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第3話 初仕事は王妃の茶会
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昼前の陽苑の厨房は、湯気と声と足音でむせ返りそうだった。大鍋の蓋が次々と持ち上げられ、湯気が白い帯になって天井へ逃げていく。刻まれた野菜の山がまな板の上で待ち、火にかけられた鉄鍋が「コトコト」と落ち着いた音を立てている。
入口近くに立つ晴矢は、湯気の向こう側を見渡しながら、自分の胸の鼓動も一緒に数えていた。腕まくりをした女たちが忙しなく動き回り、器を拭き、薬味を刻み、張り詰めた空気を笑い声でやわらげている。どこか村の祭り前日の台所にも似ているのに、見慣れない布や食器、衣装の色が、ここがまったく別の場所だと教えてくる。
「そこの、山の坊や」
鋭い声に振り向くと、頭に布をきっちり巻いた年配の女が、両手を腰に当てて立っていた。昨日、荷車を受け取ってくれた陽苑のまとめ役だ。女は薄く笑い、フライパンの柄で棚を「コン」と叩く。
「ぼんやり突っ立ってたら、湯気に飲まれて消えちまうよ。今日の午後、誰のために料理を作るか、もう聞いたかい?」
「王妃さまの、茶会だと」
「そう、その茶会さ。名はお咲、この厨房を預かってる。あんたには、そこで出す軽い一品を任せる。できるね?」
いきなり「任せる」と言われ、晴矢の喉がひゅっと鳴った。お咲はその様子を見逃さず、片眉を上げる。
「怖いなら、怖いって言っときな。無理に背伸びさせたって、焦げた料理は誰の口にも入らない」
「怖いのは……少しだけです。でも、任された以上はやります」
返し終わる前に、自分の声が少し上ずっているのがわかった。お咲はふっと口角を上げる。
「よし。素直な奴は伸びる。今日の茶会は、王妃さまと、王族の方が数人。それから招かれた奥方衆が十人ほど。甘い菓子は別棟から運ばれてくるから、うちの担当は軽い塩気と温かいもの。もともとは、野菜のキッシュを小さく切って出すつもりだったんだけどね」
「だった、んですか?」
「ああ、『だった』だよ」
そこへ、裏口から大きな木箱が運び込まれてきた。かごを抱えたみうが、その後ろから小走りでついてくる。
「お咲さん、納品の野菜が来ました。伝票も確認済みです」
「よし、箱を開けて……って、ちょっと待ちな」
お咲が鼻をひくつかせた。木箱の隙間から漂ってくる匂いに、晴矢も首をかしげる。確かに、土と青い葉の匂いに、何か別の湿った匂いが混ざっていた。
箱の蓋が外されると、そこには色鮮やかな葉物と一緒に、ところどころ茶色く変色した茎が広がっていた。底のほうの葉は、触れる前からしなだれている。
「……雨の中を運ばせたのかい」
お咲が低くつぶやく。みうが慌てて箱の下をのぞき込み、びしょ濡れになった藁を確かめた。
「伝令によると、途中でにわか雨に追いつかれたみたいで……。布はかけてあったと言ってましたけど」
「こんなの、王妃さまの前には出せないわよ」
近くにいた奈津海が、洗ったばかりの布巾をぶら下げたまま顔をしかめる。周囲の女官たちもざわめき、キッシュ用に用意されていた生地をちらりと見やる。
「どうするんですか。もう昼前ですし、他の棟から分けてもらうにしても……」
「それに、運んできた人たち、かなり濡れてました。今からまた走らせたら倒れちゃいますよ」
みうの言葉に、お咲は腕を組んだ。額に刻まれた皺が深くなる。その横で、晴矢は箱の中に手を差し入れ、一枚一枚葉を持ち上げた。
「全部が駄目ってわけじゃありません。上のほうはまだ張りがあります。傷んでいるのは、濡れた箱の底に近いところだけです」
「だからって、予定通りキッシュが作れると思うのかい?」
「いいえ」
即座に答えると、お咲の視線が少しだけ鋭さを増した。けれど晴矢は、その視線から逃げなかった。
「時間も足りません。オーブンで焼く料理は、他の準備と重なります。だったら、火の上だけで完結するものに変えたほうがいい」
「火の上だけ?」
「温かいスープにします」
厨房のざわめきが、一瞬だけ止まった気がした。奈津海が思わず布巾を握り直し、みうが目を丸くする。
「スープ?」
「はい。傷んだところを除いて、使える葉や茎を細かく刻んで、乾物と一緒に煮込みます。菜園の端に残っていた根菜も、皮を厚めにむけば十分使えます。パンは薄く切って、油と塩をまぶして焼いて、浮き身にすれば……」
「待った待った、全部一気にしゃべらないで」
お咲が片手を上げて遮った。だが、その口元には興味の色が混じり始めている。
「乾物って言ったね。何を使うつもりだい」
「豆と、麦です。王都の料理学校で教わったスープがあって、村でも真似して作っていました。豆と麦、野菜の端切れを一緒に煮て、最後に香草を散らします。軽いけれど、身体の中から温まるので、長く座る茶会には合うと思います」
みうが手に持っていたかごをぎゅっと抱きしめた。
「香草なら、さっき菜園から少し多めに摘んできました。もったいない組も、まだ大丈夫そうなところが残ってるので」
「もったいない組?」
「昨日、そう呼ぶことにしたんです。見た目は少し悪くても、工夫すれば使える葉っぱたちのこと」
晴矢が補足すると、お咲は思わず吹き出した。
「もったいない組、ね。あんたたち、朝から面白いこと言うじゃないの。……豆と麦と野菜のスープ、か」
お咲は軽く顎に手を当て、棚の上段を見上げた。
「乾物庫に、たしか去年の秋に仕入れた小粒豆が残ってたはずだよ。麦も少し。あれを使うなら、焦がさないように炒めてから水を入れるんだよ?」
「はい」
「ただし、味がぼやけたスープを王妃さまに出したら、陽苑ごと笑われる。塩加減と香草の香りで勝負しな。……みう、奈津海」
「はい!」
「はい?」
突然名前を呼ばれ、奈津海の声にはわずかな引きつりが混じった。お咲は指先で二人を指し示す。
「みうは乾物庫と菜園。豆と麦、香草、それから使えそうな根菜を晴矢と相談して拾ってきな。奈津海は器と配膳。手持ちの器で一番口当たりの良いものを選んで、茶会会場の配置も見てきな」
「配置……」
「どこに誰が座るかで、運び方も変わるだろ。あんた、そういうの覚えるの早いじゃないか」
奈津海は一瞬驚いた顔をしたあと、そっと視線をそらした。
「……わかりました。最悪にならないように、見てきます」
「最悪になりそうなら、戻ってきてから文句を言いな。ほら、早く」
お咲の声に押されるように、みうと奈津海はそれぞれ走り出した。厨房に再びざわめきが戻る中、お咲は鍋の蓋を一つ持ち上げ、湯気越しに晴矢を見た。
「よし、山の坊や。王妃さまの茶会に出すスープ、あんたの指示で動いてごらん。責任は……半分、わたしが取ってやる」
「半分は自分で取る、ということですね」
「そういうこと」
その言葉を聞いた瞬間、晴矢の胸の奥で何かがカチリと鳴った。村で祖父に初めて大鍋を任された日のことが、土と火の匂いと一緒によみがえる。あの時も、「焦がしたら自分で食え」と笑われたのだ。
乾物庫に向かう途中、厨房の出入口で愛祈とすれ違った。鎧を軽装に替えた彼は、珍しく急いだ足取りで中をのぞき込む。
「なんだ、ここも騒がしいな。王妃さまのお出まし前に、警備の確認をしに来たんだが」
「ちょうどよかったです。大鍋を会場の近くまで運ぶ時、手が足りなくなるかもしれません」
「初対面の時から、よく人をこき使う奴だな、お前は」
愛祈はそう言いつつ、口元には笑みを浮かべていた。
「いいぞ。王妃さまが顔をしかめるようなことになったら、警備隊の面目も丸つぶれだ。運ぶくらいなら手伝ってやる」
「ありがとうございます。助かります」
自然にその言葉が出た自分に、晴矢は少し驚いた。誰かに「助かります」と言われることは多かったが、自分から口に出したのは久しぶりだ。
それからの一刻は、時間が溶けるように過ぎていった。豆と麦を洗って水気を切り、鍋でじっくりと炒める。香ばしい匂いが立ちのぼるところへ、刻んだ野菜の端を加え、菜園から戻ってきたみうが、抱えてきた香草をテーブルに並べる。
「どの香りを強くしたいですか?」
「茶会だから、香りが強すぎないほうがいい。けれど、最後に口の中に柔らかく残るものがいいから……」
晴矢は指先に香草を少しずつこすりつけ、鼻先で香りを確かめた。まっすぐな香りのもの、甘みのあるもの、土を思わせる深い香りのもの。その中から、三つを選ぶ。
「この葉を少し多めに。あとは、飾りにも使える柔らかい部分を残しておきましょう」
「はいっ」
みうはうれしそうに返事をし、小さな束をこしらえていく。その隣で、奈津海が息を弾ませながら戻ってきた。
「器の準備、できました。会場は王妃さまの席を少し高くして、周りに円を描くように椅子が並んでます。入口から近い席に、急な来客用の座席も……。あ、スープは入口側から運んだほうが安全そうです」
「よく見てきたね」
お咲の素直な言葉に、奈津海は一瞬きょとんとした顔をしたあと、照れくさそうに視線を畳の目に落とした。
「最悪の動線は頭の中で考えました。ぶつかってこぼすとか、誰かの裾を踏むとか。でも、その逆をたどれば、少しはましになるかなと思って」
「その考え方、悪くないよ」
お咲は手元の味見用の小皿を取り上げ、鍋から一さじだけすくって奈津海に渡した。
「試しに飲みな。あんたが『最悪じゃない』って顔をしたら、王妃さまに出してもいいことにする」
「いきなりそんな重要な……」
ブツブツ言いながらも、奈津海はスープを口に運んだ。しばらく黙って味わい、舌の上で何度か転がす。それから、小さく息を吐いた。
「……あったかい。塩も、ちょうどいいです。これなら、長く座っててもお腹が空きすぎなくて済みそう」
「よし、合格だ」
お咲は満足げに頷き、晴矢にもひと口分をよこした。湯気の向こうから立ちのぼる香りは、豆と麦の素朴さに、香草のかすかな甘みが重なっている。口に含むと、最初に塩が少しだけ舌を刺し、そのあとでじんわりと温かさが広がった。
「……村で作っていたのより、ずっと豊かな味がします」
「ここは王宮だからね。いい塩と香草を使ってるんだよ。さあ、あとは焦がさずに保温して、茶会の時刻を待つだけだ」
やがて、愛祈が警備隊の若い隊員を連れて戻ってきた。二人がかりで大鍋を持ち上げ、奈津海が先導して会場へと向かう。その後ろを、スープの香りに包まれながら、みうと他の女官たちが器を抱えて続いた。
晴矢は、会場の入り口から少し離れたところで立ち止まり、内側の様子をちらりと見た。日差しの差し込む広間には、薄い色の絨毯が敷かれ、王妃さまが中央の席に座っている。その横顔は穏やかで、周囲の笑い声に時折柔らかく頷いていた。
「おい、覗きすぎるなよ」
背後からささやく声がして振り向くと、愛祈が苦笑していた。
「警備の目をごまかすのは、まだ早い」
「ごまかすつもりはありません。ただ……」
「自分の作ったものが、どんな顔で食べられてるか、気になるんだろ」
図星を指され、晴矢は言葉に詰まった。愛祈は肩をすくめる。
「わかるさ。剣の稽古だって同じだ。自分の動きが人にどう届いてるか、見たくなる。……ほら」
ちょうどそのとき、王妃さまの前に、最初のスープが置かれた。湯気が器の縁から立ちのぼり、香草が小さな影を落とす。王妃さまはひと息香りを吸い込むと、ゆっくりと口元へ運んだ。
ひと口、ふた口。王妃さまの表情がほんの少しだけ緩み、侍女と思しき女性が耳元で何かをたずねる。その答えを聞いた侍女が、すっと立ち上がり、出入口近くまで歩いてきた。
「陽苑の厨房に伝えてください」と、彼女は側にいた女官に静かに告げた。
「『また、あの味を』と」
その言葉が、廊下まで届いた。晴矢は思わず息を止める。隣で愛祈が、小さく口笛を吹いた。
「やったな。初仕事で、王妃さまからおかわりの要請だ」
「まだ、おかわりと決まったわけじゃ……」
「『また』って言葉は、次を望まれてるってことだろ」
愛祈の言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。村の祭りで鍋を空にした子どもたちの顔が、王妃さまの柔らかな笑みと重なる。
厨房に戻ると、お咲が腕を組んで待ち構えていた。
「で、どうだった?」
「……『また、あの味を』と」
そう告げると、お咲は目を細め、大きく息を吐いた。
「ふん。少し塩を減らしてもよかったかもしれないけど、悪くなかったってことだね。よし、山の坊や。今日のスープは、陽苑の看板の一つにしてやろうじゃないの」
「看板、ですか」
「そうさ。これから何度も作るんだよ。季節ごとに野菜を変えてね。王妃さまが『また』と言うたびに、あんたも少しずつ腕を上げればいい」
みうが、横でうれしそうに手を合わせた。
「『また』って言われるの、いいですね。おかわりみたいで」
「おかわり、か」
奈津海も、いつのまにか近くに来ていた。布巾で器を拭きながら、小さく笑う。
「さっきまで最悪のことばっかり考えてたけど、こういう『また』なら、何度あってもいいかもしれない」
湯気の残る厨房で、誰かがふっと笑い、誰かが肩を軽くぶつけてくる。その感触のひとつひとつが、晴矢の身体にゆっくりと馴染んでいった。
こうして、晴矢の初仕事は、緊張と笑いと「また」という言葉に包まれながら静かに幕を閉じた。けれど、それは陽苑の台所が、これから動き出していくための、ほんの始まりにすぎなかった。
入口近くに立つ晴矢は、湯気の向こう側を見渡しながら、自分の胸の鼓動も一緒に数えていた。腕まくりをした女たちが忙しなく動き回り、器を拭き、薬味を刻み、張り詰めた空気を笑い声でやわらげている。どこか村の祭り前日の台所にも似ているのに、見慣れない布や食器、衣装の色が、ここがまったく別の場所だと教えてくる。
「そこの、山の坊や」
鋭い声に振り向くと、頭に布をきっちり巻いた年配の女が、両手を腰に当てて立っていた。昨日、荷車を受け取ってくれた陽苑のまとめ役だ。女は薄く笑い、フライパンの柄で棚を「コン」と叩く。
「ぼんやり突っ立ってたら、湯気に飲まれて消えちまうよ。今日の午後、誰のために料理を作るか、もう聞いたかい?」
「王妃さまの、茶会だと」
「そう、その茶会さ。名はお咲、この厨房を預かってる。あんたには、そこで出す軽い一品を任せる。できるね?」
いきなり「任せる」と言われ、晴矢の喉がひゅっと鳴った。お咲はその様子を見逃さず、片眉を上げる。
「怖いなら、怖いって言っときな。無理に背伸びさせたって、焦げた料理は誰の口にも入らない」
「怖いのは……少しだけです。でも、任された以上はやります」
返し終わる前に、自分の声が少し上ずっているのがわかった。お咲はふっと口角を上げる。
「よし。素直な奴は伸びる。今日の茶会は、王妃さまと、王族の方が数人。それから招かれた奥方衆が十人ほど。甘い菓子は別棟から運ばれてくるから、うちの担当は軽い塩気と温かいもの。もともとは、野菜のキッシュを小さく切って出すつもりだったんだけどね」
「だった、んですか?」
「ああ、『だった』だよ」
そこへ、裏口から大きな木箱が運び込まれてきた。かごを抱えたみうが、その後ろから小走りでついてくる。
「お咲さん、納品の野菜が来ました。伝票も確認済みです」
「よし、箱を開けて……って、ちょっと待ちな」
お咲が鼻をひくつかせた。木箱の隙間から漂ってくる匂いに、晴矢も首をかしげる。確かに、土と青い葉の匂いに、何か別の湿った匂いが混ざっていた。
箱の蓋が外されると、そこには色鮮やかな葉物と一緒に、ところどころ茶色く変色した茎が広がっていた。底のほうの葉は、触れる前からしなだれている。
「……雨の中を運ばせたのかい」
お咲が低くつぶやく。みうが慌てて箱の下をのぞき込み、びしょ濡れになった藁を確かめた。
「伝令によると、途中でにわか雨に追いつかれたみたいで……。布はかけてあったと言ってましたけど」
「こんなの、王妃さまの前には出せないわよ」
近くにいた奈津海が、洗ったばかりの布巾をぶら下げたまま顔をしかめる。周囲の女官たちもざわめき、キッシュ用に用意されていた生地をちらりと見やる。
「どうするんですか。もう昼前ですし、他の棟から分けてもらうにしても……」
「それに、運んできた人たち、かなり濡れてました。今からまた走らせたら倒れちゃいますよ」
みうの言葉に、お咲は腕を組んだ。額に刻まれた皺が深くなる。その横で、晴矢は箱の中に手を差し入れ、一枚一枚葉を持ち上げた。
「全部が駄目ってわけじゃありません。上のほうはまだ張りがあります。傷んでいるのは、濡れた箱の底に近いところだけです」
「だからって、予定通りキッシュが作れると思うのかい?」
「いいえ」
即座に答えると、お咲の視線が少しだけ鋭さを増した。けれど晴矢は、その視線から逃げなかった。
「時間も足りません。オーブンで焼く料理は、他の準備と重なります。だったら、火の上だけで完結するものに変えたほうがいい」
「火の上だけ?」
「温かいスープにします」
厨房のざわめきが、一瞬だけ止まった気がした。奈津海が思わず布巾を握り直し、みうが目を丸くする。
「スープ?」
「はい。傷んだところを除いて、使える葉や茎を細かく刻んで、乾物と一緒に煮込みます。菜園の端に残っていた根菜も、皮を厚めにむけば十分使えます。パンは薄く切って、油と塩をまぶして焼いて、浮き身にすれば……」
「待った待った、全部一気にしゃべらないで」
お咲が片手を上げて遮った。だが、その口元には興味の色が混じり始めている。
「乾物って言ったね。何を使うつもりだい」
「豆と、麦です。王都の料理学校で教わったスープがあって、村でも真似して作っていました。豆と麦、野菜の端切れを一緒に煮て、最後に香草を散らします。軽いけれど、身体の中から温まるので、長く座る茶会には合うと思います」
みうが手に持っていたかごをぎゅっと抱きしめた。
「香草なら、さっき菜園から少し多めに摘んできました。もったいない組も、まだ大丈夫そうなところが残ってるので」
「もったいない組?」
「昨日、そう呼ぶことにしたんです。見た目は少し悪くても、工夫すれば使える葉っぱたちのこと」
晴矢が補足すると、お咲は思わず吹き出した。
「もったいない組、ね。あんたたち、朝から面白いこと言うじゃないの。……豆と麦と野菜のスープ、か」
お咲は軽く顎に手を当て、棚の上段を見上げた。
「乾物庫に、たしか去年の秋に仕入れた小粒豆が残ってたはずだよ。麦も少し。あれを使うなら、焦がさないように炒めてから水を入れるんだよ?」
「はい」
「ただし、味がぼやけたスープを王妃さまに出したら、陽苑ごと笑われる。塩加減と香草の香りで勝負しな。……みう、奈津海」
「はい!」
「はい?」
突然名前を呼ばれ、奈津海の声にはわずかな引きつりが混じった。お咲は指先で二人を指し示す。
「みうは乾物庫と菜園。豆と麦、香草、それから使えそうな根菜を晴矢と相談して拾ってきな。奈津海は器と配膳。手持ちの器で一番口当たりの良いものを選んで、茶会会場の配置も見てきな」
「配置……」
「どこに誰が座るかで、運び方も変わるだろ。あんた、そういうの覚えるの早いじゃないか」
奈津海は一瞬驚いた顔をしたあと、そっと視線をそらした。
「……わかりました。最悪にならないように、見てきます」
「最悪になりそうなら、戻ってきてから文句を言いな。ほら、早く」
お咲の声に押されるように、みうと奈津海はそれぞれ走り出した。厨房に再びざわめきが戻る中、お咲は鍋の蓋を一つ持ち上げ、湯気越しに晴矢を見た。
「よし、山の坊や。王妃さまの茶会に出すスープ、あんたの指示で動いてごらん。責任は……半分、わたしが取ってやる」
「半分は自分で取る、ということですね」
「そういうこと」
その言葉を聞いた瞬間、晴矢の胸の奥で何かがカチリと鳴った。村で祖父に初めて大鍋を任された日のことが、土と火の匂いと一緒によみがえる。あの時も、「焦がしたら自分で食え」と笑われたのだ。
乾物庫に向かう途中、厨房の出入口で愛祈とすれ違った。鎧を軽装に替えた彼は、珍しく急いだ足取りで中をのぞき込む。
「なんだ、ここも騒がしいな。王妃さまのお出まし前に、警備の確認をしに来たんだが」
「ちょうどよかったです。大鍋を会場の近くまで運ぶ時、手が足りなくなるかもしれません」
「初対面の時から、よく人をこき使う奴だな、お前は」
愛祈はそう言いつつ、口元には笑みを浮かべていた。
「いいぞ。王妃さまが顔をしかめるようなことになったら、警備隊の面目も丸つぶれだ。運ぶくらいなら手伝ってやる」
「ありがとうございます。助かります」
自然にその言葉が出た自分に、晴矢は少し驚いた。誰かに「助かります」と言われることは多かったが、自分から口に出したのは久しぶりだ。
それからの一刻は、時間が溶けるように過ぎていった。豆と麦を洗って水気を切り、鍋でじっくりと炒める。香ばしい匂いが立ちのぼるところへ、刻んだ野菜の端を加え、菜園から戻ってきたみうが、抱えてきた香草をテーブルに並べる。
「どの香りを強くしたいですか?」
「茶会だから、香りが強すぎないほうがいい。けれど、最後に口の中に柔らかく残るものがいいから……」
晴矢は指先に香草を少しずつこすりつけ、鼻先で香りを確かめた。まっすぐな香りのもの、甘みのあるもの、土を思わせる深い香りのもの。その中から、三つを選ぶ。
「この葉を少し多めに。あとは、飾りにも使える柔らかい部分を残しておきましょう」
「はいっ」
みうはうれしそうに返事をし、小さな束をこしらえていく。その隣で、奈津海が息を弾ませながら戻ってきた。
「器の準備、できました。会場は王妃さまの席を少し高くして、周りに円を描くように椅子が並んでます。入口から近い席に、急な来客用の座席も……。あ、スープは入口側から運んだほうが安全そうです」
「よく見てきたね」
お咲の素直な言葉に、奈津海は一瞬きょとんとした顔をしたあと、照れくさそうに視線を畳の目に落とした。
「最悪の動線は頭の中で考えました。ぶつかってこぼすとか、誰かの裾を踏むとか。でも、その逆をたどれば、少しはましになるかなと思って」
「その考え方、悪くないよ」
お咲は手元の味見用の小皿を取り上げ、鍋から一さじだけすくって奈津海に渡した。
「試しに飲みな。あんたが『最悪じゃない』って顔をしたら、王妃さまに出してもいいことにする」
「いきなりそんな重要な……」
ブツブツ言いながらも、奈津海はスープを口に運んだ。しばらく黙って味わい、舌の上で何度か転がす。それから、小さく息を吐いた。
「……あったかい。塩も、ちょうどいいです。これなら、長く座っててもお腹が空きすぎなくて済みそう」
「よし、合格だ」
お咲は満足げに頷き、晴矢にもひと口分をよこした。湯気の向こうから立ちのぼる香りは、豆と麦の素朴さに、香草のかすかな甘みが重なっている。口に含むと、最初に塩が少しだけ舌を刺し、そのあとでじんわりと温かさが広がった。
「……村で作っていたのより、ずっと豊かな味がします」
「ここは王宮だからね。いい塩と香草を使ってるんだよ。さあ、あとは焦がさずに保温して、茶会の時刻を待つだけだ」
やがて、愛祈が警備隊の若い隊員を連れて戻ってきた。二人がかりで大鍋を持ち上げ、奈津海が先導して会場へと向かう。その後ろを、スープの香りに包まれながら、みうと他の女官たちが器を抱えて続いた。
晴矢は、会場の入り口から少し離れたところで立ち止まり、内側の様子をちらりと見た。日差しの差し込む広間には、薄い色の絨毯が敷かれ、王妃さまが中央の席に座っている。その横顔は穏やかで、周囲の笑い声に時折柔らかく頷いていた。
「おい、覗きすぎるなよ」
背後からささやく声がして振り向くと、愛祈が苦笑していた。
「警備の目をごまかすのは、まだ早い」
「ごまかすつもりはありません。ただ……」
「自分の作ったものが、どんな顔で食べられてるか、気になるんだろ」
図星を指され、晴矢は言葉に詰まった。愛祈は肩をすくめる。
「わかるさ。剣の稽古だって同じだ。自分の動きが人にどう届いてるか、見たくなる。……ほら」
ちょうどそのとき、王妃さまの前に、最初のスープが置かれた。湯気が器の縁から立ちのぼり、香草が小さな影を落とす。王妃さまはひと息香りを吸い込むと、ゆっくりと口元へ運んだ。
ひと口、ふた口。王妃さまの表情がほんの少しだけ緩み、侍女と思しき女性が耳元で何かをたずねる。その答えを聞いた侍女が、すっと立ち上がり、出入口近くまで歩いてきた。
「陽苑の厨房に伝えてください」と、彼女は側にいた女官に静かに告げた。
「『また、あの味を』と」
その言葉が、廊下まで届いた。晴矢は思わず息を止める。隣で愛祈が、小さく口笛を吹いた。
「やったな。初仕事で、王妃さまからおかわりの要請だ」
「まだ、おかわりと決まったわけじゃ……」
「『また』って言葉は、次を望まれてるってことだろ」
愛祈の言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。村の祭りで鍋を空にした子どもたちの顔が、王妃さまの柔らかな笑みと重なる。
厨房に戻ると、お咲が腕を組んで待ち構えていた。
「で、どうだった?」
「……『また、あの味を』と」
そう告げると、お咲は目を細め、大きく息を吐いた。
「ふん。少し塩を減らしてもよかったかもしれないけど、悪くなかったってことだね。よし、山の坊や。今日のスープは、陽苑の看板の一つにしてやろうじゃないの」
「看板、ですか」
「そうさ。これから何度も作るんだよ。季節ごとに野菜を変えてね。王妃さまが『また』と言うたびに、あんたも少しずつ腕を上げればいい」
みうが、横でうれしそうに手を合わせた。
「『また』って言われるの、いいですね。おかわりみたいで」
「おかわり、か」
奈津海も、いつのまにか近くに来ていた。布巾で器を拭きながら、小さく笑う。
「さっきまで最悪のことばっかり考えてたけど、こういう『また』なら、何度あってもいいかもしれない」
湯気の残る厨房で、誰かがふっと笑い、誰かが肩を軽くぶつけてくる。その感触のひとつひとつが、晴矢の身体にゆっくりと馴染んでいった。
こうして、晴矢の初仕事は、緊張と笑いと「また」という言葉に包まれながら静かに幕を閉じた。けれど、それは陽苑の台所が、これから動き出していくための、ほんの始まりにすぎなかった。
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