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【第五十六章「千代田区」】
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石垣の苔むす模様が陽光に照らされて、まるで生き物のように揺らいで見えた。皇居の外苑沿いを吹き抜ける風は、春を帯びながらもどこか肌寒く、日比谷公園の噴水の水しぶきを運んでくる。その風に混ざるのは、焼きたてのバゲットの香ばしい香りと、遠くから響く電気街の電子音だった。しかし今、その電子のざわめきは途絶え、かつての賑わいが嘘のように静まり返っている。
神田明神の境内では、しんとした空気の中に、重く沈んだ気配が漂っていた。人々の姿はまばらで、招き猫守りの棚にもほこりが積もっている。石段の先に佇む拝殿の扉はぴたりと閉ざされ、まるで神すら言葉を失ったかのようだった。
新太はその石段の下で、手をポケットに突っ込んだまま空を仰いでいた。桜の花びらが一枚、頬に触れてふわりと舞い落ちたが、彼は動かなかった。日葵がその隣に立ち、眉間に皺を寄せて境内を見上げていた。彼女の手には、秋葉原のとある無線パーツ店で手に入れた一枚の紙片が握られている。そこには、古い漢字で「囃子ノ節回シ、石灯籠ニ封ズ」とだけ書かれていた。
「幹太が言ってたわ。あのパーツ屋の爺さん、昔、神田明神の祭礼に出てたんだって。舞と囃子が合わされば、封印が解けるって」
新太は小さく鼻を鳴らした。「そういうの、だいたい嘘か爺の昔語りだろ。でも……今のこの有様見てると、話のひとつやふたつ信じてもいいかって気になるな」
「ずる賢いわね、そういうところ」日葵は皮肉っぽく笑うと、紙片を懐に戻した。「でも、こういうときに動かないと、何も始まらないのよ。限界が来てからじゃ遅いわ」
石灯籠のひとつひとつを丹念に見て回ると、苔の奥に掠れた彫り込みが見えた。幹太が手袋を外してその表面をなぞると、指先にひんやりとした石の感触が伝わってくる。確かに何かが刻まれていた。囃子の一節。それも、神田明神囃子の中でも古来の形式、今では演奏されることもない封印の節回しだった。
「これは……五七五七七じゃない。リズムがずれてる」澪がすぐに気づいた。彼女の感性は、誰よりも囃子に近かった。舞台で舞った経験のある彼女は、石灯籠の並びが譜面のように配置されていることを見抜いた。「待って、この配置……見下ろすと、扇の形になってる」
新太は顎に手を当てて周囲を見回した。「囃子と舞……それをこの配置の上で披露することで、封印が解けるってことか。……でもその舞、誰が知ってるんだ?」
「日比谷公園よ」澪がまっすぐに答える。「あそこ、戦前は能舞台があった場所。昔の舞の所作を再現できる資料が、地下の市政資料館にあるの。私、前に調べたことあるの」
「まじかよ、お前そういうの得意だったっけ?」
「うん。自己表現って、身体の中にあるものを外に出すことでしょう? 舞って、そういうものだと思う」
日比谷公園は、思った以上に人が少なかった。バゲットを焼く香りだけが通りに漂い、広場のベンチには鳩がうずくまっているだけだった。噴水の前に立ち、澪は舞の型を一つ一つ確認しながら手を広げた。風に髪がなびき、足元の芝生がその動きに呼応するように揺れた。
「ここの“拍子”が肝心なの。笛の音と太鼓、それに手拍子。この三つが揃わないと、“呼びの舞”にはならない」
幹太が無言で小型の太鼓を取り出した。秋葉原の中古楽器屋で手に入れたものだ。新太はポケットからリズムシーケンサーを取り出し、それに澪が指示した節回しを打ち込む。
「囃子は準備OK、舞も整った。じゃあ、やるしかねえな。神田明神に戻るぞ」
拝殿の前には、黒い影が立っていた。人とも、獣ともつかないその形は、風が吹くたびに揺らめいて形を変えた。目が合った瞬間、新太の背筋に氷のような冷たさが走った。だが、彼は一歩も引かなかった。
「踊れ」影の声が、どこからともなく響いた。「封ぜられし“商売の心”を望むならば、“囃子”と“舞”で示せ」
囃子が鳴り響く。太鼓の音が山を揺らすように大地に響き、笛が風に乗って流れる。澪の舞が始まると、空気が震えた。手のひら一つ、つま先一つが、神の領域をたぐり寄せる。日葵はその横で節回しの詩を唱え、新太は指先でシーケンサーのテンポを整える。幹太の太鼓は、迷いなく空間を支えた。
そして、影が揺らいだ。
「まだだ」影が呻くように言った。「“舞”だけでは足りぬ。招け、“福”を」
その瞬間、澪が最後の所作を空に掲げ、舞の手振りで“商売呼びの印”を結んだ。途端に空気が反転する。風が逆巻き、拝殿の扉が音を立てて開いた。
中にあったのは、一対の黄金の招き猫。片方の手が上がっているが、その掌に小さな石の珠が埋め込まれている。光が差し、街中に散った商売の気が一気に呼び戻された。
秋葉原の電気街がざわつき、シャッターを閉めていた古書店に再び明かりが灯る。神田明神の境内にも参拝者が戻り、福を招く祭囃子が響き渡った。
新太は石の珠を手に取り、そっと懐にしまった。「これは……“千代田区の輝”だな」
「これで、ひとつの街が戻った」日葵が呟いた。「でも、まだ終わらない。全ての輝きを集めなきゃ、日本は守れない」
「いいじゃねえか、やってやろうぜ」幹太がにやりと笑った。「賑わいを取り戻すのが、俺たちの役目なんだろ?」
「その通り」澪は一歩前に出て、招き猫守りを手に取った。「さあ、次の都市へ」
アイテム:千代田区の輝
新太が「千代田区の輝」を懐に収めた瞬間、境内に集まった人々の顔に、徐々にかつての活気が戻っていくのが分かった。招き猫守りを求める行列が再びでき、参道には屋台の灯がともり、神田明神囃子が本来の節で力強く響きはじめていた。新太は一歩後ろに下がって、拝殿の前で手を合わせる年配の夫婦の姿を見つめた。肩を並べるその姿に、ふと自分の両親の影を重ねたが、次の瞬間には目を逸らしてしまう。今の彼には、そこに目を向ける余裕はなかった。
日葵がそっと肩を叩いた。「戻ってきたね、“商売の心”。あとはこの福を、また根付かせていくだけ」
「根付くかどうかは、あいつら次第さ」新太はそっけなく言ったが、その言葉の端にはどこか優しさがにじんでいた。幹太がそのやり取りを横目に見て、呆れたように鼻を鳴らす。
「素直じゃねぇなぁ、ほんとに。でも、まぁ分かるぜ。お前も少しはこの街に情が湧いてきたんだろ?」
「情っていうより、借りだな」新太は淡々と答える。「ここで世話になったやつらも多い。電子部品一つとっても、あの通りがなきゃ俺たち、ここまで来れてねぇ」
秋葉原電気街の雑多な看板が、次々と再点灯していく。神田明神から下る坂道を歩いていると、至る所で復旧した電子音が溢れ出していた。澪が耳をすませると、街のリズムが心臓の鼓動のように脈打っているのが分かる。
「戻ったんだね、この街の“音”が……」彼女はぽつりと呟いた。「それにしても、囃子の節と舞の構造が、封印の鍵だったなんて……ただの民俗芸能じゃなかったんだ」
「太鼓一つにも意味があるってことさ」幹太は小さく笑いながら、背負っていた小太鼓の紐を外した。「それにしても、よくあんな動き覚えたよな。しかもあの即興で」
「即興じゃないわ」澪は笑って応えた。「ちゃんと予習してたのよ。限界が来る前に、動けるようにしておいた。それだけ」
日比谷公園に着いた頃、陽は高く昇っていた。噴水前ではパン祭りのテントが立ち上がり、早くも焼きあがったバゲットが並べられていた。空腹を訴える幹太の腹の音に、新太がくすりと笑った。
「腹減ってるなら素直に言えよ。なんでお前らはそう、食い意地張ってんだか」
「いや、俺はデータに基づいて食ってるんだ。動けばエネルギーが消費される。補給は理にかなってる」
「屁理屈」日葵が即座に切り捨てると、屋台のパン屋に小走りに向かった。「ちょっと待ってて。ここの“焦がし小麦のバゲット”、絶品なのよ」
幹太が肩をすくめて、「女ってやつは……」と呟くと、澪が隣から冷ややかな声を飛ばした。「今、“女”って括りにしたわね? ちょっとその発言、聞き捨てならないわよ」
「えええっ、まさかそこまで拾われるとは……!」
「そりゃ拾うわよ。自己表現は言葉からって教わったもん」笑顔で返されたその一言に、幹太は黙って両手をあげた。
パンを手に戻ってきた日葵は、紙袋から取り出した温かいバゲットを半分に割り、澪と新太に渡した。「あんたたちも動いたんだから、ちゃんと食べて。それで次に進む準備、整えましょ」
新太が一口かじると、表面の香ばしさと中のふわふわとした食感が、口の中いっぱいに広がった。電気街の冷たい空気が、バゲットの熱でじんわりと和らいでいくようだった。彼はそのまま噛みしめながら、小さく呟いた。
「……こんなバゲット、久しぶりだな」
その声に、日葵がふと目を伏せた。言葉に出さずとも、彼の過去に何があったのか、それを想像するだけで、胸が少しだけ締めつけられた。だが、彼女はそれ以上踏み込まなかった。新太が話したがるときが来るまで、待つと決めていた。
一通り食べ終えた頃、神田明神から一本の連絡が入った。先ほどの影の精霊――商売の心を封じていた存在が、完全に消滅したわけではないらしい。再封印は成功しているが、もし他の“輝”を持たぬ都市で同じ現象が起きた場合、対処できる者が必要だという。
「つまり、今の俺たちみたいなのが他にも必要ってことだ」幹太が画面を見ながら呟く。
「都市ごとに“輝”があるなら、それを集めて繋げる必要があるのね……一つじゃ足りない」澪が思案するように指を顎に当てた。
「だから、“すべての都市を巡る”って話になるのか」日葵が呟くように言い、そして新太を見た。「行くわよ、次。……次はどこ?」
新太は懐から地図を広げた。真ん中に光を放つ千代田区の印。その周囲に、まだ白く灯りのつかない都市が、いくつも浮かんでいた。新たな目的地は、既に決まっている。
「中央区だ」彼は短く告げた。「築地の魚たちが、鮮度を失ってるって話が入ってきた。たぶん……“潮の珠”が狙われた」
風が吹き抜ける日比谷通りを背に、一行は再び歩き出した。バゲットの温もりがまだ手のひらに残っているうちに。
霞が関の官庁街を抜け、外堀通りに差しかかると、午前の光が皇居の石垣に斜めから降り注ぎ、石と緑の間に繊細な影を描き出していた。新太はその景色を見て立ち止まり、しばし言葉を失った。日葵がその様子に気づき、彼の視線の先を追う。
「この辺り、来たことあるの?」
「ああ……昔な。親父がこの近くで働いてた」新太は視線を落とし、足元の石畳をつま先で蹴った。「たまに昼休みに連れてきてもらってた。今思えば、妙に静かな時間だったな」
「でも、その記憶があるから、今ここに立ってるんじゃない?」日葵はそっと笑みを浮かべて、新太の背中を押した。「過去を捨てるんじゃなくて、ちゃんと背負ってる。そういうの、悪くないと思う」
彼は返事をせず、ただ歩き出した。春の風が背中を押し、皇居の桜並木の下を一行はゆっくりと通り抜けていく。桜の枝が軽やかに揺れ、落ちる花びらがまるで都市の祈りのように、彼らの肩にそっと降り積もった。
北の丸公園に差しかかる頃、幹太が急に立ち止まり、電気街で得た情報の続きを思い出したように口を開いた。「そういえば、無線パーツ屋の親父が言ってた。神田明神の封印が“完全”じゃなかったのは、囃子と舞の他に、“商売の言霊”が失われてたからだって」
「言霊……?」澪が首を傾げる。「それって、商売人たちの想いみたいな?」
「それもあるけど、どうやら“福”を呼ぶための“祝詞”らしい。形式ばったものじゃなくて、江戸時代から伝わる、神田明神囃子の“かけ声”が重要なんだってさ」
「じゃあ、次に備えてそれも身につけなきゃね」日葵が言った。「中央区に行く前に、ちゃんと“心の準備”しないと。また何か来る気がする」
「来るよ。絶対」新太は短く断言し、神田明神の方向を振り返った。「まだ全部、戻ってきたわけじゃない。囃子も舞も通じたけど、今の影は一部に過ぎない。これから出てくるのは、“本物”だ」
澪は静かに息を吸い込んだ。彼女の胸には、先ほど影と向き合ったときの記憶がまだ鮮明に残っている。鼓動が早くなっていた。だが、それは恐怖ではなかった。むしろ、高揚感。自分が誰かを“守れる”可能性の中に立っているという、確かな実感。
「ねぇ、新太」澪が呼びかけた。「もし次に、本当に“商売の心”みたいな輝きを奪う存在が来たら……その時、あんたはまた前に立ってくれる?」
「立つさ」新太はためらわずに答えた。「俺は、もう誰かに背中を押されなくても動ける。少しずつだけどな。……ま、そっちは俺が引きずってでも守るけどな」
「冗談でも嬉しいわ」澪が微笑むと、幹太が大げさにため息をついた。「おーい、やめろやめろ、そんな“青春劇場”みたいな空気出すな。こっちは腹も膨れたし、次に向かう準備できてるんだから」
「なら、行こう」日葵が言った。「中央区、日本橋――“潮の珠”を取り戻す旅よ。今度は、海の神に会う番」
その時、不意に境内の奥、石灯籠のあたりから風が吹き抜け、四人の間に小さな紙片が舞い込んできた。誰かの手紙のようでもあり、封印の一部のようでもあった。
幹太がそれを拾い、顔をしかめながら読み上げる。「『汝らが真に輝を集めし時、福は繋がれ、国は蘇る』……って、なんだよ、予言書か?」
「それってたぶん、あちこちの都市に散ってる“輝”のことだよ」澪が真剣な顔で言った。「全部揃えば、もっと大きな何かが動く。……日本を守る“力”が」
新太はその言葉に、軽く頷いた。そして懐の中から「千代田区の輝」を取り出し、その石のような珠を空に掲げた。太陽の光がそれを反射し、まるで千代田全体を照らすような、強い閃光が辺りに広がった。
それは確かに、始まりの光だった。東京の中心に戻った“福”の証。そして、都市を巡る旅の第一歩。次なる目的地――中央区が、待っていた。
【第五十六章「千代田区」終】
【アイテム:札幌市の輝】入手
神田明神の境内では、しんとした空気の中に、重く沈んだ気配が漂っていた。人々の姿はまばらで、招き猫守りの棚にもほこりが積もっている。石段の先に佇む拝殿の扉はぴたりと閉ざされ、まるで神すら言葉を失ったかのようだった。
新太はその石段の下で、手をポケットに突っ込んだまま空を仰いでいた。桜の花びらが一枚、頬に触れてふわりと舞い落ちたが、彼は動かなかった。日葵がその隣に立ち、眉間に皺を寄せて境内を見上げていた。彼女の手には、秋葉原のとある無線パーツ店で手に入れた一枚の紙片が握られている。そこには、古い漢字で「囃子ノ節回シ、石灯籠ニ封ズ」とだけ書かれていた。
「幹太が言ってたわ。あのパーツ屋の爺さん、昔、神田明神の祭礼に出てたんだって。舞と囃子が合わされば、封印が解けるって」
新太は小さく鼻を鳴らした。「そういうの、だいたい嘘か爺の昔語りだろ。でも……今のこの有様見てると、話のひとつやふたつ信じてもいいかって気になるな」
「ずる賢いわね、そういうところ」日葵は皮肉っぽく笑うと、紙片を懐に戻した。「でも、こういうときに動かないと、何も始まらないのよ。限界が来てからじゃ遅いわ」
石灯籠のひとつひとつを丹念に見て回ると、苔の奥に掠れた彫り込みが見えた。幹太が手袋を外してその表面をなぞると、指先にひんやりとした石の感触が伝わってくる。確かに何かが刻まれていた。囃子の一節。それも、神田明神囃子の中でも古来の形式、今では演奏されることもない封印の節回しだった。
「これは……五七五七七じゃない。リズムがずれてる」澪がすぐに気づいた。彼女の感性は、誰よりも囃子に近かった。舞台で舞った経験のある彼女は、石灯籠の並びが譜面のように配置されていることを見抜いた。「待って、この配置……見下ろすと、扇の形になってる」
新太は顎に手を当てて周囲を見回した。「囃子と舞……それをこの配置の上で披露することで、封印が解けるってことか。……でもその舞、誰が知ってるんだ?」
「日比谷公園よ」澪がまっすぐに答える。「あそこ、戦前は能舞台があった場所。昔の舞の所作を再現できる資料が、地下の市政資料館にあるの。私、前に調べたことあるの」
「まじかよ、お前そういうの得意だったっけ?」
「うん。自己表現って、身体の中にあるものを外に出すことでしょう? 舞って、そういうものだと思う」
日比谷公園は、思った以上に人が少なかった。バゲットを焼く香りだけが通りに漂い、広場のベンチには鳩がうずくまっているだけだった。噴水の前に立ち、澪は舞の型を一つ一つ確認しながら手を広げた。風に髪がなびき、足元の芝生がその動きに呼応するように揺れた。
「ここの“拍子”が肝心なの。笛の音と太鼓、それに手拍子。この三つが揃わないと、“呼びの舞”にはならない」
幹太が無言で小型の太鼓を取り出した。秋葉原の中古楽器屋で手に入れたものだ。新太はポケットからリズムシーケンサーを取り出し、それに澪が指示した節回しを打ち込む。
「囃子は準備OK、舞も整った。じゃあ、やるしかねえな。神田明神に戻るぞ」
拝殿の前には、黒い影が立っていた。人とも、獣ともつかないその形は、風が吹くたびに揺らめいて形を変えた。目が合った瞬間、新太の背筋に氷のような冷たさが走った。だが、彼は一歩も引かなかった。
「踊れ」影の声が、どこからともなく響いた。「封ぜられし“商売の心”を望むならば、“囃子”と“舞”で示せ」
囃子が鳴り響く。太鼓の音が山を揺らすように大地に響き、笛が風に乗って流れる。澪の舞が始まると、空気が震えた。手のひら一つ、つま先一つが、神の領域をたぐり寄せる。日葵はその横で節回しの詩を唱え、新太は指先でシーケンサーのテンポを整える。幹太の太鼓は、迷いなく空間を支えた。
そして、影が揺らいだ。
「まだだ」影が呻くように言った。「“舞”だけでは足りぬ。招け、“福”を」
その瞬間、澪が最後の所作を空に掲げ、舞の手振りで“商売呼びの印”を結んだ。途端に空気が反転する。風が逆巻き、拝殿の扉が音を立てて開いた。
中にあったのは、一対の黄金の招き猫。片方の手が上がっているが、その掌に小さな石の珠が埋め込まれている。光が差し、街中に散った商売の気が一気に呼び戻された。
秋葉原の電気街がざわつき、シャッターを閉めていた古書店に再び明かりが灯る。神田明神の境内にも参拝者が戻り、福を招く祭囃子が響き渡った。
新太は石の珠を手に取り、そっと懐にしまった。「これは……“千代田区の輝”だな」
「これで、ひとつの街が戻った」日葵が呟いた。「でも、まだ終わらない。全ての輝きを集めなきゃ、日本は守れない」
「いいじゃねえか、やってやろうぜ」幹太がにやりと笑った。「賑わいを取り戻すのが、俺たちの役目なんだろ?」
「その通り」澪は一歩前に出て、招き猫守りを手に取った。「さあ、次の都市へ」
アイテム:千代田区の輝
新太が「千代田区の輝」を懐に収めた瞬間、境内に集まった人々の顔に、徐々にかつての活気が戻っていくのが分かった。招き猫守りを求める行列が再びでき、参道には屋台の灯がともり、神田明神囃子が本来の節で力強く響きはじめていた。新太は一歩後ろに下がって、拝殿の前で手を合わせる年配の夫婦の姿を見つめた。肩を並べるその姿に、ふと自分の両親の影を重ねたが、次の瞬間には目を逸らしてしまう。今の彼には、そこに目を向ける余裕はなかった。
日葵がそっと肩を叩いた。「戻ってきたね、“商売の心”。あとはこの福を、また根付かせていくだけ」
「根付くかどうかは、あいつら次第さ」新太はそっけなく言ったが、その言葉の端にはどこか優しさがにじんでいた。幹太がそのやり取りを横目に見て、呆れたように鼻を鳴らす。
「素直じゃねぇなぁ、ほんとに。でも、まぁ分かるぜ。お前も少しはこの街に情が湧いてきたんだろ?」
「情っていうより、借りだな」新太は淡々と答える。「ここで世話になったやつらも多い。電子部品一つとっても、あの通りがなきゃ俺たち、ここまで来れてねぇ」
秋葉原電気街の雑多な看板が、次々と再点灯していく。神田明神から下る坂道を歩いていると、至る所で復旧した電子音が溢れ出していた。澪が耳をすませると、街のリズムが心臓の鼓動のように脈打っているのが分かる。
「戻ったんだね、この街の“音”が……」彼女はぽつりと呟いた。「それにしても、囃子の節と舞の構造が、封印の鍵だったなんて……ただの民俗芸能じゃなかったんだ」
「太鼓一つにも意味があるってことさ」幹太は小さく笑いながら、背負っていた小太鼓の紐を外した。「それにしても、よくあんな動き覚えたよな。しかもあの即興で」
「即興じゃないわ」澪は笑って応えた。「ちゃんと予習してたのよ。限界が来る前に、動けるようにしておいた。それだけ」
日比谷公園に着いた頃、陽は高く昇っていた。噴水前ではパン祭りのテントが立ち上がり、早くも焼きあがったバゲットが並べられていた。空腹を訴える幹太の腹の音に、新太がくすりと笑った。
「腹減ってるなら素直に言えよ。なんでお前らはそう、食い意地張ってんだか」
「いや、俺はデータに基づいて食ってるんだ。動けばエネルギーが消費される。補給は理にかなってる」
「屁理屈」日葵が即座に切り捨てると、屋台のパン屋に小走りに向かった。「ちょっと待ってて。ここの“焦がし小麦のバゲット”、絶品なのよ」
幹太が肩をすくめて、「女ってやつは……」と呟くと、澪が隣から冷ややかな声を飛ばした。「今、“女”って括りにしたわね? ちょっとその発言、聞き捨てならないわよ」
「えええっ、まさかそこまで拾われるとは……!」
「そりゃ拾うわよ。自己表現は言葉からって教わったもん」笑顔で返されたその一言に、幹太は黙って両手をあげた。
パンを手に戻ってきた日葵は、紙袋から取り出した温かいバゲットを半分に割り、澪と新太に渡した。「あんたたちも動いたんだから、ちゃんと食べて。それで次に進む準備、整えましょ」
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「……こんなバゲット、久しぶりだな」
その声に、日葵がふと目を伏せた。言葉に出さずとも、彼の過去に何があったのか、それを想像するだけで、胸が少しだけ締めつけられた。だが、彼女はそれ以上踏み込まなかった。新太が話したがるときが来るまで、待つと決めていた。
一通り食べ終えた頃、神田明神から一本の連絡が入った。先ほどの影の精霊――商売の心を封じていた存在が、完全に消滅したわけではないらしい。再封印は成功しているが、もし他の“輝”を持たぬ都市で同じ現象が起きた場合、対処できる者が必要だという。
「つまり、今の俺たちみたいなのが他にも必要ってことだ」幹太が画面を見ながら呟く。
「都市ごとに“輝”があるなら、それを集めて繋げる必要があるのね……一つじゃ足りない」澪が思案するように指を顎に当てた。
「だから、“すべての都市を巡る”って話になるのか」日葵が呟くように言い、そして新太を見た。「行くわよ、次。……次はどこ?」
新太は懐から地図を広げた。真ん中に光を放つ千代田区の印。その周囲に、まだ白く灯りのつかない都市が、いくつも浮かんでいた。新たな目的地は、既に決まっている。
「中央区だ」彼は短く告げた。「築地の魚たちが、鮮度を失ってるって話が入ってきた。たぶん……“潮の珠”が狙われた」
風が吹き抜ける日比谷通りを背に、一行は再び歩き出した。バゲットの温もりがまだ手のひらに残っているうちに。
霞が関の官庁街を抜け、外堀通りに差しかかると、午前の光が皇居の石垣に斜めから降り注ぎ、石と緑の間に繊細な影を描き出していた。新太はその景色を見て立ち止まり、しばし言葉を失った。日葵がその様子に気づき、彼の視線の先を追う。
「この辺り、来たことあるの?」
「ああ……昔な。親父がこの近くで働いてた」新太は視線を落とし、足元の石畳をつま先で蹴った。「たまに昼休みに連れてきてもらってた。今思えば、妙に静かな時間だったな」
「でも、その記憶があるから、今ここに立ってるんじゃない?」日葵はそっと笑みを浮かべて、新太の背中を押した。「過去を捨てるんじゃなくて、ちゃんと背負ってる。そういうの、悪くないと思う」
彼は返事をせず、ただ歩き出した。春の風が背中を押し、皇居の桜並木の下を一行はゆっくりと通り抜けていく。桜の枝が軽やかに揺れ、落ちる花びらがまるで都市の祈りのように、彼らの肩にそっと降り積もった。
北の丸公園に差しかかる頃、幹太が急に立ち止まり、電気街で得た情報の続きを思い出したように口を開いた。「そういえば、無線パーツ屋の親父が言ってた。神田明神の封印が“完全”じゃなかったのは、囃子と舞の他に、“商売の言霊”が失われてたからだって」
「言霊……?」澪が首を傾げる。「それって、商売人たちの想いみたいな?」
「それもあるけど、どうやら“福”を呼ぶための“祝詞”らしい。形式ばったものじゃなくて、江戸時代から伝わる、神田明神囃子の“かけ声”が重要なんだってさ」
「じゃあ、次に備えてそれも身につけなきゃね」日葵が言った。「中央区に行く前に、ちゃんと“心の準備”しないと。また何か来る気がする」
「来るよ。絶対」新太は短く断言し、神田明神の方向を振り返った。「まだ全部、戻ってきたわけじゃない。囃子も舞も通じたけど、今の影は一部に過ぎない。これから出てくるのは、“本物”だ」
澪は静かに息を吸い込んだ。彼女の胸には、先ほど影と向き合ったときの記憶がまだ鮮明に残っている。鼓動が早くなっていた。だが、それは恐怖ではなかった。むしろ、高揚感。自分が誰かを“守れる”可能性の中に立っているという、確かな実感。
「ねぇ、新太」澪が呼びかけた。「もし次に、本当に“商売の心”みたいな輝きを奪う存在が来たら……その時、あんたはまた前に立ってくれる?」
「立つさ」新太はためらわずに答えた。「俺は、もう誰かに背中を押されなくても動ける。少しずつだけどな。……ま、そっちは俺が引きずってでも守るけどな」
「冗談でも嬉しいわ」澪が微笑むと、幹太が大げさにため息をついた。「おーい、やめろやめろ、そんな“青春劇場”みたいな空気出すな。こっちは腹も膨れたし、次に向かう準備できてるんだから」
「なら、行こう」日葵が言った。「中央区、日本橋――“潮の珠”を取り戻す旅よ。今度は、海の神に会う番」
その時、不意に境内の奥、石灯籠のあたりから風が吹き抜け、四人の間に小さな紙片が舞い込んできた。誰かの手紙のようでもあり、封印の一部のようでもあった。
幹太がそれを拾い、顔をしかめながら読み上げる。「『汝らが真に輝を集めし時、福は繋がれ、国は蘇る』……って、なんだよ、予言書か?」
「それってたぶん、あちこちの都市に散ってる“輝”のことだよ」澪が真剣な顔で言った。「全部揃えば、もっと大きな何かが動く。……日本を守る“力”が」
新太はその言葉に、軽く頷いた。そして懐の中から「千代田区の輝」を取り出し、その石のような珠を空に掲げた。太陽の光がそれを反射し、まるで千代田全体を照らすような、強い閃光が辺りに広がった。
それは確かに、始まりの光だった。東京の中心に戻った“福”の証。そして、都市を巡る旅の第一歩。次なる目的地――中央区が、待っていた。
【第五十六章「千代田区」終】
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