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第17話 ランチタイムの押し寄せるスーツ
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昼の十二時を少し過ぎたころ、紙月堂のドアベルが、いつもよりせわしない調子で鳴り始めた。
ガラス戸の向こうから、似たような色のスーツがいくつも重なって見える。首から社員証を下げた人たちが、スマホを握ったまま、途切れなく店の中へ流れ込んできた。
「いらっしゃいませー」
カウンターの内側で、靖治が笑顔を貼りつける。
平日の昼休み。近くのオフィスビルに、臣全が頼み込んでポスターを貼らせてもらった日から、こんなふうに会社員がまとめて来ることがときどきあるようになった。
今日も、その「ときどき」が、しっかり当たってしまったらしい。
「おひとりさまはカウンター側、二人以上の方は奥のテーブルをご案内します」
紗菜が、すでに通路に出ていた。
声は落ち着いているが、歩幅はいつもより少しだけ大きい。片手でトレーを抱えたまま、視線だけで席の空きを確認し、人数と荷物の量をざっと見て、椅子を引く順番を決めていく。
「Aビルの方は、同じエリアでまとまって座ってもらえますか?」
入口近くで、スーツの胸ポケットに同じ社名が入っているグループに声をかける。
「え、あ、はい」
押し出されるようにして入ってきた若手らしい社員が、ぽかんとしながら頷いた。
「午後の会議まで一緒ですよね。席もまとめておいた方が、後で呼びやすいと思うので」
そう説明すると、グループの中の年上らしい男性が、ほっとしたように笑った。
「助かります。あっちだと、席がばらけちゃうんですよ」
「では、こちらにどうぞ」
紗菜は、ポットに入った水を先に置き、「ご注文は決まってからで大丈夫です」と一言添えてから、次のグループに向かった。
「店長、来てますねえ……」
カウンターの中から、靖治が小声でささやく。
レジ前には、すでに列ができていた。トレーを持ったスーツ、ノートパソコンを抱えたスーツ、書類のファイルを抱えたスーツ。どれも、時計をちらちら気にしている。
「慌てなくていい、とは言いたいところだけど」
悠之介は、レジ横のテーブルに並べておいた紙コップと、日替わりの軽食プレートを見やった。
今日の昼の「ひと息セット」は、パン屋から取り寄せた小さめのパンと、惣菜屋の軽めの揚げ物、そして亜友堂の一口羊羹が一つ。飲み物を付けて、時間をかけずに食べられるようにした。
「靖治、レジ頼む。俺はトレー出しと会計の仕分けに回る」
「了解です!」
元気よく返事をしたものの、最初の一組が目の前に立った瞬間、靖治の頭の中は、急に情報でいっぱいになった。
「えっと……『ひと息セット』を三つと、ホットコーヒー二つと、アイスティー一つで。あと、羊羹を追加で二本」
きっちりしたスーツの女性が、迷いなく注文を告げる。
「え、えーと、『ひと息セット』三つで、ホット二つと、アイス一つで、羊羹……ええと」
復唱しながら、すでにどこかが怪しくなっている。
「羊羹は、セットに付いてくる分とは別に二本です」
女性が、淡々と補足した。
「別に二本……」
靖治は、慌ててメモ用紙をつかんだ。
紙月堂のレジ横には、注文を書き込むための小さな伝票が置いてある。枠の中には、飲み物やセットメニューの名前と、チェック欄。元は、悠之介が「頭の中だけで数えると、いつか必ず迷子が出る」と言って、導入したものだ。
「セット三、ホット二、アイス一、羊羹二……」
口の中で唱えながら、四角いマスに素早くチェックを入れていく。
「合計、こちらになります」
ようやく金額を告げると、女性は財布からきれいにそろったお札を差し出した。
その後ろには、別のスーツが並んでいる。
「『ひと息セット』を一つと、サンドイッチだけテイクアウトで二つ」
「日替わりのスープ、まだあります?」
「甘くない飲み物って何がありますか」
質問の方向がばらばらで、頭の中のレジがすぐに渋滞を起こしそうになる。
「スープ、まだあります。甘くない飲み物は、ストレートの紅茶か、ブラックコーヒーが早くお出しできます」
紗菜の声がすぐ後ろから飛んできた。
「テイクアウトは、午後の会議に持ち込めるように、こぼれにくい蓋付きのカップにしますね」
「助かります」
客の返事を聞きながら、靖治は「助かります」という言葉が、少しずつ自分の肩に乗ってくるのを感じた。
助けたいのはやまやまだが、自分の手際と脳みその容量には限りがある。
「店長、レシート、レシート!」
「はいはい」
悠之介は、レジから吐き出されるレシートを、ほとんど反射で仕分けていた。
「ひと息セット」のレシートはひとまとめに、「飲み物のみ」は別のクリップへ。羊羹など追加注文は、また別のファイルに。
「そんなことしてる場合じゃないんじゃ……」
「こうしておかないと、あとで何がどれだけ出たか分からなくなる」
悠之介は、トレーに乗せたカップを手にしながら答える。
「この一週間分の数字、きちんと見たいからな」
「そのセリフ、今ここで聞くと、ちょっと怖いです」
靖治は、次の客の会計をこなしながら苦笑した。
ちょうどそのとき。
「お邪魔しますねー」
店の奥から、少し明るい声がした。
エプロン姿の亜友が、小さなお盆を手に入ってきた。盆の上には、一口サイズの羊羹がいくつも並んでいる。
「あ、亜友さん」
「お昼、たくさん来ているって聞いたので。うちの『ひと息羊羹』、少し持ってきました」
亜友は、レジの列を避けて客席側を回り、テーブルにさりげなく盆を置いた。
「よろしければ、お一人さんにつき一つずつどうぞ。今日は、『働く人のひと息ウィーク』なので」
「えっ、これ、いくらですか」
スーツ姿の男性が、反射的に財布を触る。
「今日は、うちからのご挨拶です」
亜友は、にこりと笑った。
「もし気に入っていただけたら、帰り道に亜友堂を覗いていただけたらうれしいです」
「そういうことなら」
男性は、少しだけ表情をゆるめて、羊羹を一つつまんだ。
羊羹の甘さを一口含んだ瞬間、肩に入っていた力が、ほんの少しだけ抜けたようだった。
近くのテーブルでは、若手の社員たちが手帳を広げている。
「午後の打ち合わせ、三本あるんだけど」
「やめてくださいよ、その情報、今聞きたくない」
「今のうちに、資料のここだけ確認しておきたくて」
話しながらも、みんな一様に時計を気にしている。
その様子を見て、紗菜はテーブルの端にそっと小さなメモ用紙を置いた。
「よかったら、ここに『今日のここまで』を書いてみませんか」
「ここまで?」
「今日の午後、自分の中で『ここまでできたら、ちゃんと一日頑張ったことにしよう』ってラインです」
社員の一人が、ペンを持つ手を止める。
「全部やろうとすると、時間も気力も足りなくなるので。ここに一言だけ書いておくと、帰るときにそこだけ確認できるかなと思って」
メモ用紙の端には、小さく「紙月堂」と印刷されている。
最初は半信半疑だった若手社員たちも、やがて一人ずつペンをとった。
『午後の資料のここまでチェック』
『会議で一回は発言する』
『帰る前にメールを空にする』
小さな字が、白い紙に並んでいく。
その向こうでは、靖治がレジで孤軍奮闘していた。
「『ひと息セット』ひとつと、コーヒー牛乳ひとつですね!」
「いえ、牛乳じゃなくて、カフェオレで」
「あっ、すみません!」
慌てて訂正しているうちに、後ろの列から、くすくす笑いが起きる。
「がんばれー」
誰かが、小さな声でエールを送った。
「がんばります!」
靖治は、思わず素で返事をしてしまう。
そのやり取りに、列の空気が少しだけ柔らかくなった。
十二時半を回ったころ、ようやくレジの列が落ち着いてきた。
店内のテーブルでは、食事を終えた数人が、まだカップを手にしたまま話し込んでいる。外に出るには、まだ少しだけ時間を取っておきたいらしい。
「ふう……」
ようやく一息ついて、靖治がカウンターにもたれた。
「ランチタイム、こわいですね」
「こわいというか、すごい流れだったな」
悠之介は、さっき仕分けたレシートの束をぱらぱらとめくる。
「『ひと息セット』、思った以上に出てるな」
「ですよね。でも、お客さん、ちゃんと休めてましたかね」
靖治の視線は、まだテーブルに残っているスーツたちの背中に向いていた。
「なんか、飲み物持ったまま、ずっと時計見てる人も多くて」
「それでも、外のベンチでコンビニのおにぎりかじるよりは、ちょっとは違うんじゃないかな」
紗菜が、グラスを拭きながら言う。
「あそこで『ここまで』のラインを書いた人、帰るときに一回くらい思い出してくれたら、それで十分」
「……そうですね」
靖治は、さっきのメモ用紙を思い出した。
「ところで」
店の奥から、ひょこっと顔を出した影がある。
いつの間にか来ていた臣全が、手帳を片手に立っていた。
「今日のランチタイム、どうでした?」
「どうでした、じゃない」
悠之介が、じとっとした視線を向ける。
「オフィスビル三棟分にまとめてポスター配ったの、君だろ」
「はい。『働く人のひと息ウィーク』なんで、働く人がいる場所には全部届けた方がいいかなって」
「届けすぎだ」
即答だった。
「いやあ、やっぱり効果ありますねえ。あっちのビルの休憩室で、『紙月堂ってどこ?』って会話聞こえましたよ」
「その人たちがここに来るまでの導線と、うちのレジの処理能力を、今度からは一緒に考えようか」
悠之介は、苦笑いを浮かべた。
「スーツが押し寄せても、ここは『流れ作業の店』にはしたくないからな」
「じゃあ、次からは『波』を時間帯ごとに分ける案でいきましょう」
臣全が、手帳に何やら書き込み始める。
「『十二時台はテイクアウト多め』『十二時半以降は店内長め』とか。もしくは、『ひと息シートを書いた人は、レジ優先』とか」
「それは余計に混乱しそうだから却下」
紗菜が即座に遮った。
「でも、『注文を書くシート』は、もう少し増やしてもいいかもね」
さっきテーブルに置いたメモ用紙を思い出しながら、紗菜は言う。
「レジ前にも、小さな紙とペンを置いて、並んでいる間に『ひと息セット』か『飲み物だけ』かを丸で囲んでもらうとか。それなら、靖治の頭の中の渋滞が少し減ると思う」
「それ、いいですね」
靖治は、素直にうなずいた。
「紙に書いてもらえるなら、『ホット二つ、アイス一つ、羊羹追加』も、ちゃんと読めますし」
「じゃあ、『慌てず丸をつけてください』って一言だけ添えておこう」
悠之介は、新しい工夫を書き込むために、ノートの最後のページを開いた。
『ランチタイム対策』
・レジ前に「ひと息シート」を置く
・「今日のここまで」メモは継続
・スーツの波は、なるべく受け止めつつ、店のペースは守る
ペンを置いたとき、店のドアベルがもう一度、やわらかい音を立てた。
さっきの喧騒が嘘のように、今度は一人だけだ。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめた会社員が一人、静かにカウンター席に座る。
「さっきは、混んでたから遠慮したんですけど」
彼は、少し照れたように笑った。
「午後の予定、やっと片づいたので。今度は、ちゃんと休みに来ました」
「いらっしゃいませ」
紗菜が、ほんの少しだけ柔らかい声で言った。
「ゆっくりできる席、空いてます」
ランチタイムの波は去っていたが、紙月堂の「ひと息」は、まだ店のどこかに残っている。
押し寄せるスーツたちの背中と、そのあとにやって来る一人分の時間。そのどちらにも、ここで過ごす数分間が、少しだけ優しく染み込んでいけばいい。
ガラス戸の向こうから、似たような色のスーツがいくつも重なって見える。首から社員証を下げた人たちが、スマホを握ったまま、途切れなく店の中へ流れ込んできた。
「いらっしゃいませー」
カウンターの内側で、靖治が笑顔を貼りつける。
平日の昼休み。近くのオフィスビルに、臣全が頼み込んでポスターを貼らせてもらった日から、こんなふうに会社員がまとめて来ることがときどきあるようになった。
今日も、その「ときどき」が、しっかり当たってしまったらしい。
「おひとりさまはカウンター側、二人以上の方は奥のテーブルをご案内します」
紗菜が、すでに通路に出ていた。
声は落ち着いているが、歩幅はいつもより少しだけ大きい。片手でトレーを抱えたまま、視線だけで席の空きを確認し、人数と荷物の量をざっと見て、椅子を引く順番を決めていく。
「Aビルの方は、同じエリアでまとまって座ってもらえますか?」
入口近くで、スーツの胸ポケットに同じ社名が入っているグループに声をかける。
「え、あ、はい」
押し出されるようにして入ってきた若手らしい社員が、ぽかんとしながら頷いた。
「午後の会議まで一緒ですよね。席もまとめておいた方が、後で呼びやすいと思うので」
そう説明すると、グループの中の年上らしい男性が、ほっとしたように笑った。
「助かります。あっちだと、席がばらけちゃうんですよ」
「では、こちらにどうぞ」
紗菜は、ポットに入った水を先に置き、「ご注文は決まってからで大丈夫です」と一言添えてから、次のグループに向かった。
「店長、来てますねえ……」
カウンターの中から、靖治が小声でささやく。
レジ前には、すでに列ができていた。トレーを持ったスーツ、ノートパソコンを抱えたスーツ、書類のファイルを抱えたスーツ。どれも、時計をちらちら気にしている。
「慌てなくていい、とは言いたいところだけど」
悠之介は、レジ横のテーブルに並べておいた紙コップと、日替わりの軽食プレートを見やった。
今日の昼の「ひと息セット」は、パン屋から取り寄せた小さめのパンと、惣菜屋の軽めの揚げ物、そして亜友堂の一口羊羹が一つ。飲み物を付けて、時間をかけずに食べられるようにした。
「靖治、レジ頼む。俺はトレー出しと会計の仕分けに回る」
「了解です!」
元気よく返事をしたものの、最初の一組が目の前に立った瞬間、靖治の頭の中は、急に情報でいっぱいになった。
「えっと……『ひと息セット』を三つと、ホットコーヒー二つと、アイスティー一つで。あと、羊羹を追加で二本」
きっちりしたスーツの女性が、迷いなく注文を告げる。
「え、えーと、『ひと息セット』三つで、ホット二つと、アイス一つで、羊羹……ええと」
復唱しながら、すでにどこかが怪しくなっている。
「羊羹は、セットに付いてくる分とは別に二本です」
女性が、淡々と補足した。
「別に二本……」
靖治は、慌ててメモ用紙をつかんだ。
紙月堂のレジ横には、注文を書き込むための小さな伝票が置いてある。枠の中には、飲み物やセットメニューの名前と、チェック欄。元は、悠之介が「頭の中だけで数えると、いつか必ず迷子が出る」と言って、導入したものだ。
「セット三、ホット二、アイス一、羊羹二……」
口の中で唱えながら、四角いマスに素早くチェックを入れていく。
「合計、こちらになります」
ようやく金額を告げると、女性は財布からきれいにそろったお札を差し出した。
その後ろには、別のスーツが並んでいる。
「『ひと息セット』を一つと、サンドイッチだけテイクアウトで二つ」
「日替わりのスープ、まだあります?」
「甘くない飲み物って何がありますか」
質問の方向がばらばらで、頭の中のレジがすぐに渋滞を起こしそうになる。
「スープ、まだあります。甘くない飲み物は、ストレートの紅茶か、ブラックコーヒーが早くお出しできます」
紗菜の声がすぐ後ろから飛んできた。
「テイクアウトは、午後の会議に持ち込めるように、こぼれにくい蓋付きのカップにしますね」
「助かります」
客の返事を聞きながら、靖治は「助かります」という言葉が、少しずつ自分の肩に乗ってくるのを感じた。
助けたいのはやまやまだが、自分の手際と脳みその容量には限りがある。
「店長、レシート、レシート!」
「はいはい」
悠之介は、レジから吐き出されるレシートを、ほとんど反射で仕分けていた。
「ひと息セット」のレシートはひとまとめに、「飲み物のみ」は別のクリップへ。羊羹など追加注文は、また別のファイルに。
「そんなことしてる場合じゃないんじゃ……」
「こうしておかないと、あとで何がどれだけ出たか分からなくなる」
悠之介は、トレーに乗せたカップを手にしながら答える。
「この一週間分の数字、きちんと見たいからな」
「そのセリフ、今ここで聞くと、ちょっと怖いです」
靖治は、次の客の会計をこなしながら苦笑した。
ちょうどそのとき。
「お邪魔しますねー」
店の奥から、少し明るい声がした。
エプロン姿の亜友が、小さなお盆を手に入ってきた。盆の上には、一口サイズの羊羹がいくつも並んでいる。
「あ、亜友さん」
「お昼、たくさん来ているって聞いたので。うちの『ひと息羊羹』、少し持ってきました」
亜友は、レジの列を避けて客席側を回り、テーブルにさりげなく盆を置いた。
「よろしければ、お一人さんにつき一つずつどうぞ。今日は、『働く人のひと息ウィーク』なので」
「えっ、これ、いくらですか」
スーツ姿の男性が、反射的に財布を触る。
「今日は、うちからのご挨拶です」
亜友は、にこりと笑った。
「もし気に入っていただけたら、帰り道に亜友堂を覗いていただけたらうれしいです」
「そういうことなら」
男性は、少しだけ表情をゆるめて、羊羹を一つつまんだ。
羊羹の甘さを一口含んだ瞬間、肩に入っていた力が、ほんの少しだけ抜けたようだった。
近くのテーブルでは、若手の社員たちが手帳を広げている。
「午後の打ち合わせ、三本あるんだけど」
「やめてくださいよ、その情報、今聞きたくない」
「今のうちに、資料のここだけ確認しておきたくて」
話しながらも、みんな一様に時計を気にしている。
その様子を見て、紗菜はテーブルの端にそっと小さなメモ用紙を置いた。
「よかったら、ここに『今日のここまで』を書いてみませんか」
「ここまで?」
「今日の午後、自分の中で『ここまでできたら、ちゃんと一日頑張ったことにしよう』ってラインです」
社員の一人が、ペンを持つ手を止める。
「全部やろうとすると、時間も気力も足りなくなるので。ここに一言だけ書いておくと、帰るときにそこだけ確認できるかなと思って」
メモ用紙の端には、小さく「紙月堂」と印刷されている。
最初は半信半疑だった若手社員たちも、やがて一人ずつペンをとった。
『午後の資料のここまでチェック』
『会議で一回は発言する』
『帰る前にメールを空にする』
小さな字が、白い紙に並んでいく。
その向こうでは、靖治がレジで孤軍奮闘していた。
「『ひと息セット』ひとつと、コーヒー牛乳ひとつですね!」
「いえ、牛乳じゃなくて、カフェオレで」
「あっ、すみません!」
慌てて訂正しているうちに、後ろの列から、くすくす笑いが起きる。
「がんばれー」
誰かが、小さな声でエールを送った。
「がんばります!」
靖治は、思わず素で返事をしてしまう。
そのやり取りに、列の空気が少しだけ柔らかくなった。
十二時半を回ったころ、ようやくレジの列が落ち着いてきた。
店内のテーブルでは、食事を終えた数人が、まだカップを手にしたまま話し込んでいる。外に出るには、まだ少しだけ時間を取っておきたいらしい。
「ふう……」
ようやく一息ついて、靖治がカウンターにもたれた。
「ランチタイム、こわいですね」
「こわいというか、すごい流れだったな」
悠之介は、さっき仕分けたレシートの束をぱらぱらとめくる。
「『ひと息セット』、思った以上に出てるな」
「ですよね。でも、お客さん、ちゃんと休めてましたかね」
靖治の視線は、まだテーブルに残っているスーツたちの背中に向いていた。
「なんか、飲み物持ったまま、ずっと時計見てる人も多くて」
「それでも、外のベンチでコンビニのおにぎりかじるよりは、ちょっとは違うんじゃないかな」
紗菜が、グラスを拭きながら言う。
「あそこで『ここまで』のラインを書いた人、帰るときに一回くらい思い出してくれたら、それで十分」
「……そうですね」
靖治は、さっきのメモ用紙を思い出した。
「ところで」
店の奥から、ひょこっと顔を出した影がある。
いつの間にか来ていた臣全が、手帳を片手に立っていた。
「今日のランチタイム、どうでした?」
「どうでした、じゃない」
悠之介が、じとっとした視線を向ける。
「オフィスビル三棟分にまとめてポスター配ったの、君だろ」
「はい。『働く人のひと息ウィーク』なんで、働く人がいる場所には全部届けた方がいいかなって」
「届けすぎだ」
即答だった。
「いやあ、やっぱり効果ありますねえ。あっちのビルの休憩室で、『紙月堂ってどこ?』って会話聞こえましたよ」
「その人たちがここに来るまでの導線と、うちのレジの処理能力を、今度からは一緒に考えようか」
悠之介は、苦笑いを浮かべた。
「スーツが押し寄せても、ここは『流れ作業の店』にはしたくないからな」
「じゃあ、次からは『波』を時間帯ごとに分ける案でいきましょう」
臣全が、手帳に何やら書き込み始める。
「『十二時台はテイクアウト多め』『十二時半以降は店内長め』とか。もしくは、『ひと息シートを書いた人は、レジ優先』とか」
「それは余計に混乱しそうだから却下」
紗菜が即座に遮った。
「でも、『注文を書くシート』は、もう少し増やしてもいいかもね」
さっきテーブルに置いたメモ用紙を思い出しながら、紗菜は言う。
「レジ前にも、小さな紙とペンを置いて、並んでいる間に『ひと息セット』か『飲み物だけ』かを丸で囲んでもらうとか。それなら、靖治の頭の中の渋滞が少し減ると思う」
「それ、いいですね」
靖治は、素直にうなずいた。
「紙に書いてもらえるなら、『ホット二つ、アイス一つ、羊羹追加』も、ちゃんと読めますし」
「じゃあ、『慌てず丸をつけてください』って一言だけ添えておこう」
悠之介は、新しい工夫を書き込むために、ノートの最後のページを開いた。
『ランチタイム対策』
・レジ前に「ひと息シート」を置く
・「今日のここまで」メモは継続
・スーツの波は、なるべく受け止めつつ、店のペースは守る
ペンを置いたとき、店のドアベルがもう一度、やわらかい音を立てた。
さっきの喧騒が嘘のように、今度は一人だけだ。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめた会社員が一人、静かにカウンター席に座る。
「さっきは、混んでたから遠慮したんですけど」
彼は、少し照れたように笑った。
「午後の予定、やっと片づいたので。今度は、ちゃんと休みに来ました」
「いらっしゃいませ」
紗菜が、ほんの少しだけ柔らかい声で言った。
「ゆっくりできる席、空いてます」
ランチタイムの波は去っていたが、紙月堂の「ひと息」は、まだ店のどこかに残っている。
押し寄せるスーツたちの背中と、そのあとにやって来る一人分の時間。そのどちらにも、ここで過ごす数分間が、少しだけ優しく染み込んでいけばいい。
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