたからね」
颯馬も、まだ少し眠そうな顔で頷いた。夜更けまで続いたあの騒ぎから、一晩明けただけなのに、町はもう日常の顔に戻りつつある。
ただ一つだけ違うのは、案内所の片隅のホワイトボードに、「昨日お世話になりました」「あの夜の灯り、忘れません」といった言葉が、びっしりと貼られていることだった。
「で、今日は?」
龍護が、段ボールを抱えて入ってくる。箱の中には、湯飲みや紙コップが雑然と詰め込まれていた。
「とりあえず、借りっぱなしの湯飲みを返しに行く」
颯馬は、箱の中を覗き込みながら答えた。
「それと、雪椿と海灯に、『昨日の話』を聞かせてもらえないかお願いしてみようと思ってます」
「昨日の話?」
「吹雪の夜、あの二つの宿が、どうやってあそこまで開いたのか」
颯馬は、案内所の窓から雪椿と海灯の方向を眺めた。
「『マダム同士の戦い』の看板の裏側が、気になってしょうがないんですよ」
*
昼前。雪椿の台所は、いつもの仕込みの匂いと、いつもより少し多めの笑い声に満ちていた。
「じゃあ、ここに機材置かせてもらいますね」
亜矢菜が、小さなレコーダーをテーブルの端にそっと置く。コードの先には、ふわふわしたマイクカバーが付いている。
「そんな立派なものじゃないかもしれないけど……」
雪椿の女将・雪乃が、やや照れくさそうに笑った。
「昨日の話、聞かせてもらえませんか」
颯馬がそう頭を下げると、向かい側に座っていた海灯の女将・沙織が、穏やかな目を細めた。
「吹雪の話と、その前の話、どちらからにしましょう」
「前の話?」
「若い頃のことだよ」
雪乃が、まな板の上の野菜を手際よく刻みながら言う。
「ここと海灯の前に、二人とも同じ宿で働いてたんだ」
「えっ」
知らなかった事実に、颯馬と瑠奈は同時に声を上げた。
*
雪乃と沙織は、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「二十代のころね。まだ『マダム』なんて呼ばれるには遠かった時期」
「雪見社に一番近い、あの古い旅館で一緒に働いてましたの」
沙織は、包丁を置き、湯気の立つ急須を手に取る。湯飲みに注がれたお茶の香りが、台所にやわらかく広がった。
「最初は、同じ寮の二段ベッドでね。私は上の段、沙織は下」
「夜、電気を消したあとに、お客さまの愚痴をこそこそ話してましたわね」
「愚痴だけじゃないでしょ。『いつか自分の宿を持って、こんなごはんを出したい』って、レシピ帳見せ合いながら話したじゃない」
雪乃の言葉に、沙織も微笑む。
「ええ。あの頃は、『一緒に一つの宿をやる』つもりでいました」
「……いました?」
瑠奈が思わず聞き返す。
「途中で、道が分かれちゃったんだよ」
雪乃は、切り終えた人参を鍋に入れながら、ぽつりと続けた。
「小さな行き違いが重なってね。あっちが忙しいときに、こっちも手がまわらなくて、ちょっとした一言で傷ついたりして」
「『どうして手伝いに来てくれなかったの』とか」
「『そっちばかり優先するのね』とか」
二人は、同時に同じような言葉を口にした。
「それで、別々の宿に?」
「そう。私が、あの旅館を出て雪椿に来て」
「私は、海灯に嫁ぎました」
沙織は、お茶を一口飲んだ。
「一度、距離ができてしまうと、戻り方がわからなくなるのね。お互い、忙しさに紛れて、『まあ、いいか』って思おうとして」
「『あの子、変わっちゃった』なんて、勝手に決めつけたりしてさ」
雪乃は、自分で自分を笑った。
「そんなだから、何年もロクに話さないまま、町の中で『別の宿の女将同士』としてだけ会ってた」
「でも、この町は狭いから、完全に避けて生きるなんて無理でしょう?」
沙織が、少しだけ首をかしげる。
「だから、『マダム同士の戦い』なんて看板を貼って、冗談みたいにからかい合ってごまかしてきたんだと思いますわ」
「……照れ隠し、ですか?」
瑠奈が尋ねると、二人は顔を見合わせて笑った。
「照れ隠し以上、喧嘩未満、ってところかしらね」
*
「じゃあ、昨日の吹雪の夜は?」
颯馬の問いに、雪乃がふっと表情を和らげた。
「正直言うと、最初は『うちで全部受け止めてやる』くらいのつもりだったのよ」
「『マダム同士の戦い・雪の夜編』みたいな感じで」
沙織が続ける。
「でも、ロビーが人でいっぱいになってきたときに、ふと昔の寮の部屋を思い出しましたの」
「二段ベッドの下から、『ねえ、起きてる?』って声が聞こえてきたやつな」
雪乃は、ネギを刻みながら微笑む。
「それで、海灯に電話したんです。『そっち、どう?』って」
「電話、鳴ったとき、すぐにわかりましたわ。『ああ、あの頃みたいに、本音を話したいんだな』って」
沙織は、そのときのことを思い出すように、湯気の向こうを見つめた。
「『うちも、こっちも無理しなさんな。できること、半分こしよう』って言ってくれて」
「そしたら、スイッチ入っちゃってさ」
雪乃は、笑いながら肩をすくめる。
「『そっち、何人いる?』『こっちは何人』『じゃあ、うちの車で三往復する』『そっちはロビーの座布団全部出して』って。気がついたら、昔みたいに『一つの宿を回す』みたいな声の出し方しててね」
「『マダム同士の戦い』どころか、『マダム同士の共同作戦』になってましたわね」
沙織の言葉に、亜矢菜がたまらず口を挟んだ。
「ちょっと待ってください、それ最高です。タイトル、今のままじゃもったいない」
「あなた、すぐタイトル変えたがるわね」
二人の女将が同時に笑う。
*
レコーダーの赤いランプが、小さく点滅していた。
「……全部、流してもいいですか」
録音が一段落したところで、亜矢菜が尋ねる。
「もちろん恥ずかしかったら、編集で……」
「恥ずかしいのは、今さらよ」
雪乃が、包丁を置いて手を拭いた。
「何年も本音を言えなかったほうが、ずっと恥ずかしいもの」
「そうね」
沙織も、静かに頷く。
「『マダム同士の戦い』って看板が、誰かを楽しませるためだけじゃなくて、自分たちの照れ隠しでもあったってこと。ちゃんと自分たちの口で言っておきたいですわ」
「それにね」
雪乃は、窓から見える雪景色に目を向けた。
「昨日みたいな夜がまた来たとき、『あの二人、どうせまた一緒に何かやるだろ』って思ってもらえたほうがいいじゃない」
「戦いの看板だけ見て、『本当に仲悪いのかな』って心配されるよりもね」
沙織の言葉に、みんなが笑った。
*
帰り道、颯馬は雪椿と海灯のあいだの坂道で立ち止まった。
「どうしました?」
瑠奈が振り返る。
「いや」
颯馬は、二つの宿の屋根を見比べた。どちらの屋根にも、昨日の夜と同じように雪が積もっている。
「九つの場所の地図には、宿は一つひとつ別の丸で描いてるけど」
ゆっくりと言葉を続ける。
「中で働いてる人たちの『好き』は、きっと同じところに重なってるんだなと思って」
「『この町が好き』ってところですか」
「そう」
吹雪の夜、開いたロビーの灯り。その灯りをともし続けた二人の背中。
「『マダム同士の戦い』って看板も悪くないけど」
颯馬は、少しだけ笑った。
「その裏で、本当はずっと『マダム同士の味方』だったんだなって思ったら、急に愛しくなってきました」
「ラジオでそれ言ってくださいよ」
「いや、それは亜矢菜さんの仕事だから」
そう言いながら、二人は並んで坂を下りていった。
雪椿と海灯の屋根の上には、同じ雪が同じように積もっていた。
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