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イデオロギーは悪なのか〈8〉
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アルチュセールは、イデオロギーについての「古典的な一つの解釈」を次のように呈示する。
「…イデオロギーの中で人が見いだす世界の想像的表象に反映されているもの、それは人間の存在諸条件であり、人間の現実の世界である。…」(※1)
このような解釈はもちろん、イデオロギーを「想像的なものである」という理由で非難することを前提とした解釈としても「古典的」であるといっていい。
もしイデオロギーを信じる立場にあるとすれば、イデオロギーが人間の存在条件を表象しているということを「真実」と考えているわけであり、その立場において見出されている人間の存在条件は「現実」なのであり、いやそれこそが唯一の現実であり真の現実であると考えられているはずである。
一方イデオロギーを非難する立場においては、そのような現実は想像にすぎないのであり、けっして真実ではありえない。そして、そのような「想像でしかないもの」ではない現実が、つまり真の現実もしくは唯一の現実が、「それとは別にある」のだということを信じている。「想像を現実と取り違えている」ような連中は、そのような現実があるということがまるでわかっていないのだ、と非難するわけである。
こういった応酬は、その解釈と同様にまさしく「古典的」なものだと言えるだろう。
何らかのイデオロギーにもとづいていようと、あるいは逆にそれを批判しようと、そのそれぞれの立場を支えるのは、「自らの立場は現実に根ざしているものであり、その現実こそが真の現実であり唯一の現実なのだ」という「信念」だと言える。
しかし、ただ単にそのような信念こそがイデオロギーではないのか?ということを批判しているだけでは十分ではないだろう。むしろそのように、そこに唯一の現実あるいは真の現実を見出してしまうことで、たとえイデオロギーにもとづいていようと、逆にそれを非難しようと、そのどちらの立場においても、それぞれの「変わらない」現実あるいは「変えられない」現実が取り残されてしまっている、温存されてしまっているのではないか?
アルチュセールはそこで、次のように言い直す。
「…イデオロギーの中で《人間》が《思い描く》のは、人間の現実の存在諸条件や彼らの現実の世界ではなく、何よりも人間にとってイデオロギーの中で表象されるのは、こうした存在諸条件に対する人間の関係なのである。…」(※2)
「…イデオロギーの中では、諸個人の存在を統制する現実の諸関係のシステムが表象されているのではなく、諸個人と、彼らがそのもとで生きる現実的諸関係との想像上の関係が表象されているのである。…」(※3)
イデオロギーにもとづくのであろうと、逆にそれを非難するのであろうと、そのいずれの立場においてもたとえその「現実は変えられない」と思われていたとしても、その現実「に対する関係」は変えることができるのではないだろうか?ましてそれがいずれの立場であるにせよ「想像的なもの」であるならば、それはなおさらではないだろうか?
ここで一つ注釈を加えておく。
アルチュセールが定義する「イデオロギーの想像的な関係」は、いささか誤解を生むかもしれない。ここで言う想像とは、ないものをあるように見るというような意味での想像ではなく、よく言われているように、イデオロギーをスピノザの言う「イマギナチオ」になぞらえるとしたら、それはむしろ、見たことがあるものしか思い浮かべることができないという意味で「想像力の欠如」なのであり、それは、見たことがあるもの・知っているものしか存在しないのだと「思い込む」という意味でも全くそうなのである。言い換えると、欠損を抱えたまま想像され「断定」された世界が、そのイデオロギーにとって唯一で真なる「世界」だということになる。
そのように、見たことがあるもの・知っているもののみによって世界が構成されていると「想像し、断定する」限りで人は、彼自身の世界に対して肯定的でいられるだろう。だがいずれ、彼にとっては想定外の現実が、彼の「認識の蝕」の影から不意に現れて彼の世界を襲撃し、彼の世界は現実的・物理的に壊滅させられることになるのである。
その上で冒頭の「イデオロギーの想像的表象に反映されているのは、人間の存在諸条件であり、人間の現実の世界である」という「解釈」に戻ると、アルチュセールは「そのような解釈は、けっして十分ではない」というように考える。いやもっとはっきりと「誤ったものになっている」と言っている。結局そのような解釈では、現実と想像を「別々のもの」と考えていることになる。そこには想像ではない現実、すなわち唯一の現実あるいは真の現実が見出されることとなる。「それが誤っているのだ」とアルチュセールは考えているのだ。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※2)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
「…イデオロギーの中で人が見いだす世界の想像的表象に反映されているもの、それは人間の存在諸条件であり、人間の現実の世界である。…」(※1)
このような解釈はもちろん、イデオロギーを「想像的なものである」という理由で非難することを前提とした解釈としても「古典的」であるといっていい。
もしイデオロギーを信じる立場にあるとすれば、イデオロギーが人間の存在条件を表象しているということを「真実」と考えているわけであり、その立場において見出されている人間の存在条件は「現実」なのであり、いやそれこそが唯一の現実であり真の現実であると考えられているはずである。
一方イデオロギーを非難する立場においては、そのような現実は想像にすぎないのであり、けっして真実ではありえない。そして、そのような「想像でしかないもの」ではない現実が、つまり真の現実もしくは唯一の現実が、「それとは別にある」のだということを信じている。「想像を現実と取り違えている」ような連中は、そのような現実があるということがまるでわかっていないのだ、と非難するわけである。
こういった応酬は、その解釈と同様にまさしく「古典的」なものだと言えるだろう。
何らかのイデオロギーにもとづいていようと、あるいは逆にそれを批判しようと、そのそれぞれの立場を支えるのは、「自らの立場は現実に根ざしているものであり、その現実こそが真の現実であり唯一の現実なのだ」という「信念」だと言える。
しかし、ただ単にそのような信念こそがイデオロギーではないのか?ということを批判しているだけでは十分ではないだろう。むしろそのように、そこに唯一の現実あるいは真の現実を見出してしまうことで、たとえイデオロギーにもとづいていようと、逆にそれを非難しようと、そのどちらの立場においても、それぞれの「変わらない」現実あるいは「変えられない」現実が取り残されてしまっている、温存されてしまっているのではないか?
アルチュセールはそこで、次のように言い直す。
「…イデオロギーの中で《人間》が《思い描く》のは、人間の現実の存在諸条件や彼らの現実の世界ではなく、何よりも人間にとってイデオロギーの中で表象されるのは、こうした存在諸条件に対する人間の関係なのである。…」(※2)
「…イデオロギーの中では、諸個人の存在を統制する現実の諸関係のシステムが表象されているのではなく、諸個人と、彼らがそのもとで生きる現実的諸関係との想像上の関係が表象されているのである。…」(※3)
イデオロギーにもとづくのであろうと、逆にそれを非難するのであろうと、そのいずれの立場においてもたとえその「現実は変えられない」と思われていたとしても、その現実「に対する関係」は変えることができるのではないだろうか?ましてそれがいずれの立場であるにせよ「想像的なもの」であるならば、それはなおさらではないだろうか?
ここで一つ注釈を加えておく。
アルチュセールが定義する「イデオロギーの想像的な関係」は、いささか誤解を生むかもしれない。ここで言う想像とは、ないものをあるように見るというような意味での想像ではなく、よく言われているように、イデオロギーをスピノザの言う「イマギナチオ」になぞらえるとしたら、それはむしろ、見たことがあるものしか思い浮かべることができないという意味で「想像力の欠如」なのであり、それは、見たことがあるもの・知っているものしか存在しないのだと「思い込む」という意味でも全くそうなのである。言い換えると、欠損を抱えたまま想像され「断定」された世界が、そのイデオロギーにとって唯一で真なる「世界」だということになる。
そのように、見たことがあるもの・知っているもののみによって世界が構成されていると「想像し、断定する」限りで人は、彼自身の世界に対して肯定的でいられるだろう。だがいずれ、彼にとっては想定外の現実が、彼の「認識の蝕」の影から不意に現れて彼の世界を襲撃し、彼の世界は現実的・物理的に壊滅させられることになるのである。
その上で冒頭の「イデオロギーの想像的表象に反映されているのは、人間の存在諸条件であり、人間の現実の世界である」という「解釈」に戻ると、アルチュセールは「そのような解釈は、けっして十分ではない」というように考える。いやもっとはっきりと「誤ったものになっている」と言っている。結局そのような解釈では、現実と想像を「別々のもの」と考えていることになる。そこには想像ではない現実、すなわち唯一の現実あるいは真の現実が見出されることとなる。「それが誤っているのだ」とアルチュセールは考えているのだ。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※2)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
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