34 / 61
第三十四章「三郷市」
しおりを挟む
みさと公園の池のほとりに、初夏の風が涼やかに吹いていた。背後に広がる高層ビル群が、江戸川を挟んで空のグラデーションに淡く溶け込む。公園を囲む木々は緑に染まり、日差しが葉に当たるたび、地面に煌めく光の紋様を描き出していた。池畔では子どもたちのはしゃぐ声が響き渡り、時折、カモの羽ばたく音が混じる。
翼はその賑やかな雰囲気のなかで、ひときわ目立っていた。陽射しを受けた短髪に光が反射し、黒Tシャツには江戸川マラソンのロゴが浮かぶ。彼はスマホを片手に、池に突き出した木のデッキの上でポーズを取りながら、「おーい、理央!インスタにこの空、上げといて!」と叫んだ。
理央は少し離れたベンチに腰をかけ、微笑を浮かべていた。翼のテンションは相変わらず高い。だけど、理央はそんな翼の言葉や仕草に、普段は誰も気づかない微かな変化を見つけるのが得意だった。今日の翼は、ほんの少しだけ——ほんの少しだけだが、心の奥でなにかを隠している。そんな直感が胸をよぎった。
「拓巳、そっちからも動画撮って!」翼はデッキの先にいる男に手を振った。拓巳も同じく陽気な性格で、カメラを向けるとすぐに自分の表情を確認していた。「この角度なら映えだっぺな!」
一方、絢香は理央の隣で、園内マップを眺めていた。「ららぽーと寄るのって、何時くらいがベストなんだっけ?」彼女の指先は、地図の下部にあるイベントスペースを示していた。
「13時に大道芸のステージがあるから、それまでには着きたいな」理央はそう言いながらも、視線はずっと池の水面に注がれていた。何かが変だった。水面がどこか、濁っている。風が吹いても、水は思ったほど波打たない。その静けさが不自然に思えたのだ。
そのとき、突如として園内放送が流れた。
「ご来園の皆さまにお知らせいたします。本日10時より、ららぽーと新三郷にて開催予定の『三郷産業フェスタ』にて展示予定であった“翠鏡”が……」
理央は思わず耳を傾けた。
「……展示準備中に行方不明となりました。安全上の問題はありませんが、関係各所にて調査中です。詳細は公式HPにて——」
「え?」と絢香が呟いた。「翠鏡って、あの小松菜の畑を潤すって言い伝えの、緑の石?」
「うん。あれ、地元の神社にも伝承あるって聞いたことある」と理央が即座に応じた。
翼はすぐに戻ってきて、「やばくね?あの鏡、江戸川の清流とつながってるって聞いたことあるぞ」と眉をひそめた。
その直後だった。池の水面がぶくりと泡立ち、数匹の魚が跳ね、そして——草のようなものが浮かび上がった。理央は思わず立ち上がる。「あれ……小松菜?」
だが、その葉は萎れていた。色は深い緑ではなく、どこか灰がかったような、命を失った緑。まるで何かに力を吸い取られたかのようだった。
「ちょっと待って……これ、やっぱりただのイベント事故じゃないかもしれない」
理央の目が真剣になった。
拓巳は口を尖らせ、「あれだっぺな。オレ、小松菜のおひたし屋台で出す予定だったやつ、さっき朝に確認したら……なんか、ちょっと苦かった」
「私も、朝に畑見たんだよ。葉っぱが全部、ヘタってて。天気のせいかと思ったけど、違ったのかもしれない……」
絢香が声を潜めるように言う。
理央の目に、決意の光が宿る。「香取神社に行ってみよう。そこに、翠鏡のこと、書いてあるって農家の人が言ってた」
「乗った!」と翼が即答した。「なにが起きてんのか、確かめないと。江戸川も、小松菜も、三郷も、全部が関係してる気がする!」
その瞬間、何かが始まった気がした。彼らが知らずに踏み込んだのは、ただの地域伝承の謎解きなどではない。三郷市の命の根幹に迫る、霧と囃子に隠された一筋縄ではいかない“異変”だった。
彼らが香取神社に辿り着いたのは、正午を少し回った頃だった。みさと公園を出て江戸川沿いに歩くうち、空は一層明るくなり、風が強まってきた。空気にはほんのわずかな潮の香りが混じっていて、それがなぜか理央の胸をざわつかせた。拝殿の朱色が緑に映える境内では、神職の白装束が風に揺れ、時折、木の葉がぱらりと落ちる音だけが静かに響いていた。
「ここに翠鏡のこと、書いてあるって言ってたよな」翼が絵馬掛けの前で立ち止まり、周囲を見渡した。
「……あった」理央が指差した先に、小さな案内板が立っていた。『経津主大神と翠の鏡』と書かれており、その下に、風化しかけた木板に記された説明があった。理央は指で埃を払いながら声に出して読んだ。
「翠鏡は、江戸川の神・経津主大神が与えた“清き水のしるし”……。その輝きは、風の神楽にて甦る……“鏡還しの節”にて祈りを捧げよ……」
「それだ!」拓巳が即座に身を乗り出した。「オレ、小松菜の組合で聞いたことある! “にごはんばやし”って囃子、あれに隠された節があるって!」
「二郷半囃子……」絢香は思わず呟く。「そういえば昔、祖母が踊ってた。里神楽と一緒に。秋祭りの時期に」
「じゃあ、それが“鏡還しの節”ってこと?」翼が首を傾げると、理央は静かに頷いた。
「でも、それってどうやって探せばいいの? 囃子って、譜面とかあるの?」
「ないけど、石碑がある」理央が言った。「みさと公園の池のほとり、あそこに囃子を刻んだ石碑があるって、昔おじいちゃんが言ってたのを思い出した。行こう」
その言葉を合図に、四人は再び江戸川沿いに戻り、公園へと駆け出した。池のほとりには、太陽の光が水面に反射し、ちらちらと眩しく揺れていた。その一角、樹木の陰に小さな石碑が立っていた。苔が生い茂り、年月の重みを感じさせるそれは、ひっそりと人目を避けるように存在していた。
拓巳が苔を払うと、そこには音符ではなく、詩のような言葉が刻まれていた。
『はやしの調べに かがみは揺らぎ
緑の声を 風が伝え
舞いに応えし 神の鼓動
かがみのひかり よみがえれ』
理央は読み上げながら、心のどこかが震えるのを感じていた。なぜだろう。これらの言葉はただの詩ではない。音の流れ、息のリズム、それに合わせる身体の動きまで、理央の中で自然に浮かび上がってくるようだった。
「これ、節だ」彼女は確信したように言った。「私たち、これを踊らなきゃいけない。舞と節で、鏡を清めるんだ」
「ららぽーとの広場で、里神楽の舞、練習してたおばちゃんたちがいる。たしか、14時くらいから合同練習って聞いたっぺよ」拓巳が言った。
「じゃあ急がないと!」翼が拳を握りしめた。「行こう、ららぽーとへ!」
こうして、彼らは再び街へと向かった。三井ショッピングパークららぽーと新三郷。その入り口には、地元の特産を扱うフードブースや、催し物用のステージが設置され、人々のざわめきが溢れていた。中庭の広場では、法被を着た女性たちが笛と太鼓に合わせて、練習用の円陣を組んでいた。
「ねぇ、私たちに、その舞を教えてくれませんか?」絢香が率先して声をかけると、年配の女性がにっこりと笑って答えた。
「おやまぁ。若い子が興味持ってくれるなんてうれしいだっぺ。いいよ、こっち来なさい」
理央たちはその場で、祭囃子と神楽の融合した独特のリズムと動きを学び始めた。腰の落とし方、手の動き、足の運び。身体で覚えるのに、汗がにじむほど時間はかからなかった。何より理央の動きは、どこか懐かしさすら感じさせた。
「……不思議。初めてのはずなのに、体が覚えてるみたい」
「オレもだっぺな。おひたしより、こっちのが得意かも」と拓巳が冗談めかして笑った。
やがて夕暮れが近づき、日が斜めに差し込む時間。神楽と囃子を合わせた舞の完成を見たその瞬間、突風が広場を吹き抜けた。風に乗って、どこか遠くから太鼓の音が響いた気がした。
「呼ばれてる……香取神社へ行こう」
理央の言葉に、誰もが頷いた。彼らは今、鏡を還すために、三郷の鼓動をその胸に刻んでいた。
香取神社へ向かう道中、四人の足音は揃っていた。江戸川の流れが夕陽に照らされて黄金色に輝き、空には薄く雲が棚引いていた。歩きながらも、理央は何度も胸の内で“鏡還しの節”の言葉をなぞっていた。祭囃子と神楽の舞、それに込められた意味。きっと、この先で待つのは単なる儀式ではない。祈り、命の再生、そして——試される何か。
拝殿の前に立つと、境内には既に誰の姿もなかった。昼間は賑わっていたはずの石畳が、今は静寂に包まれ、空の色も徐々に群青に染まっていく。神前のしめ縄が風に揺れ、鈴の音がかすかに鳴った。まるで、誰かが歓迎の合図を出したかのようだった。
「始めよう」理央が静かに言い、踊りの構えを取った。
拓巳が太鼓のバチを構え、絢香は笛の音色を吹き込む。翼は真ん中で、神楽のように両腕を広げた。三郷で学んだ“囃子と舞”は、形だけではなかった。そこには、土地の記憶と、神に捧げる真摯な祈りが宿っていた。
——ひとたび太鼓の音が響いた瞬間、空気が変わった。
涼風が拝殿を横切り、砂利がカラカラと音を立てる。笛の音が静かに続き、舞の動きに合わせて、拝殿の御簾がふわりと揺れた。まるで神が舞に応じているかのように。理央は、全身でその風を感じていた。舞の動きがひとつひとつ神前に吸い込まれ、神聖な気配に包まれていく。
「——もうすぐだ」理央の胸に、その言葉が宿る。
すると、拝殿の奥からかすかな霧が立ちのぼり、淡く光る翠色の気配が現れた。それは、昼間濁っていた江戸川の水面とはまったく違う、透明で柔らかい光だった。浮かび上がったそれは、まさに——“翠鏡”。
けれどその瞬間、風の音が鋭くなり、空気が震えた。霧の中から何かが現れる。形を持たないそれは、かすかに人のようであり、影のようでもあった。霧の精——翠鏡を覆っていた存在。
「今だ!」翼が叫び、再び舞いを強める。太鼓と笛が力強く重なり、拓巳と絢香の手にも汗が滲む。それでもやめなかった。霧の精が牙のような腕を持ち上げたとき、理央の足が静かに一歩踏み出した。
「翠鏡よ、還れ——」
その声は、誰に向けたものでもない。けれど、空が応えた。突如、拝殿の上空に稲光が走り、霧の精の輪郭を切り裂いた。そして、光は舞いの中心——理央の手のひらに収束し、翠鏡の芯へと吸い込まれていった。
音が止む。風も止む。気づけば、拝殿の前に立つ四人の前に、翠鏡は静かに横たわっていた。かすかに温かみを帯びた翠の輝きが、まるで生命を宿しているかのようだった。
「やった、戻ったんだ……!」絢香が呟くように言った。
その瞬間、遠くから聞こえてきたのは、みさと公園の池の水音。理央たちは足早に公園に戻った。池の水はかつての透明さを取り戻し、朝に浮かんでいた枯れた小松菜の葉は、今や青々と水面に漂っていた。
そして、その翌日——三郷市の市場では、再び新鮮な小松菜が所狭しと並び、ららぽーと新三郷では小松菜を使ったスムージーやスイーツの特設ブースが再開していた。
「これが、三郷の力なんだね……」理央はひとりごちた。
翼が横から声をかける。「なあ、理央。あれ、何か見つけたぞ?」
みさと公園の池のほとり、昨日、翠鏡が現れたあたりに、何かが埋もれていた。理央が手を伸ばすと、それは小さな宝石のようなオブジェだった。翠鏡のかけら……いや、違う。
その輝きは、どこか都市そのものの生命を宿しているようだった。
「——これは、“三郷市の輝”。」
彼女たちの手に、三郷の命と記憶が刻まれたかのような宝が、今、確かにあった。
【アイテム:三郷市の輝】入手
翼はその賑やかな雰囲気のなかで、ひときわ目立っていた。陽射しを受けた短髪に光が反射し、黒Tシャツには江戸川マラソンのロゴが浮かぶ。彼はスマホを片手に、池に突き出した木のデッキの上でポーズを取りながら、「おーい、理央!インスタにこの空、上げといて!」と叫んだ。
理央は少し離れたベンチに腰をかけ、微笑を浮かべていた。翼のテンションは相変わらず高い。だけど、理央はそんな翼の言葉や仕草に、普段は誰も気づかない微かな変化を見つけるのが得意だった。今日の翼は、ほんの少しだけ——ほんの少しだけだが、心の奥でなにかを隠している。そんな直感が胸をよぎった。
「拓巳、そっちからも動画撮って!」翼はデッキの先にいる男に手を振った。拓巳も同じく陽気な性格で、カメラを向けるとすぐに自分の表情を確認していた。「この角度なら映えだっぺな!」
一方、絢香は理央の隣で、園内マップを眺めていた。「ららぽーと寄るのって、何時くらいがベストなんだっけ?」彼女の指先は、地図の下部にあるイベントスペースを示していた。
「13時に大道芸のステージがあるから、それまでには着きたいな」理央はそう言いながらも、視線はずっと池の水面に注がれていた。何かが変だった。水面がどこか、濁っている。風が吹いても、水は思ったほど波打たない。その静けさが不自然に思えたのだ。
そのとき、突如として園内放送が流れた。
「ご来園の皆さまにお知らせいたします。本日10時より、ららぽーと新三郷にて開催予定の『三郷産業フェスタ』にて展示予定であった“翠鏡”が……」
理央は思わず耳を傾けた。
「……展示準備中に行方不明となりました。安全上の問題はありませんが、関係各所にて調査中です。詳細は公式HPにて——」
「え?」と絢香が呟いた。「翠鏡って、あの小松菜の畑を潤すって言い伝えの、緑の石?」
「うん。あれ、地元の神社にも伝承あるって聞いたことある」と理央が即座に応じた。
翼はすぐに戻ってきて、「やばくね?あの鏡、江戸川の清流とつながってるって聞いたことあるぞ」と眉をひそめた。
その直後だった。池の水面がぶくりと泡立ち、数匹の魚が跳ね、そして——草のようなものが浮かび上がった。理央は思わず立ち上がる。「あれ……小松菜?」
だが、その葉は萎れていた。色は深い緑ではなく、どこか灰がかったような、命を失った緑。まるで何かに力を吸い取られたかのようだった。
「ちょっと待って……これ、やっぱりただのイベント事故じゃないかもしれない」
理央の目が真剣になった。
拓巳は口を尖らせ、「あれだっぺな。オレ、小松菜のおひたし屋台で出す予定だったやつ、さっき朝に確認したら……なんか、ちょっと苦かった」
「私も、朝に畑見たんだよ。葉っぱが全部、ヘタってて。天気のせいかと思ったけど、違ったのかもしれない……」
絢香が声を潜めるように言う。
理央の目に、決意の光が宿る。「香取神社に行ってみよう。そこに、翠鏡のこと、書いてあるって農家の人が言ってた」
「乗った!」と翼が即答した。「なにが起きてんのか、確かめないと。江戸川も、小松菜も、三郷も、全部が関係してる気がする!」
その瞬間、何かが始まった気がした。彼らが知らずに踏み込んだのは、ただの地域伝承の謎解きなどではない。三郷市の命の根幹に迫る、霧と囃子に隠された一筋縄ではいかない“異変”だった。
彼らが香取神社に辿り着いたのは、正午を少し回った頃だった。みさと公園を出て江戸川沿いに歩くうち、空は一層明るくなり、風が強まってきた。空気にはほんのわずかな潮の香りが混じっていて、それがなぜか理央の胸をざわつかせた。拝殿の朱色が緑に映える境内では、神職の白装束が風に揺れ、時折、木の葉がぱらりと落ちる音だけが静かに響いていた。
「ここに翠鏡のこと、書いてあるって言ってたよな」翼が絵馬掛けの前で立ち止まり、周囲を見渡した。
「……あった」理央が指差した先に、小さな案内板が立っていた。『経津主大神と翠の鏡』と書かれており、その下に、風化しかけた木板に記された説明があった。理央は指で埃を払いながら声に出して読んだ。
「翠鏡は、江戸川の神・経津主大神が与えた“清き水のしるし”……。その輝きは、風の神楽にて甦る……“鏡還しの節”にて祈りを捧げよ……」
「それだ!」拓巳が即座に身を乗り出した。「オレ、小松菜の組合で聞いたことある! “にごはんばやし”って囃子、あれに隠された節があるって!」
「二郷半囃子……」絢香は思わず呟く。「そういえば昔、祖母が踊ってた。里神楽と一緒に。秋祭りの時期に」
「じゃあ、それが“鏡還しの節”ってこと?」翼が首を傾げると、理央は静かに頷いた。
「でも、それってどうやって探せばいいの? 囃子って、譜面とかあるの?」
「ないけど、石碑がある」理央が言った。「みさと公園の池のほとり、あそこに囃子を刻んだ石碑があるって、昔おじいちゃんが言ってたのを思い出した。行こう」
その言葉を合図に、四人は再び江戸川沿いに戻り、公園へと駆け出した。池のほとりには、太陽の光が水面に反射し、ちらちらと眩しく揺れていた。その一角、樹木の陰に小さな石碑が立っていた。苔が生い茂り、年月の重みを感じさせるそれは、ひっそりと人目を避けるように存在していた。
拓巳が苔を払うと、そこには音符ではなく、詩のような言葉が刻まれていた。
『はやしの調べに かがみは揺らぎ
緑の声を 風が伝え
舞いに応えし 神の鼓動
かがみのひかり よみがえれ』
理央は読み上げながら、心のどこかが震えるのを感じていた。なぜだろう。これらの言葉はただの詩ではない。音の流れ、息のリズム、それに合わせる身体の動きまで、理央の中で自然に浮かび上がってくるようだった。
「これ、節だ」彼女は確信したように言った。「私たち、これを踊らなきゃいけない。舞と節で、鏡を清めるんだ」
「ららぽーとの広場で、里神楽の舞、練習してたおばちゃんたちがいる。たしか、14時くらいから合同練習って聞いたっぺよ」拓巳が言った。
「じゃあ急がないと!」翼が拳を握りしめた。「行こう、ららぽーとへ!」
こうして、彼らは再び街へと向かった。三井ショッピングパークららぽーと新三郷。その入り口には、地元の特産を扱うフードブースや、催し物用のステージが設置され、人々のざわめきが溢れていた。中庭の広場では、法被を着た女性たちが笛と太鼓に合わせて、練習用の円陣を組んでいた。
「ねぇ、私たちに、その舞を教えてくれませんか?」絢香が率先して声をかけると、年配の女性がにっこりと笑って答えた。
「おやまぁ。若い子が興味持ってくれるなんてうれしいだっぺ。いいよ、こっち来なさい」
理央たちはその場で、祭囃子と神楽の融合した独特のリズムと動きを学び始めた。腰の落とし方、手の動き、足の運び。身体で覚えるのに、汗がにじむほど時間はかからなかった。何より理央の動きは、どこか懐かしさすら感じさせた。
「……不思議。初めてのはずなのに、体が覚えてるみたい」
「オレもだっぺな。おひたしより、こっちのが得意かも」と拓巳が冗談めかして笑った。
やがて夕暮れが近づき、日が斜めに差し込む時間。神楽と囃子を合わせた舞の完成を見たその瞬間、突風が広場を吹き抜けた。風に乗って、どこか遠くから太鼓の音が響いた気がした。
「呼ばれてる……香取神社へ行こう」
理央の言葉に、誰もが頷いた。彼らは今、鏡を還すために、三郷の鼓動をその胸に刻んでいた。
香取神社へ向かう道中、四人の足音は揃っていた。江戸川の流れが夕陽に照らされて黄金色に輝き、空には薄く雲が棚引いていた。歩きながらも、理央は何度も胸の内で“鏡還しの節”の言葉をなぞっていた。祭囃子と神楽の舞、それに込められた意味。きっと、この先で待つのは単なる儀式ではない。祈り、命の再生、そして——試される何か。
拝殿の前に立つと、境内には既に誰の姿もなかった。昼間は賑わっていたはずの石畳が、今は静寂に包まれ、空の色も徐々に群青に染まっていく。神前のしめ縄が風に揺れ、鈴の音がかすかに鳴った。まるで、誰かが歓迎の合図を出したかのようだった。
「始めよう」理央が静かに言い、踊りの構えを取った。
拓巳が太鼓のバチを構え、絢香は笛の音色を吹き込む。翼は真ん中で、神楽のように両腕を広げた。三郷で学んだ“囃子と舞”は、形だけではなかった。そこには、土地の記憶と、神に捧げる真摯な祈りが宿っていた。
——ひとたび太鼓の音が響いた瞬間、空気が変わった。
涼風が拝殿を横切り、砂利がカラカラと音を立てる。笛の音が静かに続き、舞の動きに合わせて、拝殿の御簾がふわりと揺れた。まるで神が舞に応じているかのように。理央は、全身でその風を感じていた。舞の動きがひとつひとつ神前に吸い込まれ、神聖な気配に包まれていく。
「——もうすぐだ」理央の胸に、その言葉が宿る。
すると、拝殿の奥からかすかな霧が立ちのぼり、淡く光る翠色の気配が現れた。それは、昼間濁っていた江戸川の水面とはまったく違う、透明で柔らかい光だった。浮かび上がったそれは、まさに——“翠鏡”。
けれどその瞬間、風の音が鋭くなり、空気が震えた。霧の中から何かが現れる。形を持たないそれは、かすかに人のようであり、影のようでもあった。霧の精——翠鏡を覆っていた存在。
「今だ!」翼が叫び、再び舞いを強める。太鼓と笛が力強く重なり、拓巳と絢香の手にも汗が滲む。それでもやめなかった。霧の精が牙のような腕を持ち上げたとき、理央の足が静かに一歩踏み出した。
「翠鏡よ、還れ——」
その声は、誰に向けたものでもない。けれど、空が応えた。突如、拝殿の上空に稲光が走り、霧の精の輪郭を切り裂いた。そして、光は舞いの中心——理央の手のひらに収束し、翠鏡の芯へと吸い込まれていった。
音が止む。風も止む。気づけば、拝殿の前に立つ四人の前に、翠鏡は静かに横たわっていた。かすかに温かみを帯びた翠の輝きが、まるで生命を宿しているかのようだった。
「やった、戻ったんだ……!」絢香が呟くように言った。
その瞬間、遠くから聞こえてきたのは、みさと公園の池の水音。理央たちは足早に公園に戻った。池の水はかつての透明さを取り戻し、朝に浮かんでいた枯れた小松菜の葉は、今や青々と水面に漂っていた。
そして、その翌日——三郷市の市場では、再び新鮮な小松菜が所狭しと並び、ららぽーと新三郷では小松菜を使ったスムージーやスイーツの特設ブースが再開していた。
「これが、三郷の力なんだね……」理央はひとりごちた。
翼が横から声をかける。「なあ、理央。あれ、何か見つけたぞ?」
みさと公園の池のほとり、昨日、翠鏡が現れたあたりに、何かが埋もれていた。理央が手を伸ばすと、それは小さな宝石のようなオブジェだった。翠鏡のかけら……いや、違う。
その輝きは、どこか都市そのものの生命を宿しているようだった。
「——これは、“三郷市の輝”。」
彼女たちの手に、三郷の命と記憶が刻まれたかのような宝が、今、確かにあった。
【アイテム:三郷市の輝】入手
0
あなたにおすすめの小説
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる