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1.Cape jasmine
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―――ゴメンね…
病院のベッドの上で、お母さんは微笑んで言った。
私はそれに答える事が出来ずに、ただ、首を振った。
それからお母さんは仕事を始めて。
私は、せっかく覚えたんだからと、家事を続けてやるようになった。
お母さんの「ゴメンね」の意味を。
問いかけるには、その時、私はまだ幼過ぎたのだと思う。
私達の間に残った、何か
それが何かもわからないまま、私もお母さんも毎日を淡々とやり過ごし、そして、そうすることに慣れていた。
だから、油断していたのだと思う。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「―――ミ、スミ!」
激しく揺さぶられて、目を覚ました。
すぐ目の前の顔が、酷く憔悴している。
「…ナオ…?どしたの?」
のん気な声だったのだと思う。後にしてみれば。
それを聞いたナオが、ガクッと肩を落として項垂れた。
「…すなよ…」
「え、何?」
躰を起こすと、ナオがぷいっと顔を背ける。
「こんなトコで寝っ転がって、何してんだよ?」
「何って…寝てた?」
「何で疑問系…」
「ん、うん…」
寝ようと思ってたわけじゃ無いから…と思いながら、また身体を横たえる。
薄暗い部屋に、雨の音が響いて心地良く、仰向けで片手をお腹の上に置いて、目を閉じた。
「…痛くねぇの?」
「ないよ。」
ちょっと声が呆れていた。
確かに今寝転がっている場所はフローリングの、ラグから外れた場所だったから、まあ、固いっちゃ固いけど、ひんやりとしていて気持ちがいいから、夏場はよくこうして横になっていた。
母は仕事だから、あまり時間を気にする事もないし。
「…何か、着たら?」
言われて目を開ける。
私は暑いので、学校から帰るなりポロシャツを脱いで、タンクトップになっていた。
剥き出しの肩が寒そうに見えるのかな?
薄暗がりの中、ベランダを背にしたナオの顔は、逆光になっててよく見えなくて、着ている制服のシャツだけが、白く浮かび上がっている。
相変わらず、“オカン”だなぁ…なんて。
ふふっと微笑んだ自分の声が、ひどく低く響いた。
「気持ちいいよ、ナオも、寝転んでみたら?」
それだけ言って、また、目を閉じる。
ナオはそれ以上何も言わずに、じっとしているのか、静かな部屋に雨音が響く。
ふ、と。
空気が動いて、ナオが隣に横たわったのを感じた。
少し顔を動かして見ると、ナオは仰向けで天井を睨むように見ていたけど、大きく、息をついてから、目を閉じる。
隣に住んでいるのに、顔を見たのはずいぶん久しぶりだった。
中学校からナオは野球部に入ったから。
小学生の間は、お母さんが帰ってくるまではとかなちゃが言ってきかなかったから、毎日一緒に帰って、そのまま隣に行っていた。でも、普通に学区内の公立校なのにうちの学校は意外と野球が強く、練習も試合もバカみたい(かなちゃ談)に多いらしいと聞いて、遠慮して行かなくなっていたのだ。
ナオは1年生にして期待の星…らしいって、クラスのコが話してたっけ。
背も高くなったし、声も…だいぶ低くなったけど、まだまだ首とか肩とかは細いな…なんてじっと見ていたらナオが目を開けた。
「なんだよ?」
「…なんでもない」
「ばかじゃね?」
「は?なんでそーなるの?!」
「ばかだろ、電気もつけずにこんなとこで」
そこまで言って、ナオはもう一度、大きく息を吐きだした。
「…死んでるかと思った」
思わず、息を呑んだ。
脳裏に蘇ったのは、あの日
病院の床を見つめながら泣き続けた、私の隣に、ずっといてくれた温もり。
お母さんが薬を飲んだ、あの日。
怖かった。
ただただ、怖かった。
このまま、お母さんまでいなくなったら…
泣き叫びたいほどの恐怖を、押し留めてくれていたのは、ナオの手の温もりだった。
小さくため息を付いて目を閉じた。
確かにばかだ。
よりにもよって、ナオに気づかせるなんて。
―――さああああああ…と
遠くからアスファルトを走る車の音が聞こえる。
ベランダから風が流れ込んで、湿った空気が密やかに忍び寄り、横たわった身体に纏わりつく。
雨が降っている、また、あの日のように。
深く、深く
水の中に沈んでいくように
昏く、昏く
心も、身体も動かなくなっていく
濡れたアスファルトに叩きつけられた身体
冷たい雨に打ち付けられて
深い、深い、水底に沈んでいくように
ゆっくり、ゆっくりと冷えて、動かなくなる
そう、たった一人
お父さん―――
ひゅっ…と息を呑んだ。
目を開けると、薄暗い部屋の天井が見える。
でも―――
顔を横に向けると、そこにナオがいて。
聞こえる呼吸の音に、泣きそうな気持ちになった。
「…手、繋いでいい…?」
小さく呟いた、それは。
聞こえなくてもいい、その位のつもりだった。
もしかしたら、寝てるかもしれない。
そう、思ったのに。
ぎゅっ―――と。
握り込まれた手は、大きくて、とても温かくて。
そっと握り返して、また、目を閉じた。
ゴメン…と、心の中で囁いた。
わかってる
ごめんなさい
でも、もう少しだけ―――と。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
―――甘えてるよね?
わかってた、つもりだった。
病院のベッドの上で、お母さんは微笑んで言った。
私はそれに答える事が出来ずに、ただ、首を振った。
それからお母さんは仕事を始めて。
私は、せっかく覚えたんだからと、家事を続けてやるようになった。
お母さんの「ゴメンね」の意味を。
問いかけるには、その時、私はまだ幼過ぎたのだと思う。
私達の間に残った、何か
それが何かもわからないまま、私もお母さんも毎日を淡々とやり過ごし、そして、そうすることに慣れていた。
だから、油断していたのだと思う。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「―――ミ、スミ!」
激しく揺さぶられて、目を覚ました。
すぐ目の前の顔が、酷く憔悴している。
「…ナオ…?どしたの?」
のん気な声だったのだと思う。後にしてみれば。
それを聞いたナオが、ガクッと肩を落として項垂れた。
「…すなよ…」
「え、何?」
躰を起こすと、ナオがぷいっと顔を背ける。
「こんなトコで寝っ転がって、何してんだよ?」
「何って…寝てた?」
「何で疑問系…」
「ん、うん…」
寝ようと思ってたわけじゃ無いから…と思いながら、また身体を横たえる。
薄暗い部屋に、雨の音が響いて心地良く、仰向けで片手をお腹の上に置いて、目を閉じた。
「…痛くねぇの?」
「ないよ。」
ちょっと声が呆れていた。
確かに今寝転がっている場所はフローリングの、ラグから外れた場所だったから、まあ、固いっちゃ固いけど、ひんやりとしていて気持ちがいいから、夏場はよくこうして横になっていた。
母は仕事だから、あまり時間を気にする事もないし。
「…何か、着たら?」
言われて目を開ける。
私は暑いので、学校から帰るなりポロシャツを脱いで、タンクトップになっていた。
剥き出しの肩が寒そうに見えるのかな?
薄暗がりの中、ベランダを背にしたナオの顔は、逆光になっててよく見えなくて、着ている制服のシャツだけが、白く浮かび上がっている。
相変わらず、“オカン”だなぁ…なんて。
ふふっと微笑んだ自分の声が、ひどく低く響いた。
「気持ちいいよ、ナオも、寝転んでみたら?」
それだけ言って、また、目を閉じる。
ナオはそれ以上何も言わずに、じっとしているのか、静かな部屋に雨音が響く。
ふ、と。
空気が動いて、ナオが隣に横たわったのを感じた。
少し顔を動かして見ると、ナオは仰向けで天井を睨むように見ていたけど、大きく、息をついてから、目を閉じる。
隣に住んでいるのに、顔を見たのはずいぶん久しぶりだった。
中学校からナオは野球部に入ったから。
小学生の間は、お母さんが帰ってくるまではとかなちゃが言ってきかなかったから、毎日一緒に帰って、そのまま隣に行っていた。でも、普通に学区内の公立校なのにうちの学校は意外と野球が強く、練習も試合もバカみたい(かなちゃ談)に多いらしいと聞いて、遠慮して行かなくなっていたのだ。
ナオは1年生にして期待の星…らしいって、クラスのコが話してたっけ。
背も高くなったし、声も…だいぶ低くなったけど、まだまだ首とか肩とかは細いな…なんてじっと見ていたらナオが目を開けた。
「なんだよ?」
「…なんでもない」
「ばかじゃね?」
「は?なんでそーなるの?!」
「ばかだろ、電気もつけずにこんなとこで」
そこまで言って、ナオはもう一度、大きく息を吐きだした。
「…死んでるかと思った」
思わず、息を呑んだ。
脳裏に蘇ったのは、あの日
病院の床を見つめながら泣き続けた、私の隣に、ずっといてくれた温もり。
お母さんが薬を飲んだ、あの日。
怖かった。
ただただ、怖かった。
このまま、お母さんまでいなくなったら…
泣き叫びたいほどの恐怖を、押し留めてくれていたのは、ナオの手の温もりだった。
小さくため息を付いて目を閉じた。
確かにばかだ。
よりにもよって、ナオに気づかせるなんて。
―――さああああああ…と
遠くからアスファルトを走る車の音が聞こえる。
ベランダから風が流れ込んで、湿った空気が密やかに忍び寄り、横たわった身体に纏わりつく。
雨が降っている、また、あの日のように。
深く、深く
水の中に沈んでいくように
昏く、昏く
心も、身体も動かなくなっていく
濡れたアスファルトに叩きつけられた身体
冷たい雨に打ち付けられて
深い、深い、水底に沈んでいくように
ゆっくり、ゆっくりと冷えて、動かなくなる
そう、たった一人
お父さん―――
ひゅっ…と息を呑んだ。
目を開けると、薄暗い部屋の天井が見える。
でも―――
顔を横に向けると、そこにナオがいて。
聞こえる呼吸の音に、泣きそうな気持ちになった。
「…手、繋いでいい…?」
小さく呟いた、それは。
聞こえなくてもいい、その位のつもりだった。
もしかしたら、寝てるかもしれない。
そう、思ったのに。
ぎゅっ―――と。
握り込まれた手は、大きくて、とても温かくて。
そっと握り返して、また、目を閉じた。
ゴメン…と、心の中で囁いた。
わかってる
ごめんなさい
でも、もう少しだけ―――と。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
―――甘えてるよね?
わかってた、つもりだった。
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