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第三十五章「越谷市」
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陽が落ち始めた越谷の街には、薄桃色の光が田んぼを包んでいた。あぜ道には、すでに背丈の高くなったネギが風に揺れ、田んぼアートの巨大な絵柄が、水面にさざ波を立てながら揺らめいている。その中央に描かれたのは、燃えるような花火の絵。だが、その模様はどこか歪んでいた。まるで、本来あるべき色や線が抜け落ち、輪郭を失ったような曖昧さ。
修平は眉をひそめてそれを見下ろした。自信を持って他人に伝えることに長けた彼も、この異変には言葉を失っていた。彼のそばには桃香がいた。控えめに歩幅を合わせながらも、目は周囲を警戒するように光っていた。
「火薬の供給が止まったとか、打ち上げの予定が急に消えたとか……おかしいわね」桃香の声は低かったが、風に乗って確かに届いた。
「それだけじゃない」修平は田んぼの縁にしゃがみ込むと、黒土に埋まった何かを取り出した。それは、焦げ跡のついた細い和紙のようなものだった。「これは……封印紙?」
そのとき、背後から声がした。「そいつは“祭火の心”を封じてた護符だ」
二人が振り返ると、屋台の暖簾が風に揺れていた。玲だった。しっかりとした口調、そしてどこか修平と似た雰囲気を持つ男。彼が営む“越谷ねぎ味噌うどん”の屋台は、すでに店じまいの準備を終えていた。
「越谷花火大会の打ち上げ花火に使われる火薬には、“祭火の心”っていう精霊の加護が込められてる。それがなきゃ、ただの火薬の塊だ。音も、光も出ねえ」
「じゃあ、その“心”がなくなったから……田んぼアートの花火まで色を失った?」桃香の口調には驚きよりも、確信が混じっていた。
玲は頷きながら、店の奥から古びた木箱を持ってきた。蓋を開けると、中には数枚の楽譜の断片が入っていた。どれも手書きで、筆跡も異なる。「これはな?」
「まさか、“祭火の調べ”の楽譜?」修平が目を見開いた。
「そう。祖父の代から伝わってきた。でも、全部じゃねえ。蔵屋敷に残りの断片があるはずだ。そいつを見つけて、調べを完全な形に戻すんだ」
修平と桃香は視線を交わすと、無言のまま頷き合った。
陽はもうすっかり沈み、空は濃紺へと変わっていた。蔵造りの町並みを再現した「ガーヤちゃんの蔵屋敷」では、夜の静けさのなか、歴史を語る道具たちが月明かりに照らされていた。蔵の中には、越谷の夏を彩ってきた花火大会の写真や、火薬の調合に使われていた古文書、さらには花火師の道具が展示されていた。
侑希がそこに立っていた。桃香の幼なじみで、何事にも臨機応変に行動できる柔らかな気質の持ち主だ。展示資料を前に、侑希はふとつぶやいた。
「この花火、すごいね……まるで、生きてるみたい」
「侑希、その中に“祭火の調べ”の楽譜の断片があるって聞いたんだ。どこか知らない?」
侑希は一瞬だけ考える素振りを見せたが、すぐに頷いた。「うん。こっち。常設展示じゃなくて、期間限定の引き出しに入ってたの」
彼女が案内した小部屋の奥には、鍵付きの引き出しがあった。修平が手に取ると、中からは一枚の短冊状の紙が現れた。それには、笛と太鼓の記譜が重ね書きされていた。
「これは……越谷花火囃子の変奏……?」
「花火の音と光を表現するために、独特のリズムを入れてるって聞いたことがある」侑希がうなずいた。「それを夜空に響かせれば、“祭火の心”が帰ってくるって」
「だったら、蒲生氷川神社に行こう」桃香がすっと立ち上がった。「そこに奉納された火薬の祈りの舞があるらしい」
修平は拳を強く握った。心のどこかに、花火大会にかける地元の人たちの想いが、焔のように灯り始めていた。
彼らは次なる目的地——神社へと向かうため、夜の蔵屋敷を後にした。
蒲生氷川神社へ向かう道すがら、修平はふと空を見上げた。雲はどこか低く垂れ込め、空気が重たい。まるで街全体が何かを押し隠しているような、息苦しい気配が漂っていた。江戸川の流れもどこか鈍く、いつもの澄んだ音が失われている。
「修平……」桃香が隣を歩きながら囁くように言った。「これ、本当に私たちだけでできると思う?」
その問いには不安と責任の重さがにじんでいた。臨機応変に動ける彼女ですら、今の状況には緊張を隠せない。
「いや……正直言えば、俺も怖い」修平は素直に言った。「でも、あの火薬に宿る“心”は、誰かが取り戻さなきゃいけない。少なくとも、あの田んぼに映る歪んだ花火は、俺たちに『動け』って言ってる」
「……うん。わたしもそう感じる」
蒲生氷川神社に到着すると、境内は驚くほど静かだった。鈴の音は風に運ばれ、木々の葉は微かに揺れていた。夜にもかかわらず、拝殿の灯籠はすべて消えていて、代わりに本殿の奥から淡い蒼い光が漏れていた。
侑希がふと足を止め、「あれ……誰かいる」と呟いた。
拝殿の横手にある能舞台のような板張りの場所に、ひとりの女性が立っていた。長い髪を結い上げ、和装の裾を丁寧に整えている。彼女こそ、越谷花火囃子を受け継ぐ最後の舞手——名を問う前に、彼女は囃子の一節を唇から流し始めた。
「ドンドドン……ピィィ……ヒィィ……」
低く打ち鳴らす太鼓、息を強く吐ききるような笛の音。それはまるで心臓の鼓動と呼吸を音に変えたかのような原始的な響きだった。
「この調べ、どこかで……」修平が目を見張る。「楽譜の断片と同じ……いや、それ以上の奥深さがある」
女は踊り始めた。足運びは極めて慎重で、しかし力強い。腕を大きく回し、回転しながら一歩、また一歩と神殿に近づいていく。風がその舞に応えるように木々を揺らし、神社全体が生き物のように呼吸を始めたかのようだった。
踊り終えた女は修平たちに向き直った。
「おまえたちが、“祭火の心”を探している者たちか」
「はい」修平が前に出て答える。「俺たちで、花火を甦らせたい。そのために“祭火の調べ”を完成させて、音を——この街に取り戻したい」
女は目を細めたまま、しばらく彼を見つめていたが、やがて「ならば」と頷いた。
「越谷の花火囃子は、ただの盆の音頭ではない。神に音を届ける術だ。“音の矢”を夜空に放つ者……その役目を担う覚悟があるか」
修平は一瞬の迷いもなく頷いた。桃香、玲、侑希もそれぞれ無言で前に出た。
女は微笑んだ。そして、太鼓と笛をそれぞれの前に差し出した。
「修平、おまえは太鼓だ。この街を鼓動で揺らす役目を持つ」
「侑希、おまえは笛だ。夜空を貫く風の道を開け」
「桃香、おまえは舞だ。心をつなぎ、音と神のはざまを結べ」
「玲……おまえは、支えとなれ。この三人の演奏が崩れぬよう、地を支えよ」
彼らは一斉に頷いた。そして、演奏が始まる。
太鼓が鳴る。ドン……ドンド……ドン……リズムがゆっくりと速まり、空気が震え出す。侑希の笛が鋭く夜空を割ると、桃香の舞が風を巻き起こす。
空気が渦を巻き、地面がかすかに揺れる。神社の灯籠に再び火が灯り、風に揺れる炎のひとつひとつが、まるで焔の精霊のように空中で輪を描いた。
そして、天から——一本の“火の筋”が落ちてきた。
それはまるで、失われた“祭火の心”が呼び戻されたかのような、強烈な閃光。音もなく、まっすぐに修平たちの前へと降り注いだ。
その光が消えると、地面には“焔を宿した印”が刻まれていた。中央には、楽譜を模した文様が浮かび上がっていた。
「——戻ったんだ、“心”が」侑希が震える声で言った。
「これで……越谷の夜空が、また光る」修平の声は、もう迷いを含んでいなかった。
“焔の印”が静かに地に沈んでいくと同時に、神社の風景がゆるやかに元の姿を取り戻し始めた。夜空に広がっていた重たい雲がすぅっと引いていき、星々が次々とその姿を現す。江戸川の水面が反応するようにさざめき始め、まるで街そのものが深く息を吐いたような静寂が訪れた。
拝殿のそばに立っていた舞手の女性は、深々と頭を下げると、「これで、おまえたちの祭火が戻った」と静かに言った。
「ですが……それを本当に夜空に甦らせるには、最後の儀式が必要です」
「最後……?」修平が問うと、彼女は神社の奥のほう、つまり江戸川の方向を指差した。
「“水の結界”が、花火の力を封じている。それを越えるには、完全な“祭火の調べ”と、心を一つにした演奏が必要だ」
その言葉を聞き、四人は視線を交わした。ここまで来た今、もう躊躇はない。
「よし、江戸川に行こう」玲がぽつりと言った。彼の目には、自信が戻っていた。普段は屋台で淡々と接客する玲が、今やまるで指揮者のように背筋を伸ばしている。
桃香と侑希は深呼吸をしてそれに続き、修平は祭火の印が刻まれた石を掌に握りしめた。
深夜。江戸川河川敷。川面の上には確かに異質な気配が漂っていた。霧のような、風のような、しかし明確にそこに存在する“結界”。それは水の神、エドガワ・カムイによって張られた、祝祭の力を封じる最後の壁だった。
「この霧……水の精か何かが守ってるのか?」侑希が低く呟いた。
「たぶん、祭火が暴走するのを防ぐための結界……だったんだろう。でも、今は逆だ」修平が言った。「今のこの街には、花火の光が必要だ」
彼らは楽器を構える。太鼓、笛、そして踊りの準備。音を、風を、心を——ひとつにする。
最初の一打が響いた瞬間、霧が微かに震えた。二打、三打。太鼓は確かな律動を刻み、侑希の笛がそれに重なる。桃香の舞がその間を縫うように広がる。
そして、玲の掌から、先ほど拝殿で宿した“焔の印”が空へと浮かび上がり、それが中心となって、音と舞を取り込むように渦を巻き始めた。
「いける……!」修平が叫ぶ。「もっと強く、もっと高く!」
音が、風が、夜空を突き抜けていく。その瞬間、江戸川の水面から爆ぜるように閃光が上がった。ひと筋の光が天を貫いたと思った瞬間、夜空に、大輪の花火が咲いた。
ドンッ——
一発目の轟音が町中に響く。その音は、越谷の空気を突き動かした。
続けて、二発目、三発目——かつての花火大会そのままに、光の奔流が次々と夜空を彩った。
その光の中で、観客の歓声も蘇った。祭りの屋台に人が戻り、ガーヤちゃんの蔵屋敷の広場では、子どもたちが空を指さして跳ね回っていた。越谷ネギの焼きそば、慈姑の煮物、そして小松菜の天ぷらの香りが夜風に混ざって漂ってくる。
修平たちは、音が町に戻ったことを身体で感じていた。心がふるえ、目頭が熱くなる。それはただの成功の喜びではなかった。祭火の心に込められた「街の願い」が、自分たちを通じて空へ届いた——その実感。
「やったね……」桃香が涙を拭いながら笑った。「越谷、帰ってきたよ」
「うん。音も、光も、笑顔も」侑希が頷いた。
玲は静かに言った。「また、あの味噌うどんを食わせられるようになったわけだ」
修平はしばらく黙って空を見つめていたが、やがて地面に落ちた花火の灰の中に、きらりと光るものを見つけた。手に取ると、それはまるで燃えさしのような、紅と金の輝きを持つ結晶だった。
「これは……」
「“越谷市の輝”だっぺな」玲が言った。
かつての花火の心が宿るその結晶は、音と炎、そして祈りの記憶を内包する不思議な温かさを持っていた。
修平はそれを胸に抱きしめ、心の中で強く願った。
——この街の光が、ずっと絶えませんように。
【アイテム:越谷市の輝】入手
修平は眉をひそめてそれを見下ろした。自信を持って他人に伝えることに長けた彼も、この異変には言葉を失っていた。彼のそばには桃香がいた。控えめに歩幅を合わせながらも、目は周囲を警戒するように光っていた。
「火薬の供給が止まったとか、打ち上げの予定が急に消えたとか……おかしいわね」桃香の声は低かったが、風に乗って確かに届いた。
「それだけじゃない」修平は田んぼの縁にしゃがみ込むと、黒土に埋まった何かを取り出した。それは、焦げ跡のついた細い和紙のようなものだった。「これは……封印紙?」
そのとき、背後から声がした。「そいつは“祭火の心”を封じてた護符だ」
二人が振り返ると、屋台の暖簾が風に揺れていた。玲だった。しっかりとした口調、そしてどこか修平と似た雰囲気を持つ男。彼が営む“越谷ねぎ味噌うどん”の屋台は、すでに店じまいの準備を終えていた。
「越谷花火大会の打ち上げ花火に使われる火薬には、“祭火の心”っていう精霊の加護が込められてる。それがなきゃ、ただの火薬の塊だ。音も、光も出ねえ」
「じゃあ、その“心”がなくなったから……田んぼアートの花火まで色を失った?」桃香の口調には驚きよりも、確信が混じっていた。
玲は頷きながら、店の奥から古びた木箱を持ってきた。蓋を開けると、中には数枚の楽譜の断片が入っていた。どれも手書きで、筆跡も異なる。「これはな?」
「まさか、“祭火の調べ”の楽譜?」修平が目を見開いた。
「そう。祖父の代から伝わってきた。でも、全部じゃねえ。蔵屋敷に残りの断片があるはずだ。そいつを見つけて、調べを完全な形に戻すんだ」
修平と桃香は視線を交わすと、無言のまま頷き合った。
陽はもうすっかり沈み、空は濃紺へと変わっていた。蔵造りの町並みを再現した「ガーヤちゃんの蔵屋敷」では、夜の静けさのなか、歴史を語る道具たちが月明かりに照らされていた。蔵の中には、越谷の夏を彩ってきた花火大会の写真や、火薬の調合に使われていた古文書、さらには花火師の道具が展示されていた。
侑希がそこに立っていた。桃香の幼なじみで、何事にも臨機応変に行動できる柔らかな気質の持ち主だ。展示資料を前に、侑希はふとつぶやいた。
「この花火、すごいね……まるで、生きてるみたい」
「侑希、その中に“祭火の調べ”の楽譜の断片があるって聞いたんだ。どこか知らない?」
侑希は一瞬だけ考える素振りを見せたが、すぐに頷いた。「うん。こっち。常設展示じゃなくて、期間限定の引き出しに入ってたの」
彼女が案内した小部屋の奥には、鍵付きの引き出しがあった。修平が手に取ると、中からは一枚の短冊状の紙が現れた。それには、笛と太鼓の記譜が重ね書きされていた。
「これは……越谷花火囃子の変奏……?」
「花火の音と光を表現するために、独特のリズムを入れてるって聞いたことがある」侑希がうなずいた。「それを夜空に響かせれば、“祭火の心”が帰ってくるって」
「だったら、蒲生氷川神社に行こう」桃香がすっと立ち上がった。「そこに奉納された火薬の祈りの舞があるらしい」
修平は拳を強く握った。心のどこかに、花火大会にかける地元の人たちの想いが、焔のように灯り始めていた。
彼らは次なる目的地——神社へと向かうため、夜の蔵屋敷を後にした。
蒲生氷川神社へ向かう道すがら、修平はふと空を見上げた。雲はどこか低く垂れ込め、空気が重たい。まるで街全体が何かを押し隠しているような、息苦しい気配が漂っていた。江戸川の流れもどこか鈍く、いつもの澄んだ音が失われている。
「修平……」桃香が隣を歩きながら囁くように言った。「これ、本当に私たちだけでできると思う?」
その問いには不安と責任の重さがにじんでいた。臨機応変に動ける彼女ですら、今の状況には緊張を隠せない。
「いや……正直言えば、俺も怖い」修平は素直に言った。「でも、あの火薬に宿る“心”は、誰かが取り戻さなきゃいけない。少なくとも、あの田んぼに映る歪んだ花火は、俺たちに『動け』って言ってる」
「……うん。わたしもそう感じる」
蒲生氷川神社に到着すると、境内は驚くほど静かだった。鈴の音は風に運ばれ、木々の葉は微かに揺れていた。夜にもかかわらず、拝殿の灯籠はすべて消えていて、代わりに本殿の奥から淡い蒼い光が漏れていた。
侑希がふと足を止め、「あれ……誰かいる」と呟いた。
拝殿の横手にある能舞台のような板張りの場所に、ひとりの女性が立っていた。長い髪を結い上げ、和装の裾を丁寧に整えている。彼女こそ、越谷花火囃子を受け継ぐ最後の舞手——名を問う前に、彼女は囃子の一節を唇から流し始めた。
「ドンドドン……ピィィ……ヒィィ……」
低く打ち鳴らす太鼓、息を強く吐ききるような笛の音。それはまるで心臓の鼓動と呼吸を音に変えたかのような原始的な響きだった。
「この調べ、どこかで……」修平が目を見張る。「楽譜の断片と同じ……いや、それ以上の奥深さがある」
女は踊り始めた。足運びは極めて慎重で、しかし力強い。腕を大きく回し、回転しながら一歩、また一歩と神殿に近づいていく。風がその舞に応えるように木々を揺らし、神社全体が生き物のように呼吸を始めたかのようだった。
踊り終えた女は修平たちに向き直った。
「おまえたちが、“祭火の心”を探している者たちか」
「はい」修平が前に出て答える。「俺たちで、花火を甦らせたい。そのために“祭火の調べ”を完成させて、音を——この街に取り戻したい」
女は目を細めたまま、しばらく彼を見つめていたが、やがて「ならば」と頷いた。
「越谷の花火囃子は、ただの盆の音頭ではない。神に音を届ける術だ。“音の矢”を夜空に放つ者……その役目を担う覚悟があるか」
修平は一瞬の迷いもなく頷いた。桃香、玲、侑希もそれぞれ無言で前に出た。
女は微笑んだ。そして、太鼓と笛をそれぞれの前に差し出した。
「修平、おまえは太鼓だ。この街を鼓動で揺らす役目を持つ」
「侑希、おまえは笛だ。夜空を貫く風の道を開け」
「桃香、おまえは舞だ。心をつなぎ、音と神のはざまを結べ」
「玲……おまえは、支えとなれ。この三人の演奏が崩れぬよう、地を支えよ」
彼らは一斉に頷いた。そして、演奏が始まる。
太鼓が鳴る。ドン……ドンド……ドン……リズムがゆっくりと速まり、空気が震え出す。侑希の笛が鋭く夜空を割ると、桃香の舞が風を巻き起こす。
空気が渦を巻き、地面がかすかに揺れる。神社の灯籠に再び火が灯り、風に揺れる炎のひとつひとつが、まるで焔の精霊のように空中で輪を描いた。
そして、天から——一本の“火の筋”が落ちてきた。
それはまるで、失われた“祭火の心”が呼び戻されたかのような、強烈な閃光。音もなく、まっすぐに修平たちの前へと降り注いだ。
その光が消えると、地面には“焔を宿した印”が刻まれていた。中央には、楽譜を模した文様が浮かび上がっていた。
「——戻ったんだ、“心”が」侑希が震える声で言った。
「これで……越谷の夜空が、また光る」修平の声は、もう迷いを含んでいなかった。
“焔の印”が静かに地に沈んでいくと同時に、神社の風景がゆるやかに元の姿を取り戻し始めた。夜空に広がっていた重たい雲がすぅっと引いていき、星々が次々とその姿を現す。江戸川の水面が反応するようにさざめき始め、まるで街そのものが深く息を吐いたような静寂が訪れた。
拝殿のそばに立っていた舞手の女性は、深々と頭を下げると、「これで、おまえたちの祭火が戻った」と静かに言った。
「ですが……それを本当に夜空に甦らせるには、最後の儀式が必要です」
「最後……?」修平が問うと、彼女は神社の奥のほう、つまり江戸川の方向を指差した。
「“水の結界”が、花火の力を封じている。それを越えるには、完全な“祭火の調べ”と、心を一つにした演奏が必要だ」
その言葉を聞き、四人は視線を交わした。ここまで来た今、もう躊躇はない。
「よし、江戸川に行こう」玲がぽつりと言った。彼の目には、自信が戻っていた。普段は屋台で淡々と接客する玲が、今やまるで指揮者のように背筋を伸ばしている。
桃香と侑希は深呼吸をしてそれに続き、修平は祭火の印が刻まれた石を掌に握りしめた。
深夜。江戸川河川敷。川面の上には確かに異質な気配が漂っていた。霧のような、風のような、しかし明確にそこに存在する“結界”。それは水の神、エドガワ・カムイによって張られた、祝祭の力を封じる最後の壁だった。
「この霧……水の精か何かが守ってるのか?」侑希が低く呟いた。
「たぶん、祭火が暴走するのを防ぐための結界……だったんだろう。でも、今は逆だ」修平が言った。「今のこの街には、花火の光が必要だ」
彼らは楽器を構える。太鼓、笛、そして踊りの準備。音を、風を、心を——ひとつにする。
最初の一打が響いた瞬間、霧が微かに震えた。二打、三打。太鼓は確かな律動を刻み、侑希の笛がそれに重なる。桃香の舞がその間を縫うように広がる。
そして、玲の掌から、先ほど拝殿で宿した“焔の印”が空へと浮かび上がり、それが中心となって、音と舞を取り込むように渦を巻き始めた。
「いける……!」修平が叫ぶ。「もっと強く、もっと高く!」
音が、風が、夜空を突き抜けていく。その瞬間、江戸川の水面から爆ぜるように閃光が上がった。ひと筋の光が天を貫いたと思った瞬間、夜空に、大輪の花火が咲いた。
ドンッ——
一発目の轟音が町中に響く。その音は、越谷の空気を突き動かした。
続けて、二発目、三発目——かつての花火大会そのままに、光の奔流が次々と夜空を彩った。
その光の中で、観客の歓声も蘇った。祭りの屋台に人が戻り、ガーヤちゃんの蔵屋敷の広場では、子どもたちが空を指さして跳ね回っていた。越谷ネギの焼きそば、慈姑の煮物、そして小松菜の天ぷらの香りが夜風に混ざって漂ってくる。
修平たちは、音が町に戻ったことを身体で感じていた。心がふるえ、目頭が熱くなる。それはただの成功の喜びではなかった。祭火の心に込められた「街の願い」が、自分たちを通じて空へ届いた——その実感。
「やったね……」桃香が涙を拭いながら笑った。「越谷、帰ってきたよ」
「うん。音も、光も、笑顔も」侑希が頷いた。
玲は静かに言った。「また、あの味噌うどんを食わせられるようになったわけだ」
修平はしばらく黙って空を見つめていたが、やがて地面に落ちた花火の灰の中に、きらりと光るものを見つけた。手に取ると、それはまるで燃えさしのような、紅と金の輝きを持つ結晶だった。
「これは……」
「“越谷市の輝”だっぺな」玲が言った。
かつての花火の心が宿るその結晶は、音と炎、そして祈りの記憶を内包する不思議な温かさを持っていた。
修平はそれを胸に抱きしめ、心の中で強く願った。
——この街の光が、ずっと絶えませんように。
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