1 / 40
第1話 シャッターの鍵が回る朝
しおりを挟む
シャッターは、思っていたよりずっと重かった。
星見商店街のいちばん端。まだ朝の空気が冷たい時間帯に、悠之介は両手で古い取っ手をつかんでいた。金属の表面に指先がひやりと吸い付く。何度か力を込めると、長いあいだ眠っていた鉄の板が、ぎい、と鈍い声を上げた。
「……おはよう」
誰にともなくそうつぶやいてから、ゆっくりとシャッターを持ち上げる。積もった埃が、逆光の中で細かく舞い上がり、喉の奥をくすぐった。
中は、想像通りの薄暗さだった。ガラスケースの向こう側で、色あせたペンの箱がうつむいている。棚には古びたノートがぎっしり並んでいて、その背表紙をなぞるように白い埃の筋が走っていた。
悠之介は玄関に鍵をかけ直すと、モップと雑巾を手に取った。
まず、床。端から端まで、同じ幅で、同じ順番で。モップを押し出しながら、靴音が一定のリズムで店内に響く。ふと、昨日までいたオフィスのフロアを思い出し、肩のあたりがむずがゆくなった。
そこでは誰かの足音は、いつも急いでいて、いつも電話とセットだった。
ここには電話の呼び出し音も、会議の開始を告げるチャイムもない。あるのは、モップが床をこする、しゃりしゃりという音と、自分の呼吸だけだ。
悠之介はその静けさを、胸の奥にゆっくり吸い込んだ。
床を終えると、次は棚。濡らした雑巾を固く絞って、手前から奥へと順番に。ノートの列の高さを目で揃え、箱の向きを一つずつ正面に合わせる。誰も見ていないところで、背表紙がきちんと並んでいると落ち着くのは、昔から変わらない癖だった。
カウンターの奥の、小さな引き出しを開けると、そこだけは時間が止まったようだった。
針の止まった腕時計、折り畳まれたままの老眼鏡。黄ばんだ領収書。祖父の名前が残っているそれらを、悠之介は一度すべて取り出し、机の上に並べた。並べ方に迷って、結局、日付の古い順に整列させる。
最後に、帳簿。
分厚い背表紙を両手で持ち上げると、紙の束がずしりと腕にかかった。ぱらぱらとめくれば、万年筆のインクが、年ごとに少しずつ色を変えている。黒に近い紺から、柔らかい青へ、そしてまた濃い筆致へ。
平成十七年で、数字は途切れていた。
「……ここで、止まってるのか」
小さく言葉が漏れる。祖父が倒れた年と同じだ、と気づいた瞬間、指先がほんの少しだけ震えた。
悠之介は椅子に腰を下ろし、帳簿の最後のページに、新しいボールペンで線を引いた。祖父の文字に続く行に、日付を書き込む。
二〇二五年四月一日。
まだ何の数字もない行が、真っ白なままそこにある。
埋めるかどうかは、自分が決めることだ。
そう思った途端、胸の奥に、会社を辞めるときに感じたあの妙な軽さと、足元がぐらりとするような不安が同時によみがえった。上司の机の前に退職届を置いた時も、こんなふうに手の中が空っぽになる感覚があった気がする。
カウンターの上に、祖父の形見の鍵束が置いてある。その中で一番小さな鍵――店の裏口のもの――を指先でくるくる回しながら、悠之介は深く息を吐いた。
「……やるって、言ったんだしな」
誰に向かってともなくつぶやいてから、彼は立ち上がる。入り口のガラス戸に貼られた、色あせた「閉店」の札を外し、新しい紙を一枚取り出した。
手書きの文字で、「準備中」と書く。
もう少しだけ、自分のペースで乱れを整えたい。けれど、シャッターはもう上がっている。完全な「閉じた世界」ではなくなってしまった以上、外と内の境界線を、紙一枚分だけ柔らかくしておきたい。
そんな気持ちで、ガラス戸に新しい札をかけた、そのとき。
「え、ここ、開けたの?」
聞き慣れた声が、ひょいとガラスの向こうから飛び込んできた。
振り向くと、そこに紗菜が立っていた。紺色のカーディガンを羽織り、肩からビジネスバッグを提げている。会社員の制服みたいなスラックス姿なのに、足元はきっちりローファーではなく、歩きやすそうなスニーカーだった。
「……紗菜?」
「そう、紗菜。久しぶり、ってほどでもないか」
彼女はガラス戸を少し押し、首だけを店の中に突っ込んだ。埃の匂いにくしゃみを一つしてから、にやりと笑う。
「相変わらず、紙と埃に囲まれてるね。元気そうで安心した」
「どこがだよ。朝から雑巾と仲良くしてるんだけど」
「それを元気って言うの。ね、中、入っていい?」
返事を待たずに、紗菜はするりと店に滑り込んだ。「準備中」の札をちらっと見上げ、「ふうん」と意味ありげな声を出す。
「……仕事は?」
「昼休み。会社から歩いて十五分。いい運動になるよ?」
そう言って腕時計をちらりと見せる。針はぴったり十二時を指していた。昼休みを秒単位で管理していた事務所での癖が、まだ抜けていないのだろう。
悠之介は思わず、その腕時計の秒針をじっと目で追った。オフィスの空気が、ほんの一瞬、ここに流れ込んできたような気がする。
「で、ここ。何屋さんになるの?」
紗菜はカウンターの内側を覗き込み、並べたばかりのボールペンの箱をつんと指先で押す。きちんと揃えた列が、ほんの少し乱れた。
「……まだ、文具屋。祖父さんの店の続きだから」
「“まだ”ってつけるの、気になるなあ」
彼女は勝手知ったる様子で、近くのダンボール箱をひとつ引き寄せ、そこに腰を下ろした。埃が立ち上るのを、片手でぱたぱたと払う。
「はい、オープン初日の客。記念すべき一人目。何を買えばいい?」
「だから、まだ準備中だって」
「こうして入ってきちゃった時点で、もう半分くらい開店してると思うけど」
悪びれずに言い切る紗菜に、悠之介は「はあ」とため息混じりに返事をした。言葉の半分は、否定ではなく諦めだった。
彼女は昔からそうだった。会議室の予約が全部埋まっているときも、どこからか予備の折りたたみ机を持ってきて、「ここ会議室ね」と勝手に決めてしまう。段取りは妙にきちんとしているくせに、始まり方はだいたい行き当たりばったりだ。
「ねえ」
紗菜が、カウンターの上の帳簿に気づき、身を乗り出した。
「これ、おじいちゃんの?」
「ああ。最後のページ、平成十七年で止まってた」
「ふうん……」
彼女はページの端にそっと指を触れた。数字の列を一度だけ目で追ってから、最後の空白の行に目を留める。
「で、ここに、あんたの字が並ぶわけだ」
さらりとした言い方なのに、その一言が妙に重く、耳に残った。
悠之介は返事もできず、ただ肩をすくめる。彼女の視線が、自分の書いた日付に止まっているのを感じて、少しだけ居心地が悪くなる。
「にしてもさ」
紗菜は、帳簿から視線をはがして、店の奥から入り口までをぐるりと見渡した。
「このまま“文具屋さん”って言い張るには、ちょっともったいないよね」
「……どういう意味だ」
「だって、ここ、机あるし。椅子も置けそうだし。昼休みにノート広げて、ちょっと息抜きするにはちょうどいいじゃない」
彼女はカウンターの横のスペースを指さし、歩幅を測るように二、三歩歩いた。
「会社の近くって、そういう場所、意外とないんだよ。カフェは混んでるし、ファストフードは落ち着かないし。ここなら、ちょっと書き物して、コーヒー飲んで、ぼーっとして……ってできるでしょ」
「コーヒーなんてどこにも置いてないけど」
「置けばいい。あ、そうだ」
思いついた、という顔で、紗菜がぱっと指を鳴らした。棚の奥へとずんずん進み、ガラクタの山をかき分けるようにして何かを探し始める。
「ちょっと、勝手に触るなよ」
「大丈夫大丈夫。えーと、たしかこのへんに……あ、あった」
埃をかぶった電気ポットが、がさっと音を立てて姿を現した。祖父が使っていたもので、コードがきゅっと巻かれたまま、箱の陰に隠れていた。
「ね。ほら。最初の設備投資、ゼロ円」
「それ、何年物だよ。安全性の確認からだろ」
「確認する係は店長。私はアイデア担当」
勝手に役割分担を決められて、悠之介は眉間に皺を寄せた。けれど、ポットを見つめていると、祖父が常連客にお茶を出していた姿が、ほんのりと頭に浮かぶ。
昼下がり。帳簿の横に湯飲みが並び、湯気の向こう側で誰かが仕事の愚痴をこぼしている――そんな光景が、埃の匂いの中で、唐突に現実味を帯びた。
「……安全確認、してからな」
結局、小さく折れるようにそう付け加えると、紗菜は満足そうに笑った。
「そうそう。そうやって、ちょっとずつ“今の店”にしていけばいいんだよ」
彼女はダンボールの上から立ち上がり、制服の裾を軽く払った。
「で、いつ? 本当に“準備中”をひっくり返すの」
「え」
「開店日。決めないと、ずっと準備してるだけになるよ。あんたの悪い癖。資料を永遠に整え続けるやつ」
図星を刺されて、悠之介は言葉に詰まる。大学時代のゼミ室、会社の会議室――どの場面でも、彼は一番にフォルダを整理し、最後まで手を動かしていた。その代わり、「始めます」と言うのは、だいたい誰か別の人だった。
紗菜は腕時計を見て、ため息をひとつ落とした。
「はい、タイムリミットまであと三分。昼休み終わる前に、“開店日”を決めてもらいましょう」
「そんなゲームみたいに言うな」
「ゲームじゃなくて締め切り。仕事には締め切りがいるでしょ」
きっぱりと言い切られ、悠之介は観念したようにカウンターの上の手帳を開いた。会社を辞めると決めた時、自分で買った安いスケジュール帳。白いページが、まだほとんど埋まっていない。
一週間後の土曜日の日付に、ペン先を置く。
迷う。三日後でも、二週間後でも、数字は簡単に変えられる。けれど、紗菜の腕時計の秒針は確実に進んでいて、それに追い立てられるように、思考も前へと押し出される。
「……一週間後」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「一週間後の土曜、十時。開ける」
そう言って、悠之介は日付の欄に「紙月堂 開店」と書き込んだ。書き終えた瞬間、胸のあたりがじんと熱くなる。
「へえ、“紙月堂”って名前なんだ」
紗菜が、彼の肩越しに身を乗り出してのぞき込む。
「前から決めてたの?」
「いや……祖父さんの店の屋号が“月堂文具”だったから。紙も扱うし、紙の方を先に……って、今、思いついた」
「そういうの、ちゃんと口に出しなよ。いい名前だと思うよ」
さらりと褒められて、悠之介は視線を逸らした。褒め言葉に慣れていない舌が、「別に」とか「たまたまだ」とか、意味のない言い訳を探す。
紗菜はそんな彼の様子を見て、少しだけ口元をゆるめた。
「じゃ、来週の土曜。私は十二時にここに来るね。開店祝いのコーヒー飲みに」
「祝いがコーヒーだけって、ずいぶん質素だな」
「いいの。ここはそういう店でしょ。派手なリボンより、ちゃんと書けるボールペンが似合う店」
そう言い残して、紗菜は入口に向かった。ガラス戸を押し開け、「準備中」の札を指先で軽く揺らす。
「これ、裏返す日。ちゃんと迎えに来るから」
彼女が外に出ると同時に、昼の光が一気に店内に流れ込んだ。シャッターの隙間からではなく、正面から差し込む光。埃の粒がきらりと光って、さっきとは別の景色に見える。
ガラス戸が閉まる音を聞きながら、悠之介はしばらくその場に立ち尽くしていた。
開店日を、手帳に書いてしまった。
帳簿の、真っ白な行のすぐそばで。祖父の数字の列の延長線上に、自分の文字を刻んでしまった。
怖さと、少しの誇らしさが、胸の中で押し合いへし合いを始める。
彼は深呼吸をひとつして、もう一度店内を見渡した。
埃っぽい棚。空っぽのポット。まだ一人分の声しか知らない空間。
ここが、一週間後には「誰かが昼休みに息をつきにくる場所」になるのだとしたら――。
思い浮かべようとして、うまく形にならず、苦笑いが漏れた。
「まあ……帳簿に数字が並ぶくらいには、がんばるか」
誰もいない店内に、かすかな独り言が落ちる。それを聞いたのは、停止したままの古い壁掛け時計だけだった。
悠之介は、カウンターの上の「準備中」の札を見上げる。
裏返した先の「営業中」の文字は、まだ自分には少し眩しすぎる。けれど、そこにたどり着く日付を、もう決めてしまった。
スケジュール帳のページをそっと閉じてから、彼はモップを手に取った。
残りの埃をすべて払うには、一週間では足りないかもしれない。それでも、できるところまでやってみる。
シャッターの鍵は、もう回ったのだから。
星見商店街のいちばん端。まだ朝の空気が冷たい時間帯に、悠之介は両手で古い取っ手をつかんでいた。金属の表面に指先がひやりと吸い付く。何度か力を込めると、長いあいだ眠っていた鉄の板が、ぎい、と鈍い声を上げた。
「……おはよう」
誰にともなくそうつぶやいてから、ゆっくりとシャッターを持ち上げる。積もった埃が、逆光の中で細かく舞い上がり、喉の奥をくすぐった。
中は、想像通りの薄暗さだった。ガラスケースの向こう側で、色あせたペンの箱がうつむいている。棚には古びたノートがぎっしり並んでいて、その背表紙をなぞるように白い埃の筋が走っていた。
悠之介は玄関に鍵をかけ直すと、モップと雑巾を手に取った。
まず、床。端から端まで、同じ幅で、同じ順番で。モップを押し出しながら、靴音が一定のリズムで店内に響く。ふと、昨日までいたオフィスのフロアを思い出し、肩のあたりがむずがゆくなった。
そこでは誰かの足音は、いつも急いでいて、いつも電話とセットだった。
ここには電話の呼び出し音も、会議の開始を告げるチャイムもない。あるのは、モップが床をこする、しゃりしゃりという音と、自分の呼吸だけだ。
悠之介はその静けさを、胸の奥にゆっくり吸い込んだ。
床を終えると、次は棚。濡らした雑巾を固く絞って、手前から奥へと順番に。ノートの列の高さを目で揃え、箱の向きを一つずつ正面に合わせる。誰も見ていないところで、背表紙がきちんと並んでいると落ち着くのは、昔から変わらない癖だった。
カウンターの奥の、小さな引き出しを開けると、そこだけは時間が止まったようだった。
針の止まった腕時計、折り畳まれたままの老眼鏡。黄ばんだ領収書。祖父の名前が残っているそれらを、悠之介は一度すべて取り出し、机の上に並べた。並べ方に迷って、結局、日付の古い順に整列させる。
最後に、帳簿。
分厚い背表紙を両手で持ち上げると、紙の束がずしりと腕にかかった。ぱらぱらとめくれば、万年筆のインクが、年ごとに少しずつ色を変えている。黒に近い紺から、柔らかい青へ、そしてまた濃い筆致へ。
平成十七年で、数字は途切れていた。
「……ここで、止まってるのか」
小さく言葉が漏れる。祖父が倒れた年と同じだ、と気づいた瞬間、指先がほんの少しだけ震えた。
悠之介は椅子に腰を下ろし、帳簿の最後のページに、新しいボールペンで線を引いた。祖父の文字に続く行に、日付を書き込む。
二〇二五年四月一日。
まだ何の数字もない行が、真っ白なままそこにある。
埋めるかどうかは、自分が決めることだ。
そう思った途端、胸の奥に、会社を辞めるときに感じたあの妙な軽さと、足元がぐらりとするような不安が同時によみがえった。上司の机の前に退職届を置いた時も、こんなふうに手の中が空っぽになる感覚があった気がする。
カウンターの上に、祖父の形見の鍵束が置いてある。その中で一番小さな鍵――店の裏口のもの――を指先でくるくる回しながら、悠之介は深く息を吐いた。
「……やるって、言ったんだしな」
誰に向かってともなくつぶやいてから、彼は立ち上がる。入り口のガラス戸に貼られた、色あせた「閉店」の札を外し、新しい紙を一枚取り出した。
手書きの文字で、「準備中」と書く。
もう少しだけ、自分のペースで乱れを整えたい。けれど、シャッターはもう上がっている。完全な「閉じた世界」ではなくなってしまった以上、外と内の境界線を、紙一枚分だけ柔らかくしておきたい。
そんな気持ちで、ガラス戸に新しい札をかけた、そのとき。
「え、ここ、開けたの?」
聞き慣れた声が、ひょいとガラスの向こうから飛び込んできた。
振り向くと、そこに紗菜が立っていた。紺色のカーディガンを羽織り、肩からビジネスバッグを提げている。会社員の制服みたいなスラックス姿なのに、足元はきっちりローファーではなく、歩きやすそうなスニーカーだった。
「……紗菜?」
「そう、紗菜。久しぶり、ってほどでもないか」
彼女はガラス戸を少し押し、首だけを店の中に突っ込んだ。埃の匂いにくしゃみを一つしてから、にやりと笑う。
「相変わらず、紙と埃に囲まれてるね。元気そうで安心した」
「どこがだよ。朝から雑巾と仲良くしてるんだけど」
「それを元気って言うの。ね、中、入っていい?」
返事を待たずに、紗菜はするりと店に滑り込んだ。「準備中」の札をちらっと見上げ、「ふうん」と意味ありげな声を出す。
「……仕事は?」
「昼休み。会社から歩いて十五分。いい運動になるよ?」
そう言って腕時計をちらりと見せる。針はぴったり十二時を指していた。昼休みを秒単位で管理していた事務所での癖が、まだ抜けていないのだろう。
悠之介は思わず、その腕時計の秒針をじっと目で追った。オフィスの空気が、ほんの一瞬、ここに流れ込んできたような気がする。
「で、ここ。何屋さんになるの?」
紗菜はカウンターの内側を覗き込み、並べたばかりのボールペンの箱をつんと指先で押す。きちんと揃えた列が、ほんの少し乱れた。
「……まだ、文具屋。祖父さんの店の続きだから」
「“まだ”ってつけるの、気になるなあ」
彼女は勝手知ったる様子で、近くのダンボール箱をひとつ引き寄せ、そこに腰を下ろした。埃が立ち上るのを、片手でぱたぱたと払う。
「はい、オープン初日の客。記念すべき一人目。何を買えばいい?」
「だから、まだ準備中だって」
「こうして入ってきちゃった時点で、もう半分くらい開店してると思うけど」
悪びれずに言い切る紗菜に、悠之介は「はあ」とため息混じりに返事をした。言葉の半分は、否定ではなく諦めだった。
彼女は昔からそうだった。会議室の予約が全部埋まっているときも、どこからか予備の折りたたみ机を持ってきて、「ここ会議室ね」と勝手に決めてしまう。段取りは妙にきちんとしているくせに、始まり方はだいたい行き当たりばったりだ。
「ねえ」
紗菜が、カウンターの上の帳簿に気づき、身を乗り出した。
「これ、おじいちゃんの?」
「ああ。最後のページ、平成十七年で止まってた」
「ふうん……」
彼女はページの端にそっと指を触れた。数字の列を一度だけ目で追ってから、最後の空白の行に目を留める。
「で、ここに、あんたの字が並ぶわけだ」
さらりとした言い方なのに、その一言が妙に重く、耳に残った。
悠之介は返事もできず、ただ肩をすくめる。彼女の視線が、自分の書いた日付に止まっているのを感じて、少しだけ居心地が悪くなる。
「にしてもさ」
紗菜は、帳簿から視線をはがして、店の奥から入り口までをぐるりと見渡した。
「このまま“文具屋さん”って言い張るには、ちょっともったいないよね」
「……どういう意味だ」
「だって、ここ、机あるし。椅子も置けそうだし。昼休みにノート広げて、ちょっと息抜きするにはちょうどいいじゃない」
彼女はカウンターの横のスペースを指さし、歩幅を測るように二、三歩歩いた。
「会社の近くって、そういう場所、意外とないんだよ。カフェは混んでるし、ファストフードは落ち着かないし。ここなら、ちょっと書き物して、コーヒー飲んで、ぼーっとして……ってできるでしょ」
「コーヒーなんてどこにも置いてないけど」
「置けばいい。あ、そうだ」
思いついた、という顔で、紗菜がぱっと指を鳴らした。棚の奥へとずんずん進み、ガラクタの山をかき分けるようにして何かを探し始める。
「ちょっと、勝手に触るなよ」
「大丈夫大丈夫。えーと、たしかこのへんに……あ、あった」
埃をかぶった電気ポットが、がさっと音を立てて姿を現した。祖父が使っていたもので、コードがきゅっと巻かれたまま、箱の陰に隠れていた。
「ね。ほら。最初の設備投資、ゼロ円」
「それ、何年物だよ。安全性の確認からだろ」
「確認する係は店長。私はアイデア担当」
勝手に役割分担を決められて、悠之介は眉間に皺を寄せた。けれど、ポットを見つめていると、祖父が常連客にお茶を出していた姿が、ほんのりと頭に浮かぶ。
昼下がり。帳簿の横に湯飲みが並び、湯気の向こう側で誰かが仕事の愚痴をこぼしている――そんな光景が、埃の匂いの中で、唐突に現実味を帯びた。
「……安全確認、してからな」
結局、小さく折れるようにそう付け加えると、紗菜は満足そうに笑った。
「そうそう。そうやって、ちょっとずつ“今の店”にしていけばいいんだよ」
彼女はダンボールの上から立ち上がり、制服の裾を軽く払った。
「で、いつ? 本当に“準備中”をひっくり返すの」
「え」
「開店日。決めないと、ずっと準備してるだけになるよ。あんたの悪い癖。資料を永遠に整え続けるやつ」
図星を刺されて、悠之介は言葉に詰まる。大学時代のゼミ室、会社の会議室――どの場面でも、彼は一番にフォルダを整理し、最後まで手を動かしていた。その代わり、「始めます」と言うのは、だいたい誰か別の人だった。
紗菜は腕時計を見て、ため息をひとつ落とした。
「はい、タイムリミットまであと三分。昼休み終わる前に、“開店日”を決めてもらいましょう」
「そんなゲームみたいに言うな」
「ゲームじゃなくて締め切り。仕事には締め切りがいるでしょ」
きっぱりと言い切られ、悠之介は観念したようにカウンターの上の手帳を開いた。会社を辞めると決めた時、自分で買った安いスケジュール帳。白いページが、まだほとんど埋まっていない。
一週間後の土曜日の日付に、ペン先を置く。
迷う。三日後でも、二週間後でも、数字は簡単に変えられる。けれど、紗菜の腕時計の秒針は確実に進んでいて、それに追い立てられるように、思考も前へと押し出される。
「……一週間後」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「一週間後の土曜、十時。開ける」
そう言って、悠之介は日付の欄に「紙月堂 開店」と書き込んだ。書き終えた瞬間、胸のあたりがじんと熱くなる。
「へえ、“紙月堂”って名前なんだ」
紗菜が、彼の肩越しに身を乗り出してのぞき込む。
「前から決めてたの?」
「いや……祖父さんの店の屋号が“月堂文具”だったから。紙も扱うし、紙の方を先に……って、今、思いついた」
「そういうの、ちゃんと口に出しなよ。いい名前だと思うよ」
さらりと褒められて、悠之介は視線を逸らした。褒め言葉に慣れていない舌が、「別に」とか「たまたまだ」とか、意味のない言い訳を探す。
紗菜はそんな彼の様子を見て、少しだけ口元をゆるめた。
「じゃ、来週の土曜。私は十二時にここに来るね。開店祝いのコーヒー飲みに」
「祝いがコーヒーだけって、ずいぶん質素だな」
「いいの。ここはそういう店でしょ。派手なリボンより、ちゃんと書けるボールペンが似合う店」
そう言い残して、紗菜は入口に向かった。ガラス戸を押し開け、「準備中」の札を指先で軽く揺らす。
「これ、裏返す日。ちゃんと迎えに来るから」
彼女が外に出ると同時に、昼の光が一気に店内に流れ込んだ。シャッターの隙間からではなく、正面から差し込む光。埃の粒がきらりと光って、さっきとは別の景色に見える。
ガラス戸が閉まる音を聞きながら、悠之介はしばらくその場に立ち尽くしていた。
開店日を、手帳に書いてしまった。
帳簿の、真っ白な行のすぐそばで。祖父の数字の列の延長線上に、自分の文字を刻んでしまった。
怖さと、少しの誇らしさが、胸の中で押し合いへし合いを始める。
彼は深呼吸をひとつして、もう一度店内を見渡した。
埃っぽい棚。空っぽのポット。まだ一人分の声しか知らない空間。
ここが、一週間後には「誰かが昼休みに息をつきにくる場所」になるのだとしたら――。
思い浮かべようとして、うまく形にならず、苦笑いが漏れた。
「まあ……帳簿に数字が並ぶくらいには、がんばるか」
誰もいない店内に、かすかな独り言が落ちる。それを聞いたのは、停止したままの古い壁掛け時計だけだった。
悠之介は、カウンターの上の「準備中」の札を見上げる。
裏返した先の「営業中」の文字は、まだ自分には少し眩しすぎる。けれど、そこにたどり着く日付を、もう決めてしまった。
スケジュール帳のページをそっと閉じてから、彼はモップを手に取った。
残りの埃をすべて払うには、一週間では足りないかもしれない。それでも、できるところまでやってみる。
シャッターの鍵は、もう回ったのだから。
1
あなたにおすすめの小説
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる