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第三十四章「三郷市」
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みさと公園の池のほとりに、初夏の風が涼やかに吹いていた。背後に広がる高層ビル群が、江戸川を挟んで空のグラデーションに淡く溶け込む。公園を囲む木々は緑に染まり、日差しが葉に当たるたび、地面に煌めく光の紋様を描き出していた。池畔では子どもたちのはしゃぐ声が響き渡り、時折、カモの羽ばたく音が混じる。
翼はその賑やかな雰囲気のなかで、ひときわ目立っていた。陽射しを受けた短髪に光が反射し、黒Tシャツには江戸川マラソンのロゴが浮かぶ。彼はスマホを片手に、池に突き出した木のデッキの上でポーズを取りながら、「おーい、理央!インスタにこの空、上げといて!」と叫んだ。
理央は少し離れたベンチに腰をかけ、微笑を浮かべていた。翼のテンションは相変わらず高い。だけど、理央はそんな翼の言葉や仕草に、普段は誰も気づかない微かな変化を見つけるのが得意だった。今日の翼は、ほんの少しだけ——ほんの少しだけだが、心の奥でなにかを隠している。そんな直感が胸をよぎった。
「拓巳、そっちからも動画撮って!」翼はデッキの先にいる男に手を振った。拓巳も同じく陽気な性格で、カメラを向けるとすぐに自分の表情を確認していた。「この角度なら映えだっぺな!」
一方、絢香は理央の隣で、園内マップを眺めていた。「ららぽーと寄るのって、何時くらいがベストなんだっけ?」彼女の指先は、地図の下部にあるイベントスペースを示していた。
「13時に大道芸のステージがあるから、それまでには着きたいな」理央はそう言いながらも、視線はずっと池の水面に注がれていた。何かが変だった。水面がどこか、濁っている。風が吹いても、水は思ったほど波打たない。その静けさが不自然に思えたのだ。
そのとき、突如として園内放送が流れた。
「ご来園の皆さまにお知らせいたします。本日10時より、ららぽーと新三郷にて開催予定の『三郷産業フェスタ』にて展示予定であった“翠鏡”が……」
理央は思わず耳を傾けた。
「……展示準備中に行方不明となりました。安全上の問題はありませんが、関係各所にて調査中です。詳細は公式HPにて——」
「え?」と絢香が呟いた。「翠鏡って、あの小松菜の畑を潤すって言い伝えの、緑の石?」
「うん。あれ、地元の神社にも伝承あるって聞いたことある」と理央が即座に応じた。
翼はすぐに戻ってきて、「やばくね?あの鏡、江戸川の清流とつながってるって聞いたことあるぞ」と眉をひそめた。
その直後だった。池の水面がぶくりと泡立ち、数匹の魚が跳ね、そして——草のようなものが浮かび上がった。理央は思わず立ち上がる。「あれ……小松菜?」
だが、その葉は萎れていた。色は深い緑ではなく、どこか灰がかったような、命を失った緑。まるで何かに力を吸い取られたかのようだった。
「ちょっと待って……これ、やっぱりただのイベント事故じゃないかもしれない」
理央の目が真剣になった。
拓巳は口を尖らせ、「あれだっぺな。オレ、小松菜のおひたし屋台で出す予定だったやつ、さっき朝に確認したら……なんか、ちょっと苦かった」
「私も、朝に畑見たんだよ。葉っぱが全部、ヘタってて。天気のせいかと思ったけど、違ったのかもしれない……」
絢香が声を潜めるように言う。
理央の目に、決意の光が宿る。「香取神社に行ってみよう。そこに、翠鏡のこと、書いてあるって農家の人が言ってた」
「乗った!」と翼が即答した。「なにが起きてんのか、確かめないと。江戸川も、小松菜も、三郷も、全部が関係してる気がする!」
その瞬間、何かが始まった気がした。彼らが知らずに踏み込んだのは、ただの地域伝承の謎解きなどではない。三郷市の命の根幹に迫る、霧と囃子に隠された一筋縄ではいかない“異変”だった。
彼らが香取神社に辿り着いたのは、正午を少し回った頃だった。みさと公園を出て江戸川沿いに歩くうち、空は一層明るくなり、風が強まってきた。空気にはほんのわずかな潮の香りが混じっていて、それがなぜか理央の胸をざわつかせた。拝殿の朱色が緑に映える境内では、神職の白装束が風に揺れ、時折、木の葉がぱらりと落ちる音だけが静かに響いていた。
「ここに翠鏡のこと、書いてあるって言ってたよな」翼が絵馬掛けの前で立ち止まり、周囲を見渡した。
「……あった」理央が指差した先に、小さな案内板が立っていた。『経津主大神と翠の鏡』と書かれており、その下に、風化しかけた木板に記された説明があった。理央は指で埃を払いながら声に出して読んだ。
「翠鏡は、江戸川の神・経津主大神が与えた“清き水のしるし”……。その輝きは、風の神楽にて甦る……“鏡還しの節”にて祈りを捧げよ……」
「それだ!」拓巳が即座に身を乗り出した。「オレ、小松菜の組合で聞いたことある! “にごはんばやし”って囃子、あれに隠された節があるって!」
「二郷半囃子……」絢香は思わず呟く。「そういえば昔、祖母が踊ってた。里神楽と一緒に。秋祭りの時期に」
「じゃあ、それが“鏡還しの節”ってこと?」翼が首を傾げると、理央は静かに頷いた。
「でも、それってどうやって探せばいいの? 囃子って、譜面とかあるの?」
「ないけど、石碑がある」理央が言った。「みさと公園の池のほとり、あそこに囃子を刻んだ石碑があるって、昔おじいちゃんが言ってたのを思い出した。行こう」
その言葉を合図に、四人は再び江戸川沿いに戻り、公園へと駆け出した。池のほとりには、太陽の光が水面に反射し、ちらちらと眩しく揺れていた。その一角、樹木の陰に小さな石碑が立っていた。苔が生い茂り、年月の重みを感じさせるそれは、ひっそりと人目を避けるように存在していた。
拓巳が苔を払うと、そこには音符ではなく、詩のような言葉が刻まれていた。
『はやしの調べに かがみは揺らぎ
緑の声を 風が伝え
舞いに応えし 神の鼓動
かがみのひかり よみがえれ』
理央は読み上げながら、心のどこかが震えるのを感じていた。なぜだろう。これらの言葉はただの詩ではない。音の流れ、息のリズム、それに合わせる身体の動きまで、理央の中で自然に浮かび上がってくるようだった。
「これ、節だ」彼女は確信したように言った。「私たち、これを踊らなきゃいけない。舞と節で、鏡を清めるんだ」
「ららぽーとの広場で、里神楽の舞、練習してたおばちゃんたちがいる。たしか、14時くらいから合同練習って聞いたっぺよ」拓巳が言った。
「じゃあ急がないと!」翼が拳を握りしめた。「行こう、ららぽーとへ!」
こうして、彼らは再び街へと向かった。三井ショッピングパークららぽーと新三郷。その入り口には、地元の特産を扱うフードブースや、催し物用のステージが設置され、人々のざわめきが溢れていた。中庭の広場では、法被を着た女性たちが笛と太鼓に合わせて、練習用の円陣を組んでいた。
「ねぇ、私たちに、その舞を教えてくれませんか?」絢香が率先して声をかけると、年配の女性がにっこりと笑って答えた。
「おやまぁ。若い子が興味持ってくれるなんてうれしいだっぺ。いいよ、こっち来なさい」
理央たちはその場で、祭囃子と神楽の融合した独特のリズムと動きを学び始めた。腰の落とし方、手の動き、足の運び。身体で覚えるのに、汗がにじむほど時間はかからなかった。何より理央の動きは、どこか懐かしさすら感じさせた。
「……不思議。初めてのはずなのに、体が覚えてるみたい」
「オレもだっぺな。おひたしより、こっちのが得意かも」と拓巳が冗談めかして笑った。
やがて夕暮れが近づき、日が斜めに差し込む時間。神楽と囃子を合わせた舞の完成を見たその瞬間、突風が広場を吹き抜けた。風に乗って、どこか遠くから太鼓の音が響いた気がした。
「呼ばれてる……香取神社へ行こう」
理央の言葉に、誰もが頷いた。彼らは今、鏡を還すために、三郷の鼓動をその胸に刻んでいた。
香取神社へ向かう道中、四人の足音は揃っていた。江戸川の流れが夕陽に照らされて黄金色に輝き、空には薄く雲が棚引いていた。歩きながらも、理央は何度も胸の内で“鏡還しの節”の言葉をなぞっていた。祭囃子と神楽の舞、それに込められた意味。きっと、この先で待つのは単なる儀式ではない。祈り、命の再生、そして——試される何か。
拝殿の前に立つと、境内には既に誰の姿もなかった。昼間は賑わっていたはずの石畳が、今は静寂に包まれ、空の色も徐々に群青に染まっていく。神前のしめ縄が風に揺れ、鈴の音がかすかに鳴った。まるで、誰かが歓迎の合図を出したかのようだった。
「始めよう」理央が静かに言い、踊りの構えを取った。
拓巳が太鼓のバチを構え、絢香は笛の音色を吹き込む。翼は真ん中で、神楽のように両腕を広げた。三郷で学んだ“囃子と舞”は、形だけではなかった。そこには、土地の記憶と、神に捧げる真摯な祈りが宿っていた。
——ひとたび太鼓の音が響いた瞬間、空気が変わった。
涼風が拝殿を横切り、砂利がカラカラと音を立てる。笛の音が静かに続き、舞の動きに合わせて、拝殿の御簾がふわりと揺れた。まるで神が舞に応じているかのように。理央は、全身でその風を感じていた。舞の動きがひとつひとつ神前に吸い込まれ、神聖な気配に包まれていく。
「——もうすぐだ」理央の胸に、その言葉が宿る。
すると、拝殿の奥からかすかな霧が立ちのぼり、淡く光る翠色の気配が現れた。それは、昼間濁っていた江戸川の水面とはまったく違う、透明で柔らかい光だった。浮かび上がったそれは、まさに——“翠鏡”。
けれどその瞬間、風の音が鋭くなり、空気が震えた。霧の中から何かが現れる。形を持たないそれは、かすかに人のようであり、影のようでもあった。霧の精——翠鏡を覆っていた存在。
「今だ!」翼が叫び、再び舞いを強める。太鼓と笛が力強く重なり、拓巳と絢香の手にも汗が滲む。それでもやめなかった。霧の精が牙のような腕を持ち上げたとき、理央の足が静かに一歩踏み出した。
「翠鏡よ、還れ——」
その声は、誰に向けたものでもない。けれど、空が応えた。突如、拝殿の上空に稲光が走り、霧の精の輪郭を切り裂いた。そして、光は舞いの中心——理央の手のひらに収束し、翠鏡の芯へと吸い込まれていった。
音が止む。風も止む。気づけば、拝殿の前に立つ四人の前に、翠鏡は静かに横たわっていた。かすかに温かみを帯びた翠の輝きが、まるで生命を宿しているかのようだった。
「やった、戻ったんだ……!」絢香が呟くように言った。
その瞬間、遠くから聞こえてきたのは、みさと公園の池の水音。理央たちは足早に公園に戻った。池の水はかつての透明さを取り戻し、朝に浮かんでいた枯れた小松菜の葉は、今や青々と水面に漂っていた。
そして、その翌日——三郷市の市場では、再び新鮮な小松菜が所狭しと並び、ららぽーと新三郷では小松菜を使ったスムージーやスイーツの特設ブースが再開していた。
「これが、三郷の力なんだね……」理央はひとりごちた。
翼が横から声をかける。「なあ、理央。あれ、何か見つけたぞ?」
みさと公園の池のほとり、昨日、翠鏡が現れたあたりに、何かが埋もれていた。理央が手を伸ばすと、それは小さな宝石のようなオブジェだった。翠鏡のかけら……いや、違う。
その輝きは、どこか都市そのものの生命を宿しているようだった。
「——これは、“三郷市の輝”。」
彼女たちの手に、三郷の命と記憶が刻まれたかのような宝が、今、確かにあった。
【アイテム:三郷市の輝】入手
翼はその賑やかな雰囲気のなかで、ひときわ目立っていた。陽射しを受けた短髪に光が反射し、黒Tシャツには江戸川マラソンのロゴが浮かぶ。彼はスマホを片手に、池に突き出した木のデッキの上でポーズを取りながら、「おーい、理央!インスタにこの空、上げといて!」と叫んだ。
理央は少し離れたベンチに腰をかけ、微笑を浮かべていた。翼のテンションは相変わらず高い。だけど、理央はそんな翼の言葉や仕草に、普段は誰も気づかない微かな変化を見つけるのが得意だった。今日の翼は、ほんの少しだけ——ほんの少しだけだが、心の奥でなにかを隠している。そんな直感が胸をよぎった。
「拓巳、そっちからも動画撮って!」翼はデッキの先にいる男に手を振った。拓巳も同じく陽気な性格で、カメラを向けるとすぐに自分の表情を確認していた。「この角度なら映えだっぺな!」
一方、絢香は理央の隣で、園内マップを眺めていた。「ららぽーと寄るのって、何時くらいがベストなんだっけ?」彼女の指先は、地図の下部にあるイベントスペースを示していた。
「13時に大道芸のステージがあるから、それまでには着きたいな」理央はそう言いながらも、視線はずっと池の水面に注がれていた。何かが変だった。水面がどこか、濁っている。風が吹いても、水は思ったほど波打たない。その静けさが不自然に思えたのだ。
そのとき、突如として園内放送が流れた。
「ご来園の皆さまにお知らせいたします。本日10時より、ららぽーと新三郷にて開催予定の『三郷産業フェスタ』にて展示予定であった“翠鏡”が……」
理央は思わず耳を傾けた。
「……展示準備中に行方不明となりました。安全上の問題はありませんが、関係各所にて調査中です。詳細は公式HPにて——」
「え?」と絢香が呟いた。「翠鏡って、あの小松菜の畑を潤すって言い伝えの、緑の石?」
「うん。あれ、地元の神社にも伝承あるって聞いたことある」と理央が即座に応じた。
翼はすぐに戻ってきて、「やばくね?あの鏡、江戸川の清流とつながってるって聞いたことあるぞ」と眉をひそめた。
その直後だった。池の水面がぶくりと泡立ち、数匹の魚が跳ね、そして——草のようなものが浮かび上がった。理央は思わず立ち上がる。「あれ……小松菜?」
だが、その葉は萎れていた。色は深い緑ではなく、どこか灰がかったような、命を失った緑。まるで何かに力を吸い取られたかのようだった。
「ちょっと待って……これ、やっぱりただのイベント事故じゃないかもしれない」
理央の目が真剣になった。
拓巳は口を尖らせ、「あれだっぺな。オレ、小松菜のおひたし屋台で出す予定だったやつ、さっき朝に確認したら……なんか、ちょっと苦かった」
「私も、朝に畑見たんだよ。葉っぱが全部、ヘタってて。天気のせいかと思ったけど、違ったのかもしれない……」
絢香が声を潜めるように言う。
理央の目に、決意の光が宿る。「香取神社に行ってみよう。そこに、翠鏡のこと、書いてあるって農家の人が言ってた」
「乗った!」と翼が即答した。「なにが起きてんのか、確かめないと。江戸川も、小松菜も、三郷も、全部が関係してる気がする!」
その瞬間、何かが始まった気がした。彼らが知らずに踏み込んだのは、ただの地域伝承の謎解きなどではない。三郷市の命の根幹に迫る、霧と囃子に隠された一筋縄ではいかない“異変”だった。
彼らが香取神社に辿り着いたのは、正午を少し回った頃だった。みさと公園を出て江戸川沿いに歩くうち、空は一層明るくなり、風が強まってきた。空気にはほんのわずかな潮の香りが混じっていて、それがなぜか理央の胸をざわつかせた。拝殿の朱色が緑に映える境内では、神職の白装束が風に揺れ、時折、木の葉がぱらりと落ちる音だけが静かに響いていた。
「ここに翠鏡のこと、書いてあるって言ってたよな」翼が絵馬掛けの前で立ち止まり、周囲を見渡した。
「……あった」理央が指差した先に、小さな案内板が立っていた。『経津主大神と翠の鏡』と書かれており、その下に、風化しかけた木板に記された説明があった。理央は指で埃を払いながら声に出して読んだ。
「翠鏡は、江戸川の神・経津主大神が与えた“清き水のしるし”……。その輝きは、風の神楽にて甦る……“鏡還しの節”にて祈りを捧げよ……」
「それだ!」拓巳が即座に身を乗り出した。「オレ、小松菜の組合で聞いたことある! “にごはんばやし”って囃子、あれに隠された節があるって!」
「二郷半囃子……」絢香は思わず呟く。「そういえば昔、祖母が踊ってた。里神楽と一緒に。秋祭りの時期に」
「じゃあ、それが“鏡還しの節”ってこと?」翼が首を傾げると、理央は静かに頷いた。
「でも、それってどうやって探せばいいの? 囃子って、譜面とかあるの?」
「ないけど、石碑がある」理央が言った。「みさと公園の池のほとり、あそこに囃子を刻んだ石碑があるって、昔おじいちゃんが言ってたのを思い出した。行こう」
その言葉を合図に、四人は再び江戸川沿いに戻り、公園へと駆け出した。池のほとりには、太陽の光が水面に反射し、ちらちらと眩しく揺れていた。その一角、樹木の陰に小さな石碑が立っていた。苔が生い茂り、年月の重みを感じさせるそれは、ひっそりと人目を避けるように存在していた。
拓巳が苔を払うと、そこには音符ではなく、詩のような言葉が刻まれていた。
『はやしの調べに かがみは揺らぎ
緑の声を 風が伝え
舞いに応えし 神の鼓動
かがみのひかり よみがえれ』
理央は読み上げながら、心のどこかが震えるのを感じていた。なぜだろう。これらの言葉はただの詩ではない。音の流れ、息のリズム、それに合わせる身体の動きまで、理央の中で自然に浮かび上がってくるようだった。
「これ、節だ」彼女は確信したように言った。「私たち、これを踊らなきゃいけない。舞と節で、鏡を清めるんだ」
「ららぽーとの広場で、里神楽の舞、練習してたおばちゃんたちがいる。たしか、14時くらいから合同練習って聞いたっぺよ」拓巳が言った。
「じゃあ急がないと!」翼が拳を握りしめた。「行こう、ららぽーとへ!」
こうして、彼らは再び街へと向かった。三井ショッピングパークららぽーと新三郷。その入り口には、地元の特産を扱うフードブースや、催し物用のステージが設置され、人々のざわめきが溢れていた。中庭の広場では、法被を着た女性たちが笛と太鼓に合わせて、練習用の円陣を組んでいた。
「ねぇ、私たちに、その舞を教えてくれませんか?」絢香が率先して声をかけると、年配の女性がにっこりと笑って答えた。
「おやまぁ。若い子が興味持ってくれるなんてうれしいだっぺ。いいよ、こっち来なさい」
理央たちはその場で、祭囃子と神楽の融合した独特のリズムと動きを学び始めた。腰の落とし方、手の動き、足の運び。身体で覚えるのに、汗がにじむほど時間はかからなかった。何より理央の動きは、どこか懐かしさすら感じさせた。
「……不思議。初めてのはずなのに、体が覚えてるみたい」
「オレもだっぺな。おひたしより、こっちのが得意かも」と拓巳が冗談めかして笑った。
やがて夕暮れが近づき、日が斜めに差し込む時間。神楽と囃子を合わせた舞の完成を見たその瞬間、突風が広場を吹き抜けた。風に乗って、どこか遠くから太鼓の音が響いた気がした。
「呼ばれてる……香取神社へ行こう」
理央の言葉に、誰もが頷いた。彼らは今、鏡を還すために、三郷の鼓動をその胸に刻んでいた。
香取神社へ向かう道中、四人の足音は揃っていた。江戸川の流れが夕陽に照らされて黄金色に輝き、空には薄く雲が棚引いていた。歩きながらも、理央は何度も胸の内で“鏡還しの節”の言葉をなぞっていた。祭囃子と神楽の舞、それに込められた意味。きっと、この先で待つのは単なる儀式ではない。祈り、命の再生、そして——試される何か。
拝殿の前に立つと、境内には既に誰の姿もなかった。昼間は賑わっていたはずの石畳が、今は静寂に包まれ、空の色も徐々に群青に染まっていく。神前のしめ縄が風に揺れ、鈴の音がかすかに鳴った。まるで、誰かが歓迎の合図を出したかのようだった。
「始めよう」理央が静かに言い、踊りの構えを取った。
拓巳が太鼓のバチを構え、絢香は笛の音色を吹き込む。翼は真ん中で、神楽のように両腕を広げた。三郷で学んだ“囃子と舞”は、形だけではなかった。そこには、土地の記憶と、神に捧げる真摯な祈りが宿っていた。
——ひとたび太鼓の音が響いた瞬間、空気が変わった。
涼風が拝殿を横切り、砂利がカラカラと音を立てる。笛の音が静かに続き、舞の動きに合わせて、拝殿の御簾がふわりと揺れた。まるで神が舞に応じているかのように。理央は、全身でその風を感じていた。舞の動きがひとつひとつ神前に吸い込まれ、神聖な気配に包まれていく。
「——もうすぐだ」理央の胸に、その言葉が宿る。
すると、拝殿の奥からかすかな霧が立ちのぼり、淡く光る翠色の気配が現れた。それは、昼間濁っていた江戸川の水面とはまったく違う、透明で柔らかい光だった。浮かび上がったそれは、まさに——“翠鏡”。
けれどその瞬間、風の音が鋭くなり、空気が震えた。霧の中から何かが現れる。形を持たないそれは、かすかに人のようであり、影のようでもあった。霧の精——翠鏡を覆っていた存在。
「今だ!」翼が叫び、再び舞いを強める。太鼓と笛が力強く重なり、拓巳と絢香の手にも汗が滲む。それでもやめなかった。霧の精が牙のような腕を持ち上げたとき、理央の足が静かに一歩踏み出した。
「翠鏡よ、還れ——」
その声は、誰に向けたものでもない。けれど、空が応えた。突如、拝殿の上空に稲光が走り、霧の精の輪郭を切り裂いた。そして、光は舞いの中心——理央の手のひらに収束し、翠鏡の芯へと吸い込まれていった。
音が止む。風も止む。気づけば、拝殿の前に立つ四人の前に、翠鏡は静かに横たわっていた。かすかに温かみを帯びた翠の輝きが、まるで生命を宿しているかのようだった。
「やった、戻ったんだ……!」絢香が呟くように言った。
その瞬間、遠くから聞こえてきたのは、みさと公園の池の水音。理央たちは足早に公園に戻った。池の水はかつての透明さを取り戻し、朝に浮かんでいた枯れた小松菜の葉は、今や青々と水面に漂っていた。
そして、その翌日——三郷市の市場では、再び新鮮な小松菜が所狭しと並び、ららぽーと新三郷では小松菜を使ったスムージーやスイーツの特設ブースが再開していた。
「これが、三郷の力なんだね……」理央はひとりごちた。
翼が横から声をかける。「なあ、理央。あれ、何か見つけたぞ?」
みさと公園の池のほとり、昨日、翠鏡が現れたあたりに、何かが埋もれていた。理央が手を伸ばすと、それは小さな宝石のようなオブジェだった。翠鏡のかけら……いや、違う。
その輝きは、どこか都市そのものの生命を宿しているようだった。
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