昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第4話 和菓子とボールペンの交換条件

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 夕方の星見商店街は、昼の喧騒が一段落して、どこかほっとした空気に包まれていた。


 惣菜屋からは揚げ物の油の匂いが漂い、クリーニング店のスチームの音がかすかに聞こえる。その端で、紙月堂のガラス戸には、相変わらず「準備中」の札が揺れていた。


 店の中では、悠之介がカウンターの上の書類を並べ替えていた。


 昼間、臣全が集めてきた名刺と、手書きの連絡先メモ。その一枚一枚を、ファイルのポケットに丁寧に差し込んでいく。店名の読みが迷いそうなものには、鉛筆で小さくふりがなも添えた。


 表紙には「星見商店街 連絡先ファイル」と書いてある。


 その文字を見つめていると、肩にじわりと重さが乗ってくるようだった。


 「……名前だけでも、ちゃんと並べておかないとな」


 小さく呟いて、最後の一枚を差し込んだところで、ガラス戸の向こうに人影が差した。


 戸の上の鈴が、ちりん、と控えめに鳴る。


 「紙月堂さん……でしょうか」


 おずおずとした声が、ガラス越しに届いた。


 見上げると、紺色の前掛けをした女性が、両手で白い箱を抱えて立っていた。前掛けの胸元には、小さく「亜友堂」と刺繍された布が縫い付けてある。


 「はい。どうぞ」


 悠之介が戸を開けると、甘い餡の匂いがふわりと流れ込んできた。箱の角は、紙ひもできれいに結ばれている。結び目の位置がぴたりと真ん中に収まっていて、その几帳面さに目がいった。


 「亜友堂の……亜友と申します。遅くなりましたが、ご挨拶に」


 女性は、小さく頭を下げた。


 目元にうっすらとクマがありながらも、言葉の一つ一つを確かめるようにゆっくり話す。その口調には、忙しさの中でも順番を崩さない人の気配があった。


 「わざわざ、ありがとうございます」


 悠之介が受け取った箱は、思ったより重かった。中身の最中が、きちんと詰められているのだろう。


 「本当は、昼間のうちに伺いたかったのですが……」


 亜友は、前掛けの端を指先でつまんだ。


 「朝から注文が立て込んでしまって。納品を全部終えて、店を一旦閉めてから、ようやく手が空きました」


 「お忙しいところを、すみません」


 「いえ。うちのお饅頭や最中が、こちらに来られる方の話のきっかけになればと思いまして」


 そう言って、亜友は店内をぐるりと見渡した。


 棚に並ぶノートやペン。カウンターの隅のポット。そして、開いたままの連絡先ファイル。


 「あ、これ」


 亜友の視線が、ファイルの表紙に止まる。


 「臣全くんが言っていた、商店街の連絡先の整理ですか?」


 「ええ。さっきまで、皆さんに書いてもらった紙を入れていました」


 「すごいですね。うち、こういうのは箱に突っ込んでしまいがちで」


 亜友は、照れくさそうに笑った。


 「帳簿の横にこういうものがあると、少し安心します。名前と場所が、ちゃんと見えるようになっていると、困ったときに助けを頼みやすいので」


 その言葉に、悠之介はわずかに肩の力が抜けるのを感じた。


 「……ありがとうございます」


 「それで、今日の打ち合わせの件ですが」


 亜友は、腕時計をちらりと見た。針は、約束の時間の十分前を指している。


 「臣全くんから、『紙月堂さんを、働き方で悩んでいる人の話を聞く場所にしたいから、一度集まって話したい』と聞きまして」


 「はい。僕も詳しいことは、まだ……」


 言いかけたところで、店の外から賑やかな声が聞こえてきた。


 「おーい、紙月堂ー! 集合だよー!」


 聞き慣れた調子の声。ガラス戸の向こうで、臣全が手を振っている。その後ろには、八百屋の山田、クリーニング店の店主、コロッケ屋の奥さんが、それぞれ手に仕事道具を持ったまま立っていた。


 「ほらほら、予定より五分前集合。優秀だね、星見商店街!」


 「勝手に仕切るな」


 悠之介は思わずため息をついた。


 それでも、入口の前で立ち尽くしている人たちをそのままにはしておけず、ガラス戸を大きく開ける。


 「狭いですが、どうぞ」


 「お邪魔します」


 「いやあ、こうして中に入るの、久しぶりだよ」


 「前は、孫に鉛筆買いに来させてたけどねえ」


 それぞれが、思い出話を一言ずつこぼしながら、店内に足を踏み入れる。


 棚の間を少し詰めて作ったスペースに、折りたたみのテーブルが一つと、椅子が六脚。紗菜が昼間のうちに配置してくれたものだ。


 カウンターの横では、ポットから聞こえる湯気の音が、いつもより少しだけ心強く感じられた。


 「じゃあ、今日の話の流れを」


 誰より早く椅子に座った臣全が、胸を張って立ち上がった。


 「星見商店街の店主の皆さんと一緒に、『仕事でしんどくなった人が、どこに寄ればいいか』を決めておきたいと思ってます。その候補として、紙月堂を使わせてもらいたい。そういう時間です」


 説明だけ聞けば、筋は通っている。


 しかし、言葉の勢いが良すぎて、聞いている側の表情には少し不安の色が混ざった。


 「そんな大それた、ねえ……」


 「うちは、営業時間も長いから、人の話を聞いてる余裕があるかどうか」


 クリーニング店の主が眉をひそめ、コロッケ屋の奥さんが首をかしげる。


 悠之介は、テーブルの端にノートを開き、ボールペンを構えたまま、そのやり取りを見つめていた。ページの上には、「本日の打ち合わせ」と書いてあるが、その下はまだ真っ白だ。


 「ええと」


 紗菜が、テーブルの端の椅子から静かに口を開いた。


 「今日決めたいのは、『全部を一度にやる』話じゃなくて、『最初にどこまでなら無理なくできるか』だと思うんです」


 視線が、一斉に紗菜の方を向く。


 「たとえば、紙月堂の中で、週に一回だけ、『仕事の話をしても大丈夫な席』を決める。そこに、もし自分の店のお客さんで悩んでいる人がいたら、『ここに休みに行ってみたら』って紹介する。最初は、そのくらいの小さな約束でも、意味があると思うんですよ」


 紗菜の言葉は、勢いはないが、文と文の間に呼吸がある。


 その隙間で、皆が自分の店の様子を頭の中に並べていくのが、悠之介にも分かった。


 「……なるほどねえ」


 山田が、腕を組んでうなずいた。


 「うちも、重い箱を抱えて肩をさすりながら帰っていく人を見送ること、多いからね。そういう人に、『ちょっと座れる場所があるよ』って言えるのは、いいかもしれない」


 「ただ」


 そこで、亜友がそっと手を挙げた。


 「一つ、お願いしたいことがあります」


 穏やかな声だった。


 「こういう話をするとき、休憩の時間も最初から予定に入れておいてほしいんです」


 「休憩?」


 臣全が首をかしげる。


 「はい」


 亜友は、自分の前掛けの紐を一度結び直すように指先で触れ、それから言葉を続けた。


 「うちは朝四時に起きて、五時から仕込みを始めます。餡を炊いて、生地を練って、九時までに最初の焼きあがりを店頭に並べる。そのあと、昼の注文分の最中を詰めて、午後に配達に出て……」


 そこで一度、言葉が途切れた。思い出すだけで、少し息が上がるような流れだ。


 「全部を書き出すと、こうして一日が埋まっていきます。だから私は、注文が増えたときでも、途中に必ず十五分の休憩を二回、紙に書いて入れるようにしています。お茶を飲んで、腰を伸ばす時間です」


 テーブルの上にある紙ナプキンを一枚取り、亜友はボールペンで簡単な時間割を書いてみせた。


 「この休憩を無くしたら、その日はどうにか乗り切れても、次の日に体が動かなくなります。すると、仕込みが遅れて、お客さんを待たせてしまう。だから、『無理をして頑張る』よりも、『無理にならないように、最初から決める』方を選んでいます」


 書き終えた時間割を、皆の方に向けた。


 「たぶん、こういう話を聞く場所を作るときも、同じだと思うんです。『誰かの話を聞いてあげたい』という気持ちはとても大事です。でも、そのせいで、誰かが夜遅くまで起きてしまったり、自分の店の仕込みができなくなったりしたら、長く続きません」


 店内が、静かになった。


 ポットの沸騰音だけが、かすかに耳に届く。


 「だから、最初から『この曜日の、この時間だけ』と決めてしまうのが良いと思います。あとは、『ここまでなら手伝える』ということを、お互いに口に出す。でも、『それ以上は難しい』と思ったら、その正直さも大事にしてほしい」


 亜友は、「無理はしない」という言葉を使わなかった。


 代わりに、「続けられるように決める」と静かに繰り返した。


 その言い方が、悠之介の胸にすとん、と落ちた。


 「……なるほど」


 ノートの上で、ボールペンが自然と動き始める。


 議事録のページに、「週一回」「曜日」「時間」「紹介するときの言い方」「各店ができること/難しいこと」という項目を書き出していく。


 「紙月堂側としては?」


 紗菜が、悠之介の方を見た。


 「店長の口からも、一度、言っておいてほしいな」


 急に視線を集められて、喉が少し乾く。


 それでも、ノートに書いた言葉を一つずつ追いながら、ゆっくり口を開いた。


 「……紙月堂では」


 一呼吸おいてから、続ける。


 「毎週水曜日の夕方、六時から八時までを、『仕事の話をしても大丈夫な時間』にしようと思います。その間、席が空いていれば、どなたでも座っていいです。話したくなければ、黙ってノートを書いていても構いません」


 ポットの隣のマグカップと、棚のノートが視界の端に映る。


 「その時間以外は、普通の文具屋と、いつもの休憩場所として使ってください。相談を受けられるのは、その二時間だけです。それ以上になると、こちらも続けられなくなるので」


 言いながら、自分自身に言い聞かせているような気持ちになった。


 店主たちは、しばらく黙って考えていたが、やがて山田が口を開いた。


 「分かりやすくていいねえ。『水曜の夕方なら、話を聞いてくれる場所があるよ』って、お客さんに言える」


 「うちも、店を閉めた後なら、一人くらい顔を出せるかもしれないよ」


 「水曜なら、コロッケの注文も少なめだしね」


 それぞれの店の一週間の流れを頭に思い浮かべながら、言葉を重ねていく。


 「じゃあ、その時間に来る人に出せるものは……」


 そこで、臣全がぱっと顔を上げた。


 「亜友堂の最中と、紙月堂のコーヒー、って組み合わせはどう? 疲れてる人には甘いものと温かい飲み物が一番だし」


 「最中を全部そっちに持っていかれたら、うちの店頭から無くなっちゃいますよ」


 亜友は、くすりと笑った。


 「一箱だけ、毎週用意します。その代わり、ちゃんと注文してください。『水曜の相談の時間に来る人の分』って、前日までに紙に書いて渡してもらえれば、仕込みの段取りに組み込めますから」


 「じゃあ、ボールペンを一箱、こちらから」


 悠之介も、思わず口を挟んでいた。


 「そちらの店で、注文票を書く用に。インクがかすれたら困るでしょうし」


 亜友は、少し驚いたように目を瞬いたあと、ゆっくりとうなずいた。


 「……ありがとうございます」


 和菓子とボールペン。


 まったく性質の違う品物なのに、こうしてお互いの仕事の中で場所が決まると、ひとつの約束の印のように思えた。


 「他のお店も、何かできそうなことがあったら教えてください」


 紗菜が、テーブルの真ん中に視線を戻した。


 「『次回の水曜日までに考えてくる』で、今日はいいと思います。無理にその場で答えを出そうとすると、どこかにしわ寄せが来ますから」


 その一言で、会話の終わり方も見えてきた。


 悠之介は、議事録のページの最後に、「次回:水曜夕方の様子を共有」と書き込む。ページの端には、小さくチェックボックスも描いておいた。


 「じゃ、今日はこのへんで解散にしましょうか」


 会議の締めの言葉は、亜友が静かに口にした。


 皆が椅子から立ち上がり、軽く頭を下げ合う。最中の箱から、試食用にと二つだけ開けられた分が、テーブルの真ん中に残った。


 「これ、店長と紗菜さんでどうぞ」


 亜友が箱を差し出す。


 「次の水曜日に向けて、議事録のまとめと、席の準備があるでしょうから」


 「お気遣いなく」


 「甘いものは、考え事の友ですから」


 そう言って、亜友は笑った。


 彼女たちが店を出て行き、ガラス戸が閉まると、紙月堂の中には再び静けさが戻った。


 テーブルの上には、書き込まれた議事録のノートと、食べかけの最中が二つ。カウンターの隅では、ポットの湯気がまだかすかに立ち上っている。


 「……和菓子とボールペン、か」


 悠之介は、最中の箱のラベルを見つめながら、ぽつりと呟いた。


 臣全が勝手に貼り出したチラシ。商店街の連絡先ファイル。今日の議事録。


 それぞれが別々の紙のようでいて、少しずつ重なり合い、一枚の束になりつつある気がした。


 「店長」


 カウンターの向こうから、紗菜が声をかけた。


 「議事録、コピーしておこうか。みんなに一枚ずつ渡せるように」


 「そうだな。抜けがないか、もう一度確認してから」


 悠之介はノートを開き、項目を一つずつ読み返した。


 水曜日の時間。紹介の言葉。各店が「できるかもしれないこと」と「難しいこと」。次回、確認する内容。


 書き漏らしはない。


 ページの最後に、小さく線を引き、「本日のまとめ」とだけ書き添えた。


 それを見た紗菜が、ふっと笑う。


 「ちゃんと、まとめ役になってるじゃない」


 「人前でそう言うな」


 「はいはい。じゃあ、コピー機の代わりに、私のノートにも写させてね」


 紗菜は、自分の手帳を取り出し、要点だけを素早く書き写し始めた。


 ボールペンが走る音と、ポットの小さな音。最中の甘い香り。


 紙月堂の夜は、静かに、しかし確かに、新しい約束の匂いをまとい始めていた。
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