瀬戸内の小さな港町で僕らは働く意味を探す――おしごとフェア、青春協奏曲

乾為天女

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【第6話 酒蔵にひそむ百年の知恵】

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 五月中旬、気温が一気に夏めいてきた午後。
 真白町の山間にたたずむ老舗の酒蔵「白杜(はくと)醸造所」には、しっとりとした冷気が漂っていた。分厚い土壁、煤けた梁、そして巨大な杉の樽。時が止まったような空間に、三人の高校生たちが足を踏み入れた。
「……わぁ、空気がちがう」
 先頭に立つ裕香が、小さく息をのむ。ふだんは無口な彼女が思わず声を漏らすほど、その空間には圧倒的な“歴史の重み”があった。
 今日は、ワークショップ計画の一環として、「地域文化としごと」の取材班による酒蔵訪問日だった。メンバーは裕香、悠太、そして勇介の三人。目的は、ただの製造工程の見学ではなく——“伝統の中にある知恵”を探ること。
「お邪魔しまーす! ……あ、あれ? 誰もいない?」
 勇介が少し声を張ったそのとき、奥の障子がすっと開き、作務衣姿の男性が現れた。
「よう来たな。白杜醸造、七代目の白杜清十郎です。まあ、座って冷たい麦茶でも飲んでいきんさい」
 低く落ち着いた声。精悍な顔立ちに、額の皺が深い。だがその目には、どこかいたずら好きな子どものような光も宿っていた。
「どうぞ、よろしくお願いします。私たち、高校のインターンで“地域のしごと”をテーマに活動していて……」
 裕香が丁寧に挨拶をすると、清十郎は「ええよええよ」と笑いながら応接間に案内してくれた。
 蔵の中はひんやりとしていて、外の暑さが嘘のようだった。床には手織りの敷物、壁には歴代の仕込み帳が額装されて飾られている。
「そもそも、酒ってどうやって造るんですか?」
 勇介がストレートに聞くと、清十郎は喉を鳴らして笑った。
「おっ、ええ質問やな。せやけど、まず先に“造る”って言葉について一つ聞いてええか?」
「え? なんすか?」
「酒はな、“作る”もんちゃう。“醸す”もんや」
 ぽかんとする勇介。だが、横にいた悠太がふとつぶやいた。
「……“かもす”って、“育てる”に近い意味ですか?」
「おお、当たりや。“作る”は人間の都合、“醸す”は自然との対話や。菌も水も、天気も、全部が相手や」
 その言葉に、裕香は何かが腑に落ちる感覚を覚えていた。
(ただの製造じゃない。“環境”との共存がこの仕事にはあるんだ)
 ノートに「醸す=自然と対話」「工程=管理ではなく対話」とメモを走らせる。
「あとで蔵、見ていってええよ。ちょっとな、今は米の蒸し上がり待ってるとこやから、20分ほど時間つぶしててな」
「はい!」
 勇介が元気よく返事をする。清十郎が部屋を出ていくと、三人はそっと顔を見合わせた。
「……この人、すごいな」
 と裕香がぽつり。
「うん、なんていうか、知識の伝え方がうまい。ふつう“菌の発酵が~”とか言われてもピンと来ないけど、“自然と会話してる”って表現、なんか残る」
 悠太が静かにうなずく。
「……あと、居心地いいな、この空間」
 裕香が目を伏せて呟いたその言葉には、彼女なりの“感じ取ったもの”が滲んでいた。



 二十分後。白杜清十郎に案内され、三人は土間の奥にある蔵の心臓部へと足を踏み入れた。
 重たい引き戸を開けた瞬間、空気が変わった。
 木と酒の香りが混じった濃密な湿気。天井には大きな梁が何本も交差し、そこから吊るされた照明が、やわらかく床を照らしていた。
 そこには、まるで生き物のように呼吸する巨大な“桶”たちが並んでいた。
「これが……仕込み樽……?」
 裕香の声が自然と小さくなる。
「おう。これは“もろみ”っていって、麹と酵母と蒸米がぜんぶ入ってる状態やな。日によって泡の立ち方も、温度も違う。温度が一度違えば味が変わる。毎朝、目と耳と鼻で確かめて、撹拌(かくはん)する。手ぇ抜けへんで」
「全部……感覚なんですか?」
 悠太が目を見開く。
「せや。数値も見るけど、それは“補助”や。“発酵の音が少し重たい”とか、“香りにトゲが出てきた”とか、そういうとこで異常に気づく」
「すご……生き物みたい……」
 勇介がつぶやいた。
「菌は生きとる。人間の都合で動かん。せやから、よう“子育てに似とる”とも言うな」
 清十郎が笑う。その言葉に、誰もが納得したように黙って頷いた。
   ◆
 次に案内されたのは、“洗い場”と呼ばれる空間だった。
 清潔な水場と木製の台、金属製の蒸し器。そこに一人、若い女性が立って作業をしていた。タオルを頭に巻き、袖をまくって、手際よく道具を洗っている。
「あれ、女性の職人さん?」
 と勇介が驚いて尋ねる。
「ああ。うちの蔵人(くらびと)は、今は半分が女性や。昔は“女人禁制”やったけど、今は考え方も変わってきとる。“丁寧な手しごと”ができる人間が必要なんや、性別は関係ない」
 清十郎の言葉に、裕香の目がわずかに輝く。
「……素敵だと思います」
「おっ、うれしいこと言うなあ。せやけど、この仕事、なかなか報われへんで。“華やか”とちゃう。“地味で、くさい仕事”の連続や。手も荒れるし、朝も早い。せやけどな……“味”で返ってくる」
「味で、返ってくる……」
 悠太がその言葉をメモ帳に書き留める。
 清十郎は笑いながら、ふいに質問を投げた。
「ところでお前ら、“継ぐ”ってどう思う?」
 唐突な問いだった。三人は一瞬、言葉を失う。
 清十郎は、笑みを崩さずに続ける。
「今、うちの後継ぎ、おらへんねん。“継ぎたくない”って言われてもうた。まあ、わかっとる。楽な道やない。儲からへんし、土日もない。せやけど……“百年の知恵”が消えてまうんは、やっぱり、さみしいもんやな」
 重い沈黙が落ちた。
 だが、それは悲しみではなく——“託された問い”だった。
 それぞれの胸に、別々のかたちで残る問いだった。
(“継ぐ”ってことには、“選ぶ”以上の意味があるんだ)
 裕香は、しっかりとメモを握りしめた。



 見学の帰り道、山を下る細い舗装路を三人で歩いていた。
 初夏の風はやや湿り気を帯びていたが、酒蔵のひんやりとした空気がまだどこか肌に残っているようだった。
「……すごかったね」
 裕香がぽつりと言った。誰も返事をしなかったが、否定もされなかった。
 清十郎が残していった“継ぐということ”の問いは、あまりに重く、すぐには飲み込めなかった。
「“伝統を守る”って、かっこよく聞こえるけど、あれ、めちゃくちゃ大変だよね。やる気とか情熱とか、そういうのだけじゃ続かない」
 勇介の言葉に、悠太が頷く。
「うん。でも、“続ける仕組み”を作らないと、どれだけ誇りがあっても、消えてしまう。“好き”と“責任”だけで持たせるのは、限界があるから」
「じゃあ、私たちはどうしたらいいんだろう」
 裕香が思わずそう口にした。
「“継がない選択”をした清十郎さんの息子さんを責めることなんて、できないよ。夢だってあるだろうし」
 その言葉に、しばし沈黙が落ちた。
 だが、数歩進んだあとで、悠太が小さく言った。
「……継がなくても、“伝える”ことはできる」
「え?」
「僕たち、今、それをやってる。酒造りっていう、知らなかった世界を見て、“これは残るべき価値がある”って思った。だったら、それをちゃんと“伝える”。自分が職人にならなくても、“誰かが興味を持つきっかけ”を作ることはできる」
 その言葉に、裕香がはっとした顔をした。
 そして、ゆっくりと笑った。
「そっか。そっか、そうだよね。誰かの仕事を、次に伝える。それも一つの“つなぐしごと”なんだ」
「……それ、“しごとパーク”の中核メッセージに使えるんじゃないか?」
 勇介が口を挟む。
「たとえば、町の職人さんや技術者さんに取材して、それを“子ども向けパネル”にして展示する。読み物とか、イラストでもいい」
「“伝え方”をデザインする仕事……いいな、それ」
 悠太が静かにうなずいた。
 そのとき、裕香がメモ帳にこう書きつけた。
「“目に見えない技術は、言葉でつないで残す”」
 それは、今日の学びの核心だった。
   ◆
 翌週の放課後。
 図書館の一角で、視察班ごとの成果共有ミーティングが開かれた。造船所チーム、診療所チームに続いて、酒蔵チームがレポートを披露する番になった。
「私たちが訪れたのは、町の山あいにある白杜醸造所。百年以上続く老舗の酒蔵です」
 裕香が淡々と、しかし丁寧に語り始めた。
「印象的だったのは、“酒は造るんじゃなくて醸すものだ”という言葉でした。自然の力と対話する——つまり、人間が完全にコントロールできるわけじゃない。その中で、職人さんは“感覚”を鍛えて、日々向き合っていました」
「また、“継ぐことの難しさ”にも触れました。現在、蔵元には後継者がいないそうです。でも、“自分が継がなくても、価値を伝えることはできる”と気づきました」
 その言葉に、会場は静かになった。
 蒼馬が手を止めて、まっすぐ裕香を見ていた。
「だから私たちは、酒造りの現場を“言葉と図解”で紹介する“しごとカード”を作ります。“働くことの奥にある想い”が、次の誰かに届くように」
 菜央が、そっと微笑んだ。
「ありがとう、裕香さん。素晴らしい視点だと思います。“継がない”ことをネガティブにせず、“伝える”という希望に変える。私たちができる“おしごと”のかたちですね」
   ◆
 その日の帰り道。夕暮れのグラウンドを横切るなか、蒼馬がぼそっと呟いた。
「……酒って、興味なかったけど、今日の話は刺さった」
「へぇ、蒼馬が“刺さった”とか言うんだ」
 勇介がすかさず突っ込みを入れる。
「うるさい。“職人の判断は数値じゃなく感覚”って言葉が、造船所の榊原さんと重なっただけだ」
「それ、ちゃんと伝えた方がいいよ。案外、そういう“つながり”が、企画書の中で効いてくるから」
 菜央の声に、蒼馬はうなずいた。
「……わかってる。“つなぐ”が、テーマなんだろ」
——第6話・了(End)
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