雨に薫る

はなの*ゆき

文字の大きさ
42 / 84
1.Cape jasmine

41

しおりを挟む
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 ふと、鼻先を掠めた香りに、沈丁花じんちょうげが咲いたのだと気が付いた。




『ここの植栽しょくさいは気が利いてるよね』

 あの日もいつものように、バス停に向かう父と一緒に、マンションの敷地を歩いていた。

『沈丁花、梔子くちなし金木犀キンモクセイ。季節毎に薫る花を植えてあるなんて、なかなか無いよ』
『あの花も薫るの?』

 指さした先を見上げて、父がふ、と笑みを浮かべた。

『そうだね、栴檀センダンも薫るけど、背が高すぎて、なかなか香りが届かないのが残念だな。』
『センダン?』
『“オウチ”ともいうけど。』
『おうち~?!』
『“あふち”と書いて“オウチ”と読むんだよ。お父さんは、そのまま“あふち”と読む方がいいと思うんだけどね。』

 そう言って、父はもう一度、ふふ…と笑った。


 あふち咲く
 外面そともの木陰露落ちて
 五月雨晴るる風渡るなり



 それが、父との最後の会話だった。






 ブルルル…と、ショートパンツのポケットでスマートフォンが振動した。手にしていた洗濯物を片手に集めて、ポケットを探る。
 画面に浮かび上がった名前を見て息を呑んだ。

 “ナオ”

 震える指で、画面をタップする。もう一度、こく、と息を呑んでから、耳に押し当てた。

「―――もしもし?」

 問いかけに、器械の向こうから沈黙が返る。

「…ナオ?」

 微かに息を呑む気配がする。
 どうして…?という言葉にならない問いかけに笑いが込み上げた。ホント、何でだろう?入れた覚えも無いのに。
 アラフォーに見えない無邪気な笑顔を思い浮かべると、小さく舌打ちが返ってきた。きっと今、スゴく苦々しい顔をしてるに違いない。
 スマートフォンを耳に押し当てたまま目を閉じる。
 電話で良かった―――見たくない、見たくなかった表情を、もう一度見なくて済む。
 もうずっと見ていない、ちょっと意地悪な笑みを浮かべた顔を思い出しながら、微かに微笑んだ。

「どうしたの?」

 一瞬の、沈黙。

『…本が、出てきたんだ。』
「本?」

 百人一首の、と言われて、そう言えばそんな事があったと思い出す。せっかく貸したのに、読むのが面倒くさいと言って、全部わかりやすく訳せと言われたんだった。



 ―――一体誰が、こんな事を思いついたんだろうね?

 と、父が言っていた。たったの三十一文字みそひともじで、こんなに深い想いを伝えるなんて、と。

 ―――いつか、カスミも、こんな想いを知るようになるのかな…?

 嶺から零れ落ちた雫が川となり、積もり積もって淵となるように
 楫を無くした舟のように、行方を失い、漂い続ける
 いっそ、こんな想い、知らずにいれたら良かったのに―――と


『どうする?返そうか?』
「…そうだね。今、家?」

 ナオの廻りは音がしなかった。

『…スミは?外か?』
「ベランダだよ。洗濯物入れとこうと思って。」

 沈黙が落ちる―――ああ、そうか。
 返さなくて良いって、言って欲しかったんだ、きっと。
 一瞬、唇を噛み締めてから、提案した。

「ポスト、入るかな?」
『…玄関のか?』
「うん。無理なら、…かなちゃに預けてもらってもいいし、どっちでもいいよ?」

 もちろん、棄ててくれてもいい。そう思ったけど。

『わかった。』

 低い声だったけど、確かにそう言って。
 ナオは時々意地悪だけど、なんだかんだ言って根っこが優しい人だから、ちゃんと返してくれるだろう。
 だから、ありったけの感謝を込めて、言った。

「…ゴメンね、ありがとう。」

 それは私の精一杯の言葉だったのだけど。

 ブッ―――と。

 通話が唐突に断ち切られて。
 それがナオの気持ちなんだと、胸がきしんだ。
 ホントに、電話で良かった。
 気を取り直して、再び洗濯物を取り込み始める。


 今日は天気が良かったから、良い感じに乾いて良かった。
 もうカメムシの心配も無いし、いちいち振らなくても大丈夫だよね。
 前に冷凍しておいたブリがあるから、今日は照焼きにしよう。
 胡瓜とカニかまで酢の物にして、後はお味噌汁でいいかな。


 取り留めも無く、思いを巡らしながら、洗濯物を手に部屋に入った。大丈夫、考えなきゃいけない事は沢山ある。
 まずは冷凍庫から、魚を出して…と、
 顔を上げて、息を呑んだ。

 ―――ふ、と。

 もうずっと見ていなかった笑みを浮かべて、ナオが・・・リビングへと入ってきた。片手に持った本を掲げて見せる。―――さっき言ってた百人一首の本だ。
 それをカウンターに置いて、断りを入れてから冷蔵庫を開ける。それがあまりにも自然で、一瞬、夢でも見ているのだろうかと思った。

「炭酸、飲まねぇんじゃなかった?」

 話しかけられて、はっとする。
 夢じゃ無い。だってナオはいつも、ベランダから来てた。
 1人の時は危ないから、必ず鍵を掛けてたはず―――

「玄関、開いてた―――?」

 辛うじて発した言葉に、ボトルの炭酸水を一口飲んで、ナオが振り返る。チャリ…と音を立てて、ナオが掲げたものに見覚えがあった。うちにも同じものがある―――ラベルは“進藤家”だけど。
 それを放り投げるように本の上に置いて、ナオが頬を歪めるように笑った。

「もう直ぐ家出るから、挨拶しとこうと思ったんだよ。長い付き合いだったし」
「そ…、う」

 長い付き合いだった・・・と、過去形になってる事に胸がチクッとしたけど、何でも無いように洗濯物をソファーに落とす。

「寮にはいつ入るの?」
「来週だな。お陰で今、部屋ん中がすげえよ。断捨離とか意味わかんねぇ」

 ああ、それで…と、振り向いて直ぐ、目の前にいたナオに驚いて後ずさった。
 ナオが何だよ?という風に首を傾げる。いつもこんなに近かったっけ…?そう思いながら視線を逸らすと、カウンターに置かれたペットボトルが目に入った。

「あー、そうだ、それ。持って帰る?間違えて頼んじゃったから…」

 そう言って、ナオの脇をすり抜けようとした、その腕を掴まれた。ビクッと身体を強張らせて見上げると、困った様に笑った。

「怯えんなよ」

 そう言った顔が、以前の様に優しかった。あんな事になる前の。それだけで、力が抜けた。

「怯えてないよ。ちょっと驚いただけ」
「そっか、なら、一個頼んでいい?」
「…頼み?」
「キスしたい」

 するりと、ホントに自然に頬を撫でられて、ドクッと胸が音を立てる。それを見たナオが面白そうな顔で笑った。

「最後だから」

 何でもない様な、そんな話し方だった。だから、かもしれない。

 頷いた私の顔に、睫毛を伏せたナオの顔が近付いて、そっと、唇が触れる。
 それはホントに微かな触れ合いで。

 ホッ…と、詰めていた息を吐き出す様に唇を微かに開いた、その時だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく… なお、スピンオフもございます。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...