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第4話 和菓子とボールペンの交換条件
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夕方の星見商店街は、昼の喧騒が一段落して、どこかほっとした空気に包まれていた。
惣菜屋からは揚げ物の油の匂いが漂い、クリーニング店のスチームの音がかすかに聞こえる。その端で、紙月堂のガラス戸には、相変わらず「準備中」の札が揺れていた。
店の中では、悠之介がカウンターの上の書類を並べ替えていた。
昼間、臣全が集めてきた名刺と、手書きの連絡先メモ。その一枚一枚を、ファイルのポケットに丁寧に差し込んでいく。店名の読みが迷いそうなものには、鉛筆で小さくふりがなも添えた。
表紙には「星見商店街 連絡先ファイル」と書いてある。
その文字を見つめていると、肩にじわりと重さが乗ってくるようだった。
「……名前だけでも、ちゃんと並べておかないとな」
小さく呟いて、最後の一枚を差し込んだところで、ガラス戸の向こうに人影が差した。
戸の上の鈴が、ちりん、と控えめに鳴る。
「紙月堂さん……でしょうか」
おずおずとした声が、ガラス越しに届いた。
見上げると、紺色の前掛けをした女性が、両手で白い箱を抱えて立っていた。前掛けの胸元には、小さく「亜友堂」と刺繍された布が縫い付けてある。
「はい。どうぞ」
悠之介が戸を開けると、甘い餡の匂いがふわりと流れ込んできた。箱の角は、紙ひもできれいに結ばれている。結び目の位置がぴたりと真ん中に収まっていて、その几帳面さに目がいった。
「亜友堂の……亜友と申します。遅くなりましたが、ご挨拶に」
女性は、小さく頭を下げた。
目元にうっすらとクマがありながらも、言葉の一つ一つを確かめるようにゆっくり話す。その口調には、忙しさの中でも順番を崩さない人の気配があった。
「わざわざ、ありがとうございます」
悠之介が受け取った箱は、思ったより重かった。中身の最中が、きちんと詰められているのだろう。
「本当は、昼間のうちに伺いたかったのですが……」
亜友は、前掛けの端を指先でつまんだ。
「朝から注文が立て込んでしまって。納品を全部終えて、店を一旦閉めてから、ようやく手が空きました」
「お忙しいところを、すみません」
「いえ。うちのお饅頭や最中が、こちらに来られる方の話のきっかけになればと思いまして」
そう言って、亜友は店内をぐるりと見渡した。
棚に並ぶノートやペン。カウンターの隅のポット。そして、開いたままの連絡先ファイル。
「あ、これ」
亜友の視線が、ファイルの表紙に止まる。
「臣全くんが言っていた、商店街の連絡先の整理ですか?」
「ええ。さっきまで、皆さんに書いてもらった紙を入れていました」
「すごいですね。うち、こういうのは箱に突っ込んでしまいがちで」
亜友は、照れくさそうに笑った。
「帳簿の横にこういうものがあると、少し安心します。名前と場所が、ちゃんと見えるようになっていると、困ったときに助けを頼みやすいので」
その言葉に、悠之介はわずかに肩の力が抜けるのを感じた。
「……ありがとうございます」
「それで、今日の打ち合わせの件ですが」
亜友は、腕時計をちらりと見た。針は、約束の時間の十分前を指している。
「臣全くんから、『紙月堂さんを、働き方で悩んでいる人の話を聞く場所にしたいから、一度集まって話したい』と聞きまして」
「はい。僕も詳しいことは、まだ……」
言いかけたところで、店の外から賑やかな声が聞こえてきた。
「おーい、紙月堂ー! 集合だよー!」
聞き慣れた調子の声。ガラス戸の向こうで、臣全が手を振っている。その後ろには、八百屋の山田、クリーニング店の店主、コロッケ屋の奥さんが、それぞれ手に仕事道具を持ったまま立っていた。
「ほらほら、予定より五分前集合。優秀だね、星見商店街!」
「勝手に仕切るな」
悠之介は思わずため息をついた。
それでも、入口の前で立ち尽くしている人たちをそのままにはしておけず、ガラス戸を大きく開ける。
「狭いですが、どうぞ」
「お邪魔します」
「いやあ、こうして中に入るの、久しぶりだよ」
「前は、孫に鉛筆買いに来させてたけどねえ」
それぞれが、思い出話を一言ずつこぼしながら、店内に足を踏み入れる。
棚の間を少し詰めて作ったスペースに、折りたたみのテーブルが一つと、椅子が六脚。紗菜が昼間のうちに配置してくれたものだ。
カウンターの横では、ポットから聞こえる湯気の音が、いつもより少しだけ心強く感じられた。
「じゃあ、今日の話の流れを」
誰より早く椅子に座った臣全が、胸を張って立ち上がった。
「星見商店街の店主の皆さんと一緒に、『仕事でしんどくなった人が、どこに寄ればいいか』を決めておきたいと思ってます。その候補として、紙月堂を使わせてもらいたい。そういう時間です」
説明だけ聞けば、筋は通っている。
しかし、言葉の勢いが良すぎて、聞いている側の表情には少し不安の色が混ざった。
「そんな大それた、ねえ……」
「うちは、営業時間も長いから、人の話を聞いてる余裕があるかどうか」
クリーニング店の主が眉をひそめ、コロッケ屋の奥さんが首をかしげる。
悠之介は、テーブルの端にノートを開き、ボールペンを構えたまま、そのやり取りを見つめていた。ページの上には、「本日の打ち合わせ」と書いてあるが、その下はまだ真っ白だ。
「ええと」
紗菜が、テーブルの端の椅子から静かに口を開いた。
「今日決めたいのは、『全部を一度にやる』話じゃなくて、『最初にどこまでなら無理なくできるか』だと思うんです」
視線が、一斉に紗菜の方を向く。
「たとえば、紙月堂の中で、週に一回だけ、『仕事の話をしても大丈夫な席』を決める。そこに、もし自分の店のお客さんで悩んでいる人がいたら、『ここに休みに行ってみたら』って紹介する。最初は、そのくらいの小さな約束でも、意味があると思うんですよ」
紗菜の言葉は、勢いはないが、文と文の間に呼吸がある。
その隙間で、皆が自分の店の様子を頭の中に並べていくのが、悠之介にも分かった。
「……なるほどねえ」
山田が、腕を組んでうなずいた。
「うちも、重い箱を抱えて肩をさすりながら帰っていく人を見送ること、多いからね。そういう人に、『ちょっと座れる場所があるよ』って言えるのは、いいかもしれない」
「ただ」
そこで、亜友がそっと手を挙げた。
「一つ、お願いしたいことがあります」
穏やかな声だった。
「こういう話をするとき、休憩の時間も最初から予定に入れておいてほしいんです」
「休憩?」
臣全が首をかしげる。
「はい」
亜友は、自分の前掛けの紐を一度結び直すように指先で触れ、それから言葉を続けた。
「うちは朝四時に起きて、五時から仕込みを始めます。餡を炊いて、生地を練って、九時までに最初の焼きあがりを店頭に並べる。そのあと、昼の注文分の最中を詰めて、午後に配達に出て……」
そこで一度、言葉が途切れた。思い出すだけで、少し息が上がるような流れだ。
「全部を書き出すと、こうして一日が埋まっていきます。だから私は、注文が増えたときでも、途中に必ず十五分の休憩を二回、紙に書いて入れるようにしています。お茶を飲んで、腰を伸ばす時間です」
テーブルの上にある紙ナプキンを一枚取り、亜友はボールペンで簡単な時間割を書いてみせた。
「この休憩を無くしたら、その日はどうにか乗り切れても、次の日に体が動かなくなります。すると、仕込みが遅れて、お客さんを待たせてしまう。だから、『無理をして頑張る』よりも、『無理にならないように、最初から決める』方を選んでいます」
書き終えた時間割を、皆の方に向けた。
「たぶん、こういう話を聞く場所を作るときも、同じだと思うんです。『誰かの話を聞いてあげたい』という気持ちはとても大事です。でも、そのせいで、誰かが夜遅くまで起きてしまったり、自分の店の仕込みができなくなったりしたら、長く続きません」
店内が、静かになった。
ポットの沸騰音だけが、かすかに耳に届く。
「だから、最初から『この曜日の、この時間だけ』と決めてしまうのが良いと思います。あとは、『ここまでなら手伝える』ということを、お互いに口に出す。でも、『それ以上は難しい』と思ったら、その正直さも大事にしてほしい」
亜友は、「無理はしない」という言葉を使わなかった。
代わりに、「続けられるように決める」と静かに繰り返した。
その言い方が、悠之介の胸にすとん、と落ちた。
「……なるほど」
ノートの上で、ボールペンが自然と動き始める。
議事録のページに、「週一回」「曜日」「時間」「紹介するときの言い方」「各店ができること/難しいこと」という項目を書き出していく。
「紙月堂側としては?」
紗菜が、悠之介の方を見た。
「店長の口からも、一度、言っておいてほしいな」
急に視線を集められて、喉が少し乾く。
それでも、ノートに書いた言葉を一つずつ追いながら、ゆっくり口を開いた。
「……紙月堂では」
一呼吸おいてから、続ける。
「毎週水曜日の夕方、六時から八時までを、『仕事の話をしても大丈夫な時間』にしようと思います。その間、席が空いていれば、どなたでも座っていいです。話したくなければ、黙ってノートを書いていても構いません」
ポットの隣のマグカップと、棚のノートが視界の端に映る。
「その時間以外は、普通の文具屋と、いつもの休憩場所として使ってください。相談を受けられるのは、その二時間だけです。それ以上になると、こちらも続けられなくなるので」
言いながら、自分自身に言い聞かせているような気持ちになった。
店主たちは、しばらく黙って考えていたが、やがて山田が口を開いた。
「分かりやすくていいねえ。『水曜の夕方なら、話を聞いてくれる場所があるよ』って、お客さんに言える」
「うちも、店を閉めた後なら、一人くらい顔を出せるかもしれないよ」
「水曜なら、コロッケの注文も少なめだしね」
それぞれの店の一週間の流れを頭に思い浮かべながら、言葉を重ねていく。
「じゃあ、その時間に来る人に出せるものは……」
そこで、臣全がぱっと顔を上げた。
「亜友堂の最中と、紙月堂のコーヒー、って組み合わせはどう? 疲れてる人には甘いものと温かい飲み物が一番だし」
「最中を全部そっちに持っていかれたら、うちの店頭から無くなっちゃいますよ」
亜友は、くすりと笑った。
「一箱だけ、毎週用意します。その代わり、ちゃんと注文してください。『水曜の相談の時間に来る人の分』って、前日までに紙に書いて渡してもらえれば、仕込みの段取りに組み込めますから」
「じゃあ、ボールペンを一箱、こちらから」
悠之介も、思わず口を挟んでいた。
「そちらの店で、注文票を書く用に。インクがかすれたら困るでしょうし」
亜友は、少し驚いたように目を瞬いたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます」
和菓子とボールペン。
まったく性質の違う品物なのに、こうしてお互いの仕事の中で場所が決まると、ひとつの約束の印のように思えた。
「他のお店も、何かできそうなことがあったら教えてください」
紗菜が、テーブルの真ん中に視線を戻した。
「『次回の水曜日までに考えてくる』で、今日はいいと思います。無理にその場で答えを出そうとすると、どこかにしわ寄せが来ますから」
その一言で、会話の終わり方も見えてきた。
悠之介は、議事録のページの最後に、「次回:水曜夕方の様子を共有」と書き込む。ページの端には、小さくチェックボックスも描いておいた。
「じゃ、今日はこのへんで解散にしましょうか」
会議の締めの言葉は、亜友が静かに口にした。
皆が椅子から立ち上がり、軽く頭を下げ合う。最中の箱から、試食用にと二つだけ開けられた分が、テーブルの真ん中に残った。
「これ、店長と紗菜さんでどうぞ」
亜友が箱を差し出す。
「次の水曜日に向けて、議事録のまとめと、席の準備があるでしょうから」
「お気遣いなく」
「甘いものは、考え事の友ですから」
そう言って、亜友は笑った。
彼女たちが店を出て行き、ガラス戸が閉まると、紙月堂の中には再び静けさが戻った。
テーブルの上には、書き込まれた議事録のノートと、食べかけの最中が二つ。カウンターの隅では、ポットの湯気がまだかすかに立ち上っている。
「……和菓子とボールペン、か」
悠之介は、最中の箱のラベルを見つめながら、ぽつりと呟いた。
臣全が勝手に貼り出したチラシ。商店街の連絡先ファイル。今日の議事録。
それぞれが別々の紙のようでいて、少しずつ重なり合い、一枚の束になりつつある気がした。
「店長」
カウンターの向こうから、紗菜が声をかけた。
「議事録、コピーしておこうか。みんなに一枚ずつ渡せるように」
「そうだな。抜けがないか、もう一度確認してから」
悠之介はノートを開き、項目を一つずつ読み返した。
水曜日の時間。紹介の言葉。各店が「できるかもしれないこと」と「難しいこと」。次回、確認する内容。
書き漏らしはない。
ページの最後に、小さく線を引き、「本日のまとめ」とだけ書き添えた。
それを見た紗菜が、ふっと笑う。
「ちゃんと、まとめ役になってるじゃない」
「人前でそう言うな」
「はいはい。じゃあ、コピー機の代わりに、私のノートにも写させてね」
紗菜は、自分の手帳を取り出し、要点だけを素早く書き写し始めた。
ボールペンが走る音と、ポットの小さな音。最中の甘い香り。
紙月堂の夜は、静かに、しかし確かに、新しい約束の匂いをまとい始めていた。
惣菜屋からは揚げ物の油の匂いが漂い、クリーニング店のスチームの音がかすかに聞こえる。その端で、紙月堂のガラス戸には、相変わらず「準備中」の札が揺れていた。
店の中では、悠之介がカウンターの上の書類を並べ替えていた。
昼間、臣全が集めてきた名刺と、手書きの連絡先メモ。その一枚一枚を、ファイルのポケットに丁寧に差し込んでいく。店名の読みが迷いそうなものには、鉛筆で小さくふりがなも添えた。
表紙には「星見商店街 連絡先ファイル」と書いてある。
その文字を見つめていると、肩にじわりと重さが乗ってくるようだった。
「……名前だけでも、ちゃんと並べておかないとな」
小さく呟いて、最後の一枚を差し込んだところで、ガラス戸の向こうに人影が差した。
戸の上の鈴が、ちりん、と控えめに鳴る。
「紙月堂さん……でしょうか」
おずおずとした声が、ガラス越しに届いた。
見上げると、紺色の前掛けをした女性が、両手で白い箱を抱えて立っていた。前掛けの胸元には、小さく「亜友堂」と刺繍された布が縫い付けてある。
「はい。どうぞ」
悠之介が戸を開けると、甘い餡の匂いがふわりと流れ込んできた。箱の角は、紙ひもできれいに結ばれている。結び目の位置がぴたりと真ん中に収まっていて、その几帳面さに目がいった。
「亜友堂の……亜友と申します。遅くなりましたが、ご挨拶に」
女性は、小さく頭を下げた。
目元にうっすらとクマがありながらも、言葉の一つ一つを確かめるようにゆっくり話す。その口調には、忙しさの中でも順番を崩さない人の気配があった。
「わざわざ、ありがとうございます」
悠之介が受け取った箱は、思ったより重かった。中身の最中が、きちんと詰められているのだろう。
「本当は、昼間のうちに伺いたかったのですが……」
亜友は、前掛けの端を指先でつまんだ。
「朝から注文が立て込んでしまって。納品を全部終えて、店を一旦閉めてから、ようやく手が空きました」
「お忙しいところを、すみません」
「いえ。うちのお饅頭や最中が、こちらに来られる方の話のきっかけになればと思いまして」
そう言って、亜友は店内をぐるりと見渡した。
棚に並ぶノートやペン。カウンターの隅のポット。そして、開いたままの連絡先ファイル。
「あ、これ」
亜友の視線が、ファイルの表紙に止まる。
「臣全くんが言っていた、商店街の連絡先の整理ですか?」
「ええ。さっきまで、皆さんに書いてもらった紙を入れていました」
「すごいですね。うち、こういうのは箱に突っ込んでしまいがちで」
亜友は、照れくさそうに笑った。
「帳簿の横にこういうものがあると、少し安心します。名前と場所が、ちゃんと見えるようになっていると、困ったときに助けを頼みやすいので」
その言葉に、悠之介はわずかに肩の力が抜けるのを感じた。
「……ありがとうございます」
「それで、今日の打ち合わせの件ですが」
亜友は、腕時計をちらりと見た。針は、約束の時間の十分前を指している。
「臣全くんから、『紙月堂さんを、働き方で悩んでいる人の話を聞く場所にしたいから、一度集まって話したい』と聞きまして」
「はい。僕も詳しいことは、まだ……」
言いかけたところで、店の外から賑やかな声が聞こえてきた。
「おーい、紙月堂ー! 集合だよー!」
聞き慣れた調子の声。ガラス戸の向こうで、臣全が手を振っている。その後ろには、八百屋の山田、クリーニング店の店主、コロッケ屋の奥さんが、それぞれ手に仕事道具を持ったまま立っていた。
「ほらほら、予定より五分前集合。優秀だね、星見商店街!」
「勝手に仕切るな」
悠之介は思わずため息をついた。
それでも、入口の前で立ち尽くしている人たちをそのままにはしておけず、ガラス戸を大きく開ける。
「狭いですが、どうぞ」
「お邪魔します」
「いやあ、こうして中に入るの、久しぶりだよ」
「前は、孫に鉛筆買いに来させてたけどねえ」
それぞれが、思い出話を一言ずつこぼしながら、店内に足を踏み入れる。
棚の間を少し詰めて作ったスペースに、折りたたみのテーブルが一つと、椅子が六脚。紗菜が昼間のうちに配置してくれたものだ。
カウンターの横では、ポットから聞こえる湯気の音が、いつもより少しだけ心強く感じられた。
「じゃあ、今日の話の流れを」
誰より早く椅子に座った臣全が、胸を張って立ち上がった。
「星見商店街の店主の皆さんと一緒に、『仕事でしんどくなった人が、どこに寄ればいいか』を決めておきたいと思ってます。その候補として、紙月堂を使わせてもらいたい。そういう時間です」
説明だけ聞けば、筋は通っている。
しかし、言葉の勢いが良すぎて、聞いている側の表情には少し不安の色が混ざった。
「そんな大それた、ねえ……」
「うちは、営業時間も長いから、人の話を聞いてる余裕があるかどうか」
クリーニング店の主が眉をひそめ、コロッケ屋の奥さんが首をかしげる。
悠之介は、テーブルの端にノートを開き、ボールペンを構えたまま、そのやり取りを見つめていた。ページの上には、「本日の打ち合わせ」と書いてあるが、その下はまだ真っ白だ。
「ええと」
紗菜が、テーブルの端の椅子から静かに口を開いた。
「今日決めたいのは、『全部を一度にやる』話じゃなくて、『最初にどこまでなら無理なくできるか』だと思うんです」
視線が、一斉に紗菜の方を向く。
「たとえば、紙月堂の中で、週に一回だけ、『仕事の話をしても大丈夫な席』を決める。そこに、もし自分の店のお客さんで悩んでいる人がいたら、『ここに休みに行ってみたら』って紹介する。最初は、そのくらいの小さな約束でも、意味があると思うんですよ」
紗菜の言葉は、勢いはないが、文と文の間に呼吸がある。
その隙間で、皆が自分の店の様子を頭の中に並べていくのが、悠之介にも分かった。
「……なるほどねえ」
山田が、腕を組んでうなずいた。
「うちも、重い箱を抱えて肩をさすりながら帰っていく人を見送ること、多いからね。そういう人に、『ちょっと座れる場所があるよ』って言えるのは、いいかもしれない」
「ただ」
そこで、亜友がそっと手を挙げた。
「一つ、お願いしたいことがあります」
穏やかな声だった。
「こういう話をするとき、休憩の時間も最初から予定に入れておいてほしいんです」
「休憩?」
臣全が首をかしげる。
「はい」
亜友は、自分の前掛けの紐を一度結び直すように指先で触れ、それから言葉を続けた。
「うちは朝四時に起きて、五時から仕込みを始めます。餡を炊いて、生地を練って、九時までに最初の焼きあがりを店頭に並べる。そのあと、昼の注文分の最中を詰めて、午後に配達に出て……」
そこで一度、言葉が途切れた。思い出すだけで、少し息が上がるような流れだ。
「全部を書き出すと、こうして一日が埋まっていきます。だから私は、注文が増えたときでも、途中に必ず十五分の休憩を二回、紙に書いて入れるようにしています。お茶を飲んで、腰を伸ばす時間です」
テーブルの上にある紙ナプキンを一枚取り、亜友はボールペンで簡単な時間割を書いてみせた。
「この休憩を無くしたら、その日はどうにか乗り切れても、次の日に体が動かなくなります。すると、仕込みが遅れて、お客さんを待たせてしまう。だから、『無理をして頑張る』よりも、『無理にならないように、最初から決める』方を選んでいます」
書き終えた時間割を、皆の方に向けた。
「たぶん、こういう話を聞く場所を作るときも、同じだと思うんです。『誰かの話を聞いてあげたい』という気持ちはとても大事です。でも、そのせいで、誰かが夜遅くまで起きてしまったり、自分の店の仕込みができなくなったりしたら、長く続きません」
店内が、静かになった。
ポットの沸騰音だけが、かすかに耳に届く。
「だから、最初から『この曜日の、この時間だけ』と決めてしまうのが良いと思います。あとは、『ここまでなら手伝える』ということを、お互いに口に出す。でも、『それ以上は難しい』と思ったら、その正直さも大事にしてほしい」
亜友は、「無理はしない」という言葉を使わなかった。
代わりに、「続けられるように決める」と静かに繰り返した。
その言い方が、悠之介の胸にすとん、と落ちた。
「……なるほど」
ノートの上で、ボールペンが自然と動き始める。
議事録のページに、「週一回」「曜日」「時間」「紹介するときの言い方」「各店ができること/難しいこと」という項目を書き出していく。
「紙月堂側としては?」
紗菜が、悠之介の方を見た。
「店長の口からも、一度、言っておいてほしいな」
急に視線を集められて、喉が少し乾く。
それでも、ノートに書いた言葉を一つずつ追いながら、ゆっくり口を開いた。
「……紙月堂では」
一呼吸おいてから、続ける。
「毎週水曜日の夕方、六時から八時までを、『仕事の話をしても大丈夫な時間』にしようと思います。その間、席が空いていれば、どなたでも座っていいです。話したくなければ、黙ってノートを書いていても構いません」
ポットの隣のマグカップと、棚のノートが視界の端に映る。
「その時間以外は、普通の文具屋と、いつもの休憩場所として使ってください。相談を受けられるのは、その二時間だけです。それ以上になると、こちらも続けられなくなるので」
言いながら、自分自身に言い聞かせているような気持ちになった。
店主たちは、しばらく黙って考えていたが、やがて山田が口を開いた。
「分かりやすくていいねえ。『水曜の夕方なら、話を聞いてくれる場所があるよ』って、お客さんに言える」
「うちも、店を閉めた後なら、一人くらい顔を出せるかもしれないよ」
「水曜なら、コロッケの注文も少なめだしね」
それぞれの店の一週間の流れを頭に思い浮かべながら、言葉を重ねていく。
「じゃあ、その時間に来る人に出せるものは……」
そこで、臣全がぱっと顔を上げた。
「亜友堂の最中と、紙月堂のコーヒー、って組み合わせはどう? 疲れてる人には甘いものと温かい飲み物が一番だし」
「最中を全部そっちに持っていかれたら、うちの店頭から無くなっちゃいますよ」
亜友は、くすりと笑った。
「一箱だけ、毎週用意します。その代わり、ちゃんと注文してください。『水曜の相談の時間に来る人の分』って、前日までに紙に書いて渡してもらえれば、仕込みの段取りに組み込めますから」
「じゃあ、ボールペンを一箱、こちらから」
悠之介も、思わず口を挟んでいた。
「そちらの店で、注文票を書く用に。インクがかすれたら困るでしょうし」
亜友は、少し驚いたように目を瞬いたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます」
和菓子とボールペン。
まったく性質の違う品物なのに、こうしてお互いの仕事の中で場所が決まると、ひとつの約束の印のように思えた。
「他のお店も、何かできそうなことがあったら教えてください」
紗菜が、テーブルの真ん中に視線を戻した。
「『次回の水曜日までに考えてくる』で、今日はいいと思います。無理にその場で答えを出そうとすると、どこかにしわ寄せが来ますから」
その一言で、会話の終わり方も見えてきた。
悠之介は、議事録のページの最後に、「次回:水曜夕方の様子を共有」と書き込む。ページの端には、小さくチェックボックスも描いておいた。
「じゃ、今日はこのへんで解散にしましょうか」
会議の締めの言葉は、亜友が静かに口にした。
皆が椅子から立ち上がり、軽く頭を下げ合う。最中の箱から、試食用にと二つだけ開けられた分が、テーブルの真ん中に残った。
「これ、店長と紗菜さんでどうぞ」
亜友が箱を差し出す。
「次の水曜日に向けて、議事録のまとめと、席の準備があるでしょうから」
「お気遣いなく」
「甘いものは、考え事の友ですから」
そう言って、亜友は笑った。
彼女たちが店を出て行き、ガラス戸が閉まると、紙月堂の中には再び静けさが戻った。
テーブルの上には、書き込まれた議事録のノートと、食べかけの最中が二つ。カウンターの隅では、ポットの湯気がまだかすかに立ち上っている。
「……和菓子とボールペン、か」
悠之介は、最中の箱のラベルを見つめながら、ぽつりと呟いた。
臣全が勝手に貼り出したチラシ。商店街の連絡先ファイル。今日の議事録。
それぞれが別々の紙のようでいて、少しずつ重なり合い、一枚の束になりつつある気がした。
「店長」
カウンターの向こうから、紗菜が声をかけた。
「議事録、コピーしておこうか。みんなに一枚ずつ渡せるように」
「そうだな。抜けがないか、もう一度確認してから」
悠之介はノートを開き、項目を一つずつ読み返した。
水曜日の時間。紹介の言葉。各店が「できるかもしれないこと」と「難しいこと」。次回、確認する内容。
書き漏らしはない。
ページの最後に、小さく線を引き、「本日のまとめ」とだけ書き添えた。
それを見た紗菜が、ふっと笑う。
「ちゃんと、まとめ役になってるじゃない」
「人前でそう言うな」
「はいはい。じゃあ、コピー機の代わりに、私のノートにも写させてね」
紗菜は、自分の手帳を取り出し、要点だけを素早く書き写し始めた。
ボールペンが走る音と、ポットの小さな音。最中の甘い香り。
紙月堂の夜は、静かに、しかし確かに、新しい約束の匂いをまとい始めていた。
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