12 / 40
第12話 中学生の職場体験
しおりを挟む
火曜日の朝の星見商店街は、いつもより少しだけにぎやかだった。
アーケードの柱には、「星見第二中学校 職場体験受け入れ ご協力ありがとうございます」と書かれた紙が貼られている。登校時間を過ぎたはずなのに、制服姿の中学生がちらほらと行き交い、それぞれの店の前で立ち止まっては、緊張した顔であいさつをしていた。
紙月堂の前には、「準備中」の札と並んで、小さな紙が一枚、美津代に頼んで作ってもらったマグネットで止めてある。
『本日 午前中
中学生の職場体験の見学があります』
文字の下には、小さく「静かに応援していただけると助かります」と添えてある。
「……静かに応援って、具体的にどうするんだろうな」
カウンターの中で、悠之介がその紙を見上げてつぶやく。
「きっと、心の中で拍手とか?」
エプロン姿の紗菜が、カウンターの端で湯飲みを並べながら答える。
「外からガラス越しに、じーっと見守る、とか」
「それはそれでプレッシャーじゃない?」
二人がそんなことを話していると、ガラス戸の向こうに、二つの影が並んだ。
「し、失礼します!」
勢いよく戸が開き、制服姿の男女がそろって頭を下げた。
名札には、「星見第二中学校 職場体験」と書かれた紙がクリップで留めてある。
「おはようございます。三日間、お世話になります!」
彼らを引率してきたのは、近所の学習塾でアルバイトをしている大学生だった。聞き覚えのある声だと思ったら、かつて紙月堂で受験勉強をしていた常連だった。
「店長、覚えてます? 二年前、『ここ、落ち着くから勉強させてください』って言ってた者です」
「覚えてる。あのときは、こっちの方が『ここで良いのか』ってドキドキしてたな」
そう言って笑うと、大学生はほっとしたように肩の力を抜いた。
「この子たち、今日から三日間、こちらで『仕事の見学』をさせていただきます。作業のお手伝いは、できる範囲で」
「よろしくお願いします」
男子の方が、少し緊張した声で頭を下げる。前髪が目にかかりそうな彼は、自分の名札をちらっと見てから名乗った。
「天野 光です。図書委員やってます」
「同じく、中村 里沙です。放送委員です」
里沙は、声の出し方に慣れているのか、名前をはっきりと言った。
「図書と放送か」
悠之介は、その組み合わせに、職場体験担当の先生の意図を勝手に想像した。
「ここは、『紙』と『声』、どっちも使う場所だからな」
「声、ですか?」
光が、不思議そうに首をかしげる。
「接客のときの声もそうだし、水曜の相談のときも、『どこまで言葉にするか』っていつも悩むから」
紗菜が、ポットに水を入れながら言う。
「今日は、『店の中でどんな言葉が使われているか』を、よく聞いてみてくれる?」
「はい」
二人は、少しだけ真剣な顔になった。
「まずは、店の中を一周しようか」
紗菜が、店内を案内する。
入り口近くの「しごと雑貨」の棚。
カウンターの中のレジと、伝票の束。
奥の方には、祖父の代から使っている木の棚と、小さな給湯スペース。
「ここが、『休憩の時間をつくる道具』の棚です」
下段の棚を指さしながら、紗菜が説明する。
「マグカップとタイマーと、飴玉。さっき、『休憩を応援する棚です』って言ったら、生徒会長の子に笑われました」
「笑われたんですか」
「『応援って、部活みたいでいいですね』って」
そんな話に、中学生二人も少し笑った。
「天野くんは、どこを見てみたい?」
「えっと……その、帳簿とか」
光は、カウンターの奥に置かれたファイルの山に目をやった。
「図書室でも、貸出カードとか台帳見るの、けっこう好きで」
「いいね。こっちは図書室と違って、『お金の本棚』だけど」
悠之介は、経費ファイルの表紙を軽く叩いた。
「ただ、中身は個人情報とかもあるから、全部は見せられない。その代わり、『どんなふうに月の終わりを迎えているか』は、ざっくり説明しようか」
「はい」
「中村さんは?」
「私は……放送室みたいなところがあれば、そこを」
「放送室?」
里沙は、少し恥ずかしそうに言った。
「お昼の放送で、図書委員の人が本の紹介をしたりするんですけど、それを『どうやったら聞いてもらえるか』って、よく考えるので。ここでも、そういう『伝え方』をしてるのかなって」
その言葉に、紗菜と悠之介は、同時に目を合わせた。
「……あるね」
「あるな」
二人の視線が向かったのは、レジの横にある小さな黒板だった。
そこには、季節のブレンドや、新しく入ったノートの紹介が、短い言葉とイラストで書かれている。
「ここが、紙月堂の『放送室』みたいなもんだな」
悠之介が、チョークを持ち上げる。
「文字数少ないから、一回書き始めると、やり直しがきかない」
「放送原稿みたいですね」
里沙が、黒板に顔を近づけた。
「『今日の気まぐれ』って、先生が言ったら怒りそうな表現ですけど、ここだとなんか、いいですね」
「『誰の気まぐれか』をちゃんと書いてあるからかも」
紗菜が、「店長の帳簿と相談します」という部分を指さす。
「責任者が誰かははっきりしてるから、言葉で遊べる」
「なるほど……」
里沙は、黒板の前でメモ帳を取り出し、小さく何かを書き留め始めた。
午前中は、店の開店準備を見てもらうことにした。
フロアの掃き掃除。
棚の上のほこりとり。
レジの金額の確認。
中学生に任せることができる作業と、大人がやるべき作業を、うまく分けながら進めていく。
「この札、今日の分に変えてみる?」
紗菜が、レジの横にかけてある「今日のひと言」と書かれたボードを指さした。
そこには、昨日の夜に書いた『月末おつかれさまです』の文字が残っている。
「天野くんたちが、『今日のひと言』を考えてくれる?」
「いいんですか」
「もちろん。ただし条件が一つ」
紗菜は、ペンをくるくる回しながら言った。
「この店に来る人の中には、『この一言だけ読む人』もいるって想像して書いてみて」
「一言だけ……」
「そう。急いでる人が、足早に通りながらちらっと読む、みたいな」
二人は、ボードの前で腕を組んだ。
光が、何度かペンを持っては止め、消しては書き直す。
里沙は、口の中で小さくつぶやきながら言葉の響きを確かめている。
十分ほど経って、二人はようやく一つの言葉にたどり着いた。
『今日の「ここまで」は、自分で決めていいです』
その下には、小さく「紙月堂」と署名が添えられた。
「いいじゃん」
紗菜が、素直に言った。
「ここまで、ってなんですか?」
光が尋ねる。
「宿題かもしれないし、仕事かもしれないし、家事かもしれないけど、『今日はここまででいいや』って線を引くのって、けっこう勇気いるんだよ」
悠之介は、ボードをガラス戸の近くに掛け替えながら言う。
「その一言が、どこかで誰かの背中を押したらいいなって」
「放送室でも使えそうな言葉ですね」
里沙が、メモ帳にその一文を書き写した。
開店時間になると、いつものように「準備中」の札をひっくり返し、「営業中」にする。
中学生ふたりは、カウンターの後ろと棚の近く、それぞれ少し引いた位置で様子を見守ることになった。
客席には、いつものように、近所の会社員や商店街の人たちがぽつぽつと入ってくる。
「いらっしゃいませ」
紗菜の声に続いて、少し遅れて光と里沙の声も重なる。
「い、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ!」
その差を聞き分けた亜友が、そっと目を細める。
「かわいいですね」
「声が変にそろいそうでこわいけどな」
カウンターの中で、悠之介が小さく笑った。
午前中の終わりごろ、一人の女性が、戸の前で立ち止まった。
首から社員証を下げたスーツ姿。書類のファイルを抱え、少し疲れた顔をしている。
ガラス戸の「今日のひと言」を読み、ふっと笑ってから中に入ってきた。
「こんにちは。お昼、ここでとってもいいですか」
「どうぞ」
紗菜が席を案内し、悠之介が注文を聞きに行く。
光は、その様子をじっと見ていた。
「天野くん。さっきの『今日のここまで』、効いたみたいだよ」
紗菜が小声でささやく。
「え?」
「あの人、看板見てから顔が少しやわらいだから」
言われてみれば、たしかに店に入ってきたときの表情と、今メニューを見ている顔つきは違って見えた。
「ここでご飯を食べて、『ここまでにしよう』って決める人もいる。逆に、『もう少しだけがんばろう』って決める人もいる」
「同じ言葉で、ですか」
「うん。受け取り方は、その人の中にあるから」
光は、自分が書いた文字を、もう一度思い浮かべた。
職場体験の時間は、あっという間に過ぎていった。
閉店前、大学生の引率者が迎えに来る。
「どうだった?」
「帳簿って、思ったよりも『出来事のメモ』なんだなって」
光が、経費ファイルをちらっと見ながら言った。
「売上だけじゃなくて、『きなこ棒試作』『ごみ箱(おしゃれ度4)』とか、いろいろ書いてあって」
「そこに気づいたか」
悠之介は、少し照れくさそうに笑った。
「放送室みたいな黒板も、面白かったです」
里沙が言う。
「『店長の帳簿と相談します』の一言で、急に現実味が出るのに、『気まぐれ』って言葉がゆるくしてくれてるのが、ずるいなって」
「ずるい?」
「いい意味で、です」
里沙は、少し慌てて付け足した。
「放送でも、『このコーナーは先生たちの独断と偏見でお送りしています』って言うと、みんな笑ってくれるので」
「独断と偏見は、帳簿に載せにくいけどな」
紗菜が、苦笑しながら言う。
「でも、『誰が決めたか』をはっきりさせるのは大事だよね」
帰り際、二人はガラス戸の前で振り返った。
「今日のひと言、家でも使ってみます」
光が言う。
「宿題の『ここまで』を決めるときに」
「放送室でも、『今日のここまで』ってコーナー作ろうかな」
里沙が、半分冗談のように言った。
「そのときは、『紙月堂の看板から借りました』って、一応言っといて」
紗菜が笑う。
「引用元の表記、大事ですからね」
大学生が、横でうなずいた。
「じゃあ、明日は、もう少し店の裏側を見てもらおうか」
悠之介は、心の中で明日の段取りを組み始めていた。
仕入れのリストの作り方。
商店街の会合の案内が届いたときの処理。
水曜の「仕事の話をしても大丈夫な時間」の準備。
中学生に見せられることと、見せない方がいいこと。
その線引きも、明日までに決めておかないといけない。
ガラス戸の外に出て行く三人を見送りながら、悠之介は、「今日のひと言」のボードをもう一度見上げた。
『今日の「ここまで」は、自分で決めていいです』
この一文が、店の外でも少しずつ広がっていくのかもしれない。
そう思うと、帳簿の中の小さな数字も、どこか違って見えてきた。
アーケードの柱には、「星見第二中学校 職場体験受け入れ ご協力ありがとうございます」と書かれた紙が貼られている。登校時間を過ぎたはずなのに、制服姿の中学生がちらほらと行き交い、それぞれの店の前で立ち止まっては、緊張した顔であいさつをしていた。
紙月堂の前には、「準備中」の札と並んで、小さな紙が一枚、美津代に頼んで作ってもらったマグネットで止めてある。
『本日 午前中
中学生の職場体験の見学があります』
文字の下には、小さく「静かに応援していただけると助かります」と添えてある。
「……静かに応援って、具体的にどうするんだろうな」
カウンターの中で、悠之介がその紙を見上げてつぶやく。
「きっと、心の中で拍手とか?」
エプロン姿の紗菜が、カウンターの端で湯飲みを並べながら答える。
「外からガラス越しに、じーっと見守る、とか」
「それはそれでプレッシャーじゃない?」
二人がそんなことを話していると、ガラス戸の向こうに、二つの影が並んだ。
「し、失礼します!」
勢いよく戸が開き、制服姿の男女がそろって頭を下げた。
名札には、「星見第二中学校 職場体験」と書かれた紙がクリップで留めてある。
「おはようございます。三日間、お世話になります!」
彼らを引率してきたのは、近所の学習塾でアルバイトをしている大学生だった。聞き覚えのある声だと思ったら、かつて紙月堂で受験勉強をしていた常連だった。
「店長、覚えてます? 二年前、『ここ、落ち着くから勉強させてください』って言ってた者です」
「覚えてる。あのときは、こっちの方が『ここで良いのか』ってドキドキしてたな」
そう言って笑うと、大学生はほっとしたように肩の力を抜いた。
「この子たち、今日から三日間、こちらで『仕事の見学』をさせていただきます。作業のお手伝いは、できる範囲で」
「よろしくお願いします」
男子の方が、少し緊張した声で頭を下げる。前髪が目にかかりそうな彼は、自分の名札をちらっと見てから名乗った。
「天野 光です。図書委員やってます」
「同じく、中村 里沙です。放送委員です」
里沙は、声の出し方に慣れているのか、名前をはっきりと言った。
「図書と放送か」
悠之介は、その組み合わせに、職場体験担当の先生の意図を勝手に想像した。
「ここは、『紙』と『声』、どっちも使う場所だからな」
「声、ですか?」
光が、不思議そうに首をかしげる。
「接客のときの声もそうだし、水曜の相談のときも、『どこまで言葉にするか』っていつも悩むから」
紗菜が、ポットに水を入れながら言う。
「今日は、『店の中でどんな言葉が使われているか』を、よく聞いてみてくれる?」
「はい」
二人は、少しだけ真剣な顔になった。
「まずは、店の中を一周しようか」
紗菜が、店内を案内する。
入り口近くの「しごと雑貨」の棚。
カウンターの中のレジと、伝票の束。
奥の方には、祖父の代から使っている木の棚と、小さな給湯スペース。
「ここが、『休憩の時間をつくる道具』の棚です」
下段の棚を指さしながら、紗菜が説明する。
「マグカップとタイマーと、飴玉。さっき、『休憩を応援する棚です』って言ったら、生徒会長の子に笑われました」
「笑われたんですか」
「『応援って、部活みたいでいいですね』って」
そんな話に、中学生二人も少し笑った。
「天野くんは、どこを見てみたい?」
「えっと……その、帳簿とか」
光は、カウンターの奥に置かれたファイルの山に目をやった。
「図書室でも、貸出カードとか台帳見るの、けっこう好きで」
「いいね。こっちは図書室と違って、『お金の本棚』だけど」
悠之介は、経費ファイルの表紙を軽く叩いた。
「ただ、中身は個人情報とかもあるから、全部は見せられない。その代わり、『どんなふうに月の終わりを迎えているか』は、ざっくり説明しようか」
「はい」
「中村さんは?」
「私は……放送室みたいなところがあれば、そこを」
「放送室?」
里沙は、少し恥ずかしそうに言った。
「お昼の放送で、図書委員の人が本の紹介をしたりするんですけど、それを『どうやったら聞いてもらえるか』って、よく考えるので。ここでも、そういう『伝え方』をしてるのかなって」
その言葉に、紗菜と悠之介は、同時に目を合わせた。
「……あるね」
「あるな」
二人の視線が向かったのは、レジの横にある小さな黒板だった。
そこには、季節のブレンドや、新しく入ったノートの紹介が、短い言葉とイラストで書かれている。
「ここが、紙月堂の『放送室』みたいなもんだな」
悠之介が、チョークを持ち上げる。
「文字数少ないから、一回書き始めると、やり直しがきかない」
「放送原稿みたいですね」
里沙が、黒板に顔を近づけた。
「『今日の気まぐれ』って、先生が言ったら怒りそうな表現ですけど、ここだとなんか、いいですね」
「『誰の気まぐれか』をちゃんと書いてあるからかも」
紗菜が、「店長の帳簿と相談します」という部分を指さす。
「責任者が誰かははっきりしてるから、言葉で遊べる」
「なるほど……」
里沙は、黒板の前でメモ帳を取り出し、小さく何かを書き留め始めた。
午前中は、店の開店準備を見てもらうことにした。
フロアの掃き掃除。
棚の上のほこりとり。
レジの金額の確認。
中学生に任せることができる作業と、大人がやるべき作業を、うまく分けながら進めていく。
「この札、今日の分に変えてみる?」
紗菜が、レジの横にかけてある「今日のひと言」と書かれたボードを指さした。
そこには、昨日の夜に書いた『月末おつかれさまです』の文字が残っている。
「天野くんたちが、『今日のひと言』を考えてくれる?」
「いいんですか」
「もちろん。ただし条件が一つ」
紗菜は、ペンをくるくる回しながら言った。
「この店に来る人の中には、『この一言だけ読む人』もいるって想像して書いてみて」
「一言だけ……」
「そう。急いでる人が、足早に通りながらちらっと読む、みたいな」
二人は、ボードの前で腕を組んだ。
光が、何度かペンを持っては止め、消しては書き直す。
里沙は、口の中で小さくつぶやきながら言葉の響きを確かめている。
十分ほど経って、二人はようやく一つの言葉にたどり着いた。
『今日の「ここまで」は、自分で決めていいです』
その下には、小さく「紙月堂」と署名が添えられた。
「いいじゃん」
紗菜が、素直に言った。
「ここまで、ってなんですか?」
光が尋ねる。
「宿題かもしれないし、仕事かもしれないし、家事かもしれないけど、『今日はここまででいいや』って線を引くのって、けっこう勇気いるんだよ」
悠之介は、ボードをガラス戸の近くに掛け替えながら言う。
「その一言が、どこかで誰かの背中を押したらいいなって」
「放送室でも使えそうな言葉ですね」
里沙が、メモ帳にその一文を書き写した。
開店時間になると、いつものように「準備中」の札をひっくり返し、「営業中」にする。
中学生ふたりは、カウンターの後ろと棚の近く、それぞれ少し引いた位置で様子を見守ることになった。
客席には、いつものように、近所の会社員や商店街の人たちがぽつぽつと入ってくる。
「いらっしゃいませ」
紗菜の声に続いて、少し遅れて光と里沙の声も重なる。
「い、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ!」
その差を聞き分けた亜友が、そっと目を細める。
「かわいいですね」
「声が変にそろいそうでこわいけどな」
カウンターの中で、悠之介が小さく笑った。
午前中の終わりごろ、一人の女性が、戸の前で立ち止まった。
首から社員証を下げたスーツ姿。書類のファイルを抱え、少し疲れた顔をしている。
ガラス戸の「今日のひと言」を読み、ふっと笑ってから中に入ってきた。
「こんにちは。お昼、ここでとってもいいですか」
「どうぞ」
紗菜が席を案内し、悠之介が注文を聞きに行く。
光は、その様子をじっと見ていた。
「天野くん。さっきの『今日のここまで』、効いたみたいだよ」
紗菜が小声でささやく。
「え?」
「あの人、看板見てから顔が少しやわらいだから」
言われてみれば、たしかに店に入ってきたときの表情と、今メニューを見ている顔つきは違って見えた。
「ここでご飯を食べて、『ここまでにしよう』って決める人もいる。逆に、『もう少しだけがんばろう』って決める人もいる」
「同じ言葉で、ですか」
「うん。受け取り方は、その人の中にあるから」
光は、自分が書いた文字を、もう一度思い浮かべた。
職場体験の時間は、あっという間に過ぎていった。
閉店前、大学生の引率者が迎えに来る。
「どうだった?」
「帳簿って、思ったよりも『出来事のメモ』なんだなって」
光が、経費ファイルをちらっと見ながら言った。
「売上だけじゃなくて、『きなこ棒試作』『ごみ箱(おしゃれ度4)』とか、いろいろ書いてあって」
「そこに気づいたか」
悠之介は、少し照れくさそうに笑った。
「放送室みたいな黒板も、面白かったです」
里沙が言う。
「『店長の帳簿と相談します』の一言で、急に現実味が出るのに、『気まぐれ』って言葉がゆるくしてくれてるのが、ずるいなって」
「ずるい?」
「いい意味で、です」
里沙は、少し慌てて付け足した。
「放送でも、『このコーナーは先生たちの独断と偏見でお送りしています』って言うと、みんな笑ってくれるので」
「独断と偏見は、帳簿に載せにくいけどな」
紗菜が、苦笑しながら言う。
「でも、『誰が決めたか』をはっきりさせるのは大事だよね」
帰り際、二人はガラス戸の前で振り返った。
「今日のひと言、家でも使ってみます」
光が言う。
「宿題の『ここまで』を決めるときに」
「放送室でも、『今日のここまで』ってコーナー作ろうかな」
里沙が、半分冗談のように言った。
「そのときは、『紙月堂の看板から借りました』って、一応言っといて」
紗菜が笑う。
「引用元の表記、大事ですからね」
大学生が、横でうなずいた。
「じゃあ、明日は、もう少し店の裏側を見てもらおうか」
悠之介は、心の中で明日の段取りを組み始めていた。
仕入れのリストの作り方。
商店街の会合の案内が届いたときの処理。
水曜の「仕事の話をしても大丈夫な時間」の準備。
中学生に見せられることと、見せない方がいいこと。
その線引きも、明日までに決めておかないといけない。
ガラス戸の外に出て行く三人を見送りながら、悠之介は、「今日のひと言」のボードをもう一度見上げた。
『今日の「ここまで」は、自分で決めていいです』
この一文が、店の外でも少しずつ広がっていくのかもしれない。
そう思うと、帳簿の中の小さな数字も、どこか違って見えてきた。
0
あなたにおすすめの小説
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる